東アジア歴史文化研究会

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占領下の戦い 占領行政は日本の「民主化」か、「無力化」か 「日本がふたたび連合国の脅威にならないよう」

2017-12-24 | 日本の歴史
国際派日本人養成講座より転載

■1.「日本がふたたび連合国の脅威にならないよう」

大東亜戦争という未曾有の大戦争は終わりを告げ、わが国は歴史上、初めて外国軍による占領下におかれた。これに関する東京書籍(東書)版の記述は、次のような淡々としたものである。

GHQ(JOG注: 連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策の基本方針は,日本が再び連合国の脅威にならないよう,徹底的に非軍事化することでした。軍隊を解散させ,戦争犯罪人(戦犯)と見なした軍や政府などの指導者を極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけ,戦争中に重要な地位にあった人々を公職から追放しました。

育鵬社版は治安維持法の廃止、財閥解体、労働組合法、農地改革などの改革を記述したあと、GHQの狙いをこう述べる。

一方でGHQは,日本がふたたび連合国の脅威にならないよう,国のあり方を変えようとしました。過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという宣伝を日本側に行わせ,報道や出版を秘密裏に検閲して占領政策や連合国への批判を禁じました。

「過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという宣伝」は、"War Guilt Information Program"(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)と名付けられたプロパガンダである。今日でも、戦前の日本は「軍国主義」だった、という先入観が根強いが、その淵源がここにあった。

同時にわが国ではかつてなかった大規模な検閲が実施され、日本人5千余人を含む検閲隊が、月4百万通ほどの私信を検閲していた。国内で発行される新聞、雑誌、図書から、ラジオ、選挙演説まで事前の検閲を受け、内容の修正を命じられたり、時には発行禁止処分を受けた。検閲を受けた当時の手紙には、次のような一節があった。

言論の自由や思想の自由が声高に叫ばれていますが、現実には言論も思想も戦時中以上に制限されているのです。・・・ニュースも情報も、日本の過去の罪業が連合軍の非の打ち所のない所業と比較され、特筆大書されたのちでなければ、掲載できぬ仕組みになっているのです。

東書版の言う「徹底的に非軍事化すること」とは軍隊の解散、東京裁判、公職追放などの目に見える施策のみならず、精神面でも贖罪意識を植え付けるプロパガンダ活動を伴っていたのである。

■2.東京裁判をどう語るか

GHQによる贖罪意識植え付けの主要な柱の一つが、極東国際軍事裁判(東京裁判)だが、東書版での記述は前節で引用した部分のみである。これでは「戦争犯罪人(戦犯)と見なした軍や政府などの指導者」を裁判にかけたというだけで、この裁判自体の問題は何も語られていない。

育鵬社版は「歴史ズームイン 東京裁判」と題した、まるまる1ページのコラムで、この裁判について詳しく述べている。例えば次のような一節がある。

裁判は,戦争指導にたずさわった政治家や軍人を侵略戦争を行った「平和に対する罪」で裁こうとするものでした。弁護団は,この罪は新しく導入された考え方であり,過去の戦争にさかのぼらせて適用することは不当であると異議を申し立てましたが却下されたまま裁判は始まりました。

たとえば、制限速度60キロを守って走っていた車を警察が捕まえて、「この道路の制限速度は40キロと今変えたが、適用は過去に遡(さかのぼ)る。だからあなたはスピード違反だ」と言ったら、法律の素人でもおかしいと思うだろう。「法の不遡及(ふそきゅう)」という近代法の基本原則が、あからさまに破られたのである。

さらに育鵬社版は、アメリカの東京大空襲や原爆投下、ソ連の満州侵攻での日本人の暴行、日本軍将兵のシベリア抑留など、「当時の国際法から見て戦争犯罪とされるものでも,罪に問われることはありませんでした」と指摘する。

そして、インド代表のパール判事が「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際政治の観念とはおよそ縁遠い」として、全被告を無罪とした事実を挙げている。

育鵬社版は、このコラムの結論として「一方では,世界平和に向けて国際法の新しい発展を示した裁判として,積極的に肯定する意見もあり,その評価は現在でも定まっていません」と述べているが、現時点の歴史教育としてはこの両論併記の形が望ましいだろう。

東京裁判をどう捉えるかは、我国の歴史観での一大分岐点であり、両論とも言及しない東書版の記述は極めて不十分である。

■3.「民主化の中心は,憲法の改正でした」

GHQのもう一つの「非軍事化」の手段が憲法改訂だった。東書版は、その経緯を次のように説明している。

[日本国憲法の制定] 民主化の中心は,憲法の改正でした。日本政府は初めにGHQの指示をうけて改正案を作成しましたが、大日本帝国憲法を手直ししたものに過ぎませんでした。そこで、徹底した民主化を目指すGHQは、日本の民間団体の案も参考にしながら,自ら草案をまとめました。
日本政府は,GHQの草案を受け入れ,それをもとに改正案を作成しました。そして,帝国議会の審議を経て,1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布され,翌年の5月3日から施行されました。

この選定プロセスを、育鵬社版は次のように記述している。

[日本国憲法の制定] GHQは、日本に対し憲法の改正を要求しました。日本側は,大日本帝国憲法は近代立憲主義に基づいたものであり、部分的な修正で十分と考えました。しかし、GHQは日本側の改正案を拒否し、自ら全面的な改正案を作成して、これを受け入れるよう日本側に強く迫りました。

天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府は、これを受け入れ、日本語に翻訳された改正案を、政府提案として帝国議会で審議しました。議会審議では、細かな点までGHQとの協議が必要であり、議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず、ほとんど無修正のまま採択されました。

「改正案」の則注として「この憲法の改正案がGHQの手によるものであることを公表するのはかたく禁止された」と追記されている。

■4.ソ連の陰の圧力

東書版の記述では、日本政府の改正案では民主化が不徹底なので、GHQが自ら草案を作り、日本政府はそれを受け入れた、という筋書きとなっている。まるでGHQが民主化の先生であり、日本政府は出来の悪い生徒のようだ。

育鵬社版が描くGHQの振る舞いは全く違う。GHQは自らの改正案を受け入れるよう「強く迫りました」。「天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府」という表現からは、もし日本政府がこれを受け入れなければ、天皇の地位がどうなるか分からない、という圧力を受けていたことが窺われる。

ちょうどソ連の工作員たちによって日本が日米戦争に追い込まれ、かつ降伏も引き延ばされたように、GHQに潜んだ工作員たちは日本を共産革命に近づけるために皇室制度を弱体化させようとしていた。

またGHQをチェックする機関として、ソ連も含めた極東委員会が発足する予定となっており、ソ連は天皇を東京裁判の被告にすることを強硬に主張していた。そんなことになれば日本全土で反乱が起こり、GHQの占領行政も頓挫してしまう。それを恐れたマッカーサーが、極東委員会発足前に天皇の地位を認めたままでの民主的な憲法を制定してしまおうと考えた。

日本政府もそのようなソ連による陰の圧力の下で、GHQ草案を受け入れざるを得なかった。

育鵬社版が側注で「この憲法の改正案がGHQの手によるものであることを公表するのはかたく禁止された」と述べている点は、日本国憲法の成立過程の異常さを示すポイントだ。

禁止の理由は何か? まず、日米ともに批准しているハーグ陸戦条約において「占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して」という条項があり、占領中の憲法改訂要求はこの国際法違反ととられる恐れがあった。

もう一つの理由は、占領軍が作り、押し付けた憲法であると広く知られれば、日本国民の拒絶反応が起こり、これがまた占領行政をつまずかせる恐れもあった。日本国憲法はこのような国際政治の虚々実々の駆け引きの過程から生まれたのである。

■5.昭和天皇の果たされた役割

東京裁判と日本国憲法制定をめぐる駆け引きの中で皇室制度は危機に瀕していたのであるが、昭和天皇はそれには全く関せず、ひたすら国民を守るために立ち上がっていた。育鵬社版は「人物クローズアップ 国民とともに歩んだ昭和天皇」という1ページのコラムを設け、開戦時の苦悩から、終戦の決断、戦後の全国ご巡幸までを御製を通じて描いている。

そのうちの「敗戦と昭和天皇」の項では次のように述べている。

・・・9月、天皇は連合国軍の最高司令官であるマッカーサーを訪問します。マッカーサーは天皇が命乞いに来たと思いました。ところが,天皇の言葉は,私の身はどうなろうとかまわないから、国民を救ってほしいというものでした。マッカーサーは驚きます。「この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」(「マッカーサー回想記』)。彼は,天皇がいなくなれば日本は分裂し占領は不可能になる,という考えを強めました。

身はいかに なるともいくさ とどめけり
ただたふれゆく 民をおもひて

これは終戦を決断したときの御製ですが、ここにも天皇の覚悟が見てとれます。国民を励まそうと,戦後すぐに始められた天皇の巡幸は、1954(昭和29)年まで続けられました。日本国憲法により「国民統合の象徴」となった天皇に対する国民の敬愛は以前と変わらず、天皇は全国各地で国民から熱烈な歓迎を受けました。

天皇との会見で、マッカーサーは「天皇がいなくなれば日本は分裂し占領は不可能になる」との考えを強めた。そうなっては日本の共産革命を狙うソ連の思うつぼであったろう。天皇の国民を思う純粋なお気持ちがマッカーサーの心をうち、さらなる悲劇を防いだのである。

さらに昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈なく歩いて、国民を慰さめ、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ」とのお考えのもと、約8年半をかけて、沖縄以外の全都道府県、お立ち寄り箇所1411、行程3万3千キロを回られた。

その光景は、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも描いたが、これが国民を戦後復興に立ち上がらせた原動力となった。このように昭和天皇は終戦の決断から、占領下の混乱回避、復興への激励と歴史的な役割を果たされた。これらの史実について東書版は一言も語っていない。

■6.「日本の領土をめぐる問題とその歴史」

一方、東書版にも出色の記述がある。竹島、北方領土、尖閣諸島の3つの領土問題の歴史的経緯をまとめた「歴史にアクセス 日本の領土をめぐる問題とその歴史」と題した2ページのコラムである。

竹島については、江戸時代から鳥取藩の商人が漁業を行ってきており、明治38(1905)年に島根県に編入されたことを述べた後で、次のように語る。

ところが戦後、韓国は、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効する直前、当時の韓国の大統領の名前から「李承晩ライン」と呼ばれる線を公海上に一方的に引き、その韓国側に竹島を取りこんで、領有権を主張しました。日本政府は厳重に抗議しましたが、1954年から韓国は竹島に警備隊を駐留させました。

この後、「現在もなお韓国による不法占拠が続いています」としているが、現在の領土問題を理解するためには、このように歴史的背景を知ることが不可欠である。

一つ欲を言えば、竹島の軍事占拠においては、「韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(死亡者数は不明)させ、3929人を抑留した」との史実を付加すると、韓国の違法行為に苦しんだ当時の国民の胸中が窺えるだろう。

■7.歴史プロパガンダか、歴史教育か

GHQの占領行政は、日本の「民主化」プロセスだったのか、それとも言論・報道の自由を抑圧して、日本罪悪史観を国民に刷り込み、憲法までも自由に変えてしまう非民主的な「無力化」プロセスだったのか。

東書版の描く歴史は前者であり、それはそもそもGHQが日本人に刷り込もうとした歴史観である。それでは歴史教育というより、歴史プロパガンダの引き継ぎに過ぎない。

史実を丹念に見ていけば、GHQの占領行政に苦しめられた国民がおり、その国民を我が身に代えても守ろうとされた昭和天皇がいた。そうした先人の生き様を共感をもって辿ること、そこにこそ歴史教育の真の眼目がある、と筆者は考える。

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