爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

北千住をぶらり

2016-07-15 15:19:59 | 日記
北千住に用事があり、その帰り北千住をぶらぶらする。
北千住という地名はなく、駅名だけが「北千住」となっている。名称は千住の内、隅田川に位置する北組・中組の一帯を捉えたものである。
千住は、古くは日光街道の宿場町で隅田川と荒川に挟まれた中州のような地形にあり、昔ながらの商店街や狭い路地、銭湯、土蔵、古民家が現存し親しみやすさを醸し出している。
近年、都市整備も進み、特に東口に大学を誘致した事により「学生の街」という側面や交通の利便性が増し「住みたい街ランキング」も急上昇している。
暑い中ではあったが北千住駅から延びる大通りを進み用事を済ませて、同じ西口通りに面している「大橋眼科」の建物を見学する、こんなメインストリートに洋館がと!!目立つ建築物、この一帯の観光案内には必ず紹介されている。外見は古さを感じさせるが歩道から見ると綺麗な建築物である。
現在も使用されているこの建築物は、実際は昭和57年に建築されたものであるが、もともとは大正6年に建てられたものを再現したとの事である、大正ロマンを感じさせる建築物である。

西口大通りの一本北側の路地が見番横丁と言われ北側が千住宿本陣跡になるが、面影は全くない。

旧日光街道を歩いてみる、見えて来るのが「千住ほんちょう公園」で通りから「千住宿」と書かれた木戸があり説明・案内図がありホットする場所である。さらに宿場町通り(旧日光街道)を歩くと右手に「横山家」左手に「吉田家」がある、両家とも観光パンフやTVよく取り上げられる商家である。「横山家」は間口が広く奥行のある「伝馬屋敷」の商家で、一段下げた入口の特徴が当時の商家をあらわしている。地漉紙と言われる再生紙を「浅草紙(トイレットペーパー)として日本橋の方に売り出していた。
斜め前の「吉田家」は、8代続いた絵馬屋で現在も生業としており、吉田さんは千住絵馬の足立区登録無形民俗文化財保持者です。

その絵馬は、近所にある長円寺で見られる。長円寺は、1627年に創建され江戸時代に栄えたと言われている、ご神体は「石造魚籃観音立像」である、山門の脇にお堂があり、絵馬が祀られている、絵馬には「め」とあり、眼病にご利益があるようである。

長円寺の先には、氷川神社があるが。足立区には「氷川神社」と名の付く神社が19ほどあり、こちらの方は千住四丁目氷川神社と言われており、千住3丁目の氷川神社は「本氷川神社」である。

足立区も戦災にあったが、この一帯は戦災に遭わなかったようで、古い建物が残っている。旧日光街道を進み荒川に近づくと「名倉医院」がある、レンガ門の表示には「名倉本院」とあり、接骨院「名倉」と言えば全国で目にするが、ここが総本家か?。創業1764年で秘伝の「黒膏」により人気が出て最盛期の大正時代には1日の患者が300人から500人おり、夜が明けると道に行列が出来たと言われている。
名倉医院の通りの突き当りが荒川の河川敷となっており、「虹の広場」として整備されている。いい散歩コースとなっているが、この日は、蒸し暑くこれが体力の限界で早々に引き上げる。


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2 コメント

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北千住は、お任せを (和田賛三)
2016-07-19 13:33:27
北千住は、私のテリトリー、安藤昌益ゆかりの地ですが、その案内板は、北千住をよく知らないと発見できません。また、村田巣兆は、北千住に住んだ江戸中期の代表的な俳人です。北千住の繁栄を物語るものに、酒合戦がありました。その様子は、魯山人の水鳥記にくわしい。
以上の歴史舞台は、井上さんが辿ったコースとは反対方向、やっちゃ場に向かう仲町周辺である。声をかけてくれれば、いつでも案内します。
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Unknown (Unknown)
2016-07-19 13:39:50
魯山人は、間違い、江戸後期の代表する文化人、狂歌名は、四方赤良、なんだけれど、おもいだせない。
返信する

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