Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ピン芸人=ネットの書き込み=被自転車泥棒

2005年04月30日 | Weblog
もう「先細り」的になりつつあるかも知れないけれど、「ピン芸人考」というワードのファイルがぼくのデスクトップにある。ちよっと、いやどうしても考えてみたいテーマなのだ。このテーマは、「プチ狂気」とでも言ったらいいような現代的な問題にゆるやかにリンクするものとしてぼくのうちにある。

ピン芸人のネタには、真っ当なことを言おうとしているヘンな人というのがしばしば登場する。「友近」などが典型なのだけれど、一部「ヒロシ」もそういうタイプ。

「真っ当なこと言おうとしているヘンな人」というのは、「常識」を説いているのにその「常識」を説いている人がそもそもヘンだから、フツーな人が聞けば常識から逸脱したことを言っているわけで、でもそのことはまったく反省できていないそういう人、のことである。フツーの人の常識からは外れたことを言っているのでその言葉は「ボケ」となり、観客の側に笑いが起きる。でも、裏っかえせば、このヘンな人は自分は正しいことを言っているとそう思い込んでいるわけである。

ぼくは、こういう笑いが受けている背景には、こういう馬鹿な奴がいてしょうがないなーと引いて笑っているというよりも、こういうことありうるよなーとどちらかといえば自分に引きつけて見ている、という感じがしてしようがない。ぼくらは自分で大丈夫と思っているだけで、ちょっとずれればすぐに「ボケ」の立場の、つまり常識を語っているようでヘンな人に陥る危険のなかで生きている、のではないか。その不安がピン芸人という存在なのではないか。

例えば、
ネットの発言などに、そういうものがよくあらわれる。

他人を批判する身振りで、近視眼的に言うと正しくもあるのだが、もう少し引いてよく見れば、偏向した発言に過ぎない、あるいは一部に過剰に反応してしまっている発言に過ぎない、というもの。

そういうものは、自分に関係ないBBSやコメントのやりとりなどをざらっと見ているとき、あらゆるところで散見される。
この現象は、実に興味深い。

コメントするというときに何かが起きているのだ、恐らく、自己形成(成型)とでもいうべきこと、が。
かつてある時期、自叙伝をフツーの立場の人が書く「自分史」ブームがあった。それって、多分、自分のことを書くというよりも、書くことで自分を成型するというか「捏造」するというか、そういう行為なのではないか、なんてあのころ漠然と考えていたのだけれど、多分、ネット上で「コメントする」というときにも同様の自己成型が生じているのではないかと推測する。

だいたいが、普通自分なんてないのである。「自分」の「コメント」が求められる場なんて、社会のなかでそうそうないのだ、普通は。それが、ちょっとブログを自分で無料で立ち上げただけではじめられる、あるいは自分で立ち上げなくても、どこかに書き込むことで「自分」の「コメント」を世に送ることが出来る。これは人類史上の一大出来事なのである。誰でも書き込みをして、人から注目を浴び、人から賞賛や同意をうける可能性を享受することが出来るようになった、のである。

でも、そこで真に生じる出来事は、「自分」というものを設定することであり、そのことの困難さの自覚なのではないか。賞賛を受けるという夢は、必ずしも成就せず、大抵は--揚げ足取りも含めた--批判であり中傷だったりする。賞賛されると思って設定した「自分」は、賛同を得ることもなく非難されてしまう。はい、ここでひとびとが陥るのは、「真っ当なこと言おうとしているヘンな人」という非難なわけです、ぼくが思うに。そりゃ、どんな発言でもある角度から見れば「ヘン」なのであって、どんな発言でも「ヘン」の烙印を押すことは出来る。でもね、ここでまた面白いのは、ひとの発言を「ヘン」というひとというのは、ある意味ではまさに偏向した、妙な角度から「ヘン」と言っている場合がしばしばあり、冷静な距離というか常識的な立場というものが保たれていないのは、発言者なのか、その発言の批判者なのか、その両方なのか定かではない、という事態がしばしば起きている、と思うのです。

うああ、思わず長い文章になってしまいました。こういうぼくを「ヘン」と言わないで下さいー。つづけます。

要するに、「常識」というレヴェルをちゃんと内に保つことが難しくなっているのが、あるいはそういうものに何ら信用をおくことなく、故に、互いが互いを「ヘン」と言ってどこにも調停者を求めることのない状態というのが、いま、なのではないかーと考えるわけであります。

まあ、「いま」と言いましたが、二百五十年くらい前にカントが「いま」の問題としてこういうことを考えていたのでありまして。人間というのは、今も昔も、という気になるというのが正直なところであります。

例えば、いまも、和光大学の図書館に本を借りに行ったところ、まんまと自転車を盗まれてしまいました。「鍵をかけなかったのは、ぼくの過ちです」と言えば、常識的な結論なのかも知れませんが、ぼくの言い分を言えば、「大学でなんで自転車が盗まれるのだ、ぼくは大学生というものが自転車を盗むとはまさか考えられない、だから安心していたのだ」、ということになるのです。ただし、こう言えば、ぼくは「ヘン」な人になるのでしょう。常識を正しく(?)設定できなかった自分は、ただし別の常識(大学生という者が自転車を盗むわけはない)に従っていたとも言えるのですが、これは「ヘン」なわけです、ね。長年親しんできた自転車を誰かに乗っていかれた切なさは、誰にも賛同をうることなく、言われなき「自責の念」へと変えられようとしているわけです。二重に孤独な「ヒロシ」なのであります。