を読む。
今月号の『BT/美術手帖』で福住廉君がこの本のことを取り上げていて、気になって速攻図書館レンタル。
「私は、作品で食べていけない事実とどう向き合い、どのように日々やってゆくかを考え、自分なりの道を進んでいきたいと思っている」
福住君曰く「負け組」の美術家が、美術市場を意識しつつも、そこへの参入の困難さを現実的に自覚しながらどう活動を進めていくのか、この本は、哲学書(ベンヤミン、セルトー、ブルデューなどなど)を参照しながらこのような具体的で切実な課題に向かっていこうとする。そのさい、彼の基本にあるのは経済に関する視点である。
「問題は、非市場から市場へといかにして流入し、さらに上昇してゆくのかという戦略的なことではなく、非市場という場においても価値形成は可能であり、その可能性をいかに実践してゆくのかということである。」
さて、そこで経済的な力を持たない、しかも辺境の地(群馬県前橋周辺)に暮らしている作家は、何をするべきか。彼はいま、無人駅を実践の場としている(無人駅のプラットホームでひとりカップ麺を食べる姿が写真作品になっていたりする)。まず「革命とは、集団の神経が隅々まで働くこと、より正確に言えば、第二の技術[自然と人間との共同の遊戯]を器官とする新しい集団、史上最初の集団の、神経を隅々まで働かせようと試みること、にほかならない」というベンヤミン(「複製技術の時代における芸術作品」)の言葉をまず挙げた上で、次のように続ける。
「このような試みと無人駅での活動とを同じ視点から眺めることが可能であると私は考えている。東京や大阪などの大都会で展開される都市の「遊歩者」的実践と、この群馬の町、村などで私が行うこうした活動は、同類の実践ということになるだろう。無人駅という剥き出しの建築物は、まさに合理的にして正統的な公共性という規範から外され、放置されたままになっているわけだが、そのことによってかえって権威、価値付けから開放されている場所であるといえる。無人駅には、集団の神経の末端が剥き出しになって出現していると言えるのだ。さまざまなレベルでの記憶が、これらの神経を通じてよみがえってくる。」「そこで次に問題になるのは、自然の制御としての技術(ART)ではなく、「無意識の知恵を働かせて、自然から距離をとりはじめ」(ベンヤミン)そして遊戯するところに目的がある技術(ART)ということになる。」
白川は、自分の切実な問題状況に向き合いながら、言葉を探している。生きる道を模索している。ときに、哲学はこのようなマイナーな生き方についての実践的な言葉を与えてくれないとぼやいたりしながら。これだけの紹介では足りないとは思いますが、コンテンポラリーダンスという市場にほとんどのっていないジャンルに生きる方々、しかも地方で活動している方々には、是非一読を勧めたい本です。答えがあるかは分からないけれど、問いは深まるはずですから。
今月号の『BT/美術手帖』で福住廉君がこの本のことを取り上げていて、気になって速攻図書館レンタル。
「私は、作品で食べていけない事実とどう向き合い、どのように日々やってゆくかを考え、自分なりの道を進んでいきたいと思っている」
福住君曰く「負け組」の美術家が、美術市場を意識しつつも、そこへの参入の困難さを現実的に自覚しながらどう活動を進めていくのか、この本は、哲学書(ベンヤミン、セルトー、ブルデューなどなど)を参照しながらこのような具体的で切実な課題に向かっていこうとする。そのさい、彼の基本にあるのは経済に関する視点である。
「問題は、非市場から市場へといかにして流入し、さらに上昇してゆくのかという戦略的なことではなく、非市場という場においても価値形成は可能であり、その可能性をいかに実践してゆくのかということである。」
さて、そこで経済的な力を持たない、しかも辺境の地(群馬県前橋周辺)に暮らしている作家は、何をするべきか。彼はいま、無人駅を実践の場としている(無人駅のプラットホームでひとりカップ麺を食べる姿が写真作品になっていたりする)。まず「革命とは、集団の神経が隅々まで働くこと、より正確に言えば、第二の技術[自然と人間との共同の遊戯]を器官とする新しい集団、史上最初の集団の、神経を隅々まで働かせようと試みること、にほかならない」というベンヤミン(「複製技術の時代における芸術作品」)の言葉をまず挙げた上で、次のように続ける。
「このような試みと無人駅での活動とを同じ視点から眺めることが可能であると私は考えている。東京や大阪などの大都会で展開される都市の「遊歩者」的実践と、この群馬の町、村などで私が行うこうした活動は、同類の実践ということになるだろう。無人駅という剥き出しの建築物は、まさに合理的にして正統的な公共性という規範から外され、放置されたままになっているわけだが、そのことによってかえって権威、価値付けから開放されている場所であるといえる。無人駅には、集団の神経の末端が剥き出しになって出現していると言えるのだ。さまざまなレベルでの記憶が、これらの神経を通じてよみがえってくる。」「そこで次に問題になるのは、自然の制御としての技術(ART)ではなく、「無意識の知恵を働かせて、自然から距離をとりはじめ」(ベンヤミン)そして遊戯するところに目的がある技術(ART)ということになる。」
白川は、自分の切実な問題状況に向き合いながら、言葉を探している。生きる道を模索している。ときに、哲学はこのようなマイナーな生き方についての実践的な言葉を与えてくれないとぼやいたりしながら。これだけの紹介では足りないとは思いますが、コンテンポラリーダンスという市場にほとんどのっていないジャンルに生きる方々、しかも地方で活動している方々には、是非一読を勧めたい本です。答えがあるかは分からないけれど、問いは深まるはずですから。