ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

あなたもFacebookの登録をし、友達の輪を広げませんか

2012-03-28 11:23:56 | 犬たち

 Facebookを始めたのですが、それがすごく面白いのです。 

Facebook(フェイスブック)は、世界最大のソーシャルネットサービスで、実名での人と人とがネット上でつながり、情報や意見などを共有できるなどの交流サイトです。
類似のサービスとしては日本ではmixiやgreeがありますが、これらはバーチャル(架空)での交流に対し、Facebookは実名での人と人とのリアルな交流のため、内容に現実性とリアル感というインパクトがあり、たとえば中東の民主化などはFacebookだからこそ政治変革の原動力となったのであり、多くの恋が生まれカップルが誕生したのもFacebookだからこそだと思います。 

Facebookのもうひとつの特色は、会員数が非常に多いということです。
世界では8億人が登録しており、発祥の地アメリカでは人口3億人の中で約半分の1.5億人がFacebookを活用するなど、社会の中に深く浸透しており、日本では現在600万人程度ですが、急速な増加をたどると予測され、社会生活での必須アイテムとなる可能性を秘めています。
それは若者や働き盛りのビジネスもさることながら、主婦や中高年の方こそ人生の充実のための強い味方となるのではと思っています。 

上の絵の人物は、品格のある上にただ者ではない雰囲気を持つ紳士ですが、それが私が描いた私の自画像でFacebookのプロフィールに貼ってあります。
このようにFacebookでは実名だけではなく原則本人の写真を載せることにより、たとえば私の名前の「森田健二郎」を検索すると、同姓同名の2つのサイトが出てきますが、画像により私と確認できる機能を持っているのです。
だから懐かしい昔の友達を探す場合、名前と顔の記憶さえあれば、「すっかり禿げたおじさんになったけど、面影ある~!」と簡単に探し出せるなど抜群の友人検索ができるので、試しにあなたもとりあえず初恋の人など軽~くチャレンジいてみてはいかがでしょう。 

私はFacebookへ登録してそんなに期日が経っていなく、まだお話するほどFacebookに詳しくはありませんが、1日1枚の作品をちょっとユーモラスなコメントとともに更新しているため、それを通していろいろな方から友達になりたいとの希望が来ています。
その中でも気のせいか女性・それも美しい女性や昔美しかった女性からの希望者が多く、それぞれの方のそれぞれの出来事の記事をFacebookで見ることもできるため、それが毎日の大きな楽しみのひとつになっています。 

あなたもFacebookの登録をしませんか。Facebookに参加することは現代人の身だしなみになるかもしれません。
無料の上にとても簡単・・・インターネットでの「Facebook 日本語」を検索し、指示通り書き込めば、あっというまに登録できます。
Facebookは友達の輪を広けるサイトですから、気が向いたら私とも友達になってください。大歓迎です。

 


イメージを持つ、それが出来るものがこれからの勝利者なのです

2012-03-22 15:53:51 | 犬たち

 
今回は年間6組の結婚式が700組になった話で、それには上の絵にヒントがあります。 

逗子市小坪に引っ越して15年になりますが、私と愛犬の毎日の散歩として、すぐ近くにある「逗子マリーナ」は定番コースでした。
そのことは逗子マリーナの栄枯盛衰をつぶさに見てきたことになるわけですが、以前は逗子マリーナの宴会場で時々(関係者言:年間6組とのこと)結婚式がありました。
しかしある時点から結婚式が一挙に増加し、近年は年間700組前後となり、逗子マリーナは結婚式のメッカに変貌したのです。
1組の結婚式費用が平均400万円前後とのことで、相当の大型産業が出現したことになりますが、その成功の秘訣は「イメージ」にありました。 

逗子マリーナは地中海風のリゾート地として、1971年西武グループによって開発されました。
ふんだんに椰子の木が植えられ、9棟のリゾートマンション、マリーナやプール、レストラン、ボーリング場が設置され、その当時の若者のトレンディスポットとして人気をえ、ノーベル賞作家の川端康成の仕事場もあり、ここで自殺したことでも有名となりました。
しかしバブル崩壊以降はその事業主であった西武系企業が倒産したことをきっかけに衰退の一途を辿り、華やかでファショナブルなスポットは、流行が過ぎ去ってしまえば惨めなもので、逗子マリーナをバブル崩壊の象徴という人すらいました。 

しかしある起業家があえてだれもが敬遠するこの地に目をつけました。
彼は時代から取り残された薄汚れた建物と、雑草の合間から見える海を眺めながら、この地をベースに未来の情景をしっかりイメージすることにより、ビジネスとしての大いなる成功を読み取ったのです。
それはこの場所を誰もが感動する非日常空間に作り上げれば、これからの理想のウエディングプレイスになると確信したのです。
それからその具現化の工事や整備に着手し、南国風の無数のパームツリーや手入れの行き届いた芝生と季節の花々を整備し、そして海に突き出た所にガラス張りの結婚式場兼宴会場を作りました。
そしていざ営業を開始すると予想以上の申し込みが殺到し、急遽宴会場その施設の拡充に取り掛かったのです。

上の絵は逗子マリーナでの実際のウエディングシーンを水彩画で描いたものですが、彼の思い描いていた未来の情景はまさにこの絵の風景に近いのかもしれません。 

起業家にとってイメージすることとは、未来社会を予知することであり、その中で必須なもの=次代の大ヒット商品を発見することなのです。 

話代わって、アップル社の故ステーブン・ジョブズは天才的なイメージメーカーだと私は思っています。
彼がアップル社のCEOに返り咲いたときアップル社は倒産の危機にあり、その反転攻勢としてジョブズはある製品の開発を考えていたのですが、これはこれまでの最先端機器の延長線では考えつかないほどの革新的な製品でした。
彼の製品のイメージは製品の機能は当然として、デザイン、マーケティング戦略までにおよび、その製品の開発を命じたとき、あまりにも高い要求にスタッフたちは唖然とするばかりでした。
しかしイメージは目標であり、目標があるからこそ実現に向かって進むことが出来るものであり、そこから世界的大ヒットとなったアイパットやスマートフォンのアイフォンが開発されたのです。 

逗子マリーナは蘇りました。
美しくなったのは式場周辺だけでなく、街全体に掃除と植栽の手入れがいき渡りました。
休日には無料バスが行き交い、着飾った人たちで賑わうようになり、9棟もあるのマンションの入居者が増え活気が戻りました。
大きな産業がない逗子市にとっても、この結婚式場は若者たちの雇用の場となり、地域貢献としても見逃せなくなりました。
だからイメージには、地域活性化の救世主ともなれる力があるのです。

 


グルメ番組は数々あれど「孤独のグルメ」は抜群に面白い

2012-03-14 09:53:02 | 犬たち

 

中高年男子必見の、抜群に面白いTVのグルメ番組をご紹介します。 

わが生活でのTVは観るとはなし聞くとはなしのつけっ放しの日々ですが、考えて見れば食やグルメに関する番組は非常に多いのに驚かされます。
食に関する番組といっても料理番組から食べ歩き番組、クイズ形式のグルメ番組と多岐にわたりますが、お笑いタレントが(本当はたいしてうまくもないものを)大げさに「うまい~!」と叫ぶ臭い芝居にはうんざりしていました。
そんな中で深夜に偶然発見した「孤独のグルメ」という番組は、これまでのグルメ番組とはまったく違い、大げさに言えば人生を考えてしまうような番組だと思いました。 

TV番組「孤独のグルメ」はテレビ東京・水曜深夜0時43分からの30分のドキュメンタリータッチの番組ですが、料理を提供する店も料理も実在のものなのですが、それ以外はすべてドラマ仕立てで、主役の井の頭五郎(中年俳優:松重豊)は個人で輸入雑貨商を営んでおり、商用でいろんな街を訪れそこでふと立ち止まった店でまさに「うまい!」料理と出会い、次々と食べつくしてしまう・・・というそれだけの番組なのですが、それがなぜそれほどまでに面白いのか?
何はともあれユーチューブの「孤独のグルメ」をご覧ください。 

主人公の井の頭五郎はちょっと優柔不断なところがありますが、ごく普通の中年男性ですが、その彼には抜きん出た能力を持っています。それは「食」への強いこだわりで、その中でも3つの能力を持っていることです。
そのひとつは猛烈に空腹を覚える能力、ひとつはしっかりと味覚を味わう能力、そして最後のひとつは圧倒的な食欲だということです。
誰もが1日3度の食事をし、1年365日食事を繰り返しているのですが、われら凡人は昨日何を食べたなどの記憶も定かでないほど食への関心が希薄なのですが、彼はその食べることに並外れて情熱を傾ける、そこに「孤独のドラマ」の痛快さがあるとのだと思いました。 

食は生きるための基本ですから、空腹・味覚・食欲の3つの能力に優れていることは、生きる力が強いということです。
辛いことがあっても食べればそれの苦しみを乗り越えられるし、悲しいことがあってもお腹いっぱいになれば明日が見えてくるのです。 

だから対象となる料理もおしゃれな料理でもなく、流行りの料理でもありません。
店も街の片隅にある薄汚れた小さな店で、料理もごく普通で値段も普通だと思います。
たとえば江東区門前仲町での焼き鳥と焼き飯、豊島区駒込の煮魚定食、豊島区池袋の汁なし坦々麺、川崎市八丁畷の焼き鳥などを実においしく食べるのです。 

私の自慢は早食いで、これまで負けたことがないと豪語していたのですが、私も大人になったのですからこれからはそんな愚かな自慢を止めて、しっかり味覚を楽しもうと思っています。

 


童謡「ふるさと」は、東日本大震災の復興の応援歌です

2012-03-08 11:17:27 | 犬たち

 

何故かしら大震災の悲惨な風景の映像を見ながら、♪うさぎ追~いし かの山~♪ の歌が流れると、目頭が熱くなってしまう私なのです。

東日本大震災からもう1年になりますが、被災地へ多くの援助物質や義援金が届けられ、たくさんのボランティアが参加しました。
また多くのミュージシャンもコンサートを開きましたが、その中で歌った一曲「ふるさと」が被災者を癒しそして勇気づける歌として浮かび上がり、自然発生的に支援のシンボルの歌としてクローズアップされてきました。

童謡「ふるさと」はなぜそれほどの強い力を持っているのでしょうか?日本中の誰もが知っている国民唱歌ですが、それだけでない何かがこの歌にあるようです。  

     うさぎ追いし かの山  小鮒釣りし かの川
       夢は今もめぐりて  忘れがたき ふるさと 

          いかにいます 父母  つつがなしや 友がき
            雨に風につけても  思いいづる ふるさと 

             こころざしを 果たして  いつの日にか帰らん
               山は青き ふるさと  水は清き ふるさと 

その詞の内容は遠く離れた在住の地から、生まれ育った故郷を想う歌ですが、大震災との関連でのひとつの解釈は、被災者の震災前の生活の営みや自然豊かなすばらしい風景のすべてが「ふるさと」であり、今はその面影すらないほど荒れ果てているものの、いつかは必ずその「ふるさと」が復興するという励ましの歌だと解釈できます。 

しかし・・・それ以上に深くて大きな意味をみんなが感じているはずです。
私はあの歌を聞けば、日本人誰もが心の奥底に眠っている「日本の原風景」を呼び覚まされるのではないでしょうか。 
都会にしか住んだことのない人も、生まれ育った地を離れたことのない人も・・・

この歌の「ふるさと」とは日本人の心そのものなのではないでしょうか。
誰もが持っていて、しかも忘れかけていた日本人の心が、
大震災という出来事を契機に、目覚めそして“絆”を感じあう、そんな歌なのではないでしょうか。 

60年前、日本は戦争に敗れたとき、復興など永遠に不可能なほどのすざましい焼け野原でした。あれから世界の奇跡といわれるほどの発展をとげ、GDP世界2位となるまでの豊かな国となりました。
その原動力となったのは「日本人の心」ではなかったでしょうか。

真面目で勤勉で忍耐強く、研究熱心で困難を打開して行く知恵、そして最大の力は弱者を助ける共同体意識、それらが発展の原動力だったと思います。 
被災した方々への励ましの言葉などおこがましいのですが、日本のすべての人々が「日本人の心」持ってみなさんを見守っていることを信じて欲しいのです。

 


本から得られる知識よりも、自分で考えて発見した知恵が大切

2012-03-02 03:18:39 | 犬たち

 

私の蔵書(商売道具の美術書を除いて)が、我が家からすっかりなくなりました。

古本屋さんに出したりゴミ回収に出したで、本の重さを実感した力作業でした。

 

現役時代の私は活字中毒とまではいかないまでも、かなりの読書家でした。

通勤電車はまさに読書室となり、ベッドに入るときもトイレの中でも本を離さず、本がなければ不安になる精神構造が刷り込まれていたようです。

その理由は、本好きもさることながら情報産業を職業としていたため、たえず多くの知識を得ることの義務感と、時代のトレンドを掴むことに焦りを感じていたためで、知識を得ることに脅迫されたように読み漁っていたような気がします。

しかし、退職して画家の道を歩み始めたのですが、画家としての職業観はこれまでとは逆で、自己を見つめることが大切な仕事である反面、世間や時代などの情報は邪魔な雑音にしか過ぎないとわかり、すぐその気になる私はいとも簡単に活字を読むマインドコントロールから逃げ出すことに成功しました。

 

それ以来まったくの本の購入も購読も接することもなく、雑誌の購入も皆無、新聞もすぐに止め、活字メディアとは無縁の生活となりましたが、愛着のこもった本を捨てることに多少躊躇していたのですが、そんな未練を断ち切るためにもすべての本を廃棄したのです。

というわけで情報といえば聞き流しているTVと、パソコンでのインターネットだけになるわけですが、それも熱心とはいえないため、私の生活は情報過小の生活となりました。

それは単に情報の少ない仙人のような静かでさびしい生活が訪れると思いきや、意外なことに次から次と新しい発想が生まれる忙しくて活気ある生活に変貌したのです。つまり

 

情報の絶対量が少ないということは、考えるチャンスが増えることであり、

それは安直に本から得られる知識よりも、自分で考えて発見した知恵の方が、

はるかに重要な人生の道標に繋がることを実感したことでもありました。

 

日本の学校教育はいまだに「知識の詰め込み」が主流のようで、先進各国の「考える教育」に大きく立ち遅れており、日本の将来の危機であるという指摘があります。

たとえばテストとなると、日本では鉛筆と消しゴムだけで臨み、知識や暗記力が点数に直結しますが、諸外国では教科書などの持込は自由で、パソコンまでがOKの国もあるそうで、その評価基準は徹底して「考える力」にあるのです。

学校教育は社会人への訓練機関とすれば、社会では今やパソコンやスマートフォンを小脇に置いての知識の引き出しは常識というより必須条件で、実践での能力の差は「知識の差」ではなく、「考える力の差」になっているのです。

 

このブログもそうですが、私のブログ「ノー天気画家の生活日記」は、外からの情報ではなく、自分で考え、自分で発見したものをだけを書いています。

時には他人のオピニオンを取り上げることもありますが、そのときは情報の出所を明示しているつもりです。 

とまぁこのブログを開始してから8年がたち、毎回違うテーマを数百(千を越えているかも)も書き続けてきました。

これだけ書けばもうそろそろネタも尽きるだろうとお思いでしょうが、外からの情報に頼らず、バカな頭を振り絞って考えれば、満天の星のごとく新しい星が見つけられるような気がするのです。