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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

五反田団『キャベツの類』

2005年03月11日 | Weblog
五反田団『キャベツの類』(アゴラ劇場)を見た。

その帰り、買いました。『現代詩手帖3 特集 身体のポエジー』を。
何よりも印象深かったのは、康本雅子さんが対談中に三度も評論家を中心とした周辺の人たちに対して、レスポンスが少ないのが淋しいと発言していることだ。知らなかった感づかなかった、康本氏がそんな気持ちでおられたとは、、、。まさかあ、ぼくが彼女のなかで「評論家」と呼ぶ人の数に入っているとは思いませんが、昨年のトヨタのあと、打ち上げでぼくはほぼ康本氏の隣の位置にいて、そういえばぼくはどれだけ彼女に自分の感想を申し上げただろうかと、事実がうろ覚えなのも手伝って、すこぶる不安にまた申し訳ないような気持ちになってしまった。
公演を見る度に、ぼくはその公演を作った人たち、特にダンサーに手紙を出したい気持ちになる。何かを伝えたいというのは事実なのだ。終わった直ぐあとというのは、そんなに饒舌に言葉が出るものでもなし、また踊っていた当人に突然話しをするという考えてみれば非常に違和感ある行為にも慣れず、実際は、終わってそそくさと家路へ、と言うことが多い。とはいえ、いろいろ理由はあるにせよ、態度を改めなきゃと言う気持ちになった。反省。
でも、最近よく思うのは、批評の立場というのは、最下層に近い、のではということ。唯一のメリットがときどき招待を頂けて、懐の貧しさをやや救ってくれること。自分なりに責務を感じてやっていても、それこそレスポンスは皆無に等しい。そうそう、誰かぼくの原稿読んだら感想教えてください。よし、ここで突然、ぼくのHPよんでいる人の点呼を取ろう。あの、ぼくの「老体の城が動く、ということ」(『美術手帖』3月号)どうでした?渾身の作です、著者みずからまず感想を言えば(書いた感想、ですけれど、ね)。康本氏とぼくはおんなし気分です。最近会った人では、東谷さんが『踊ることと見えること』論文の感想を言ってくれて確かにそういうことはひとを勇気づけると思いました。読んでいない人は、読んでみてください。宮崎駿批評の衣を借りたダンス批評であり、教育問題への応答であり、諸々でありうるものだと思います。ダンサーの方読んでください。今回の「アートノヴァ」事件(アートヴァをめぐる色々な出来事)で、ぼくにとってもっとも重大なことだと思ったのは、諸々の間のディスコミュニケーションです。その意味でも、康本氏の発言は深刻に受けとめなきゃと思ったのでした。ある方と、今回対談形式で原稿を書きましたが、その発端にあったのも、批評に対するレスがない、と言う嘆息でした。どなたでもいいので、この日記読んだら、ぼくの原稿をお読み下さり、BBSか、シャイなあなたなら直接ぼくにメールでもまったく構いませんので、レスして下さい(単なる誹謗中傷、単なる感情的な言葉の羅列は勘弁下さい、当然ですけど)。とくにダンサーの方、ぼくとこれをきっかけに友達になって下さい。ぼく、友達の関係じゃないと上手く話せないことがたくさんあるのです。公演後のロビーで話すと、どうしても批評家の役柄を演じなきゃいけないのかな、と思って堅くなってしまいます。

ぼくにもレス下さい!

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