一通の手紙が届きました。
それは6年間1クラスだけの、田舎の小学校の同窓会の案内の手紙でした。
あふれ出る懐かしさと望郷の気持がよみがえり、一気に上の絵「薄暮の鎮守様」を描き上げました。
この絵は私の子供時代の印象を心象風景として描いたもので、実際のふるさとの今は都会化されていて、このような風景はありませんが・・・。
画家という職業は自己と対峙する職業で、これまでの経験から育まれた「心の中の印象」しか表現できません。
というわけで過去を振り返れば、20歳に田舎のふるさとを離れて金沢・東京へと住いが移り、通算すると田舎生活20年、都会生活46年と、人生の大半は都会生活となりました。
東京では長く情報企業の最前線を走りぬいてきたと自負している私は、田舎の存在も忘れるほど小さくなり、都会の刺激的な生活をそれなりに謳歌し、都会人になりきったと思っていました。
しかし絵を描き始めて気づいたのですが、体は東京にいるものの、尻尾はまだ田舎に繋がっていたことを発見しました。
私の探している絵のテーマは都会の中からほとんどイメージが浮かばず、はるか昔の田舎時代の中にテーマがあることを知らされたのです。
そして絵を描き続け枚数を重ねるにしたがって、少年時代の記憶が私の絵にドンドン大きな比重を占めてきたことを、しみじみと感じるようになりました。
たとえばシリーズ「水のある風景」はまさに私の子供時代の心象風景そのものを表現しているのです。
私のDNAは子供時代にあり、人生後半になってそれを追い求めていることに気づきました。
私の小学校時代は昭和24年から30年と、日本は戦後の復興の時代でしたが、都会から遠く離れたわが田舎の学校は、時代から取り残された田舎の学校そのものでした。
ほとんどの児童が農家なので、どういうわけか勉強の中に農作業が多く、冬ともなると割れたガラス窓から雪が吹き込む教室で、5枚10枚と着膨れして寒さをしのぎました。
6年間1クラスなので、同窓のみんなはお互いを家族の一員のように、兄弟のように、協力したり遊んだりケンカして過ごしました。
そして遊びの舞台は豊な自然でした。
あれから50年以上経ち、各人がどんな人生を背負って同窓会に集まるのでしょう。
私は私のDNAとしての新たな発見があるかもしれないと、密かな期待をしています。