Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

川口隆夫×OPTRUM『ディケノヴェス』

2005年03月05日 | Weblog
川口隆夫×OPTRUM『ディケノヴェス』を見た(@パナソニックセンター有明スタジオ)。
以前にも増して、生理学=美学などという言葉が頭にグルグルした。強烈なフラッシュに目がやられ、激しいドラムとノイズに耳がやられ、舞台上でただくるくると回っている川口のからだが、そのような聴覚と視覚のノイズの嵐に対して「脆弱だ」と思う以上に、見ているこっちのからだもまたすこぶる「脆弱」であることを思い知らされる。その意味で、「からだ」を強烈に意識させられる仕掛け。作品としては、「三半規管」にことごとくこだわったもの。レクチャーみたいなところもあり、『ダム・タイプ』らしい独自のぼやぼやしたような雰囲気を保ちつつのパフォーマンス。「生理学=美学」という言葉は、カントがバークの美学に対して揶揄した言葉にちょっと絡めてのもの。カントによれば、バークの美学は生理学的な関心に貫かれていて、人間の問題を狭くしか捉えていない、とまあざっくり言えばそういう批判なのだけれども、むしろこういう「崇高」という言葉も浮かぶ公演を見ると、カントよりもバークの方がしっくり来ることも事実なのだ。以前、沖縄の残波岬に行った時、そこに立つ灯台に昇ると激しい風と激しい波の運動に、端的な恐怖をからだが感じてまさに「崇高」といった光景だった。そういう時に、でも、カントの言うような「道徳的なもの」との連関は実はあまり感じないな、と実感する。それよりもからだの持つ有限性、弱さちっこさの方が強くクローズアップされる。感覚がめくれ上がって無感覚になりそうな時、ああぼくはこのからだをもって生きていて、このからだの消滅とともに消滅するのだ、人間とはこういうからだと共に生きていくということなのかな、と思う。カントが言うのとは別の仕方で、崇高なものは人間性の意識を見るものに与えるのではないか、そして川口の公演は、そういう人間の脆弱さを感じさせることに集中していて、その点において見事成功している。からだは、最後にはメタリックなスーツをまとい、スタジオ中をスケートし続ける銀の玉となって、もはや人間であることさえ、静かに降りている。もう分子としてしか存在していないのだ、人間は。感覚する存在としてだけある、そこにからだがある。あまりにも純粋にそういう美学の公演だった、「純粋」過ぎたかもしれないが、そうしてはじめて見えてくる「人間」は強烈に切実に嘘偽りのないそのものだった、その点を解剖したことで、切実で素晴らしい公演であった。