私は海の見える小高い丘の上に住んで15年経ち、この住まいを終の棲家と思っていますが、この地を選ぶまでの心の変遷をお話ししようと思います。
高齢であれば静かな田舎こそが終の棲家として最適だと決めつけるのは大きな間違いで、にぎやかで活気ある都会生活が性に合っている高齢者も多く、その選択は人それぞれの人生観が大きく影響しているような気がします。
知り合いの老夫婦は、郊外の大きな屋敷を売り払い、都心の超高層マンションを終の棲家としたのですが、その住み心地はとてもよく、終の棲家として勇気ある決断をしたと、しみじみおっしゃっていました。
人生の長い道のりの中で、その地を安住の地と心から思えることこそ、終の棲家としての条件ではないでしょうか。
私は見渡す限り田んぼの中の、農家に生まれ育ちました。
この地は極めて保守的で、次男坊の私は成人すれば家を出ることが前提となって育てられたこともあり、私の子供時代の目標はこのタコツボのような場所からいかに上手に脱出するかにありました。
どうせ出ていくなら、この保守的で後ろ向きな場所からは180度真反対な生き方をしようと、当時としては珍しい職業である広告のデザイナーやアートディレクターになることを思い描きました。
そのために何とか美術大学に入学し、何とか東京の最大手の広告代理店に入社でき、何とか広告のアートディレクターとしての華やかな?仕事に従事することが出来ました。
とはいうものの、世の中などまるで知らない田舎者が、東京の大企業に入り、認知されていくことはとても大変なことで、まず方言が強くてしゃべることが不自由で、それ以上に仕事のスピードについていけませんでした。
そのうえ田舎者の感性なと都会のセンスと大きく遅れているような気がし、コンプレックスの塊となりました。
入社当初のその時期は、人生の中で最も辛い思いをした時期だったかもしれません。
だからその当時 東京人(そっくり)になりきることが、これから生きていくための必須条件であるとかたくなに信じました。
東京に住居を構えたのは当然として、東京人の言葉をマネし、東京人の生活習慣やセンスを身に着けることに躍起になりました。
しかし多少仕事を覚えてきたある時、私の職業であるアートディレクターたちの、輝くカリスマたちを綴った年鑑を調べているときに、あることに気づきました。
私の尊敬する有名アートディレクターたちの多くは、地方から上京してきた地方出身者であることに気づいたのです。
そのような目で職場を見渡せば、輝かしく活躍する先輩たちは、地方出身者で占められていることを発見したのです。
それに比べ東京生まれで東京育ちの人は、どことなくひ弱で、地方出身者の気迫に押されて傍流に甘んじていることにも気づきました。
地方出身というハンデがあるからこそ、まさに必死で働き、そして認められていったのではないでしょうか。
「な~んだ。日本の最先端である東京の発展は、地方出身者で支えられていたんだ!」
その頃は日本は高度経済成長期に入り、東京に人材が集中した時だったからかもしれませんが、この発見は私に大きな自信と人生観の変化をもたらし、コンプレックスなど捨てて、開き直って生きる決断をしました。
その頃東京の小さなマンションを売り払い、ワンランク上の住まいに移り住もうという計画が現実的になってきました。
そのときこそ誰のマネでもない、私流の生き方を確立するチャンスが到来した時でした。
その判断材料として、まず東京人になり切る必要はないのですから、心身ともに東京から脱出すること。
そして故郷の田舎のような風景には決して戻りたくないこと。
つまり都会でも田舎でもなく、これまで住んだことのない新しいところ。 しかも東京への通勤圏でありながら自然回帰を実現するところ。
そして具体的なイメージとして浮かび上がったのは、「海の近くに住みたい!」ということでした。
私にとっての「海」は、憧れであり、安らぎであり、そして陽気な雰囲気があったからであり、そんなイメージをもとに不動産物件を探し回り、「逗子の物件」を探し当て、その地に住まうことに決めたのです。
今、私の部屋の窓から相模湾が一望でき、裕福な気分に浸っています。
日々の散歩は海を見ながらの散歩で、上の絵のような富士山を見る日々を送っています。
そして私のこれからはますます深く「海」とかかわり、「海」と親交を深めていき、「海と一体」になっていくような気がするのです。