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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『踊りに行くぜ!!vol.5 SPECIAL IN TOKYO』

2005年03月18日 | Weblog
『踊りに行くぜ!!vol.5 SPECIAL IN TOKYO』(3/18 @スフィアメックス)を見た。

中島由美子『とべた、とべたよかあさん』
こういった作品を見ると必ず思うのは、地方的な作品だと言うことだ。「地方的」といって、「ご当地的」なのかどうかは不明確、もしそうであるならば、それはそれで重要なのだけれど、とりあえずそういう意味ではなく(多分そういうことはなく)、ある種の凝り固まった観念を基に作品が作られている、ということだ。情報が乏しい、多様な作品に出会う機会が少ない、そういうことが原因だと推測出来る一種の「堅さ」がある。東京がいい、というわけではないのだけれど、例えば東京で生まれ育ったひとのなかには、過度に偏った感じがない、けれど、無趣味なのではなく、いろいろなものを味わったあとのこだわりのなさというか柔軟さを感じさせるひとがいる。
「一般人向け」とプログラムで自ら書いているのだけれど、中島は「一般人」をいったいどのようなものとして設定しているのだろうか。観客の一人であるぼくはどんどん取り残されていく。アイディアがどんどん消費されるが引っかからない。フリード的「演劇性」のことを考える。何か、観客というものがいて、自分が何かをするとその観客はそれを見ていてくれる、そこには自ずと何かが成立するのではないか、という約束事に基づいて時間が過ぎていく。観客-舞台という構造に頼るのが「演劇性」だとすれば(こういうことなのか、フリードをもう一度読み直す必要があるけれど)、「没入」とは、観客を「観客」という位置から引き剥がし作品への参加を促すような何かなのではないか。そんなことを思っていた。

星加昌紀『帰還者』
非常にコンセプチュアルな作品。方法はごく形式的。ここでの形式的とは、ある振りが次の振りの動機付けになって運動が連なる、いわば「しりとり」の形式をもっているということ。そんな形式的であることによって、ムーヴメントはある大義名分を得ている、何かしらアート的だということ、ただし一方でそのアート的なる何かが楽しいかと言えば疑問で、それは「しりとり」がそれ自体としてきいてて楽しいかということを考えれば分かってもらえるだろうか。体の小さいひとなので、腕を大きく振りかぶると小ささが目立ってしまう、小さい小刻みな動きは面白いのだけれど。最後の将棋盤を腕に抱えてコマがぼこぼここぼれて小川のようなあとになって、、、というあたりは、ちょっと出来事になっていた。テーマの「戦争」はいいのだけれど、戦争を踊るではなく、踊りが戦争だ、ということになっていなければ、絵に描いたもちを絵解きしているだけ、になってしまうだろう。

大橋可也&ダンサーズ『あなたがここにいてほしい』
前二者が「絵に描いたもち」の絵解きだったとすれば、大橋作品は、もちそのものをバコーンと舞台に投げつける。そのとき「もち」はそれ自体としてはささやかなものと思われるかも知れないけれど、「ベチャッ」とぶつかるその音は、それが何であるかなんてお構いなし、魅力的なのである(別に「もち」は作品に出てきません、一応)。
今日は、以前見たトヨタよりもいいと思った。スカンク、ミウミウ、大橋三者の関係が均衡を保っていて、とくにトヨタの時は後半から舞台に出てきた大橋が今回はかなり早い段階で登場した分、序列関係といったものを意識することがなかった。それは、まさに「演劇性」のようなものを回避する意味で良いのだ。とくに、眼を細めたり開いたりしながら、首をゆっくり回す、椅子に座った最初の振りは、催眠的で「コントロール的」だ。昨日見たOM-2がまさに催眠的な仕組みで観客を混乱の淵に落としたのににている、と考える。この動きに、さっきまで、ひとりで不安を一杯溜めた身体でおにぎりを食べては吐いていたミウミウは微妙に連動する。一見、スカンクの烈しいノイズなど相俟って観客を突きはしているようでいて、彼らは、誰よりも観客とのコンタクトを取ろうとしている。「没入?」。椅子からずり落ちて、椅子の下に頭を潜らせて椅子に絡まる大橋は意外にもユーモラスだ。いや、あの無毛の頭のつやなど、彼はかなりサーヴィスのひとだ。ゆっくり走るような動作。スカンクがギターでさらにノイジーな「汁」を流す。ミウミウの動作はテクを感じさせない分、ほっとけないものになる。

福岡まな実『夜島』
あがた森魚本人がでてきてコラボ。スキのある音楽に、スキのあるダンス。空虚な、闇のようなからっぽがズーンとくる。「スキ(隙)」は大事だ。振り付けの概念のなかにいてはなかなか出会えないものだ。屈曲のやや強い、故に美しさよりはコミカルさを喚起させる動きは、観客を引きつける。ただ、「福岡印」の動きといったものが萌芽としてはみえる、としても、スコーンと「これだ!」と思わせるほどではなかった。でも、「これだ!」と思わせるものが早いうちにあらわれる気がしたりも。

天野由起子『コノ世ノ』
冒頭、膝下を折ってブロンドのかつらを顔隠れるまで被った状態で、両の腕を水平にやや曲げて首を烈しく小刻みに(ただしデタラメではなく一ミリの動きに正確にコントロールするように)動かすあの瞬間、ぞっとした。「力量」というものは、こういうことか。ため息というか、圧巻だった。ただ、このテクをこのひとはどう遊べばいいのか、迷っているようにも、次第に思えてきた。クラス一の秀才が一層勉強に励んでとった100点の答案のよう。「悪い」はずはない。ただし、別にその答案をだれも楽しまないように、そこには、楽しむためのユーモアが欠けている気がした。こうやって「答案」のようなたとえが浮かんできて、「やっぱりいまのダンス界はお稽古事の範疇内なのかな、、、」と気になる連想がはじまり、ハッとして素早くしまいたくなった。どうもこの辺りの採点が厳しい、最近のぼくは。あのテクがどっか「ヌキ」のスタンスをもって観客との良い関係を取り結ぶことが出来るようになれば、それがいいなと思ってしまうのだ。




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