Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

続 澤田

2005年03月25日 | Weblog
澤田知子作品のことをBBSに書いた。
以前から、このあたりのことがずっと気になっている。
要するに、いまどきの10~20代のメンタリティーのこと。「俺はいまだに青春だぜ!だから彼らは仲間」みたいには考えられない、ぼくは。だから、分からないものとして気になる。フェミ男くん以後、男の子はユルキャラ化が進む。それ以前の男が、いばりちらしながらも結局判断を女性に委ねてきていたとすれば(例えば、ぼくの父親世代)、もはやいま男達は判断をすることもないし、いばることもないし、要するに何もしなくなった、この時代、女性はどう生きるのか、という問題として考える。あるいは男が追従の対象でも批判の対象でもなくなった場合、女性はどう生きるのか。ユルいひとにならざるをえない女性たちが急増しているとすれば、それは男性との関係においてそうならざるを得ない、ということがあるのではないか。
澤田作品の女性達が、自分を美の鏡に照らすことなく「なりたい自分を生きている」風に見える時の「不快」には、上記したような判断機能を停止させてしまっている男性というものも透けて見えてくる。それも「不快」の一部ではないか。

などと、もう少し書いてみたりしました。

うーんでも、こういうこと書くと正直緊張しますね。「ブス」とか「農家」とかの語彙は、いつか「痴呆症」がほぼ禁止語になりつつある現在、同様の事態に至るのでしょうか、ね。他意はありません。BBSの文でぼくは澤田さんがブスといったつもりはなく、彼女の中のブス性を活用したのが、彼女の作品なのでは、と考えているだけです。逆に言うと、自分の美しさになやまされるアーティストもいると思うんですね。「ブス性」で行きたいのに、ひとが自分をそう見てくれない。こういう場合は、相手を「美人」とか「天使」とか言うことこそ、問題になる(実際はあまりならないけれど、でもそういうこともあるでしょ)。


スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』(作品社、2003)を読む。