Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

マイケル・フリードの演劇性と没入

2005年03月02日 | Weblog
昨日は、昼の一時から五時まで、そして夜は夜中の十二時から四時半まで、「チャット」というものをした(一日7時間強!)。初体験。いやあ、初体験なのでした。会話に比べれば、すっごい時間のロスだと思うけれど、面白かったー。文章で会話なんて、ねえ。遊びではなく、仕事の一環。今まだどうなるか分からないけれど、何か形になるかもしれない。スリリングなおしゃべりでした。

その中で考えていたことなのだけれど、
マイケル・フリードの「演劇性」と「没入」という対概念は、ダンスを論じるのにかなり使えそうだ、と思うのです。特に「没入」の方。細かいことは、きっとどこかで原稿化出来ると思うので、その時あらためてってところですが、ダンサーと目の問題として考えようかな、と。
ぼく、以前から(相当前から)ダンサーの目の使い方にすごい関心を持っていて。発端は、やはり6年ほど前にはじめていったバリのダンサーがすごく巧みに目を使うのを見てから、なんだけれど。それ見て帰国した直ぐあとに確かフォーサイスを見て、幻滅したんですね。「目」を使っていないことに。「目」を使うというのは、技巧的に目をグルグル動かすと言うこれまたバリニーズダンス特有の技巧がありますが、それとはあまり関係なく、「この人今何を見ているんだろう???」という気持ちにさせて、その「没入」にこっちもつられて「没入」する、といった使用法のことです。
端的な例は、黒沢美香。他にも岡田智代さんのダンスにはそういう「目」の使用がある(とくに「パレード」という作品)。あと、最近の砂連尾理氏。これまた「どこ見てンの、何見てンの」と興味津々になっている内に、強い関係が作られてしまう。それは、「演劇的」な約束事、物語、観念的イメージが観客に強いる関係性とは別の、リアルなその瞬間に成立する関係性。このこと、考えることで、ダンス・パフォーマンスの「社交としてのスキル」の問題にひとつの糸口が見えてきそうだな、と思うのです。って、これだけだと、分かりにくいですよね。いずれ、原稿にすると思います、そのときに、また。

これは、昨日借りてきた、
『寓意と表象・再現』と言う本の中に所収されているフリードのクールベ論に刺激されたもの。この本借りた理由は、でも、まったく別の所にあって、この本の編集をグリーンブラットがやっていたからなのです。
ということで、彼の本をもう一冊借りてきたのだけれど、タイトルが
『悪口を習う(LEARNING TO CURSE)』。
スッごくいいタイトルですよね、普通自分の本にこんなタイトルつけないって。まだ、読んでいないけれど、きっと彼らしい「自己成型」のアイデアがそこに隠れているのでしょう。

同化の働きの内に入り込みつつ、しかし自分なりにどんどん作り替えていくエネルギー、それを興奮をもって見つめるグリーンブラット、この白熱振りに自分の体験を思い返しながら熱狂してしまうぼく、と。「同化作用」というものを、権力に支配されてしまうことと簡単に決めつけるのではなく、巻き込まれつつそこで自分なりに遊んじゃうこと、と解釈することからうまれる面白さ。権力の否定=ある種の現代ドイツ哲学の単純さからは決して生まれてこない複雑な切り込み方。これ、優美論にも通じる、と言う意味でも考えるべき点が多数、なのだ。嗚呼今日も、この本知らないで生きてきた自分に「無知の涙」。

他にも、ハル・フォスターの『Compulsive Beauty』(1993)を流し読み。ふむふむ、シュルレアリストにはアンピヴァレンスが起きている、とな。シュルレアリストはオートマティスムによって主観の脱中心化を欲望する一方、この脱中心化を恐れており、それは脱中心化が主観の自由を可能にすると言うよりは、文字通り主観の解体を迫る強迫的(compulsive)な機械主義を露呈することになるから、と。ということで、シュルレアリストの引き出してくる人間はイコール機械という望むこととは別の結果を引き出して、どうしたものか、、、というのがざっと読みで見えてくる概要。この本を参照した(本人はこの本を再構成したものだという)アニメ論(?)を上野俊哉が『美術手帖』今月号に寄せている。ので、気になって読んだと言うこともでもある。上野氏の解釈はともあれ、英米系の現代美術批評を今後しばらく通覧してみたいなあ、と思っています。