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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

菊池成孔『南米のエリザベステイラー』

2005年06月21日 | Weblog
を以前買った、ipodに入っている。
何度か聞いた。けど、あまり引きつけられない。最近サルサのダンスレッスンに行くようになったAによってぼくのipodのコレクションに入っている、本場のサルサ、サンバなど南米音楽にあるシンプルで徹底的な享楽・快楽はここにはない。「ない」ことが、現代的な何か(洗練?あるいはポスト・コロニアル何とか?)なのかどうかは分からないけれど、残念ながら快楽をたからかに語りながら実際は不感症の音楽というのが、ぼくの耳の結論だ、いまのところ。猛烈に反応し始めるときがくるのだろうか。あたまでっかちな気がどうしてもしてしまう、からだに「こ」ないのだから、しようがない。

なんだかやけに、彼の日記は毎日読んでいるのにもかかわらず、、、。

なかに、DVDが付録に付いていて、そこでの「京マチ子の夜」のミュージックビデオは、正直ぼくが乗れていない部分を肥大化したようなものだった。踊り子の楽屋裏での情事、という設定は悪くないとしても、そこで表象されるセックス・シーンは、まさに、快楽の手前で考え込む(故に快楽的ではない=不感症の)女性の表象に他ならなかった。

朝、本郷に出かける前に、スピヴァクを読み直す。面白い。『ポストコロニアル理性批判』の冒頭にあるカント崇高論批判は、危うい解釈も部分的にはあるが、重要な論点を多く含んでいるものだと思う。さあ、崇高論の整理がすめば、本当にゴールは近い。ポイントはだいたい掴めた。そして、そこから全体を見渡すと、随分締まってくるように思う。よし。

夜は、久しぶりに近所のデニーズで食事。もう五年は行っていない「丘釣り人」であるぼくが、無意識裡に「いきたいいきたい」と思っていたのか、「オレたちには、千葉がある!」と叫ぶ表紙につられてデニーズ行く前に購入した『Basser』(つり雑誌)。食後にこれ読みながら興奮していると、「今度帰ったら(ぼくの地元にあるバス池の)御蛇が池に行こうよ」と最初乗ってくれていたAは、次第に口数少なくなる。つりの分かる女性というのは、なかなかいないものだ。「つりってのはあ、自然に対峙する大義名分として優れているんだよお。竿もってなきゃ水面を5時間も見つめるってこと出来ないでしょ」と、うんちくを言ってみるが、飽きた時のボート遊びをどうするのかに思いを寄せている(あの、静かにしてくれてないと、魚どっかに行っちゃうんだけど、ね、、、)。

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