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■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2021-05-31 09:02:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

 八十二才で歿しています。

 

 

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■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

2021-05-31 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

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■ 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

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■【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2021-05-30 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

 

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■【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2021-05-29 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

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■ 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

 正字: 與謝野 晶子 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)
 よさの あきこ
 1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)

 日本の歌人、作家であり、思想家ともいえます。

 旧姓鳳(ほう)、ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取ったといわれています。

 夫は、歌人の与謝野鉄幹(与謝野寛)であることはよく知られています。夫妻で、雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物といえます。

 浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれました歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になりました。

 鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表し、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行しました。これにより浪漫派の歌人としてのスタイルを確立したといえます。

 その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑が、ウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にあります。

 

 

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■【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃のマムシ  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2021-05-28 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃のマムシ

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■ 斎藤 道三  没 美濃のマムシ

 さいとう どうさん
 明応3年(1494年)-弘治2年4月20日(1556年5月28日) 
 改名 長井規秀→斎藤利政→道三

 

 NHKの大河ドラマで、信長の義父として登場、一旦後継者として認めた息子との戦で討ち死にするというシーンは、目に焼き付きましたね。

 

  斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名で、坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により「美濃の蝮(マムシ)」という綽名でも知られています。

 娘に姉小路頼綱正室がいますが、下の娘であります帰蝶は、濃姫として知られる織田信長の正室で、NHK大河小説で一躍脚光を浴びました。

 北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物といわれています。(近年の研究により父と二代にわたって行われたという説が有力視されています。)

 権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、家督を譲った息子義龍と、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で争い、討ち死にしました。

 

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■【きょうの人】 0527 道了(妙覚道了)室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

2021-05-27 13:11:45 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0527 道了(妙覚道了)室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 道了(妙覚道了) 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

 みょうかくどうりょう
 生没不詳

 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、妙覚は字です。出生地などについては不詳です。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称されます。

 1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が、最乗寺を開創しますと、慧明の弟子でありました道了は、その怪力により寺の創建に助力しました。

 師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って神通力により小天狗となって空高く消えていったと伝えられ、相州南足柄・曹洞宗最乗寺の守護神として明覚宝殿に祀られています。

 道了大菩埵と尊崇され、最乗寺境内に、小天狗の狐に乗った像も祀られています。

 関東屈指の霊場の一つとして、庶民の間でも信仰を集めて講が結成されたり、また、江戸の両国などで出開帳が行われたりしました。

 

 

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■【きょうの人】 0526 木戸 孝允 没 鞍馬天狗のお話にも登場する  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2021-05-26 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0526 木戸 孝允 没 鞍馬天狗のお話にも登場する

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 木戸 孝允 没

 きど たかよし/きどこういん
 天保4年6月26日(1833年8月11日)- 明治10年(1877年)5月26日)

 長州藩の武士、明治政府の政治家等で、桂小五郎(かつら こごろう)ともいいます。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人です。

 長州藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の指導者で、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活動しました。

 特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けました。鞍馬天狗の話の中にも、桂小五郎として登場します。

 維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けました。

 文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えました。

 海外視察も行い、帰朝後は、かねて建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に努め、一層の士族授産を推進しました。

 長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚い信頼をうけました。

 一方で、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えませんでした。

 西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったといわれています。

 

 

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■【きょうの人】 0525 ■ 始皇帝 ハレー彗星発見 ■ ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

2021-05-25 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0525 ■ 始皇帝 ハレー彗星発見 ■ ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

 Carl Jacob Christoph Burckhardt
 1818年5月25日-1897年8月8日

 スイスの歴史家、文化史家、文明史家。

 はじめに神学を学びますが、後に歴史学に転じ、1840年からベルリンに滞在し、ランケ、ドロイゼン、ヤーコプ・グリムなどの大家に学びました。

 1843年末にバーゼルで大学教授資格試験に通り、講師として歴史・美術史の講義を行います。そのかたわら「バーゼル新聞」の政治欄の記事を担当しています。

 1846年に教職をなげうって「人間となるため」ローマへ行き、その間クーゲラーが編集する『芸術史綱要』と『絵画史綱要』の仕事を委嘱されて一年ほどベルリンに滞在しています。

 1869年から1879年までバーゼル大学で古典文献学を担当していた哲学者・ニーチェとは親交が深かったようです。

 ニーチェの注意を世界史に向けさせたのはブルクハルトであり、ニーチェは他への書簡でも「この隠者のように人と離れて生活している思想家」について尊敬の念をあらわし、さらにはブルクハルトの友情に感謝さえしています。

 後にイギリスの歴史家ジョージ・グーチは「一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家にして、彼の泉から深く飲まなかった歴史家があろうか」と述べているほどです。


■ 始皇帝 ハレー彗星発見

 しこうてい
 紀元前259年2月18日- 紀元前210年

 秦の始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247年- 紀元前221年)です。

 秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げます。歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位(在位:紀元前221年-紀元前210年)し「始皇帝」と名乗りました。

 名は、嬴政または趙政で、現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称されます。

 統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。

 従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制でした。彼の改革では、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制へと全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行いました。

 国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定なども行っています。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設など、後世に残ることになった大事業はよく知られています。

 法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒は有名です。この時に重要は文書が灰に化したのではないでしょうか。

 紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

 特記すべきこととして、あまり知られていませんが、『史記』によりますと、秦始皇本紀に、紀元前240年(始皇帝7年)、「ハレー彗星出現」と、確実で最も古い記録があることです。

 

■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人

 リジューの聖テレーズ
 1873年1月2日-1897年9月30日


 19世紀フランスのカルメル会修道女で、本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンですが、いろいろな別称があります。
  幼きイエスの聖テレジア
  小さき花のテレジア
  修道名:幼きイエスと尊き面影のテレーズ

 カトリック教会の聖人で教会博士の一人です。若くして世を去りましたが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人です。

 ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられています。

 テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、精神的に耐え切れなくなった父は店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家ゲラン家があるノルマンディーのリジューへと移りました。

 そこでローマ教皇レオ13世に謁見して直接カルメル会入会の特別許可を願いましたが、教皇はやはり司教と指導司祭の勧めに従うようにと穏やかにテレーズを諭しました。

 テレーズが16歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けました。

 1925年5月25日に、聖テレーズが聖人となりました。

 死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まったのです。日本でも、その名は広まっています。

 

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■【きょうの人】 0524 ■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした ■ 始皇帝 ハレー彗星発見?

2021-05-24 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0524 ■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした ■ 始皇帝 ハレー彗星発見?

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 始皇帝 ハレー彗星発見

 しこうてい
 紀元前259年2月18日- 紀元前210年

 秦の始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247年- 紀元前221年)です。

 秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げます。歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位(在位:紀元前221年-紀元前210年)し「始皇帝」と名乗りました。

 名は、嬴政または趙政で、現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称されます。

 統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。

 従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制でした。彼の改革では、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制へと全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行いました。

 国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定なども行っています。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設など、後世に残ることになった大事業はよく知られています。

 法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒は有名です。この時に重要は文書が灰に化したのではないでしょうか。

 紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

 特記すべきこととして、あまり知られていませんが、『史記』によりますと、秦始皇本紀に、紀元前240年(始皇帝7年)、「ハレー彗星出現」と、確実で最も古い記録があることです。


■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした

 だて まさむね
 永禄10年8月3日(1567年9月5日、グレゴリオ暦1567年9月15日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日)

 出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。

 幼名が梵天丸であることはよく知られています。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜」の異名があります。没後は、法名から貞山公と尊称されています。

 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にありましたので、再三の、秀吉からの督促にもかかわらず、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといいます。

 最終的には、秀吉に恭順の意を示すのですが、その際に、白装束(死人の装束)で臨んだことは有名です。

 秀吉・文禄の役では、派手な装いで軍を引き連れ、そのことから派手好みに着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。今日の「伊達男」に通じます。

 

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■【きょうの人】 0523 ■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

2021-05-23 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0523 ■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

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■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

 みのべ たつきち
 1873年(明治6年)5月7日- 1948年(昭和23年)5月23日)

 日本の法学者、憲法学者、政治家で、東京帝国大学(現東京大学)で名誉教授まで教育者としても活躍しました。

 戦前、和仏法律学校(現法政大学)で憲法講義を担当し、清国留学生法政速成科の憲法学の講義も担当しました。

 法政大学通信教育学部の設立者で、社会人にも学習の道を拓きました。

 天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られています。

 昭和時代には天皇機関説事件が起こりますと、貴族院議員を辞職しました。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章しています。

 東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男です。

 

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■【きょうの人】 0522 相馬 哲平 日本の実業家、政治家、貴族院議員、北海道の多額納税者のひとり

2021-05-22 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0522 相馬 哲平 日本の実業家、政治家、貴族院議員、北海道の多額納税者のひとり

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 相馬 哲平(そうま てっぺい)

 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。

 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。

 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。

  写真 函館・相馬邸
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm

 

 

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■【きょうの人】 0521 ■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝 ■貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧  ■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

2021-05-21 06:00:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0521 ■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝 ■貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧  ■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧

 じょうけい
 久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))
 号は解脱房 勅謚号は解脱上人 一般に笠置の解脱上人と呼ばれます。

 11歳で出家し、「貞慶」と名乗りました。
 鎌倉時代前期の法相宗の僧であり、祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は左少弁藤原貞憲です。

 法相宗を興福寺に学び、20年余そこで過ごしました。

 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たしました。

 その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献してきました。また、興福寺奏状の起草者として、興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上しました。(【Wikipedia】を基に作成)

■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
  ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日

 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

 現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

 その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

 独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

 親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。



■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝

 そん けん
 光和5年(182年)-神鳳元年4月26日(252年5月21日)

 三国時代の呉の初代皇帝で、字は仲謀です。

 張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・程普・呂範らをまとめあげて、積極的な人材登用を行います。その巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んで、内政を整え、巧みな内政手腕を発揮して治めました。

 有名な赤壁の戦いは、後漢末期の208年、長江の赤壁において起こりました、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間で行われました。

 宿敵・劉備は荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合して、着々と地固めをしています。

 もう一人の宿敵曹操は、劉備にも救援を要請して、孫権を責めることを提案しましたが、劉備は拒絶します。

 このようにして、三者三すくみとなり、三国時代、すなわち三国鼎立の時代になるのです。

 小説『三国志演義』では、孫権を表して「碧眼紫髯 堂堂一表」と堂々とした風采の持ち主として描写されています。巷では「碧眼児」(青瞳の童)と呼ばれました。

 度量が広く、柔軟な物腰ともいわれ、質素倹約を好んだそうです。

 三国の三人は、それぞれ個性があり、人により評価は異なりますが、劉備が評価されがちで、孫権は悪く言われる傾向があるように思えます。

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■【きょうの人】 0520 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

2021-05-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0520 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

 じょうけい
 久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))
 号は解脱房 勅謚号は解脱上人 一般に笠置の解脱上人と呼ばれます。

 11歳で出家し、「貞慶」と名乗りました。
 鎌倉時代前期の法相宗の僧であり、祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は左少弁藤原貞憲です。

 法相宗を興福寺に学び、20年余そこで過ごしました。

 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たしました。

 その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献してきました。また、興福寺奏状の起草者として、興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上しました。(【Wikipedia】を基に作成)

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


■【きょうの人】 0519 ■今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は? ■隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧

2021-05-19 17:34:45 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0519 ■今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は? ■隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は?

 いまがわ よしもと
 永正16年(1519年)-永禄3年5月19日(1560年6月12日)

 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主です。義元の姉妹が、政略結婚していますので、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。

 寄親・寄子制度という合理的な軍事改革等により、たくみな領国経営をしていました。また、外征面でも才覚を発揮して、今川氏を戦国大名へと転身させました。

 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させたのです。

 戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、一方で、京都志向が強く、都の雅な文化を取り入れていたことも知られています。

 桶狭間の戦いで大群を引き連れていたにもかかわらず、織田信長軍の奇襲戦に敗れたことは、あまりにも有名です。毛利良勝(新助)に討ち取られて、その生涯を閉じました。

 

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■【きょうの人】 0518 ■道了(妙覚道了)曹洞宗・修験道の僧 ■感誉上人 増上寺の第10代法主

2021-05-18 13:15:32 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0518 ■道了(妙覚道了)曹洞宗・修験道の僧 ■感誉上人 増上寺の第10代法主

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 道了(妙覚道了) 曹洞宗・修験道の僧

 みょうかくどうりょう
 生没不詳

 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、妙覚は字です。出生地などについては不詳です。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称されます。

 1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が、最乗寺を開創しますと、慧明の弟子でありました道了は、その怪力により寺の創建に助力しました。

 師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って神通力により小天狗となって空高く消えていったと伝えられ、相州南足柄・曹洞宗最乗寺の守護神として妙覚宝殿に祀られています。

 道了大菩埵と尊崇され、最乗寺境内に、小天狗の狐に乗った像も祀られています。

 関東屈指の霊場の一つとして、庶民の間でも信仰を集めて講が結成されたり、また、江戸の両国などで出開帳が行われたりしました。



■ 感誉上人(感誉存貞) 増上寺の第10代法主

 かんよぞんてい
 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日)

 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。

 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。

 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。

 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。

 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。

 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。

 

 

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