Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

結婚パーティと『秘すれば花/ストーリーテラーズ』

2005年04月17日 | Weblog
夕方五時、会場に到着。美学研究室に籍を置くようになってもう十年近くになるが、最初期にかなりお世話になった先輩の結婚、めでたい。ところで凄い数の人だ。結婚パーティというのは見ていてもそうとう照れくさいものだけれど、とはいえ、リアルなほんとの出来事であって、演劇なんかと(当たり前だけれど)迫力が違う。新郎(先輩)の「プロポーズ」コーナーには、思いがけず感涙してしまった。「絵に描いた幸福」はしかし、絵で描いたどんなものよりもストレートに感動させるものなのだった。

と、さらにその足で六本木ヒルズへ。路上に、ねこねこ、細い階段を上がると撮影、菊川怜って頭小さいのなー、あれ、さとう玉緒。で、どっちだヒルズ。あっ逆だよ逆。やっと着いた?A、なれないヒール痛くない?あっ、熊たちが踊ってるぞ、ではご一緒に、パチリ。
、、、さてさて。着けば着いたで。どうしてこう、ヒルズの人々というのは、ひとをかりかりさせるのだろう。驚くほどひとがひとらしく融通を利かせたりひとらしい表情を見せたりしない、ここのひとは。展覧会会場内なんて、何らかの伝令が書かれているのか知らないけれど、ノートをじっと読んでいて、こちらに全然注意を払わない監視員ばかり。過剰に注意を受けることもよくあったけれどその反面、注意をしないとなければ完全無視の姿勢に驚くというより最早怖い。すこし、しっかりしてくださいヒルズさんたち。プリーズ!
『秘すれば花』は、アジアンアートの展覧会。スゥ・ドーホーの、家の壁面を向こうが見通せるような薄い布を縫って作った作品が、とてもよかった。さまざまな境界(建築/美術、美術/刺繍、堅さ/薄さ、他の作品/自分、、、)を軽やかに縫い上げている作品。
『ストーリーテラーズ』は、最近の具象的作品のなかでも物語性を帯びた作品が並ぶ。グレゴリー・クリュードン、鴻池朋子などよし。一枚の絵における「物語」とは、余計なところに注意を喚起するものが置かれていると言うことだったりして、メインから外れているところの展開が「実はこういうこともあって、、、」などと語りを引き延ばし引き出している。なんてとこが、おもろい発見。

さてさて、長い一日が終わり、、、と渋谷行きバスのなかでAはおにぎり食べたいと主張を始める!なななに!おなかすいたの?では、松屋でもいこか、結婚パーティの華やかさと松屋での締め、そんなのもありかね、、、ってなに?!松屋の牛丼てタケノコが入ってるよ、味濃いなー、ぶつぶつ、、、えっ、おまい(A)さん、なに、完食したの!!

『エクレア*エーテル』

2005年04月17日 | Weblog
+結婚パーティ+『秘すれば花/ストーリー・テラーズ』
という超忙しい一日を過ごす(4/17)。

まずは、『エクレア*エーテル』(@アサヒ・アート・スクエア)。
ダンス・コロキウムというシリーズは、コンテンポラリー・ダンスの側から振付家を呼んで、モダンダンスのダンサーがその振り付けを踊る、という企画らしい。その第一弾は、白井剛が池上直子、遠藤文規子、小川美奈子、立花あさみ、土田千尋、松本直子を振り付けた作品、さて。

あっでも、その前に。

そもそもモダン・ダンスってなんだろ。今年の最初にもそんな疑問に突き当たったけれど、今回の作品の中にその要素を探し出すとすれば、
〈独特の様式美が浸透した身体運動のフォルム〉、
であり、その際、
〈見事にコントロールされた身体こそが理想的〉、
という独特の身体に関する観念が迫ってくる。それで、ではコンテンポラリー・ダンスはどういう要素だとしてこの作品から受け止められるかというと、
〈偶然に起こることに対して積極的に身を委ねること〉
だとすれば、その際には、
〈身体が自由であることが理想的(ただしその自由とはいかにして成立しうるのか?)〉
という観念のもとにそれがなされているという気がする。

そう考えた場合、この二つのダンスはまさに水と油、相容れない観念にそれぞれが基づいている、ということになるだろう。

で、
それならば、白井はどう、この「相容れない」ものに取り組んだのか。
といえば、正直相当疑問が残る作品だった、としか申し上げようがない。
ほとんどの動きが先に述べたようなモダンダンスの美意識と観念が行き渡った身体運動。それは、独特の一定のリズムやテンポやシェイプの型押しであって、そこに何らの破綻を感じない。ただし、前半のひとつのピークで、六人がひとつの中心に体を集めたあと、ひとりのうで(手の甲)が別のひとりの体に触れる、というのを反復し始めた、それが増幅していった。この辺りが、ひとつ、「もしや」と期待させる瞬間ではあった。つまり、「モダン」と「コンテンポラリー(白井)」が接触する瞬間?だと思わせた。もしそうなら、「接触」の瞬間を一種の「振り」へと昇華させて、あの一定の美意識ある動きに転化してしまうのか、それとも「接触」のリアリティを、その偶然を大切にしてそこから身体が動き次に進む、そんな展開に向かうのか、どちら?という分岐点のはずだ。
そう、確かにそのようなダンサーもいた、「触れられる」→「ぞくっ」→腰が引けてその引けた腰が別の部分に伝播する、という感じの。けれども、大抵はそのような「ぞくっ」が引き起こす可能性は顧みられずに、何か「演劇的」とでもいうような予定調和の関係をなんらのスリルもなく呈示するにとどまってしまうのだった。
最後は、激しいノイズ音がテンションを盛り上げ、そして再び六人は集まり腕を寄せ合って高く掲げて、、、としている間に暗転、とこれまたよくありがちな「ラスト」を展開。正直この終わりには「ナンジャコリャ」であった。

白井は、誰に向けてこの作品を作ったのだろう。モダンダンス界?コンテンポラリーダンス界?いや、そういう問題ではなく、彼は観客に向けて作品を作るべきだろう。「観客」とは、ダンス界なんて別に知らないし何とも思っていない、多くの人たちを含む。彼らに彼が何を送り届けなければならないか、それは間違いなく彼が思うところのダンス、しかもその最も強烈な部分ではないのか。こういう一見「ウェルメイド(よくできた)」作品を作って(公演して)はいけないのではないか。「内輪」はどうであれ、ダンス界外部の観客がこれを見てどう思うのか、そこを真摯に考えてアプローチしてはじめて、こういう企画は意味あるものになるのではないか。研究者としては興味深い公演であったとはいえ、正直、感動はまったく起こさなかった。

「研究者としては興味深い」とは、最近ぼくが考えているマイケル・フリード流「演劇性と没入」の対比をダンスに適用するという考えに、ある確信を与えるものであったという点に関してだ。現代美術のミニマリズムが「演劇性」をことさら身に纏うことで安住し、その問題性にはなんら注意を払わないとフリードが批判したように、モダンダンスにも、独自の「演劇性」があまねく浸透していて、それはダンスがアートであるための条件として機能しつつ、同時にその意味でしか何ら機能していないと言うことにまったくもって無自覚なのである。簡単に言えば、みていておもしろくないのに、ある種の「権威」めいたものだけが、こちらに押しつけられる、そういうダンスではないのか、(少なくともこの公演で呈示された)モダン・ダンスとは。例えば、こういうことを考えて欲しいのだ。この公演を、地方の県立文化会館で、高校生達の芸術鑑賞会のために公演する。その際高校生達は、ここからどんな「ダンス」概念をえるのか。ぼくは、どうしてもいま述べたような、「おもしろくないけれどえらい」→「アートってそういうもんなのね」というそういう感想と、「この人達にとってダンスってそういう意味でのアートとしてのダンスなの、ね」という理解と、「じゃべつにいらない、ぼかあ、ストリートダンスの方が気持ちいいし!」という納得が次々帰結するよううな気がしてしようがないのだ。ただし、さらに重要なのは、このダンスはいまの日本社会のなかでそれでも「偉い」ということになっていて、大学で舞踊科などにはいると、大抵このようなダンスとその「権威性」を受容することになる、わけで(いうてみれば、アカデミズムはアートとしてのダンスだけをみて、ダンシーなダンスを無視し続けているのだ)。

もしぼくのダンスの「演劇性」批判が、ある程度的を射たものであるならば、ルソーやディドロ(マイケル・フリードの元ネタは彼らの哲学的考察にある)が批判した、「感性」の欠如、リアリティあるコミュニケーションの欠如、からダンスを救い出して、あるべきダンスの概念をきちんと示す仕事をしなきゃなんないなー、と切に思うのでした。

スタロバンスキーに励まされながら、そんなことを思いつつ、うとうとと銀座線に揺られ、溜池山王駅から急げ、こんどは結婚パーティというリアル・ステージだ!