Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

トヨタなど

2006年08月01日 | Weblog
トヨタは1日目については個人的な非常に重要な用事があった関係上、四組目の康本雅子をエントランスのモニターで見ることしかできず、つまりほぼ全く見られなかったわけです。残念無念。2日目はすべてみることが出来ましたが、今回のトヨタを総評するような立場にぼくは立つことが出来ません。それでも、若干の感想を。

2日目(30日)
岡本真理子『スプートニクギルー』
本作を見るのは何回目か、多分3回目か。Nゲージの列車が円を描いて線路を巡る。その円が3カ所に散らばっている。そのひとつの真ん中には小さな冷蔵庫があったり、ゴムブーツや毛皮の帽子があったりする。岡本はその薄暗がりの場所で、基本的には寝ている。ときには耳を澄ましているようだったり、連想に思いを傾けているようだったりと、一人遊びに没頭しもする。パブリックシアターの広い遠い空間では、その小さな世界に観客はなかなか吸い込まれない。とっかかりがすくない自分なりのセンスで出来た世界は、ある意味で傲慢だ。この傲慢さが無視できない「生態」としてあらわれれば、観客は見る。動物園の動物なんてのはまさにそういった存在だろう、例えば。初演の時確かぼくはそう言う印象を持った、つまり面白く見ることができた。しかし今回は、その薄暗がりがただ遠さばかり感じさせた。

山賀ざくろ『ヘルタースケルター』
おじさんが女子校生制服を着て、金髪の鬘で、椎名林檎の曲とかで踊る。おじさんと女子校生のギャップが埋まらぬままくっついて離れずよろよろと二人三脚しているように見えれば多分この作品は大成功。最後の曲は桑田佳祐の「月」だったりして、故におじさんの哀愁が最後はあらわになる、ということなわけだし。この仕掛けは、考えてみれば「大野一雄のアルヘンチーナ」と似ている。けれども、これを舞踏のひとたちはあまり活用していない気がする。山賀はそこにしかし狙いを定めているわけだ。もう少し観客との関係の中でその「(おじさんと女子高生の)つかずはなれず」が出来たらしめたもの、だったのかも知れない。もう少し観客に笑ったり受けたりする「隙」を作っていれば。でも、そこが実に難しい。わかりやすい落としどころが必ずしも「ダンスのポイント」ではないからだ(「笑いのポイント」であったとしても)。山賀はマジで女子高生になろうとしている(そこが大野的と言いたくなる核心でもある)。それは「笑い」とは別物、でもそういう「マジ」をほほえましく笑いで受け止めたくなるのだ観客は。それが出来ていたら、なかなかすごい公演になっていたろう、と思う。

遠田誠(まことクラブ)『ニッポニア・ニッポン』
これまた何度見たことか。今日初めて、「日常の動作が転がっていってダンスが始まってしまう」というのが遠田の方法だったと納得した。でも、その「日常」も「ダンス」も基本的には演劇的なフィクションの空間の中で起きることで、だから全てが演劇として見えてしまう。だから、スリルがあるようでない、と思ってしまうのだ。けれども、わかりやすい(と書きつつ、「わかりやすさ」とは一体なんだろうと思ってしまう、「ここで受けてください」という指示がべたなのだ。べたはださいがわかりやすく、楽しみやすい、楽しみやすい?)。ということだからか、オーディエンス賞を受賞した。

常樂泰(身体表現サークル)『広島回転人間』
去年の横トリで行った動く彫刻なモチーフもありつつ、初めて見た時の素朴な感じからはかなりかけ離れた、多種多様な「表現」が詰め込まれていた。人体を「もの」にして基本「叩く」という仕方で遊ぶ、というフォーマットが様々なリズムやテンションや生理的な感覚を引き出してくる。ふんどしをぎゅっと相手が引っ張れば、その窮屈な感じは見ている方にも「痛いほど」に伝わるのだ。いつものレギュラー3人とはべつに横トリで参加していた素人に近いダンサーも、3人後半現れた。そのなかのぽちゃぽちゃした動きが不器用な一人が途中から気になってしようがなくなる。あたふたしてたりごまかしたりしている風情がほっとけない。そこに動きの魅力があるんじゃないの?と常樂は言っているようだ。その批評性は2日目の他の組にはないものだった。というか、そういう批評性こそこういうアワードで競われているものなのではないのか。細部まで丁寧に工夫が凝らされた、また最後には「飛行機」になった常樂が黒い板に激突するラストは、「9.11」といったらシンプルすぎるが、少なくともいまの(世界中の)戦争状態を唯一示唆するパフォーマンスだったというべきだと思う。

今年のアワードは白井剛が受賞した。上述したようにぼくは見ていないのだけれど、『質量, slide, &.』の初演は文句の付けようのない傑作だったので、評価されるのは当然だろうと思う。オーディエンス賞は1日目が康本雅子、2日目が上述の通り遠田誠だった。


31日
昼にテレビ局のひととミーティングをした。こういう時にほんとに鮮烈に感じるのは、業界が違えば顔が違うということだ。民放局ではないのだけれど、それでも勢いがある。はりがある。元気だ。自分の普段回遊しているところにいるひとしかひとではないと思ってしまうのはよくないな。実にいろんなひとがいる。そのいろんなひとのそれぞれにダンスがちょっとずつひっかかるようになってきている。もう少しそうなってもいいのではとぼくは思う。あまりたこつぼ化しない方がいい、と。なんてことを夕方、上智大でやっている美術批評の研究会で話すと、三日後にイギリスに留学してしまうK君から、「いやあ、たこつぼでいいと思いますよ。その方が面白いものが生まれる」と言われてしまった。んー、それも一理ある。難しいところ。けれども、他人の目に触れる機会は増えてもいいんじゃないかな、その後の判断はどうであれ、みたいには思う、その機会さえほんとに本当になかったんだから。

上智の研究会ではソンタグ「キャンプについてのノート」を読む。読んでいる内に、高尚な文化からずれてだめなものをおもしろがるキャンプ趣味のひとというのが、八十年代の「かっこいい」を信奉するひとたちと重なって見えてきて、そんな話に盛り上がった。「かっこいい」の信奉者が気になるというのは宮沢章夫さんの新刊本を読んで色々考えさせられている証拠。そんで「キャンプ」六十年代→「かっこいい」八十年代→で今(例えば桜井「コドモ身体」)二千ゼロゼロ年代と考えると20年周期説みたいなものが浮上してきた。どうなんでしょ。これ。

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