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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版局、1973)

2005年03月23日 | Weblog
を読んだ。素晴らしい。
文学と哲学ははっきりとした境界線で隔てられるべき、なんて考えるようになったのは、ほんの200年くらいのことで、カントだって、初期の論考は哲学とは言い難い、でも単純にエッセイ(文学)ともいえないものだったりする、わけで。
笑いを哲学で説く、とか、哲学の問題を笑ってしまおう、とか、そんなものではない。笑いが持っている分裂症のありようを徹底的に(この点が哲学的と言えば言える)演じるというか実践的に書いていくところに、この本のすごさがある。哲学においてパフォーマティヴであることはしばしば批判の対象となるが、本当に一蹴されるしかないものなのか。んなこたないはず。そもそも最初期の哲学は対話で書かれていたわけだし(誰かこのこと本気で哲学の問題として考えているひといないんですかね)。

あと、最近
別役実『言葉の戦術』(烏書房、1972)
も読む。これまた素晴らしい。例えば舞台上で役者が「トチル」ことについての考察。

「無意識的に「演劇」である時代は終わり「演劇とは何か?」「実生活とは何か?」と云う問いを、「演劇」と「非演劇的なるもの」「実生活」と「非実生活的なるもの」との関わりに於いて、それぞれ確かめなければならなくなった。つまり本質的なものは、「演劇」にも「実生活」にもないのであり、強いて云えばそれは、それでもなくこれでもなく、同時にそれでありこれであるものの中、つまりそのそれぞれの「関係」の中に見出さなければならなくなったのである」「舞台上に於いて役者がトチルと云う事は、云うまでもなく「演劇」から逸脱する事であるが、「演劇」的緊張感から解放されて白紙に還元されるのではない。つまり「実生活」に戻る事を約束されるのではないのだ。その役者にしてみれば「演劇」でもなく「実生活」でもない奇妙な虚空に立たされるのである。」(148)「この奇妙な緊張感を利用し、そこに「演劇」的虚飾にも「実生活」的虚飾にもまどわされない人間の実存を見出そうとしたのが、俗に云うアンチテアトルの手法であると、私は考えている。」(149)

「奇妙な虚空」?あれっ、これって、福田定良的には、観客と落語家の間の不自然な人間関係、すなわち「虚構のおかしみ」に通じる?

「落語のおかしさが不自然な人間関係、つまり、虚構のおかしみに由来するものだからである。/ところが、寄席の落語はいつのまにか落語家と客との人間関係よりも咄の面白さを重要視するようになった。両者の関係は話芸の専門家と話の味を理解する通の客との関係を中心とするようになった。先代の馬金よりも文楽や円生の方が本格的な落語家のようにおもわれるようになった。」(67)

両者とも、虚構の関係性こそが、舞台の中で生き生きしているべきだ、と言いたいのではないか。福田(落語)で言えば、「芸」の洗練に伴ってそういうものは看過されがちになっており、別役(演劇)で言えば、いまや、その点に注目が集まっている(アンチ・テアトルという場で)、と整理出来ようか。もちろん、ぼくとしては、このような視点を「社交」という概念で考えてみたい、そしてその諸方法を「社交のスキル」と呼んでさまざまな場所に敷衍してみたい、とくにコンテンポラリー・ダンスに、と思っているのであります。

こういうことは、理論構築のなかでしばしば消えてしまうものなのですよね。そういえば、『1968』(作品社、2005)という本の中で、蓮実(ママ)さん、座談会中でこんなこと言ってて、示唆的。

「大衆なり何なりにある基盤を置いてしまうと、動体視力なしでモノはいくらでも語れる。実際に、この作品がこの場面でこのような動きを見せているということを考えなくても語れるのが鶴見俊輔なんです。」(40)
「何か超越的なものを想定すれば、本来は動いているのに動かないものとして、それを分析することが可能だという動体視力なしの批評は、今日のカルチュラル・スタディーズまで続いている。それは、何かに思考が動かされたことを、どこかでカッコにくくってからモノを語り始めるということだと思うんですが、それを私は人類が「運動」が嫌いだからという理由で納得しました」(40)

そう、ぼくが言いたいのも「運動」のことで、それは「社交的」とでも言うほかないスリリングな接触のなかでのみ生じるものではないか、そしてこの運動を捉えて論じることこそ重要なのではないか、ということなのです。