爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

志木市立郷土資料館の特別展

2017-11-10 10:55:14 | 日記

志木市の郷土資料館にて特別展「江戸期から明治の古地図・絵図で見る志木」が開催された。
東武東上線の志木駅で下車し、浦和方面に行くバスに乗り継ぐ。志木市の中心は、駅前より新河岸川付近が歴史的には中心となっている。市役所を過ぎ宗岡小学校前で下車する。バス停の側に木戸門があり、古そうなので近づいて見るとそこが「志木市立郷土資料館」でした。市民から寄贈された「離れ(江戸末期の建物)」で改築し歴史的価値のあるものなので保存を兼ねて資料館として利用しているそうです。
古地図・絵図により志木市の昔、周辺の村との関係、土地の利用状況、水害対策などが展示されています。市民の保有品のため絵図というより「覚え書き」「区割り」など実用的なもので当時の志木市の現状を知る珍しい資料が展示されておりました。
特別展の他は、出土品、板碑、いろは樋の板、古地図、写真が陳列されている。
このあと、郷土資料館の係の方に、紹介していただいた見学場所に立ち寄りながら志木駅に向かった。
最初に教えていただいたのが裏手にある「一里塚」である、手前の道は奥州街道であったとのことで、塚には大木があったが倒木し現在は石塔だけで、表示がなければ分からなくなっています。

市役所の方に古民家があると教えてもらい移動する。
新河岸川に架かる「いろは橋」の交番の隣に新河岸川改修碑がありました。この場所は、「いろは樋の跡」にもなっています。
「いろは樋」は、野火止用水(玉川上水から新河岸川の用水路)を引又宿(志木市本町)から宗岡地区へ引くため新河岸川の上に架けられた樋、明治36年頃には木樋から鉄管にし埋設された。
新河岸川は、武蔵野台地の伏流水等を源泉するが川越から東京北区に流れる、流量を安定させる河川工事をおこなうことにより江戸時代末から明治時代初等の重要な舟運であり、志木市にも恩恵をもたらした。バスを利用した際に市場というバス停名があり、農作物等が集積されたのだろう。

いろは橋を渡ると右手に志木市役所、左手に公園があり「旧村山快哉堂」と言う家伝薬を売る薬屋で明治10年に建てられたものを公園内に移築復元している。残念な事に開館日でないため内部は見れませんでした。

公園内にカッパの像が2つありました。志木市にはカッパ伝説があり、カッパの像が多くあるとのこと、カッパは岩手県遠野市だけではありませんでした。この公園は中州のような所でもう一つ隣の川が「柳瀬川」です。
柳瀬川は、東京都西多摩郡と埼玉県入間市を水源とする川で、都県境に沿って流れ志木市のこの公園の先で合流します。

柳瀬川を渡り駅方面に歩くと、「旧西川家潜り門」がありました。今に続く西川家の棟門で取り壊される所、寄贈を受けて移築復元したものです。西川家は、江戸時代初期に住み、幕末には酒造業・水車業・肥料商を営むかたわら引又町の組頭役を務めた名家、建築年代は、1866年頃と推定、昭和2年に門の両袖に一間の長さの腰縦板張り黒漆喰塀が付けられた。
さらに進むと、「朝日屋 原薬局」があります。江戸時代の奥州街道に沿いに建てられました、明治20年代の創業で明治45年に木造2階建て瓦葺き店舗兼住宅として建てられました。現在、敷地内の主屋、土蔵、物置、洋館など7件が指定され現在も薬局として営業している。

志木市立郷土資料館の方に、いろいろ見所を紹介されたが、見つからない所もあり大きい道路沿いの所だけ立ち寄った。郷土資料館だけで帰る予定だったが数カ所立ち寄ることができてよかった。

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