経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 0930 夢窓疎石(夢窓国師) 後醍醐天皇に厚遇された臨済宗の僧 ■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人

2023-09-30 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0930 夢窓疎石(夢窓国師) 後醍醐天皇に厚遇された臨済宗の僧 ■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人

 

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■ 夢窓疎石(夢窓国師) 後醍醐天皇に厚遇された臨済宗の僧


 むそう そせき
 道号が夢窓、法諱が疎石
 建治元年(1275年)- 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日)享年76
 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Muso_soseki.jpg

 鎌倉時代末から南北朝時代・室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧です。

 伊勢国(三重県)出身で、幼少時に出家し、甲斐国(山梨県)に移住、1283年に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門しました。空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学びました。

 1292年に奈良の東大寺で受戒し、京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学びました。その後、鎌倉へ赴き、円覚寺や建長寺等で禅宗を学び、1305年には浄智寺で印可を受けました。

 正中2年(1325年)に、建武の新政を開始した後醍醐天皇の要望により南禅寺の住持となりました。1335年に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられました。

 生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称されます。

 世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られています。その作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものといわれています。

 

■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人

 

 リジューの聖テレーズ
 1873年1月2日-1897年9月30日


 19世紀フランスのカルメル会修道女で、本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンですが、いろいろな別称があります。
  幼きイエスの聖テレジア
  小さき花のテレジア
  修道名:幼きイエスと尊き面影のテレーズ

 カトリック教会の聖人で教会博士の一人です。若くして世を去りましたが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人です。

 ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられています。

 テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、精神的に耐え切れなくなった父は店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家ゲラン家があるノルマンディーのリジューへと移りました。

 そこでローマ教皇レオ13世に謁見して直接カルメル会入会の特別許可を願いましたが、教皇はやはり司教と指導司祭の勧めに従うようにと穏やかにテレーズを諭しました。

 テレーズが16歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けました。

 1925年5月25日に、聖テレーズが聖人となりました。

 死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まったのです。日本でも、その名は広まっています。

 

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■【きょうの人】 0929 叡尊 鎌倉時代中期 真言律宗を興す

2023-09-29 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0929 叡尊 鎌倉時代中期 真言律宗を興す

 

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 叡尊 鎌倉時代中期 真言律宗を興す


 えいそん、えいぞん
 建仁元年〈1201年〉- 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉

 鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した人です。字は思円(しえん)、諡号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)です。

 興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)に生を受けました。

 建保5年(1217年)に、 醍醐寺の阿闍梨・叡賢に師事して出家しました。その後、高野山に入り真言密教を学びました。

 鎌倉仏教を代表する一人で、廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られています。

 60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じました。

 一般には、戒律・律宗復興の業績で知られていますが、叡尊の本来の意図は、権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生を願いました。

 まず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあると考えたのです。

 

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■【きょうの人】 0928 空也 平安中期浄土宗の僧 口から仏像が・・・

2023-09-28 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0928 空也 平安中期浄土宗の僧 口から仏像が・・・

 

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 空也 平安中期浄土宗の僧 口から仏像が・・・


 くうや
 延喜3年 - 天禄3年9月11日 (新暦):903年 - 972年10月20日)

 平安時代中期に京都で生まれた浄土宗の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人とも称されます。

 口称念仏の祖で、民間における浄土教の先駆者と評価されます。空也流の念仏勧進聖は、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。

 俗に天台宗空也派と称する一派においても祖と仰がれていますが、空也自身は、複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ちました。

 没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は、現在真言宗智山派に属します。(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗でした)。

 踊り念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身が、いわゆる踊り念仏を修したという確証はありません。

 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えました。

 遺命により11月13日をもってその忌日とし、踊り念仏を修して空也忌法要が行われます。

 

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■【きょうの人】 0927 ■ 了誉上人 伝通院開山 於大の方・千姫の墓 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力

2023-09-27 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0927 ■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士 ■ 了誉上人 伝通院開山 於大の方・千姫の墓 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力

 

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■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士

 たかすぎ しんさく
 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉

 幕末長州藩の尊王攘夷志士として久坂玄瑞等とともに活躍した武士です。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を討幕運動に方向付けしました。

 文久元年(1861年)には、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し、江戸に渡りました。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしました。その年に、東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。

 文久2年(1862年)に、藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情などを見聞して7月に帰国しました。

 尊王攘夷(尊攘)派が台頭しますと、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。

 文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。

 文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎますと、長州藩は関門海峡における下関戦争で外国船砲撃を行い、惨敗します。晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成します。

 文久4年(1864年)、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害しました。英仏米蘭4か国連合艦隊が下関砲台を占拠、晋作は和議交渉を任され、ギリギリの線で交渉を成立させました。

 幕府の権威が失墜し、慶応3年(1867年)に大政奉還、高杉晋作は、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。
 

 

 了誉上人 伝通院開山 於大の方・千姫の墓


 了誉(1341~1420)は、現在の茨城県那珂郡に、城主白石志摩守宗義の子として誕生しました。

 著作は百巻を越え、特に「選択伝弘決疑鈔直牒」十巻は、佐竹氏の乱を避け阿弥陀山の洞穴に身を隠し撰述されたものです。

 浄土宗は、独立した宗派として認められてはいませんでしたが、現在の浄土宗の基礎を築くことに貢献しました。

 東京文京区にある伝通院の開祖でもあります。


 伝通院(傳通院、でんづういん)は、東京都文京区の高台にある仏教浄土宗のお寺さんです。正式名称は、「無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)です。

 徳川将軍家の菩提寺で、家康の生母「於大の方」や二代将軍秀忠の娘「千姫」の販売管理システムがあることでも知られています。

 応永22(1415)年に、、無量山寿経寺という名で。浄土宗了誉が開山しました。

 慶長18(1613)年に増上寺の学問僧300人を傳通院に移して、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席としました。

 その流れとして、明治24(1891)年には、浄土宗学本校(現大正大学の前身)をこの地に移転したり、境内に淑徳女学校を設立したりと檀信徒のみならず、地元住民参加の布教伝道方式をとるなどの貢献をしています。

 第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰し、昭和24年に本堂の再建が始まり、今日に至っています。

 鐘楼や山門は大変立派なものです。

 

■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力

 

 り こうしょう
 1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)

 

 中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。

 日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。

清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。

 李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。

 日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。

 大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。

 この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。

 波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。

 

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■【きょうの人】 0926 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師 ■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者

2023-09-26 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0926 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師 ■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者

 

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 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者


 ふじわら の さだいえ/ていか
 応保2年(1162年)-仁治2年8月20日(1241年9月26日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人で、公家でもありました。諱は「ていか」と音読みされることが多く、『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称しました。

 藤原北家御子左流で藤原俊成の二男、最終官位は、正二位権中納言です。京極殿または京極中納言とも呼ばれました。法名は、明静(みょうじょう)です。

 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期に、御子左家の歌道における支配的地位を確立しました。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきました。

 『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』という2つの勅撰集を撰進したことはよく知られています。

 ほかに歌論書も数冊執筆していて、本歌取りなどの技法や、心と詞との関わりを論じています。

 歌人としても卓越し、家集に、六家集のひとつに数えられる『拾遺愚草』があります。

 定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」が、よく知られています。

 『源氏物語』や『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わりました。この際に用いた仮名遣いが「定家仮名遣」のもととなりました。

 建仁元年(1201年)に、後鳥羽天皇の熊野行幸に随行した折に記した『熊野御幸記』(国宝)は、定家の評価を高めています。

 

■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師


 あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら
 延喜21年1月11日〈921年2月21日〉- 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉

 平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖です。官位は、従四位下・播磨守です。

 幼少の頃については確かな記録はありませんが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に、陰陽道を学び、天文道を伝授されたといわれています。

 960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)でありました晴明は、村上天皇に占いを命ぜられていて、出世は遅れていましたが、占いの才能は既に貴族社会で認められていました。

 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を封ずる儀式を行っています。

 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになりました。

 花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めたようです。

 

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■【きょうの人】 0925 足利義満 金閣寺だけではありません ■ ミカエル 三大天使の一人

2023-09-25 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0925 足利義満 金閣寺だけではありません ■ ミカエル 三大天使の一人

 

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 ミカエル 三大天使の一人

 英語: Michael
 聖ミカエル記念日 9月25日

 旧約聖書の『ダニエル書』、新約聖書の『ユダの手紙』『ヨハネの黙示録』、旧約聖書外典『エノク書』などに名があらわれる天使で、ミハイルとも表記されます。

 旧約聖書からユダヤ教、キリスト教、イスラム教へ引き継がれ、三大天使・四大天使・七大天使の一人であるといわれています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教においてもっとも偉大な天使の一人です。

 ミカエルの図像は、甲冑をまとって天の軍団の先頭をいく、といったイメージが一般的です。彼の図像は、背には翼が広がっているものが多いのも特徴です。孔雀の尾羽のような文様の翼を有した姿で描かれることもあります。

 右手に剣、左手には魂の公正さを測る秤を携えている姿で描かれることもあります。

 

 足利義満 金閣寺だけではありません


 足利義満(あしかが よしみつ)
 正平13年/延文3年(1358年)8月22日(新暦:9月25日) - 応永15年(1408年)5月6日

 室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)で、金閣寺を建立した人として歴史の時間にも学ぶ人が多いのではないでしょうか。父は第2代将軍・足利義詮で、、母は側室の紀良子といわれています。

 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させました。室町幕府の政治、経済、文化の最盛期を築いたといえます。

 その権力を活かして、鹿苑寺(金閣)を建立したのですが、北山文化を開花させた人と言えます。

 中国・明に、日本の国王は、義満であることを認めさせ、明との交易で、莫大な富を得た人出もあります。

 邸宅を、京都北小路室町に構え、「室町殿」とも呼ばれたことから「室町幕府」という名称が定着しました。

 

 

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【きょうの人】 0924 ウィリアム・アダムス 三浦按針として家康に仕える

2023-09-24 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

  【きょうの人】 0924 ウィリアム・アダムス 三浦按針として家康に仕える

 

 

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■ ウィリアム・アダムス 三浦按針として家康に仕える

 

 William Adams
 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日)

 

 江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家で、三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られています。

 

 1564年、イングランド南東部のケント州ジリンガムに生まれ、船員だった父親を亡くしてロンドンで船大工に弟子入りしました。

 

 造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船船長としてアルマダの海戦に参加しました。

 

 軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙でした。
 航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願しました。

 

 司令官のヤックス・マフは、ホープ号の航海士として採用しました。

 

 関ヶ原の戦いの約半年前にあたります1600年4月29日(慶長5年3月16日)に、リーフデ号が豊後臼杵の黒島に漂着しました。

 

 五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長に代わり、アダムス等を大坂に護送させ、併せて船も回航させました。

 

 イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康ですが、正直に話す
アダムスらを気に入りました。

 

 按針は、水先案内人、三浦は領地名をとり、「三浦按針」と和名が与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのです。

 

 信頼され、重用された家康の死後、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となり、日本に骨を埋めることになりました。

 

 

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■【きょうの人】 0923 ■ 藤子・F・不二雄 世界的アニメーション作家 ■ アウグストゥス,オクタウィアヌス ■道元禅師御征 曹洞宗の開祖 ■ 葛飾 北斎  江戸時代後期の浮世絵師

2023-09-23 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0923 藤子・F・不二雄 世界的アニメーション作家 ■ アウグストゥス,オクタウィアヌス ■ 葛飾 北斎  江戸時代後期の浮世絵師 ■ 道元禅師御征 曹洞宗の開祖

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 藤子・F・不二雄 世界的アニメーション作家


 ふじこ・エフ・ふじお
 1933年〈昭和8年〉12月1日 - 1996年〈平成8年〉9月23日

 ドラえもんで知られる漫画家であり、脚本家です。本名は、藤本 弘(ふじもと ひろし)、「F」とは「藤本(フジモト)」の頭文字を意味し、藤子・A・不二雄と区別していることはよく知られています。

 富山県高岡市定塚町出身で、富山県立高岡工芸高等学校電気科を卒業しています。

 隣接の氷見市出身の安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)と共に“藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表してきました。

 児童漫画の新時代を築き、第一人者となり、代表作は『ドラえもん』の他に『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などがあります。

 作品の著作権管理は、生前に活動拠点としていた藤子・F・不二雄プロが担当しています。

 愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペンとこだわりがあり、整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを極端に嫌いました。


  ちなみに、藤子・不二雄Ⓐのプロフィールを以下に挿入しておきます。

 ふじこ・ふじお・エー
 1934年3月10日 -

 日本の漫画家で、本名は、安孫子 素雄(あびこ もとお)です。大垣女子短期大学客員教授をしています(2020年5月22日現在)。

 座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」で、血液型はA型です。

 藤本弘(藤子・F・不二雄)とともに、藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表してきたことはよく知られています。コンビ解消後は、本名で紹介されることも多いようで、筆名の「Ⓐ」は「安孫子」の頭文字であることは、想像がつきます。

 曹洞宗49代目住職の息子として、富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)の光禅寺という古刹に生まれました。

 大人になってもベジタリアン(卵と乳製品は食べる卵乳菜食)ですが、思想上の理由ではなく、子供の頃に精進料理ばかり食べていたため、習慣上の問題として肉や魚を体が受け付けなくなっていることが原因だといいます。

 1944年に父を亡くして高岡市に転居し、転入先の高岡市立定塚国民学校(現・高岡市立定塚小学校)で藤本弘と知り合いました。

 小学校時代から漫画家を志し、高校在学中に毎日小学生新聞でデビューしました。

『オバケのQ太郎』、『忍者ハットリくん』、『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれています。

 2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品です。

 

■ 道元禅師御征 曹洞宗の開祖


 9月23日は、「道元禅師御征忌」です。

 道元(どうげん)は、鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖です。

 一般には道元禅師と呼ばれますが、同宗旨では中国の慣習に倣い「高祖」と呼びます。

「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある(【Wikipedia】より)」という禅の教えを広めました。

 その教えの基本は、「修証一如(しゅうしょういちじょ)」と「只管打坐(しかんたざ)」です。

「修証一如」とは、「無限の修行を通じてこそ成仏できる」という道元の主張です。

 それに基づいて「只管打坐」をする。すなわち、「ひたすら坐禅することである」と座禅を重視しています。

 道元は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしています。

 すなわち仏教というのは、宗派に分かれて活動するのではなく、正統なる曹洞宗一本になるべきであるという主張です。


 曹洞宗が正統派かどうかは、私にはわかりませんが、宗派がいろいろとあるのは、好ましいとは思えません。

 

■ アウグストゥス,オクタウィアヌス


 Augustus
 紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日
 アウグストゥスは、ラテン語で「尊厳ある者」を意味します。


 ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 - 紀元14年)です。

 志半ばにしてブルータスに暗殺された養父カエサルの後を継いで、内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始しました。

 「8月」を英語で「August」といいますが、アウグストゥスの名前に由来しているといわれています。

 ヒスパニア戦争の帰途の船が難破し、トゥリヌスが生き残った少数の兵を掌握して敵陣を横断、この彼の行動がカエサルに強い印象を与えました。これにより、紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺され、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になり、以後、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)を名乗りました。

 次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していた、カエサルの政敵アントニウスは危機感を募らせました。

 紀元前43年1月1日、元老院は、オクタウィアヌスを元老院議員に任命、そして指揮権を与えました。しかし、政敵による工作などもあり、元老院と対立したりしますが、結局、執政官に収まります。

 紀元前43年10月、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治が成立しました。その後、いろいろとある中で、宿敵アントニウスと盟約を結び、領土を二分します。

 その後、アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移しますが、惨敗に終わりました。資金力も底をつきましたがエジブト・クレオパトラの支援を得ます。

 しかし、それを口実に、オクタウィアヌスはアントニウスを窮地に追い込み、アントニウスの死後、エジブトと戦い、勝利を得ます。

 オクタウィアヌスは、共和制への復帰を宣言し、その時に「アウグストゥス」の称号を得ると、手を返したオクタウィアヌスは、帝政へと移行し、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなりました。

 後継者問題で、いろいろなことがあり、胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で、76歳の年で崩御しました。

 

■ 葛飾 北斎 生誕 江戸時代後期の浮世絵師


 かつしか ほくさい、葛飾 北齋
  宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉

  江戸時代後期の浮世絵師で、化政文化を代表する一人といえます。

  代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家であることは周知の通りです。

  森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表したと言われますので、超人的な面もあると言えます。

  若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵も傑出した作品を残しています。

  北斎は、絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなったといえます。

  北斎は、浮世絵で高い芸術性を表しましたが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力が見えます。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したことは、意外と知られていません。

  毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であると、専門家は表しています。

  葛飾派の祖であることはいうまでもありませんが、ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、多くの芸術面でも大きな影響を与えています。

  ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究し、自分で試みたといいます。

  また、油絵に対しても関心が強かったようですが、遂に果たせなかったのです。

  1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしています。

 その功績の大きさは、計り知れないということでしょうか。

 

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■【きょうの人】 0922 文雄 浄土宗の学僧 音韻学や天文学にも通じていた

2023-09-22 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0922 文雄 浄土宗の学僧 音韻学や天文学にも通じていた

 

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 文雄 浄土宗の学僧 音韻学や天文学にも通じていた


 文雄(もんのう、ぶんゆう 1700~1763)は丹波の生まれ、江戸中期の浄土宗の学僧でした。音韻学や天文学にも通じていて、著書に「磨光韻鏡」「韻鏡律正」「三音正譌」「和字大観抄」等があります。

 その中の「磨光韻鏡」は、韻書ですが、後世でも研究に利用される重要な書です。

 27歳の時に京都に移り講話や著述活動をおこない、多くの弟子が学びました。

 俗姓は中西、字は豁然、号は無相・尚絅堂・蓮社です。

 1763(宝暦13)年9月22日、64才で歿しました。

 

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■【きょうの人】 0921 宮沢 賢治 詩人、童話作家 「雨にも負けず」

2023-09-21 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0921 宮沢 賢治 詩人、童話作家 「雨にも負けず」

 

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■ 宮沢 賢治 詩人、童話作家

 みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治
 1896年(明治29年)8月27日-1933年(昭和8年)9月21日

 『雨ニモマケズ』で知られる詩人であり、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの童話作家でもあります。

 仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした作品は、その中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしています。「イーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)」と名付けたことは広く知られています。

 彼の作品は生前ほとんど一般には知られない無名の作家といえます。没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知らしめられ、国民的作家と世評が急速に高まり、広く愛好者が存在します。

 1896年(明治29年)、岩手県稗貫郡(現・花巻市豊沢町)にて、父政次郎、母イチの長男として生まれました。花巻川口尋常高等小学校、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)を経たのち、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学、特待生に選ばれ、授業料免除など、優秀でありました。

 卒業後、研究生として、稗貫郡の土性調査を行うなど郷土へ貢献しました。

 1921年(大正10年)に上京し、働きながら多くの童話を執筆しました。しかし、妹が病気となり、故郷で教師として生計を立てました。詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加して、作品を発表したり、童話の執筆を続けたりしました。

 再び上京し、セロ、タイプライター、オルガンなどだけではなく、エスペラント語をも習いましたし、高村光太郎を訪問したりしたあと、帰郷しました。

 帰郷後、体調を崩したりし、1931年には、有名な『雨ニモマケズ』を手帳に書き記しました。翌々年、急性肺炎のため、享年37で死去しました。

 

 

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■【きょうの人】 0920 吉田松陰 「至誠」という言葉が好きです

2023-09-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0920 吉田松陰生誕 「至誠」という言葉が好きです

 

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 吉田松陰 「至誠」という言葉が好きです


 よしだしょういん
 文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)に生誕
 安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。享年30(満29歳没)

長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範でもあります。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られています。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた人です。


 幕末の志士吉田松陰は、海外事情を学ぶため、鎖国の禁を犯し、密航することを決意しました。

 長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に薦められ急行しましたが間に合わいませんでした。翌嘉永7年(1854)3月、来航したペリー艦隊の後を追って、弟子金子重輔と下田へ来ました。

 機をうかがい、夜中に下田市柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請しましたが、ペリーに拒絶されてしまいました。

 壮図むなしく破れた松蔭等は、潔く自首し、拘禁された場所が、下田市宝光院長命寺(廃寺)でした。

 さらに平滑の獄に移され、同年4月11日は、江戸伝馬町の獄に送られました。

 松蔭等が、下田に滞在した期間は、24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わりましたが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一ページを刻むものであり、後に与えた影響は大きかったといえます。(【Wikipedia】および下田市史蹟紹介立て看板をもとに作成)

 

 ちなみに名言「至誠」は、正式には、下記の通りです。

   至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり

 

  伊豆下田・爪木崎1  下田市内
  伊豆下田・爪木崎2  昭和天皇歌碑、爪木崎・咲く岬とする灯台 
  伊豆下田・爪木崎3  爪木崎 花咲く岬と白く花開く波
  伊豆下田・爪木崎4  玉泉寺、ハリスの小道、寝姿山、至誠通天碑 
  伊豆下田・爪木崎5  宝福寺1 本堂、庭、お吉の墓、ボケ地蔵 
  伊豆下田・爪木崎6  宝福寺2 お吉記念館、龍馬・容堂謁見の部屋 
  伊豆下田・爪木崎7  了仙寺 日米和親条約付録下田条約締結の地 
  伊豆下田・爪木崎8  長楽寺 日露和親条約締結の地、日米和親条約批准の地 
  伊豆下田・爪木崎9  稲田寺(唐人お吉の恋人が眠る)、海善寺 
  伊豆下田・爪木崎10  八幡神社 下田の鎮守社で夏祭は有名 
  伊豆下田・爪木崎11  大安寺 将軍献上品にまつわる悲話 
  伊豆下田・爪木崎12  本覚寺 吉田松陰拘禁の跡 泰平寺
  伊豆下田・爪木崎13  ペリーロード お吉を忍ぶ散策の小径
  伊豆下田・爪木崎14  下田公園 四季折々の花と眺望

 

 

 

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■【きょうの人】 0919 成賢 生涯に御修法を39回も

2023-09-19 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0919 成賢 生涯に御修法を39回も

 

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 成賢 生涯に御修法を39回も


 成賢(じょうけん/せいけん)は、1162(応保2)年に生誕、1231年10月16日(寛喜3年9月19日:没日)に歿した、鎌倉時代前期の真言宗の僧です。藤原南家の出身で、遍智院僧正、宰相僧正とも称されました。 (【Wikipedia】)

 若いころは醍醐寺で修行し、諸経論を学び、生涯に御修法を39回も行いました。

 御修法(みしほ、みしゅうほう)とは、比叡山根本中堂で、「長日御修法」と、毎年4月4日より7日間にわたる「御修法大法」の2種類があります。

「御修法大法」は、延暦寺の年中行事のなかでも最も重要な法儀で、古来の伝統に従って厳修される天台密教最高の秘法です。(延暦寺公式サイトより)

 成賢は、厳しい御修法大法という、横になって寝ることも禁じられている修行を39回も行ったといいますので、大変な体力だけではなく、強い気力の持ち主だったようです。

 

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■【きょうの人】 0918 ■ 田中久重 東洋のエジソン ■ 芹沢 鴨 新撰組初代筆頭局長

2023-09-18 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0918 ■ 田中久重 東洋のエジソン ■ 芹沢 鴨 新撰組初代筆頭局長

 

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■ 田中 久重 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」、東芝の創業者

 たなか ひさしげ
 寛政11年9月18日(1799年10月16日)-明治14年(1881年)11月7日

 江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれました。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

 江戸末期・寛政の頃、久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれ、幼名は儀右衛門でした。

 幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。

 「弓曳童子」と「文字書き人形」は、その代表作で、からくり人形の最高傑作といわれています。折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などは、既述のからくり人形と共に、二十歳代の作品です。

 天文、蘭学などを学ぶうちに、季節によって昼夜における時間の長さの違う不定時法に対応した万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)を製作したことは、彼の非凡さを語る最大のものといえます。

 日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型製造、反射炉の設計(改築)、大砲製造など、広範囲にわたる功績は、今日の東芝の起業に繋がったようです。

 発明の数だけではなく、広範囲さから「東洋のエジソン」といわれるのは、至極当然といえます。

 

 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長


 せりざわ かも、芹澤 鴨
 天保3年(1832年)? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日)

 幕末の水戸藩浪士で壬生浪士、すなわち新選組の初代筆頭局長です。

 前名は、下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)といわれています。諱は、光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされていますが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていません。

 江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命されました。

 芹沢らは、八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)、この前後より「壬生浪士」と称され始めました。

 その際、内部抗争が起き、暗殺され、仲間も離脱しますと、壬生浪士は、芹沢派と近藤派が牛耳ることになりました。

 内部抗争が激化し、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

 


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■【きょうの人】 0917 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長

2023-09-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0917 芹沢 鴨 新撰組初代筆頭局長

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長

 

 せりざわ かも、芹澤 鴨
 天保3年(1832年)? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日)

 

 幕末の水戸藩浪士で壬生浪士、すなわち新選組の初代筆頭局長です。

 前名は、下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)といわれています。諱は、光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされていますが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていません。

 江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命されました。

 芹沢らは、八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)、この前後より「壬生浪士」と称され始めました。

 その際、内部抗争が起き、暗殺され、仲間も離脱しますと、壬生浪士は、芹沢派と近藤派が牛耳ることになりました。

 内部抗争が激化し、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されました。

 

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■【きょうの人】 0916 後醍醐天皇 南北朝時代の主役

2023-09-16 06:33:00 | 【話材】 きょうの人09月

 

  【きょうの人】 0916 後醍醐天皇 南北朝時代の主役

 

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 後醍醐天皇 南北朝時代の主役


 ごだいごてんのう
 別称 吉野院、元徳院、元応帝
 1288年11月26日〈正応元年11月2日〉- 1339年9月19日〈延元4年8月16日〉

 大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇で、南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉-1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉です。

 鎌倉幕府を倒して、建武新政を実施しましたものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立しました。

 元弘の乱(元弘の変)により、元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流されました。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していました。

 元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、挙兵します。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して、六波羅探題を攻略しました。

 その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させることにつながります。

 

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