上の絵はHP「水のある風景」の中の「朝の光の中の白山」です。
私の生まれ育った故郷の風景をイメージして描いたもので、中央の白く輝くたおやかな山は霊峰・白山で、手前の川はその峰々の水を集めて流れる手取川を描いたものです。
私は昭和18年、北陸・石川県の白山を仰ぎ見る田園地帯のド真ん中で生まれ育ちました。
物心がついた頃は、日本は敗戦の赤貧状態で、私たちも冬ともなると寒さしのぎで下着を何枚も重ね着して丸々となり、青い鼻水をたらし、いつも空き腹を抱える子供でした。
家族構成は祖父母・両親・兄弟4人の8人家族の次男坊で、両親が公務員として務めているものの兼業農家でもありました。
この地では同窓生のほとんどは稲作農家の息子・娘たちで、私も農作業を手伝わされましたが、それは苦痛そのものでした。
稲穂からかぶれが生じ、たまらなく痒くなる体質ということもありましたが、次男坊の私は、いずれこの地域を離れ別の世界にいかなければならないという運命を感じていたこともありました。
そのようにこの地に閉塞感を感じていた私ですが、そんな心を解き放つ象徴として白山がありました。
白山の向こうに私の新しい世界が待っているような気がしたからです。
その根拠といえばおこがましいのですが、カール・ブッセの詩を口ずさんで夢見る少年時代の私なのでした。
山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう
ああ、われ人ととめゆきて、涙さしぐみかえりきぬ
山のあなたになお遠く、幸い住むと人のいう
私の故郷の現在の街の名前は「白山市」です。
生まれた時の住所は石川県石川郡山島村でしたが、合併により松任町になりました。その後松任町が松任市になり、平成の大合併で白山を含む町村などを合併し、白山市となりました。
つまり仰ぎ見る光り輝く白山の頂上に降った雨が、手取川を流れ日本海に注ぐまでの広大な地域が「白山市」となったわけです。
この合併が経済的に損か得かはさておき、なんとしてもこの地を「白山」という名称にし、わが地に誇りと共通のアイデンティテイを持とうとした住民の気持が<私にはとてもよくわかるのです。
白山を仰ぎ見る故郷を離れて半世紀も経てば、私は浦島太郎になりました。
建造物が変わり、道路が変わり、見知らぬ人だけになりました。
しかし、白山の雄姿だけは昔そのままに輝いて、温かく私を迎えてくれました。