ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

DIYが大好きな私に、2トントラック分の材木が届きました

2015-02-23 17:33:19 | 犬たち

DIY (Do it yourself=日曜大工)が大好きで、上の写真の玄関までの渡り廊下とバルコニーは私が作った最近作です。

わが家は山のてっぺんに立地しており、玄関出たらすぐ崖というわけで、バルコニーが必須なのですが、引っ越当初に作ったバルコニーも15年経てば老朽化が激しくなり、リフォームすることにしました。

工務店さんに見積もりをお願いしたところ、びっくりするような数字が出てきたのですが、わが家の財布と決定権を握っている妻は、決断を迫られることとなりました。
その時こそこれまでにない大がかりなDYIのチャンスとばかり、「俺に作らせてくれ、頼む!」と妻を説得したのです。
妻は経済的な視点と、夫の作業での失敗のリスクを秤にかけ、一昼夜考え続けた結果、苦渋の決断として、DIYで夫に作らせることにしました。

そのため工務店への作業を断ったものの、その分の木材をお願いしたところ、どういう計算でそうしたのか、2トントラックいっぱいの木材が運ばれてきました。
まさに山のように積まれた材木を前にして、「思いっきり腕を振るえるぞ~!」と武者震いした私ですが、これはDIYマニアにとってはたまらない瞬間でもありました。

ちょうど時を同じくして出版の話が舞い込み、寝食を忘れるほどの忙しさとなりましたが、その忙しさのちょっとした合間にも大工作業に没頭しました。
真冬の寒さの中での鼻水をすすりながらの作業ですが、寒さを感じる余裕もありませんでした。

そして完成したのが上の写真で、その結果から言えば・・・、
お金の面からいえば、私の作業での実費は数千円ですから、40万以上の工賃が大幅に節約できたことになりました。
出来栄えとしては、アラを探す目的で実物を丹念に調べれば、精度にやや甘い箇所を発見できますが、普通の人が普通に見れば、素人が作ったとは誰も思わない程のクオリティです。

それで話は終わりでなく、素人が見ても多過ぎると思えた2トントラックいっぱいの木材はやっぱり多過ぎ、この作業に続き倉庫の増築、物干し場のベランダの改築、テーブル2つ(上の写真のテーブルはそのひとつです)、椅子2脚と腕を振るったのですが、それでもまだまだ材木が残ることになりましたが、妻からもうわが家でのDIYは終了との宣言があり、以降の許可が下りなくなりました。

そしてそこに浮かんだのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵と同じ発想で、隣の家のバルコニーを作ることでした。
隣の方はとても良い方で、私の強引な話に断わり切れず、あやふやな返事をしているのですが、それをいいことに了解したと拡大解釈し、作業を始めることで材木を使い切ろうと思っています。

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私のDYI好きは、絵画好きと共通しているようで、「作る」ことが好きなのです。

モノづくりには2つのタイプがあるようで、「テクニック」タイプと、「発想力」タイプがあり、私は明らかに「発想力」タイプです。

私は大工仕事も絵を描くことにおいても、テクニックは劣り、手先はとても不器用です。器用さではおそらく日本人の平均点以下でしょう。
しかし「発想力=新しいことを考える」ことは、優れているというよりたまらなく好きです。
だからこの作業も、出来上がりを頭の中で何度も反芻し、細部まで検討し、そして実際の作業に取り掛かる時は、すでに頭の中には完全な設計図と行程表が出来上がっており、そのため実作業はものすごく速いのもその特徴といえます。

大工仕事の勉強などしたことなどなく、自己流そのもので会得したDIYですから、たとえばこの作業ではベランダなど作ったことなどないため、何から何まで初めての作業で、創意工夫の連続でした。
特にその中でも発想力を生かしたのは、渡り廊下を狭くすることで、初めてのお客がわが家を訪問する時、空中廊下を歩くような楽しさを味わうことを意図しました。
また柱の間隔をあえて不統一にすることで、軽い感じを出そうとしたことです。
 

私のDIYを阻むただひとつ問題、それは21世紀の奇跡とも言われた(誰も言っていない)才能を、わが妻は過小評価しているといいますか、不信感を捨てきれないでいることにあります。

 


田舎の小学校の同窓会の案内状が届きました

2015-02-04 01:42:24 | 犬たち

この絵の人物は、私が描いた今の私の顔です。

70歳を過ぎれば、元々作りのよくない顔がいっそう崩壊の危機にあり、恥を承知で描きあげました。
それは出版の編集者から、シリアスでもなくふざけてもいない顔を描くように言われ、その難しい注文に悪戦苦闘して描いたものです。
出版とは、私の9冊目の出版となる 『誰でもたちまち絵がうまくなる「トレース水彩画」入門(仮称)』 で、その中に「森田先生のひと言コメント」というコーナーを設けることになり、そのカットとしてこの絵が必要となったのです。

                 

最近絵の構想を練る時、どういうわけか今の境遇ではなく、その対極にある私の生まれ育った故郷を思い浮かべることが多くなりました。
歳を重ねるにしたがって、志向は原点に戻っていくのでしょうか。 

私の生まれは昭和18年3月(現在71歳)、出生地は石川県石川郡山島村(合併により現在は白山市)です。

昭和18年生まれですから、2歳で終戦となり、日本中が赤貧の時代、貧しさが当たり前の時期が私の少年時代でした。
出生地も、海まで1里半、山まで1里半、町まで1里の見渡す限りの水田に囲まれた、小さな集落で生まれ育ったわけですから、まさに自然だけが豊かで、あとは何もない環境で子供時代を過ごしたことになります。

わが家は8人家族、爺さん・婆さん・親父・お袋、そして姉・兄・私・弟の兼業農家で、爺さんと婆さんが主として農業を行い、親父は公務員・お袋は学校の先生をしているものの、田植えと稲刈りの時期は家族総出で農業に従事し、それだけでなく私たち子供は学校から帰っても農業の手伝いをさせられるのが常でした。

集落のほとんどの家は農家ですが、その当時の農業は農業指導をはじめ治水や害虫駆除など集落が結集した共同作業によって成立する部分が多く、それだけ集落としての共同体意識が強く、それは祭りや行事・冠婚葬祭は当然として、何かにつけて集落がひとつとなって行動しました。
だから私の子供時代の認識は、集落が大きな家族でもありました。 

それと同じように、田舎の小学校の児童もほとんどが農家の子供ですから、、授業のずいぶん多くは学校が持つ田畑の農作業でした。
遊びと言っても遊び道具などあるはずもなく、実益を兼ねての用水路での魚とりが主体でした。 

冬ともなるとこの地は豪雪地帯で、村の小さな小学校までは1キロの田んぼの道を歩くのも大変で、つぎはぎだらけの長靴に水が漏れ、やっとの思いで学校に着いた頃は、足の感覚が全くなくなっている経験を何度もしました。
教室の破れた窓から雪が吹き込む中、ひとつしかない火鉢を取り囲むだけでは暖はとれず、お互い助け合いの精神で、下着を着込んでモコモコになった姿で押しくらまんじゅうをし合ったものです。

貧しかったからこそなのか、生活でも学校でも共同体意識が強く、その連帯感が私を育てたのかもしれません。

                 

その田舎の小学校の友人から、同窓会の案内状が届きました。

卒業から59年、なんと懐かしい便りなのでしょう!
小学校6年間は1学年1学級でみんな一緒の44名でしたが、同封された名簿には6名が旅立っていることがわかりました。
6名に記載されているその中のひとりは、笑顔がとてものかわいい女の子で、ほのかに思っていた時期もありました。

名簿をじっくり見ながら記憶の糸を手繰り寄せると、ひとりひとりの顔が浮かぶのですが、それは59年前の顔、59年後の顔はどんな顔になっているのでしょうか。
残念ながらちょうどその時期に抜き差しならぬ用件があり、欠席せざるを得なくなりましたが、みんなも今の私の顔を知りたいだろうと思い、ここに自画像を掲載することにしました。

思えば、あれから59年、時代が変わり、社会も変わり、そして私も変わりました。
しかし、私の心はより一層あの自然と、そしてあの仲間と、強い連帯感で繋がっていると思うようになりました。