Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

室伏鴻WSを見学する(4/24)。

2005年04月24日 | Weblog
学芸大学前駅から徒歩五分の不思議なビルの三階(一二階では、アーシーな人たちのネオヒッピーな音楽とおしゃべりがずっところころ転がされていた、カフェというかフリマというか)、ちょっと遅れておじゃますると、室伏氏は椅子に座って参加者と目黒大路氏の柔軟体操風景を見ている。今日は全6回の内の最終日。初日にも拝見したのだけれど、最終日何か成果のようなものが示されるのかと期待して。

ただし、室伏氏は体調がすぐれないらしく、目黒氏がサポーターになって前半基礎練をして、後半室伏氏が軽く指導、ということになったらしい、そして(らしいといえばらしいのだけれど)最終日だからといって「成果」のような考え方はしていないという、endを設定しない旅なのだ、室伏氏にとってはこのWSも。

目黒氏の指導方法は、きわめてテクニカル、体をどう柔軟にしていくか、ということに集中しており、その分、なぜ柔軟でなければならないのかといった説明は皆無、でもそういう振る舞いにもう何回かやって慣れているせいか、参加者は従順に次々と進む。

それがパチッと切れて、室伏氏が床に上がる(「ハイ、じゃあ、次室伏さんやって」みたいな目で促す目黒氏)。
正座して背中と首を柔軟にする練習を引き継いで、室伏はそれはS字(8の字)を書くことなんだと体の真ん中を意識させつつそこで軸を感じながら、軸をはみ出す運動、ねじれを意識する運動を促す。室伏氏の稽古は決してやさしく手を貸して「こうして」なんて指導をほとんどしない。軽く手で触れるくらいだ。ひたすら参加者は目で盗みながら言葉に促されながら室伏氏の考える舞踏観を注入されていく。「上を向くと天国で、くるっと回して、、、下を向くと地獄、、、」なんて言いながら。

休憩後、再び一時間ほど目黒氏の基礎練を施されたあと、室伏氏は、前にゆっくり歩く、練習をする。「ゆっくり歩く」ことのなかに何らかのゴールがあるわけではない。こういう風に歩ければいいと言うものではないのだ。そうではなくて、ゆっくり歩く中で体を感じることがここでのテーマ。でも、「体を感じる」ってどういうこと?体というのは自分のものでありながら意外と訳わかんないものだ。捉えようとしたら消えてしまうXのようなものなのだ。そこで、言葉が重要になる。「体は体液に満ちています、体液が揺れているのを感じながらそれが前に傾くのを感じながら歩いてみよう」、そう室伏氏は促す。大量に水を飲んだあとならば、おなかのタプンタプンを感じることが出来るかも知れないが、本当に「感じる」ことは結構難しいものなのではないか、そこではだから「言葉」が喚起する「イメージ」がよき導き手になるのだろう。というよりも、言葉=イメージが身体を導くこと、それがここで起きている出来事なのではないか。
どんどんその出来事は、室伏氏らしい危うげな場所に向かっていく。「「ターミネーター」みたいに水銀の体をイメージする、水銀はあるところまできたら固まる、はいそれがおまえのフォルムなんだ。それがまだとけていく、そう不定形、、、」「右足と左足の間には、、、隙間がある、その間が、、、」「ゆっくりと歩きながらどんどん固まって、死体になる、死体が前に進む、、、」こういった言葉のイメージ喚起力が身体を身体へと導こうとする、イメージが豊かに連鎖しようとしている(時間がなく途中で切れてしまったけれど)、その合間合間に身体はその相貌をあらわそうとしている(のか)、、、

WSのダンスもまた劇場のダンスに劣らずダンスなのではないか?そういう問いをもって今回、室伏鴻によるWSにおじゃました。まだまだ答えらしいものが見えてきたというわけではないが、予感はしている。少なくとも、答えを示すのではなく問いの場であった室伏WSは、劇場のダンスを見ている時の最良のドキドキ感を、実際に体を動かすことでより感じてみる一つの試みだったと言えるのではないか、と思わせた。