古典落語でみなさんご存知の題目の噺をするとき、その題目は彼にとって何百回も演じたものであり、それを聞くお客も噺のスジはおろか一語一句を空で言えるほど知っていることを承知の上で演じるそうです。
そんな噺をする場合のコツは、何百回も演じたにもかかわらず、初めての客に向かって初めて新ネタを披露するようなドキドキした気持ちで演じることだそうです。
そしてより重要なのはお客の落語への接し方です。
聞くお客にも上手下手があり、下手な客は「な~んだ、また同じか」とガッカリして聞き、上手な客はその噺に始めて接するような新鮮な気持ちで聞き、心の底から笑うことだそうです。
聞き方の上手下手で、落語の深さが全く違ってくるようです。
年を重ね、経験を積んで、分別が出来分るようになる年代は、感情を表に表さないことを学ぶ年代になるともいえます。世渡りには手の内を見せては不利になる場合が多いのです。
感情を押さえ、表情に出さないことが当たり前のように出来るようになると、使われなくなった感情や感動のセンサーが錆付いて機能しなくなる場合があります。これはとても恐ろしいことなのです。
感動することは生命を謳歌することです。仕事や世渡りが上手になっても、人生を謳歌する感性が弱くなれば、なんのための人生でしょう。
私は美術大学を出たのですが、その当時はそれなりに豊かな感動のセンサーを持っていましたが、その後上京し、すれっからしの東京砂漠でドタバタし冷や汗ばかりの日々を過ごし、見事に感情を抑えて世渡り出来るようになりました。
そして50歳から絵を描き始めたのですが、その時感動のセンサーのあまりにもひどい現状に愕然としました。感動の衰えは如実に絵に出ていたからです。絵は感動を表現するメディアですから、砂漠のような無味な絵しか描けませんでした。
それから15年絵を描き続けているのですが、それは絵の上達であると同時に感動のセンサーを復活させる訓練でもありました。
落語の聞き方にも上手下手があり、上手な聞き方は初めて聞くように接することだと前記しましたが、その話の中に感動を育むヒントがありそうです。
私は毎日1万歩歩いています。それも全く同じ道を歩いています。しかし毎回毎回その道を初めて歩く気持ちで歩くように努めています。
すると季節の移り変わり、自然の変化、人の営みの面白かが毎回毎回発見できるような気がします。
感動はまだ見ぬ世界や名所だけにあるのではなく、当たり前の日常の中にこそ潜んでいル野ではないでしょうか。もしそれでも退屈な風景しか映らないというならば、それは風景のせいではなく、私たちのほうが退屈な感性になってしまったのかも知れません。