Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳(けい草書房)

2005年04月23日 | Weblog
と樋口圭子『メトニミーの近代』(三元社)『アジア語楽紀行』(日本放送出版協会)を大学構内本郷書籍部で購入。

「儒教における生と死」というテーマのシンポジウム。今日は会場はいいところなのだけれど、研究室からかなり離れているために荷物運びに苦労した。20くらいのころにやった肉体系アルバイトを思い出す。

MILKで東野祥子に遭遇

2005年04月23日 | Weblog
した。

といっても、ある若手制作屋さんの小耳情報で気になって。東野さんのことはでも、メインではなくて、クラブのダンスっていまどうなっているの?という興味が大きかったのだけれど。

L?K?O(これ誤植じゃないです、こういう名の人)というDJが一時頃からプレイを始めると、どんどん客が集まってきて盛り上がりだす。ホントに客は音に敏感で、ほとんど動物的な欲求でいい音を嗅ぎつけようとしている。それはでも、聞くためというよりも体感するためだ。音は、もはやビートということばでも足りないバイブレーションを体に打ち付けてくる。映画で突然なるピストルの音みたいだ。その音は、物語を語る一つの機能という役割を超えて即物的に体に迫ってきて、「ビクッ」とさせる。要するに唯物的なのだ。もの(音)がもの(体)に当たるのだ。その爆音が、レコードをスクラッチさせたり、つまみを捻ったりする微妙な指の動きによって成立させられているところが、なんとも痛快なのである。

ダンスはここではこうして、即物的な身体レヴェルでの出来事となっている。音に下腹部の辺りをジャブされ続けるような直接的な出来事。まさに「フラワーロック」状態。風圧で動くからだ。それはだから踊るというよりも踊らされてしまう。この受動性に身を任せることがここではダンスなのだ。ゆえに痙攣的であること、瞬間的に触発されるところに正直であることが大事なのである。

さて、そのようなダンスが充満したところで、東野が踊るとどういうことになるのか。

L?K?Oはさっきまでとはニュアンスの違うビートの乏しい故に絵画的?な音を繰る。そこで白い衣裳を纏って東野登場。人形的な、つまり操作されるものに翻弄させていく身体といったような動きのなかで、過剰に痙攣していくとような激しくしかしきれいに小刻みに動く動き、そういうのが繰り出されると、そこには、先に記したようなここに充満するダンスと同調する何かが引き起こされている気がしてきてワクワクさせられる。のだが、彼女の特異な長い手を使って早いけれど優雅に振り回す動きは、ややズレを感じさせる。ここにあっていない気がする。あっていないとどうなるかというと、簡単に言えば観客は引く。「引く」というネガティヴな表現を避けようとすれば、観客は傍観する。そこには「アート」のダンスがもつ限界が浮き彫りになっている。スーッと観客と舞台に線が引かれる。あーっと思う。もっと激しいヴァイヴを観客に引き起こす可能性はなかったのか、、、

客のダンスは、要するにディシプリンなど基本的に無視、あるいはそこから自由なものであって、上手く踊れることよりも、どれだけ楽しめるか、体を感じることが出来るかが重視されている。それは別の視点からいえば、ディシプリンから外れていくものにはシンパシーを感じるけれども、逆のものには振り向かない(感じない)ということでもあるだろう。といえば、客のダンスと東野のダンスは水と油なのだ。東野のダンスは彼らが暗に避けているものなのだ。

そこに同調できるダンスは、日本のコンテンポラリーダンスの世界で探せば、、、手塚夏子だ!と話したら、制作屋の方に「エーッ」と渋い顔された(気がした)。そうかな、いいとおもうんだけれど、ね。

つまり、あれくらい、どはずれちゃったひとこそ、ここに必要なダンサーなのじゃないか。ドラッグクイーンみたいなカルト・スターこそがいいのだ。だって、なんか終わり頃舞台に上がっちゃったりしてた、クレイジーな二人は、女の子の方が、麦わら帽子にタンクトップで薄い白い生地のロングスカートという「南仏???」なかっこで確実に変な踊り踊りながらヒューヒューいってるし、もう一人の男は、(パナウェーブ研究所みたいな)白装束で舌ぺろっと出して踊らずにこっちにらんでるし、変ないっちゃってる人たちが場を揺らしてる。はずれていくことは、きっと何か本質的なのだ。そして唯物論的な身体論のダンスも。ならば、ねえ、手塚でしょ。

ひゃー、朝五時。吉牛で豚丼。帰って寝よ。あっ、今日はCOEの仕事だ。シンポジウムだ。はい、二時間寝て、レッツゴ!