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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

チェルフィッチュとマリー・シュイナール

2005年03月19日 | Weblog
チェルフィッチュ『ポスト*労苦の終わり』(@STスポット)
物語のプロットの幾つかは温存されているけれど、前作以上に過激に切り貼りが進み、ときにスクラッチみたいな猛烈な反復が続く。前作との違いは他には五六脚ほど椅子が舞台上に置かれて演じない役者は静かに座っていたりするとか、ビデオカメラが横向きに置かれてピンぼけの画像を映しているとか、照明は過激なスイッチングをするよりも緩やかに明暗を変化させていくとか、音楽の使い方が無意味なBGMの無意味性を加速させているとか(後半はずっと電車のホームのノイズ。多分前回では、音楽はほとんど使われていなかったと思う)。「緻密な混沌」と砂連尾+寺田の新作のこと書いたけれど、まさにそういう感じ。
前回ぼくが感じた「ダンス」は今回薄かった。前回出ていたうちの二人ほどは、ぼくの好きな役者で彼らは比較的動きで「ク」る。でも、他の役者達は、動きが奇妙であればそれだけ演出のコントローラーによって動いているのだよな、という風に見えてしまう。トチアキタイヨウは、しゃべりとか上手すぎて、「上手いな」と思わせる分見ている方は安堵してしまう、ついつい話を聞いてしまう、でも、何かある種の余裕の中で「ハッ」とする瞬間を捕らえ損ねているように感じてしまう。
舞台上がにぎやかな分、意識が分散されてしまって見ている方は集中を欠き、ただしその仕掛けは、まわりの役者がぼーっと座っているだけ(なんか、コントローラー握っていないときのウェイティング状態のキャラみたいだ)だったりして分散に見所が乏しい。すると、どうしても頭には「難しい」という文字が浮かんでしまう。
ちょっと、こじらせすぎかな、と思ってしまった。


マリー・シュイナール
『ショパンによる二十四の前奏曲』
立派なバレエ的身体にモヒカン頭(女達は三つ編みを垂らして)。スケスケのレオタードは局部に黒テープを貼っている。ああつぼを心得ているひとだな、バカのツボ。バレエ独特の運動を示しながら、そこから原始人的な動物的なモチーフが出てくる。バレエとこれらのモチーフとの関係がとてもいい。何かにバレエ的身体がなる、と言ったものではない。それではバレエはそのおすましを温存してしまう。かといってバレエとこれらのモチーフを完全に切ってしまうのではなく二つを接合させてみること、両者を共存させてみること。批評的だ、と思った。一方をダメにすると言うよりは、相互に批評的であるような関係。怪獣って大抵二つの身体のあり得ない融合だったりするけれど(ラオコーンとかスフィンクスとか)、その融合の接合面が面白いのであり、このダンスはそこをごまかさない、そんな気がして感動した。

『コラール~賛歌~』
こちらは、もうバレエさえどっかにほっぽっといて、あるいはその他すべての動きと等価に並置させて、いわばポスト・モダンなスーパーにフラットな空間を踊る。大駱駝艦などの暗黒舞踏を想起させる。セクシャルなイメージとか。舌をベローと出し、カクカクと悪い屈曲で踊る。大抵こういうこと西洋的身体がやるとダサイのだけれど、どういうわけかそういう地雷を上手くかわしながら良いポイントを突いていく。ありがちなオチに頼らない。それがあればすぐに白けるところ。でも、そこに行かずに自分なりの信じたツボに正確に向かう。グロテスクな中世の装飾絵画に出てくる怪物みたいな、装飾的なキャラっぽい仕草やポーズが印象に残った。ここの辺りは単純にぼくの趣味だ。直感勝負の賭けにどんどんベットするマリー本人は、アフター・トークであらかさまだったように、戦略的というよりは、素のひとだった。

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