ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

「守破離」の「守」を通りこして「破」に向かっている今です

2008-03-17 11:56:49 | 犬たち
「守破離(しゅはり)」という言葉をご存知ですか?
能や狂言の世界で弟子が師匠から学んでいく成長過程で、「守」は師匠の教えを徹底的に真似、そして守ることをいい、「破」は一人前になったところで、教えを大切にしつつも個性を出すようにすることを言い、「離」は技を極めたところで、独創的な世界に踏み出していくことを言います。

私が絵を描き始めたのは50歳の頃ですが、それより5年ほど前から描くのではなく観る絵画鑑賞に夢中になりました。職場が画廊のメッカ・銀座にあったことも影響していると思います。
はじめはいろんな絵を無差別に観ていたのですが、徐々に写真のようにリアルに描く具象画に引き付けられていきました。自己を押さえてひたすら対象物を忠実に描く絵には、押さえるがゆえのにじみ出るような人間性に興味を感じたからです。私は写真のような具象画を描いてみたいと強く思うようになり、それからまもなく絵を描き始めました。

私には絵の師匠や先生はいません。行く道を左右するほど影響を受けた画家もいません。むしろ絵画関係の人や情報との接触を避けてきました。その理由は孤立無援・孤独の中でこそ独自の道が拓かれると確信していたためです。
しかし、考えてみれば私には師匠がいました。それは人ではなく「写真」です。世間では絵は写真ではなく実物を観察しろと教えますから、逆に私は「実物」ではなく「写真」のように描くことを目標にしてきました。
なぜなら具象力に関しては、対象物を見る人間の目よりも、対象物を写真に撮るカメラの目は、遥かにハイレベルであると思っているからです。ならば堂々と写真をフル活用して絵が描けないかと考え、写真という師匠をマネて、徹底的にリアルな絵を描くことに挑戦してきました。絵のすべての答は一枚の写真の中にあると信じて描きました。その考え方から「トレース水彩画」の技法が生まれたのかもしれません。

多くの人は私の絵を評価するとき、「まるで写真のよう!」とか「写真ソックリ!」といいますが、当初はその言葉が誉め言葉として心地よく聞こえたのですが、そのうちにだんだん違和感を感じる言葉になってきました。
今から思えば、それはわたしの心が「守破離」の「守」の段階を離れ「破」に向かっていることを証明しているような気がします。
「破」は写実を前提として、それにプラスして私でなければならないものを表現することにあります。それは何なのか?どう表現したらいいのか?楽しく悩んでいる日々なのです。

そのため「破」から「離」に向かうのは当分先のようです。