Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ヘタうま

2005年06月24日 | Weblog
ダンスならば桜井圭介氏がダメ身体(コドモ身体)論で説き、文学ならば最近高橋源一郎が同じく孤軍奮闘している問題に、椹木野衣氏が美術文脈でかんできた。そうみえた「「うまい」ことの煉獄」(『新潮』七月号)である。

何かこのヘタであること、ダメであることの礼賛というのは、世代論的なフェイズから再批評することも出来そうな気があるものではある。ポストモダンなスキゾキッズの遊戯論(80年代)の現代版、という読み方を読者はするべきであろう、と。まあ、それはそれとして機会があれば議論してみたいところなのだけれど(北田暁大のあの本とも絡めたりして)、別に気になっていることをすこし書いてみようかと思う。いま、昼食後、ボケーと同誌の三島文学賞選考評を色々読みながら基本的に「ムカ」ついていたとき、それとは別に全く関係ないことながらなのだけれど、不意に「書けそう」な気がしてきた、ので。

何かというと、椹木氏のエッセイで、「ヘタうま」な美術として挙げられている会田誠の作品(図版が添付されている)に、ぼくはまったく「何か感動的なもの」(椹木)を感じることが出来なかった、ということ、のなかに潜在しているように思われる問題についてである。

ヘタヘタな絵(例えば子供の絵)に感動する感覚は、ぼくには全くよく分かる。その感動が、「子供らしい絵」だからではなく、「絵を描くという行為そのもののなかに潜在する、世界との決定的なズレを明確にしてしまう力能が備わっている」ことによるのだ、という立論も実によく分かる。けれども、その「ヘタヘタ」は、「ヘタうま」な絵にかなわないとする椹木氏の論点には、分かりかねる違和感を感じるのだ。

「ヘタヘタ」がいいのは、理屈なしに迫ってくる線の魅力だろう。魅力の内実は、その異常性にあるのに違いない(確かに)。けれども、「ヘタうま」には、感動を感じるものだけではなく、むしろある種の「うざったさ」「まだるっこしさ」を感じる時がある。椹木氏のエッセイが話題の元に置いている湯村輝彦の絵にも、どこかそういうめんどくささを否応なしに感じてしまうところがある、ぼくには。すると、ぼくにとって問いは、「ヘタの魅力には同感、でも、ヘタうまの「うま」っていったい何?」ということになる。

ここに、椹木氏は、十分な返答を与えていないように思われる。例えばこういうことを言うのだが。「テリー・ジョンスンが、絵がへたなままにして「ヘタヘタ」に陥らず、数十年にわたってプロとして活動していることは、彼のもつたぐいまれな目の力によるところが大きいのではないか。絵を描く側に引き付けて言えば、線を引き、色を塗ることの根源的な様子の変さ、無気味さをへたな絵の中に見出し、それを自分の絵の中にも再現することが出来る能力とでも言えばよいか。」

なるほど、絵というものの根源的な異常性を「へたな絵の中に見出し」、その目をもとに描く(再現する)。それが「ヘタうま」の「うま」の能力がもつ内実。発見の能力といえばいいのか。ここまではついて行けるのだが、そのあとは正直論理の不明確な議論へ展開していってしまう、つまり、でもこの目の力と描く力とは分裂の状態にあるのだから、その分裂の仕方こそが焦点になり、そしてそこには根拠なしのその人らしさ「個=弧」が働いているのだ、とまとめられているのである。

するとこうなるのだろうか、「ヘタうま」の「うま」は結局孤独な(要するに、普遍的な美の基準ないし「うまうま」がイージーに依拠してしまう技巧的な達成とは対極にある)「個性」である、と。

さて、もしそうならば、ここに、ぼくが感じている「ヘタうま」の「めんどくささ」が垣間見えてくると、言うことが出来るのかも知れない。簡単に言えば、会田誠の絵は、それが会田作品であることを知らないままでは、少なくともぼくには余り感じ入るところがないものである。けれども、そこに「会田印」を見出したり、会田作品であることの文脈を読み解けたりするとき、有意味なものになり、また同時に「ヘタうま」の烙印が押されることになる。湯村の絵にはどうしようもなく湯村的エッセンスが漂っている。もはや「ヘタうま印」の押された「ヘタうま」の記号である。だとすれば、、、

ぼくには、ここにはカントとヘーゲルの闘い、あるいはグリーンバーグとダントの闘いが背後に控えているように思われる。極簡単に(また暴力的にまとめて)言えば、純粋に見ることの中で論理を構築しようとする態度と、見えるものが大きな物語に対してどのような位置づけ(「理由づけの言説」)をもつことが出来るのかから、見えるものを論理化していこうとする態度との闘いである。

いや違うのかな。感じることよりも芸術の文脈づけに重きを置くダント的な姿勢に、「ヘタヘタ」の魅力の隠蔽を感じてしまう、というその不満が基本にあって、こう書いたのだけれど。感じることを尊重する(はずの)美学と芸術とは何かという問いに基本的には終始することになる芸術論の対立構図が、最近凄く気になるので。

そうではなく、多分、「うま」の問題をどう処理するのが最良か、ということを考えるべきなのだろう。「うま」とは多分、「個=弧」の賭けなどという実存的な問題として問われるものではなく、むしろコミュニケーションを転がす能力として考えられていくべきなのではないだろうか。「ヘタうま」の「うま」が「うまうま」とは違って、単に技術によってひとを唸らせ同時にひと作品の間に(賛嘆であれ敬遠であれ)一定の距離を生じさせてしまうのではなく、また単に実存的な賭けでもないとすれば、むしろ親密さや同時にとらえ難さを感じさせることで、魅力的な距離の関係(ほっとけない無視できない、でもダイナミックでスリリングな関係)を転がしていくものである、と考えることは出来ないだろうか。「うまうま」に対して不満を感じる椹木氏に同調しつつも、「ヘタうま」にもなんらかの違和感を感じてしまうぼくにとって、しかし「ヘタヘタ」だけ(子供だけ)が魅力的ではないとするならば、大事なことは、「うま」という事柄の内実に含まれる反省性をどう(新たに)解釈していくことができるか、ということになるのである。そこに、必要なのは、多分観客と作品との間の関係・距離ではないのか。さて、しかしこのような視点を捨象する時、大人は、自らを「リトルボーイ」と自称することになるのだろうか。

またこの点について書いてみます。

最新の画像もっと見る