ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

今は「想定外のうれしいおまけ」の時代

2010-09-24 06:39:55 | 犬たち
私の20代後半、アートディレクターとして広告制作に従事していた頃の話です。
新人の私に数少ないチャンスとなる仕事を任せてもらうことがあり、全身力みっぱなしで考えに考えて、斬新なイラストレーションで勝負することにしました。
数多くのデザイン関連の本を引っ張り出してのイラストレーター選定を吟味し、ある新人?イラストレーターに依頼することにしました。
そしてそのイラストレーターと初回の打ち合わせの瞬間、「しまった!」と心の中で激しく後悔しました。なんとそのイラストレーターは若い新人ではなく、初老のおじさんだったのです。
そのとき彼の力量に対してではなく、年齢に対して後悔したのです。
若い私は若いイラストレーターといっしょに練り上げる=新人同士のぶつかり合いの中から新しいものを創ろうと思っていたのですが、まさか年の離れた年配者に対し生意気な口をきくことなどできなく、ヘタな敬語を使っての打ち合わせとなりました。
彼はそんな失礼な私の心の中を見抜いて、年齢と作品の質とは関係ないのでは・・・と言うようなお話をしたように記憶しています。

古くからの友人の建築家と久しぶりに会ったのですが、新進気鋭の建築家と言われた彼も、すでに還暦を迎える年になりました。
その彼が言うには「最近とみに仕事が減って・・・」とのことで、その原因について話し合っている中で、
「そういえば、数年前からお客さんがなんとなく遠慮がちの話し方になっているかも・・・」と言うことになり、その思い当たる節として数年前にある建築デザイン賞をもらったことが原因かもしれない、と言うことになりました。
彼の明るく人懐っこい性格から、受賞前はこれまでは「顧客の話を聞いてくれる気さくな建築家」から、受賞後は「恐れ多い建築家先生」とレッテルを貼られてしまったのです。
つまり仕事が減った原因は、受賞したことが原因なのではという結論となりました。

人には3つの限界が考えられます。
まず「肉体的限界」。たとえばプロ野球選手は30代が限界年齢と言われているように加齢とともに肉体は確実に衰えます。
そして「頭脳の限界」。それは意外に長くて本人の努力次第では老いても磨きがかかると言われています。
そして「社会的評価の限界」。上記の2例がそれに該当するように、肉体も頭脳も現役バリバリでも、いつの間にか世間は過去の人というレッテルを貼ってしまうのです。

今の私は前記した「初老のイラストレーター」の年齢を超えてしまいましたが、精神衛生上、以下のように考えて楽しく絵を描いています。
画家としての出発が60歳と遅く、すでにそのときから「社会的評価の限界」を超えていると自分に言い聞かせました。
だから評価されないのは自然なことで、もし世間から評価されることがあったとしたら、それは「想定外のうれしいおまけ」となる、と。


強い願望さえあれば、性格なんて自在に変えられる

2010-09-17 06:52:53 | 犬たち
職業が人格をつくると言いますが、本当にそうかもしれません。

私の定年退職までの職業は「広告業」でした。
入社時は広告制作のアートディレクターをし、40歳からは子会社の経営の仕事をしましたが、「広告業」はとても忙しくて、ストレスの塊のような職業でした。
そして第2の人生の職業は「画家」で、のんびりゆったりの時を過ごしています。
その転職は、魚屋さんがバレリーナに変身するような大胆な転職でした。

2つの職業は共通するところがないほど相違していましたが、最もギャップを感じたのは、「集団」と「一人」の違いでした。
「広告業」は徹底したチームワークの仕事で、いろいろな専門分野のメンバーで構成した組織作業だけでなく、社外とはクライアントの他に各種メディアやプロダクションも参加した大集団作業でした。
一方の「画家」は最初から最後まで全くの単独作業。何を描くか?どのように描くか?どのように発表するか? 
目標の設定から自己管理までのすべてを、一人で考え一人で結果を出す仕事でした。
その上私の場合は、絵を指導してくれる先生もいなければ、尊敬する画家もいなく、目標となる絵もありませんでした。要するに全くの自我流でやってきました。
そんな中、単独作業は多少の孤独感を味わうものの実に心穏やかであり、それだからこそ「広告業」の人間関係のわずらわしさから生じるストレスは、相当なものであることを改めて知りました。
たとえばいろいろな人たちに追い回される広告業時代の夢を見て、脂汗とともにガバッと起き、「あ~、夢でよかった!」といった経験も幾度もありました。

画家となって数年経ち、私の性格が確実に変り始めていることに気づきました。
これまでの私の性格は自他ともに認める「明るい社交家」でしたが、「画家」の今は世間から遠く離れて孤独を楽しむ「明るい仙人」のような道を歩んでいるような気がします。

それでは「社交家」と「仙人」、どちらが本当の私なのでしょうか?
結論から言えばどちらも本当に私だと思います。「社交家」は広告業に適した性格になり、「仙人」は画家としての能力を発揮する性格に変身したのです。

私の持論は、性格は指紋のように生涯付きまとうものではなく、状況に合わせて自在に変えられるものだと思っています。
本人に「新しい自分に変革したい!」という強い願望がありさえすれば・・・が大前提となりますが。


ipadはコミュニケーション未来を創る革命児だ!

2010-09-09 14:44:59 | 犬たち
忙しいと言ってなかなか来ない息子が、久しぶりに1泊しました。
WEBデザイン会社に勤務しているため、デジタルに関しては専門家なので、いまだにデジタルに関してチンプンカンプンの私は、ここぞとばかり日頃からPCで解らない部分の話を聞くことが会話の中心となるのですが、今回は話題のipadを持って来たので、その性能の可能性がテーマとなりました。
その結論として「ipadは未来を創る革命児だ!」と私は確信したのです。

ipadとはノートのような大きさの、インターネット機能が使えるPCですが、このすごさの第一は、たとえば初心者でも指でのタツチだけで自由自在に操作できるように、すぐに使うことができることです。
そして最大の眼目は、電子書籍として圧倒的な可能性を秘めていることです。
アメリカでは60万冊のipadに対応した電子書籍が発売されており、書店で買うより低価格でダウンロードすることが出来ることもあり、新しい形態の出版として爆発的に普及しているとのことです。

その可能性をたとえば教科書を例にとると・・・。
小学一年生の入学の時に1冊(1台)のipadさえあれば、多くの教科書をランドセルに入れる必要はありません。そこに教科書や参考書をダウンロードすればいいわけで、2年3年・中・高校生、そして大学卒業までその1冊のipadですべての本が対応できるのです。

そのようにこれからの時代、1人1冊のipadを持っていれば、本だけでなく、新聞でも雑誌でも、動画としても、そしてインターネットとしても幅広く楽しめる時代がすぐ目の前に来ています。
それは紙に印刷しなくていいわけですから、エコロジーに貢献するだけでなく、原価が安くなりそれが販売価格に跳ね返ることとなります。

このインパクトは従来の新聞や出版業界、印刷業界、そして書店に強烈な逆風が吹いています。
私は6年前から現在まで8冊の著作出版をしてきたのですが、この6年間だけでもインターネットの影響により、出版業界や書店が一機に冬の時代に突入したことをつぶさに見てきました。
その上ipadが登場したら、この業界は絶望的な状況になると言っても過言ではないのです。
たとえばこれまでいっしょに作業した編集者のほとんどの方は、出版の将来を絶望して転職してしまいました。それほどこの変革は厳しいのです。

ipadはコミュニケーションの未来を創る革命児となるのは間違いないのですが、それは単に紙の本が電子の本になっただけでなく、文化そのものを変えるインパクトを持っていると思うのです。





巨悪の流れが培った「高度なウソ」

2010-09-02 10:22:29 | 犬たち
今度の民主党党首選でのテーマのひとつとして「政治と金」の問題が浮上していますが、今回はそれをテーマとします。

小沢前幹事長の「政治と金」の問題について、説明責任を果たせ!との声が上がっていますが、国会であろうとどこであろうと、疑惑が晴れるのはほとんど不可能だと思います。
それは小沢さんが「ウソ」をついてつじつまあわせをしているのですが、その「ウソ」を立証するのは検察庁もサジを投げたほど完璧に隙がなく、いまさら「小沢さん、あなたはウソをついている!」と立証する新しい証拠などないからです。

最近の「政治と金」では、鳩山さんと小沢さんが浮かびますが、2人の共通は「ウソ」ですが、その内容から言えば鳩山さんは「単純なウソ」、小沢さんは「高度なウソ」のようです。

たとえば鳩山さんの場合、お母さんから毎月1500万円・12億円ものお小遣いをもらっていたのですが、鳩山さんは「全く知らなかった!」と言う「ウソ」をつき通しました。
もし「知っていました」と正直に言えば、重大な所得隠しの罪となり、刑務所行きとなるからです。

一方、小沢さんの違法献金問題や政治資金規正法問題は、はるかに悪質で複雑、緻密な計画性があります。
その「ウソ」の構造も根が深く、自民党・田中角栄闇将軍から金丸信へと続く流れを汲む巨悪のノウハウを受け継いだものだと推察しています。
具体的に言えば、金+派閥の人数+地位で、巨大な権力を勝ち取ることができるわけで、それを実現するには収賄罪や政治資金規正法などの法律に抵触せざるをえなく、「計算されたウソ」でそれらを可能にしているわけです。
だからこそ東京地検もメンツにかけて根絶したかったのですが、その壁を破れませんでした。
そのことは多くの国民もなんとなく知っていて、だからこそ小沢さんへの不信感と腹立たしさが増幅しているのではないでしょうか。

それではどうしたらいいのでしょう。以下は私の考えです。
法律の世界は「疑わしきは罰せず」が大原則ですが、政治の世界は「疑わしきは選ばないでおこう!」と言うことです。
なぜなら私たち国民は政治家・特に政権与党の政治家に、重い権限を託すことになりますが、それには政治家と国民の間には深くて強い「信頼」という絆があることが極めて重要で、ウソか本当かは別として、不信感からは「信頼」は決して生まれないからです。

今回の選挙でどちらがいいか?という街頭インタビューで、あるおじいさんはこんなことを言っていました。
     
    「小沢さんがいい! 毒をもって毒を征するからじゃー!」