経営コンサルタントへの道

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【カシャリ!ひとり旅】京都 龍源院 大徳寺塔頭のひとつで南派本庵、枯山水庭園

2023-06-15 09:28:47 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都 龍源院 大徳寺塔頭のひとつで南派本庵、枯山水庭園

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 龍源院(りょうげんいん) 大徳寺塔頭のひとつで南派本庵、枯山水庭園 

 

■ 大徳寺

 

 大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号します。龍源院は、大徳寺の塔頭の一つである。
 大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315)に、大燈国師宗峰妙超禅師が開創となりました。

 室町時代には応仁の乱で荒廃したのですが、一休和尚が大徳寺を復興し、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営むほどの重要なお寺となりました。信長の菩提を弔うために秀吉が総見院を建立したり、寺領を寄進したりし、それが契機となって、戦国武将が競うように塔頭の建立をしました。大徳寺も隆盛を極めていくようになりました。

 大徳寺は、勅使門にはじまり、山門、仏殿、法堂(いずれも重文)に続き、方丈(国宝)が南北に並んでいます。その他を併せて「七堂伽藍」が完備しています。

 特別名勝・史跡となっている大徳寺の方丈庭園は、江戸時代初期を代表する枯山水の一つです。方丈の正面に、聚楽第から移築された国宝・唐門があります。方丈内にある襖絵八十余面は重要文化財で、狩野探幽筆であると伝わっています。

 

■ 龍源院(りょうげんいん) 大徳寺塔頭のひとつで南派本庵、枯山水庭園

 

 龍源院(りょうげんいん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の、大本山大徳寺の塔頭のひとつです。ご本尊は、釈迦如来で、大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、南派の本庵とされている重要な塔頭のひとつと数えられています。

 文亀2年(1502年)に、東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登守護の畠山義元、豊後守護の大友義長、周防守護の大内義興らが創建しました。創建年次については永正元年(1504年)など諸説ありますが、。大徳寺の塔頭の中では最も古いものです。

 寺号の由来は、大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済宗松源派の祖・松源崇嶽(しょうげんすうがく)の禅を正しく継承し、臨済宗で唯一残っている松源一脈の「源」の2文字を採ったものといわれています。

 明治時代の初めに大阪・住吉大社内の慈恩寺と、岐阜県・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併して今日に至っています。
 

■ アクセス

電車・バス
 市バス1、12、204、205、206、北8、M1号系統「建勲神社前(けんくんじんじゃまえ)」または「船岡山(ふなおかやま)」バス停にて下車。
<京都駅からバスに乗車>
 206(右回り)号系統 「京都駅前」(A3のりば)から「船岡山」または「建勲神社前」まで、40分弱。
 市内交通事情はよくないですが、206は、比較的流れのよいコース

 

 

龍源院は「りゅう」ではなく「りょうげんいん」と呼びます。

大徳寺の塔頭は、北派と南派があり

龍源院は、南派の筆頭(本庵)の塔頭

表門(重要文化財)
 永正14年(1517年)頃の建立で、切妻造・桧皮葺の四脚門です。

庭園「滹沱底(こだてい)」
 「阿吽の庭」とも呼ばれています。
 宗祖・臨済禅師が住した中国・鎮州城の南を流れる滹沱河から名付けられた白砂の庭です。阿吽の石と名付けられた2つの石は聚楽第の遺構といわれます。

方丈南庭「一枝坦(いっしだん)」
 1980年(昭和55年)に、当時の住職が作庭した枯山水庭園です。
 東渓禅師が、師である実伝和尚から賜った

「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」という室号から名付けられました。

丸くかたどった大きな苔の島に、石が立つ亀島が印象的な斬新な庭です。

苔の島「亀島」

 

開祖堂と開祖堂前庭「鶏足山」
 開祖・東渓禅師の塔所となっている

一重入母屋造り・檜皮葺きの建物で、

南北朝時代・鎌倉時代・室町初期時代の禅宗様の粋を取り入れた

昭和の代表作です。

方丈北庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」
 方丈北側に広がる三尊石組からなる室町時代の枯山水庭園で、

相阿弥の作庭といわれています。
 中央の石組は須弥山を表し、

青々とした杉苔は洋々たる大海を表しています。

三尊石組

室町時代を代表する枯山水庭園様式

庭園「東滴壺(とうてきこ)」
 方丈と庫裏との間の狭小な空間につくられた壺庭です。
 1960年(昭和35年)、

鍋島岳生(なべしまがくしょう)によって作庭された

現代壺庭の傑作です。

白砂敷きのなかに5つの石が3・2の石組みに分けて配されています。

日本最小の庭園といってもよいでしょう。

 

方丈(重要文化財)
 龍源院の本堂で、永正14年(1517年)頃の建立です。

一重入母屋造・檜皮葺の建物で、日本の方丈建築としては古例の一つです。
 如拙門下周文の弟子等春の襖絵があります。

室中(しっちゅう)襖絵の龍図は、作者や制作年代は不明ですが、

桃山時代から江戸時代の作といわれています。

 

カメラ サイト写真集

 

 ナレーションつき映像

準備中

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】興臨院 大徳寺塔頭 理想的な蓬萊世界を表す枯山水庭園

2023-06-12 11:56:31 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】興臨院 大徳寺塔頭 理想的な蓬萊世界を表す枯山水庭園 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

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■■ 興臨院 大徳寺塔頭 理想的な蓬萊世界を表す枯山水庭園

    https://kyotoshunju.com/temple/daitokuji-kohrinin/

 興臨院(こうりんいん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の寺院で、大本山大徳寺の塔頭の一つです。ご本尊は釈迦如来で、特別拝観日以外は公開されていません。
 大永年間(1521年-1528年、1533年説もある)に、能登国の守護大名・畠山義総が、大徳寺86世の小渓紹怤(「付」の下に「心」、仏智大通禅師)を開山として建立しました。義総の法名をとって寺名を興臨院と命名されました。
 以来、能登畠山氏の菩提寺となりました。その後、能登畠山氏は没落し、代わりに能登を治めることになった戦国武将・前田利家により、天正9年(1581年)に改修が行われました。それ以後は、前田氏の菩提寺となり庇護されることになりました。
 方丈の床の間は日本で最初のものといわれています。創建当時の姿が残る表門と本堂(唐門を含む)が共に重要文化財指定されています。
 

 

■ アクセス

電車・バス
 市バス1、12、204、205、206、北8、M1号系統「建勲神社前(けんくんじんじゃまえ)」または「船岡山(ふなおかやま)」バス停にて下車。
 市バス206(右回り)号系統 「京都駅前」(A3のりば)約40分弱

 

山門とエントランス

山門(重要文化財)
 檜皮葺の平唐門で、大徳寺でも古い門のひとつに数えられます。

 

建物と付帯物

本堂(方丈)
 方丈は、興臨院の本堂でもあります。桃山時代以降、近世の方丈(本堂)建築より屋根が低いのが特徴です。これによって建物全体が安定感を持ち、優美に感じられるといいます。室町時代の建築様式の特徴をみせる入母屋造・檜皮葺の建物です。
 かつて狩野元信や土佐光信などの障壁画を飾っていたといわれますが、幕末から明治維新の混乱期に失われてしまいました。全20面ある襖絵は、福岡県久留米市の水墨画家、村石米齋によって描かれたといわれます。

 

茶室「涵虚亭(かんきょてい)」
 1928年(昭和3年)に山口玄洞による寄進です。蘇軾の詩から名付けられた古田織部好みの四畳台目に隅板を加えた茶室です。床の間は、袖壁が出ているために洞のように見えることから洞床(ほらどこ)と呼ばれています。
 

方丈庭園 枯山水庭園

方丈庭園
 方丈前庭があり、 1978年(昭和53年)に方丈の解体修理完成時に資料を基にして、昭和の小堀遠州といわれた中根金作により復元されました。枯山水庭園で白砂に石組を配し、理想的な蓬萊世界を表しています。
 

裏方丈庭園

テーブルに映る床紅葉

通常非公開

特別公開日のみ 室内撮影禁止

 

 

ナレーションつき映像 興臨院

 

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】 源氏物語ミュージアム 宇治十帖と日本庭園

2023-06-10 16:36:54 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】 源氏物語ミュージアム 宇治十帖と日本庭園

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

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■■ 源氏物語ミュージアム 宇治十帖と日本庭園

     https://www.museum.or.jp/museum/5229
     https://www.city.uji.kyoto.jp/soshiki/33/

 宇治市源氏物語ミュージアムは、京都府宇治市にある公立の博物館です。『源氏物語』の幻の写本とよばれる「大沢本」など「源氏物語」に関する資料の収集・保管等がなされています。実物大に復元した牛車や調度品などの復元模型や映像を通じ源氏物語と平安時代の文化に親しめます。
 1998年に開館し、開館10周年にあたる2008年9月にリニューアルが行われました。

 紫式部が書いた源氏物語五十四帖の中で、最後の十帖の舞台となったのが、このち宇治です。宇治は、当時から貴族の別業の地として愛されてきました。

 住所    〒611-0021 京都府宇治市宇治東内45-26 電話    0774-39-9300
 開館時間 9:00~17:00(入館16:30まで)
 休館日    月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
 料金    大人 600円(480円)/300円(240円)
     障害者等手帳所持者・介護者 ・宇治市内在住 無料 ・宇治市外在住 半額
     高齢者(70歳以上)・介護者・宇治市内在住 無料

■ アクセス
【電車】
・京阪/宇治線(京阪本線からは中書島乗換)宇治駅下車 徒歩約8分
・JR/奈良線(JR京都駅~奈良駅)宇治駅下車 徒歩約15分
・近鉄/京都線 近鉄大久保駅からバス約15分 バス停京阪宇治下車 徒歩約8分
※できるだけ公共交通機関でお越しください。

【バス・乗用車】
・大阪方面/名神大山崎JCTまたは第二京阪久御山JCTから京滋バイパスへ、宇治西ICから約10分(大阪方面からは宇治東ICで降りることはできません)
・名古屋方面/名神瀬田東JCTから京滋バイパスへ、宇治東ICから約5分
・駐車場 バス4台(1台1回 2,000円 バス駐車場は予約優先) 乗用車15台(1台30分 100円)

 

 

源氏物語ミュージアム エントランスと建物

建物周辺の池

源氏物語ミュージアム 池泉廻遊式庭園

 

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都 宇治上神社 国宝・ユネスコの世界遺産

2023-06-08 17:36:15 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都 宇治上神社 国宝・ユネスコの世界遺産

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 宇治上神社 国宝・ユネスコの世界遺産

       https://ujikamijinja.amebaownd.com/

 宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市宇治山田、朝日山のふもとにある神社です。式内社で、旧社格は村社です。隣接する宇治神社とは二社一体をなしています。
 ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されています。

 創建年代などの起源は明らかではないそうです。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に表されている菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であるようで、宇治神社と一体で、旧称「離宮明神」ともいわれます。
 宇治上神社の境内には「天降石」・「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もあります。
 2004年(平成16年)の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられました。詳細はわかりませんが、平等院との深い関連性が指摘されています。

概史(【Wikipedia】)
 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[3]。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある(3棟の建築年代については後述)。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
 明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神」・「宇治離宮八幡宮」と総称された。
 明治に入って宇治神社とは分離し、近代社格制度では村社に列した。

本殿(国宝)
 平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされています。
 流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
 内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に菟道稚郎子命、中殿(第二殿)に応神天皇、右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています。
 左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいのですが、細部の様式から左殿の方が年代が古いとみられます。
 中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
 外側の桁行5間、梁間3間の建物は、内殿の覆屋にあたりますが、内殿と覆屋は構造的に一体化しています。左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
 左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いのですが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重な作品です。

拝殿(国宝)
 鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれています。
 切妻造、檜皮葺き、桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇がついています。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成しています。建物右端の庇部分も1室となっていて、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室としています。
 屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。切妻屋根と庇屋根の接続部で、軒先の線が折れ曲がっていて、このような形を縋破風(すがるはふ)といいます。
 周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えです。

御祭神
  菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
  応神天皇(おうじんてんのう)
  仁徳天皇(にんとくてんのう)

 応神天皇の末の皇子であった菟道稚郎子は幼い頃から博識聡明だったそうです。そのため父君の応神天皇が大切に手をかけて育み、皇太子となりました。
 しかし、応神天皇が亡くなられ、菟道稚郎子は兄である大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に天皇の位を譲りました。そして、現在の宇治の地に離宮を建て、一線から退いたのです。
 大鷦鷯尊も「菟道稚郎子が、皇位を継ぐことは、応神天皇が定められたことなので、変えることはできない」と言い、3年間もの間、皇位を譲り合ったという逸話が残っています。
 国民は戸惑い、世の中も乱れ始め、菟道稚郎子は自身の行いで、このあり様をご覧になり、悲しみ、心を痛んで、「このまま私が生きていれば、世の中が乱れるばかりだ」と、自ら命を絶ちました。
 これを知った大鷦鷯尊は、難波から急遽、宇治へお越しになり、驚きと悲しみの中、菟道稚郎子を手厚く葬られた。
 これが、後々になって当社の創建のいわれとなる。

■ アクセス
 JR宇治駅から、宇治橋東詰まで行き、右折する。そのまま進むとさわらびの道との分岐点があるので、左のさわらびの道方面に進む。
 京阪宇治駅から真つ直ぐ進み、さわらびの道との分岐点まで出たら、左のさわらびの道の方へ進む。

 

 

 

 

拝殿

拝殿(国宝)
 鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれています。
 切妻造、檜皮葺き、桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇がついています。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成しています。建物右端の庇部分も1室となっていて、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室としています。
 屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根が設けられています。切妻屋根と庇屋根の接続部で、軒先の線が折れ曲がっていて、このような形を縋破風(すがるはふ)といいます。
 周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えです。

 

拝殿

 

本殿

本殿(国宝)
 平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされています。
 流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並んでいます。(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。
 内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に菟道稚郎子命、中殿(第二殿)に応神天皇、右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています。
 左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいのですが、細部の様式から左殿の方が年代が古いとみられます。
 中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがあります。
 外側の桁行5間、梁間3間の建物は、内殿の覆屋にあたりますが、内殿と覆屋は構造的に一体化しています。左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっています。
 左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されています。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いのですが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重な作品です。

本殿・内殿(国宝)

内殿は、左殿(向かって右、第一殿)に

菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ)、

中殿(第二殿)に応神天皇、

右殿(向かって左、第三殿)には仁徳天皇が祀られています

 

 

 

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【カシャリ!ひとり旅】 曹洞宗仏徳山 興聖寺 道元を開祖とする曹洞宗最初の寺院

2023-06-07 11:13:22 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】 曹洞宗仏徳山 興聖寺 道元を開祖とする曹洞宗最初の寺院

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

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■■ 曹洞宗仏徳山 興聖寺 道元を開祖とする曹洞宗最初の寺院 


 興聖寺(こうしょうじ)は、京都府宇治市にある曹洞宗の寺院で、山号は仏徳山(ぶっとくさん)、ご本尊は「釈迦三尊」です。
 日本曹洞宗最初の寺院で、1233年(天福元年)、道元禅師が深草に興聖寺を開創し、「観音導利院興聖宝林寺」と号しました。
 僧侶の教育・育生を目指す修行道場としては、興聖寺が全国最初に先駆けました。このことから「曹洞宗初開道場」とは興聖寺のことを指します。

 


 

■ アクセス

 京阪宇治線 宇治駅より徒歩15分
 JR奈良線 宇治駅より徒歩20分
 〒611-0021 京都府宇治市宇治山田27-1

 

 琴坂・総門(石門) 


 宇治川を前にして、総門が立っています。ここでは「石門(せきもん)」と呼びます。
 坂の両脇を流れる水のせせらぎが琴の音のように聞こえたことから「琴坂」と名づけられました。新緑や紅葉が美しく四季折々の様々な表情を見ることができ、興聖寺を代表するスポットのひとつとなっています。
 

 

 山門・鐘楼 

 

鐘 楼
 鐘楼(宇治市指定有形文化財)は、慶安4年(1651年)に建立されました。
 梵鐘(宇治市指定有形文化財)も、同年の鋳造で、鐘銘は江戸時代初期の朱子学派儒学者である林羅山の撰です。「興聖寺の晩鐘」として「宇治十二景」と「宇治十境」の一つに数えられています。

山門
 山門(竜宮造、宇治市指定有形文化財)は、天保15年(1844年)に改築されました。

 禅宗独特の放射架が特色ある龍宮門は、どんな修行僧も龍の如く大成するという願いが込められています。

 

 

 法堂・庭園 

 

法堂
 法堂(はっとう、本堂、宇治市指定有形文化財)は、お寺の中心となる建物です。慶安元年(1648年)に、伏見城から移築され、改築されました。
 堂内には本尊釈迦牟尼仏を中心に両側に文殊菩薩、普賢菩薩を祀るほか、達磨大師、大権修理菩薩、十六羅漢がお祀りされています。住職が説法を行う道場であり、朝暮の勤行が行われます。
 勅額「興聖寶林禅寺」は四条天皇の筆です。

 

血天井

伏見城の遺構を用いて建てられたと伝えられ、鶯張りの廊下です。伏見城の戦いの際に東軍の鳥居元忠率いる守備兵は敗北し、自害した血がついたままの血天井など、多くの見どころがあります。法堂裏側には准提観音を祀る准提堂が続いています。

 

法堂庭園

 

 僧 堂 

 

僧堂
 僧堂(宇治市指定有形文化財)は、慶安元年(1648年)に建立され、元禄15年(1702年)に改築されました。
 修行僧が坐禅をするほか、寝起き・食事をする、生活の基本となる場所です。
 右側に顔がある特徴的な文殊菩薩坐像、大黒天・毘沙門天、弁財天の三つの顔を持つ三面大黒天をお祀りしています。僧堂では坐禅・写経の体験や法要・講義なども行われます。

 

 開山堂(老梅庵) 

 

開山堂(老梅庵)
 僧堂(宇治市指定有形文化財)は、慶安元年(1648年)に建立され、元禄15年(1702年)に改築されています。
 道元禅師を初め中興開山の萬安英種と歴代の住職を祀る開山堂は、道元禅師が梅の花を好まれたことから「老梅庵」と名づけられ、扁額も掲げられています。

 

 

老梅庵庭園

 

坪庭

 

 

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【カシャリ!庭園めぐりの旅】 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園1 堂宇編

2023-06-05 16:41:20 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!庭園めぐりの旅】 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園1 堂宇編

 

 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間に旅をしたのか、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅のテーマは寺社や庭園めぐりです。

 日本には「日本庭園」と呼ばれる庭園だけではなく、「イングリッシュガーデン」など、海外の庭園形式をした庭園も多数あります。寺社を訪れたときに、想定していなかったところに、庭園を発見することがあります。

 下手の横好きで、【カシャリ! ひとり旅】を続けていますが、その一環で訪れた庭園を順次紹介してまいりたいと思います。

■ 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園

 

 三室戸寺(みむろとじ)は、京都府宇治市北部にある本山修験宗の別格本山の寺院で、山号は明星山といいます。最寄り駅の三室戸は「みむろど」と濁りますが、寺名は「みむろと」と濁りません。ご本尊は、千手観世音菩薩です。
 「夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬にたつはしらなみ」の御詠歌できこえる、西国十番の観音霊場で、観音応現の霊地です。

  寺伝によりますと、宝亀元年(770年)、光仁天皇の勅願により、南都大安寺の僧行表が創建したと伝わります。
 天智天皇の孫「白壁王(後の光仁天皇)」は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願いました。その光を求めて宇治川支流である志津川上流の滝壺に、身の丈二丈ばかりの千手観音像を見つけました。1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じ、その観音像を安置し、行表を開山として創建されたのです。
 開創以来、歴代天皇の崇敬を集め、寺域も漸次拡張されて、伽藍坊舎が年を追って増加したのですが、後花園天皇の時代の出火し、大半の伽藍を抄出してしまいました。
本尊、常行堂本尊の阿弥陀三尊、隆明大僧正念持の釈迦如来立像等の像は猛火を免れました。
 後土御門天皇により、諸堂の再建が始まりましたが、明和年間頃、堂宇が再び廃頽してしまいました。その後の再建で今日に至っています。

庭園「与楽園」
 つつじとともにアジサイの名所として知られ、日本庭園は『足立美術館庭園』で知られる昭和を代表する作庭家・中根金作が作庭しました。伽藍が立ち並ぶ高台からは一段低いエリアに、1988年(平成元年)に中根金作により作庭された日本庭園は“与楽園”といいます。あじさい苑、つつじ・しゃくなげ園があります。
 日本庭園は鶴亀島の浮かぶ大きな枯山水庭園と、池泉回遊式庭園とがあります。明星山の中腹という立地から、いずれも周囲の山々の借景も美しいです。5月は2万株のツツジ、一千本のシャクナゲ、6月は1万株のアジサイ、7月はハス、さらに秋は紅葉の名所にもなります。庭園は、近年整備されました。

 

アクセス
 京阪宇治線 三室戸駅より徒歩15分強(駅名は「みむろど」、寺名は「みむろと」)
 JR奈良線 宇治駅より徒歩30分
 宇治駅より路線バス「門前」バス停下車 徒歩5分
 611-0013 京都府宇治市菟道滋賀谷21 0774-21-2067
 通常: 大人500円

 つつじ園の開園期間:2023年4月22日(土)~5月14日(日)
  開園時間:8:30~15:40
  拝観料:大人1,000円、小人500円
 

 

 三室戸寺 

 

本山修験宗の別格本山の寺院で、山号は明星山といいます。

最寄り駅の三室戸は「みむろど」と濁りますが、

寺名は「みむろと」と濁りません。

ご本尊は、千手観世音菩薩です。

 

参拝チケット

通常は大人500円ですが、特定期間は1,000円

訪問した年は、開花が早くて、

有名なつつじも紫陽花も端境期でした。

花がないことが解っているのですから、

通常料金にすべきではないでしょうか。

総門

三門

本堂への階段

階段の途中まで坂道がありますが、利用メリットは少ない

狛蛇(宇賀神)
 本堂前に鎮座する石像で、

身体は蛇がとぐろを巻く姿をしています。

近年の作品のようで現代風のデザイン

本堂(京都府指定有形文化財)

ハスの季節は見事に咲き誇りそうです。


 文化11年(1814年)に再建された、

重層入母屋造の重厚な建物です。

秘仏の千手観音立像が安置されています。

阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)
 元々ここには親鸞の父日野有範の墓がありましたが、

親鸞の娘覚信尼が祖父有範の墓を整備し、

その上にお堂を建てて阿弥陀堂とし、

その菩提を忌いました。

鐘楼(京都府指定有形文化財)
 4本柱の吹き流し形式

吹き流し形式は6本柱もある

浮舟の碑

 

浮舟のあらすじ

 薫は浮舟を宇治の山荘に放置したまま、訪れるのも間遠であった。正月、中君のもとに届いた文を見て女の居所を知った匂宮は、薫の邸の事情に通じている家臣に探らせ、女が薫の囲い人として宇治に住んでいることを知る。匂宮はある夜、ひそかに宇治を訪れ、薫を装って寝所に忍び入り、浮舟と強引に契りを結んでしまう。
 宮中の詩宴の夜、浮舟を思って古歌を口ずさむ薫の様子に焦りを覚えた匂宮は、雪を冒して再び宇治に赴き、浮舟を宇治川対岸の隠れ家へ連れ出し、そこで二日間を過ごした。
ある日、宇治で薫と匂宮両者の使者が鉢合わせしたことからこの秘密は薫に知られてしまう。
 薫に恨みの歌を送られ、匂宮との板ばさみになって進退窮まった浮舟はついに死を決意する。死を間近に、薫や匂宮、母や中君を恋しく思いながら、浮舟は匂宮と母にのみ最後の文を書きしたためた。
  鐘の音の絶ゆるるひびきに音をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ

三重塔(京都府指定有形文化財)
 元禄17年(1704年)建立の全高16メートルの三重塔です。

もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、

1910年(明治43年)に当寺が買い取って

参道西方の丘上に移設しました。

その後1977年(昭和52年)に

境内の現在地(鐘楼の東隣)に移されました。

三重の塔前庭園

ホオノキ(朴の木、朴木、朴)

三重塔近くに咲いていました。


 モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種で、

南千島から九州に分布します。

別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれます。
 大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲きます。

日本自生の樹木の中では、最大級の葉と花をもつといわれます。
 大きな葉は、食べ物を包んだり、焼いたりすることに使い、

朴葉味噌とか朴葉焼きなどといわれます。
 樹皮は生薬とされ、厚朴または和厚朴とよばれ、

材は均質で柔らかく、細工物などに使われます。

 

三室戸寺 庭園編 写真集

 

三室戸寺 堂宇編(映像)

三室戸寺 庭園編(映像)

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

 

 

  ■ カシャリ! ひとり旅

 

 




ユーチューブで視る 【カシャリ!庭園めぐりの旅】

写真集は、下記URLよりご覧いただくことができます。

静止画: http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmeisho.htm
映像:  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm 

【 注 】 映像集と庭園めぐりは、重複した映像が含まれています


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【カシャリ!庭園めぐりの旅】 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園2 庭園編

2023-06-05 16:18:52 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!庭園めぐりの旅】 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園2 庭園編

 

 

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間に旅をしたのか、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅のテーマは寺社や庭園めぐりです。

 日本には「日本庭園」と呼ばれる庭園だけではなく、「イングリッシュガーデン」など、海外の庭園形式をした庭園も多数あります。寺社を訪れたときに、想定していなかったところに、庭園を発見することがあります。

 下手の横好きで、【カシャリ! ひとり旅】を続けていますが、その一環で訪れた庭園を順次紹介してまいりたいと思います。

■ 京都府宇治市 三室戸寺と「与楽園」枯山水・池泉廻遊式庭園

 

 三室戸寺(みむろとじ)は、京都府宇治市北部にある本山修験宗の別格本山の寺院で、山号は明星山といいます。最寄り駅の三室戸は「みむろど」と濁りますが、寺名は「みむろと」と濁りません。ご本尊は、千手観世音菩薩です。
 「夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬にたつはしらなみ」の御詠歌できこえる、西国十番の観音霊場で、観音応現の霊地です。

  寺伝によりますと、宝亀元年(770年)、光仁天皇の勅願により、南都大安寺の僧行表が創建したと伝わります。
 天智天皇の孫「白壁王(後の光仁天皇)」は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願いました。その光を求めて宇治川支流である志津川上流の滝壺に、身の丈二丈ばかりの千手観音像を見つけました。1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じ、その観音像を安置し、行表を開山として創建されたのです。
 開創以来、歴代天皇の崇敬を集め、寺域も漸次拡張されて、伽藍坊舎が年を追って増加したのですが、後花園天皇の時代の出火し、大半の伽藍を抄出してしまいました。
本尊、常行堂本尊の阿弥陀三尊、隆明大僧正念持の釈迦如来立像等の像は猛火を免れました。
 後土御門天皇により、諸堂の再建が始まりましたが、明和年間頃、堂宇が再び廃頽してしまいました。その後の再建で今日に至っています。

庭園「与楽園」
 つつじとともにアジサイの名所として知られ、日本庭園は『足立美術館庭園』で知られる昭和を代表する作庭家・中根金作が作庭しました。伽藍が立ち並ぶ高台からは一段低いエリアに、1988年(平成元年)に中根金作により作庭された日本庭園は“与楽園”といいます。あじさい苑、つつじ・しゃくなげ園があります。
 日本庭園は鶴亀島の浮かぶ大きな枯山水庭園と、池泉回遊式庭園とがあります。明星山の中腹という立地から、いずれも周囲の山々の借景も美しいです。5月は2万株のツツジ、一千本のシャクナゲ、6月は1万株のアジサイ、7月はハス、さらに秋は紅葉の名所にもなります。庭園は、近年整備されました。

 

アクセス
 京阪宇治線 三室戸駅より徒歩15分強(駅名は「みむろど」、寺名は「みむろと」)
 JR奈良線 宇治駅より徒歩30分
 宇治駅より路線バス「門前」バス停下車 徒歩5分
 611-0013 京都府宇治市菟道滋賀谷21 0774-21-2067
 通常: 大人500円

 つつじ園の開園期間:2023年4月22日(土)~5月14日(日)
  開園時間:8:30~15:40
  拝観料:大人1,000円、小人500円
 

 

 三室戸寺 

 

本山修験宗の別格本山の寺院で、山号は明星山といいます。

最寄り駅の三室戸は「みむろど」と濁りますが、

寺名は「みむろと」と濁りません。

ご本尊は、千手観世音菩薩です。

 

参拝チケット

通常は大人500円ですが、特定期間は1,000円

訪問した年は、開花が早くて、

有名なつつじも紫陽花も端境期でした。

 

三門

与楽園庭園入り口

特別期間は、ここからは入れません。

つつじ苑

本来は、全山つつじで覆われています。

一部につつじが残っていました。

白い木は山栗でしょうか?

 

四阿と紫陽花苑

枯山水庭園

枯山水庭園

枯山水庭園

 

池泉廻遊式日本庭園

左手に石橋

石橋

秋は紅葉が美しい

 

 

 

ホオノキ(朴の木、朴木、朴)

三重塔近くに咲いていました。


 モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種で、

南千島から九州に分布します。

別名としてホオ、ホオガシワなどともよばれます。
 大きな葉が輪生状につき、枝先に大きな花が上向きに咲きます。

日本自生の樹木の中では、最大級の葉と花をもつといわれます。
 大きな葉は、食べ物を包んだり、焼いたりすることに使い、

朴葉味噌とか朴葉焼きなどといわれます。
 樹皮は生薬とされ、厚朴または和厚朴とよばれ、

材は均質で柔らかく、細工物などに使われます。

 

三室戸寺 堂宇編 写真集

 

三室戸寺 堂宇編

三室戸寺 庭園編

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

 

 

  ■ カシャリ! ひとり旅

 

 




ユーチューブで視る 【カシャリ!庭園めぐりの旅】

写真集は、下記URLよりご覧いただくことができます。

静止画: http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmeisho.htm
映像:  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm 

【 注 】 映像集と庭園めぐりは、重複した映像が含まれています


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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺9 中国的七堂伽藍 枯山水と池泉廻遊式日本庭園

2023-05-29 14:06:52 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺9 中国的七堂伽藍 枯山水と池泉廻遊式日本庭園

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺9 中国的七堂伽藍 枯山水と池泉廻遊式日本庭園

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

黄檗山萬福寺には、枯山水や池泉廻遊式の複数の庭園があります。

その中から4つの庭園をご紹介します。

 

 石 條 

 

石條(せきじょう)
境内に縦横に走っている参道は、

正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ

特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものです。

中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、

黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、

菱形の石の上立てるのは住持のみです。

私達参拝者は、菱形石の上も歩いてよいと

受付でいわれました。

石條は、境内処々にあります。

重要文化財「通玄門」は、

開山堂にはいるための正門ですが、

ここも、やはり中央に

 

 放生池 

 

放生池 (ほうじょういけ)
 

 寛文4年(1664年)の造営です。萬福寺の造立が1661年ですので、その3年後に造られたことになります。
 総門を入ってすぐ右手に半月型をした池があります。放生池で、風水上の機能があります。
 ここでは、「放生会(ほうじょうえ)」という儀式が行われます。隠元禅師の放生思想は、明代の雲棲祩宏などの放生運動を受けたもので、「雲棲大師戒殺放生文」の跋文ほか放生を勧める法語が多いのが特徴です。
 放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教的な儀式です。
 放生会は古代インドに起源をもつ行事で中国や日本にも伝えられてきました。また、インド由来の六道輪廻説と中国の孝道が一体化したものともいいます。

 

放生池(ほうじょういけ)南側

放生池 北側

 

 庭園「中和園」枯山水庭園 

 

  1972年(昭和47年)、隠元の300年大遠諱に合わせて整備されました。

名称は、当地にあった大和田御殿に後水尾天皇の生母である中和門院が、

そこに住われていたことにちなんで「中和園」と命名されました。
枯山水庭園と池泉廻遊式日本庭園とがあります。

 

天王殿の方向に行く回廊右手に中和園はあります。

中和園 枯山水庭園

中和園は中和門院の屋敷である大和田御殿跡にあります。

  中和門院が日常的に使用されていた

中和井(ちゅうわせい)という井戸が

上記写真のほぼ中央にあります。

 

中和井も見えます。

 

 庭園「中和園」池泉廻遊式庭園 

 

上述「中和園」枯山水庭園に続いて

池泉廻遊式庭園があります。

 

 

 

 

 

 天王殿庭園 

 

天王殿を背にして右手に中和園の枯山水・池泉廻遊式日本庭園があります。

左前に睡蓮池があります。

 

天王殿テラスから池を見下ろす

奥の建物は天王殿

4~5月にかけて睡蓮が素晴らしいでしょう。

天王殿横の回廊を見ながら睡蓮の池を見る

 

 売茶堂庭園 

 

 1928年(昭和3年)に創建された、

煎茶の祖であり、黄檗僧である

月海元昭禅師が祀られています。

月海は、京都の鴨川畔に茶屋を開き、

各地に煎茶筵を設け、茶を売り、

売茶翁や高遊外と称されました。

禅師像は、加納鉄哉の作です。
庭園の手入れ作業中で、

庭園を見ることができませんでした。

 

売茶堂

庭園作業中をお邪魔しました。

 

中国的七堂伽藍を巡る

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b748d78db82db192352d412faf6250de

門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6640d39a023332ddb3a5633aa3d75c38

 

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  ■ カシャリ! ひとり旅


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【話材】 昨日05/28のつぶやき 宇治市 黄檗宗大本山萬福寺8 中国的七堂伽藍 大雄宝殿・方丈・巡照板

2023-05-29 06:02:44 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【話材】 昨日05/28のつぶやき 宇治市 黄檗宗大本山萬福寺8 中国的七堂伽藍 大雄宝殿・方丈・巡照板

 

経営コンサルタントとして感じたことを毎日複数のつぶやきをブログでお届けしています。

もし、お見落としがありましたり、昨日のブログで再度読みたいつぶやきがあるというときに便利なページです。

本日も、複数のブログで、つぶやき済です。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/03fc21e394eadcc2afc901254676299f

  ■【今日は何の日】 5月29日 ■ エベレスト登頂記念日 ■ 肉の日  一年365日、毎日が何かの日

傘

■ 昨日は、下記のリストのようなことをつぶやきました。

konsarutanto   ◇ 昨日のつぶやき ◇ 

>> もっと見る

 【カシャリ! ひとり旅】を映像にして紹介しています。

   ユーチューブで見

 

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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺8 中国的七堂伽藍 大雄宝殿・方丈・巡照板

2023-05-28 17:26:36 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺8 中国的七堂伽藍 大雄宝殿・方丈・巡照板

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺8 中国的七堂伽藍 大雄宝殿・方丈・巡照板

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

 法 堂 

 

法堂(はっとう) (重要文化財)
 

 禅寺における主要伽藍のひとつで説法を行う場所。
 内部には須弥壇のみを置きます。上堂や住持の晋山式などに使われます。須弥壇上の額「法堂」は隠元の書であり、黄檗山では唯一の楷書による大書です。

 法堂は、「ほうどう」と書いて「はっとう」と読みます。禅寺における重要伽藍のひとつで、説法を行うための場所です。ここは、説法の他、上堂や住持が新たに任命される、いわゆる「晋山式」としても使われます。
 寛文2年(1662年)に建立された、一重入母屋造、棧瓦葺の堂宇です。
 内部には、須弥壇のみが置かれているシンプルな造りで、中に入ってお詣りすることはできません。
 須弥壇上の扁額「法堂」は隠元の筆であり、黄檗山では唯一の楷書による大書です。外にある扁額「獅子吼」(ししく)は費隠通容の筆です。獅子吼とは、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば百獣全てが従うことに喩えて、釈迦の説法を指します。

 

法堂 (重要文化財)

禅寺における主要伽藍のひとつで説法を行う場所

説法の他、上堂や住持が新たに任命される、

いわゆる「晋山式」としても使われます。

寛文2年(1662年)に建立された、一重入母屋造、棧瓦葺の堂宇

法堂は、「ほうどう」と書いて「はっとう」と読みます

 

扁額「獅子吼」(ししく)

費隠通容の筆です。

獅子吼とは、百獣の王である獅子が

一度咆哮すれば百獣全てが従うことに喩えて、

釈迦の説法を指します。

内陣・須弥壇

内部には、須弥壇のみが置かれているシンプルな造りで、

中に入ってお詣りすることはできません。

須弥壇上の扁額「法堂」は隠元の筆であり、

黄檗山では唯一の楷書による大書です。

 

 方 丈 
 

方丈とは、禅院住持の居間ですが、

萬福寺においては、寛文5年(1665年)に

甘露堂が建立されてからは

そこが方丈として使用されるようになったため、

東西にある両方丈は、来客の応接や特定の儀式等に使われます。

 

 

西方丈

 

西方丈

方丈としてではなく

ここ萬福寺では、来客の応接や特定の儀式等に使われます。

東方丈(非公開)

 

 巡照板 

 

萬福寺の修行僧は朝及び夜に巡照板を打ち鳴らして

各寮舎を回ります。

巡照板は、境内に5カ所あり、

長い廻廊を巡ることになりますので、

修行僧は「巡廊板」とも呼ばれます。

 

開梆(かいぱん)と雲版(うんぱん)
威徳殿の前に吊り下げられています。

黄檗清規には、飯梆(はんぽう)と記されています。

魚梆、魚鼓とも呼ばれます。

叢林における日常の行事や儀式の刻限を報じる

魚の形をして法器のことです。


雲版(奥の円形物)は、

朝と昼の食事と朝課の時に打って知らせる青銅製の板です。

 

中国的七堂伽藍を巡る

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b748d78db82db192352d412faf6250de

門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6640d39a023332ddb3a5633aa3d75c38

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺7 中国的七堂伽藍 大雄宝殿

2023-05-28 13:51:40 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺7 中国的七堂伽藍 大雄宝殿

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺7 中国的七堂伽藍 大雄宝殿

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

 大雄宝殿 

 

大雄寶殿(だいおうほうでん) (重要文化財)
 

 日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物であり、境内最大の伽藍です。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重なものです。

 文8年(1668年)に建立された、歇山重檐式(けっさんじゅうえんしき)、入母屋造の建物です。一見すると二階建てに見えるのですが、一重裳階(もこし)付きですので、その様に見えます。

 チーク材は、シャム(タイ王国の旧称)産で、隠元隆琦禅師に帰依した豪商の勝性因(かつしょういん)居士と江戸幕府の寄進によるものです。元々は、オランダ人が台湾へ築城用材として運んできたものが、台風のため長崎に漂着したものと伝えられています。

 本尊は、釈迦牟尼佛で、両脇侍は、迦葉、阿難の二尊者です。さらに両脇に、十八羅漢像が安置されています。大棟中央に火焰付、二重の宝珠、正面入口は魔除けとされる桃の実の彫刻が施された「桃戸」となっていて、左右に円窓が配されています。

 上層の額「大雄寶殿」は隠元書です。黄檗宗では、釈迦牟尼仏を奉仕する仏殿のことを「大雄宝殿(だいおうほうでん)」または「大雄殿(だいおうでん)」と呼びます。
 下層の額「萬徳尊」は木庵の書です。「萬徳尊」とは、すべての徳を備えた尊い人物という意味で、お釈迦様のことを指します。本堂内部須弥壇の上の勅額「真空」は、明治天皇の御宸筆となっています。
 建物の前には、白砂を敷いた「月台」(げったい)があります。

 

大雄宝殿(だいおうほうでん) (重要文化財)

一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物であり、

境内最大の伽藍

堂宇の前にある石造りのステージは「月台(げったい)」

大雄宝殿

 

 月台(げったい)
 建物の前にある、白砂を敷いたところが「月台」です。
 仏教行事は、インドでは陰暦で執り行われ、太陽神よりも月の神を上位としている。中国では、仲秋節は三大節句の一つであり、明・清時代には月を祭る行事が行われ、天地日月を祀る場所が設けられた。黄檗山では1日(新月)と15日(満月)には特別の法要を執り行い、その前日の14日と晦日に半月間の罪を懺悔する経を読む。したがって、月台は仏教と戒律と月を象徴する。月台の中心には「罰跪香頂石」(ばっきこうちょうせき)と呼ばれる長方形の平石がある。叢林の共住規約を守らなかったものが罰として線香を立て、この石上に跪き礼拝し懺悔する。また、月台の両側には丸く剪定された銀木犀(桂樹)が植えられており、「双桂樹」と呼ばれる。中国では月に生える樹木として信仰され、寺院に植えられるのが慣例だった。
 

大雄宝殿

文8年(1668年)に建立された、

歇山重檐式(けっさんじゅうえんしき)、入母屋造の建物です。

一見すると二階建てに見えるのですが、

一重裳階(もこし)付きですので、その様に見えます。

上層の額「大雄寶殿」は隠元書です。

黄檗宗では、釈迦牟尼仏を奉仕する仏殿のことを

「大雄宝殿(だいおうほうでん)」

または「大雄殿(だいおうでん)」と呼びます。
 下層の額「萬徳尊」は木庵の書です。

「萬徳尊」とは、すべての徳を備えた尊い人物という意味で、

お釈迦様のことを指します。

円窓
 日・月を象徴しています。

他の諸堂にも同じ大きさの円窓が設けられています。

  桃戸
 正面入口には、扉に彫られた「桃符」と呼ばれる

桃の実形の飾りがある「桃戸」と呼ばれる半扉があります。

桃の実の彫刻は、魔除けとなります。

香廬

大雄宝殿の内陣

本尊は、釈迦牟尼佛で、

両脇侍は、迦葉、阿難の二尊者です。

さらに両脇に、十八羅漢像が安置されています。

ご本尊の釈迦牟尼佛

両脇に安置されている十八羅漢像(左)

十八羅漢像(右)

 

中国的七堂伽藍を巡る

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b748d78db82db192352d412faf6250de

門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6640d39a023332ddb3a5633aa3d75c38

 

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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺6 中国的七堂伽藍 天王殿

2023-05-27 15:21:40 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺6 中国的七堂伽藍 天王殿

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺6 中国的七堂伽藍 天王殿

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

 天王殿 

 

天王殿(てんのうでん) (重要文化財)

 

 萬福寺の玄関として天王殿が設けられています。
 中国では一般的な建て方で、四天王と弥勒菩薩と韋駄天を同様に祀ります。×型の組子を入れた匂欄は、日本では特異なたすき匂欄で、中国で使用されているデザインです。

 天王殿(重要文化財)は、寛文8年(1668年)建立された、一重入母屋造の建物です。寺の玄関としての堂宇で、本堂の手前にこのような堂が配されるのは中国式の伽藍配置で、日本では珍しい形です。
 内部には弥勒菩薩の化身とされる布袋像が、目のつく位置に安置されています。この像は日本で著名な半跏思惟形の弥勒菩薩像とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表されているのが特徴です。
 他に、堂内左右に四天王像、布袋像の背後に、本堂の本尊と対面するよう韋駄天像が安置されています。
 これらの像は、范道生の作で、いずれも清風の様式で造られています。
 方柱はチーク材で、道内に2本の円柱があり、黄檗の七不思議の一つと云われている造りです。
 X型の組子状の勾欄は、日本では特異な襷勾欄(たすきこうらん)といい、中国・チベットで使用されているデザインなのです。
 

天王殿(てんのうでん) (重要文化財)

本堂の手前に立つ萬福寺の玄関、一重入母屋造の建物

四天王と弥勒菩薩と韋駄天が祀られています。

弥勒菩薩(布袋)座像
 范道生作、寛文3年(1663年)造立の像高110.3cmの木像です。

 布袋は、弥勒菩薩の化身と云われ、萬福寺では弥勒仏とされています。

広隆寺の弥勒菩薩のように、美形で、半跏像でないのが中国風といえます。

背面に背中合わせに韋駄天が配されています。

寛文3年11月末に隠元禅師の命を受けて、

この弥勒菩薩の作者・范道生が造立

寛文8年(1668年)の天王殿建立時に、

天王殿に移されたと考えられます。

  韋駄天立像
 木像、像高200.0cmで、伽藍守護神として、

天王殿の弥勒像の背面に安置されていて、

大雄宝殿と対面しています。


 康熙43年(1704年)頃、清で造立されたものを請来したものです。

この像以前には別に、

天王殿に范道生作の韋駄天像が祀られていましたが、

現在は文華殿に蔵されています。

 

韋駄天(いだてん、塞建陀、私建陀、別表記:違駄天)

 仏教において天部に属する神です。韋陀、韋天将軍とも言われます。
 増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神です。特に伽藍を守る護法神とされ、中国の禅寺では四天王、布袋尊とともに山門や本堂前によく祀られます。日本の禅宗では、厨房や僧坊を守る護法神として祀られることが多いです。
 また小児の病魔を除く神ともいわれます。密教の曼荼羅では、護世二十天の一尊として西方位に配されます。

 

 

 

大雄宝殿側から見た天王殿

扉が開いている部分から韋駄天を見ることができます。

すなわち韋駄天は、大雄宝殿を対面にして立っているのです。

 

中国的七堂伽藍を巡る

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b748d78db82db192352d412faf6250de

門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6640d39a023332ddb3a5633aa3d75c38

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺5 中国的七堂伽藍 5 中国的七堂伽藍 潜脩禅・鼓楼・祖師堂

2023-05-26 17:12:25 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺5 中国的七堂伽藍 5 中国的七堂伽藍 潜脩禅・鼓楼・祖師堂

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺5 中国的七堂伽藍 潜脩禅・鼓楼・祖師堂

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

 潜修禅・鼓楼 

 

 

庫裏への門

「修禅」とは、

禅定を修すること。

コトバンクによりますと「禅定(ぜんじょう)」とは

心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」

その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」

 

香椿(チャンチン)

隠元禅師が中国より持参

若葉は食すことができるそうです。

鼓楼(重要文化財)
 延宝7年(1679年)に信夢善士が建立した、

重層入母屋造、本瓦葺で、二階四周に縁と逆蓮柱付の勾欄を巡らしています。
 鐘楼と対称位置に建ち、階上に太鼓が置かれています。

朝5時開静、夜9時の開枕に鐘楼の大鐘と鼓楼の太鼓をもって、

時刻と消灯、起居動作の始終を知らせています。
 また、賓客来山の時には、鐘鼓を交鳴させて歓迎の意を表します。

二階四周に縁と逆蓮柱付の勾欄が巡らされています

 

 祖師堂 

 


 

祖師堂(重要文化財)
 寛文9年(1669年)、今津浄水居士が建立しました。

伽藍堂と対称位置に建ち、

中国禅宗の祖である達磨の像「達磨大師坐像」と、

開山隠元禅師からの歴代管長の位牌が安置されています。

祖師堂は、一般的には開山堂とも呼ばれます。

しかし、禅宗寺院の多くでは

開山堂だけではなく、祖師堂を別に設けています。

開山堂は、開山した人が祀られますが、

禅宗では、祖師堂に達磨大師が祀られます。

達磨大師坐像

中国禅宗の祖である達磨の像「達磨大師坐像」と、

開山隠元禅師以降の歴代管長の位牌が

左右に安置されています。

  達磨大師坐像
 寛文3年(1663年)に、范道生作により造立された、

木造、像高166.5cmの像です。
 もともと体全体に金色が施されていました。

現在は、下地の朱漆色が目立ちます。

萬福寺所蔵の逸然性融筆『朱衣の達磨像』や

馬言『隻履達磨図』と同様に、

前歯が2本に表現されているのが特徴です。

祖師堂屋根・破風

 

 

中国的七堂伽藍を巡る

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門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

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  ■ カシャリ! ひとり旅


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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺4 中国的七堂伽藍 寿塔と石碑亭

2023-05-26 10:03:00 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 


  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺4 中国的七堂伽藍 寿塔と石碑亭・合山鐘



 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。


 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。


 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。


 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・


 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。


 



名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道


 


■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺4 中国的七堂伽藍 寿塔と石碑亭・合山鐘


 


 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。


 


■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。


 


■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)


 


■ アクセス


 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。


 



 



同寺サイトのコンテンツは充実していて


以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。


 


 寿 塔 


 


寿蔵(寿塔、真空塔、重要文化財)


  寛文3年(1663年)に建立された、本瓦葺六角堂で、屋根は宝形造となっていて、頂に路盤・宝珠が配されています。屋根の六方には、中国の仙人を表した鬼瓦があります。寿蔵の瓦は、舎利殿とともに寺島藤右衛門によって寄進されました。
 半円形石垣に囲まれていて、周囲の柵から中へは入れません。
 これらの特徴は、中国の墳墓の形式を忠実に踏襲したものです。
 寿蔵は隠元の生前に、木庵を中心に法子・法孫らにより隠元の墳墓として築造されていました。中央円窓戸板の題「寿蔵」は隠元の書で、勅額「眞空塔」は、霊元天皇の宸筆です。
 


 


 



寿塔 重要文化財


開山堂の裏手に立つ、六角の建物



 



 



中央円窓戸板の題「寿蔵」は隠元の書で、


勅額「眞空塔」は、霊元天皇の宸筆です。



屋根の六方には、中国の仙人を表した鬼瓦があります。



本瓦葺六角堂で、屋根は宝形造となっていて、


頂に路盤・宝珠が配されています。



回廊



石碑亭(せきひてい、重要文化財)
 宝永6年(1709年)に建立されました。内部の亀趺付きの顕彰碑には、隠元の特賜大光普照國師塔銘が刻まれています。



合山鐘と並んで立つ石碑


亀の上に立っています。



 



石碑亭まえで回廊が右に曲がります。


正面に梵鐘が下がっています。



合山鐘(がっさんしょう)
 開山堂の正面回廊の途中に吊るされている雲紋梵鐘で、
 開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭にのみ鳴らされる梵鐘です。



第6代千呆性侒によって元禄9年(1696年)に再鋳されました。



合山鐘の下に鬼瓦


 










































中国的七堂伽藍を巡る


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門と回廊


https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258


開山堂


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寿塔と石碑亭


https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159


潜脩禅・鼓楼・祖師堂


https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159


天王殿 当寺の玄関


https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb


大雄宝殿 最大伽藍


https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d


法堂・鐘楼・開梆・雲版


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庭園と放生池


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  ■ カシャリ! ひとり旅





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【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺3 中国的七堂伽藍 開山堂

2023-05-25 15:10:42 | 【カシャリ!ひとり旅】 京都

 

  【カシャリ!ひとり旅】京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺3 中国的七堂伽藍 開山堂

 若い頃からひとり旅が好きで、経営コンサルタントとして独立してからは、仕事の合間か、旅行の合間に仕事をしたのかわかりませんが、カメラをぶら下げて【カシャリ! ひとり旅】をしてきました。

 旅は、時間に追われる現実からの開放、明日への糧となります。

 写真は、自分の記録であるとともに、お節介焼き精神から、他の人に情報提供も兼ねてとり続けてきました。

 何を思って撮影したのだろうか? 自分も行ってみたい・・・

 他の人に、そう思っていただける写真を撮りたいと思って、ライフワークとして、続けられるだけ続けてまいりたいです。

 

名所旧跡  グロマコン 経営コンサルタントへの道

 

■■ 京都府宇治市 黄檗宗大本山萬福寺3 中国的七堂伽藍 開山堂

 

 京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院「萬福寺」、山号は黄檗山は、1661年に、中国明朝時代の臨済宗を代表する僧である「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職をしていましたが、日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝しました。当初「臨済宗黄檗派」などと称していましたが、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と改称し、現在に至っています。
 「禅宗」は、日本では、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。他の2つの禅宗と黄檗宗が大きく違う点として、中国的な特徴を色濃く残していることです。江戸初期から中頃にかけて、黄檗宗の大本山・黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の住職は、殆どが中国から渡来した僧侶でした。
 萬福寺の建造物は、中国明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿のままを今日に伝える寺院は日本では他に例がありません。代表的禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊、額などが国の重要文化財に指定されています。

 

■ 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。
 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。
 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。
 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。
 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。
 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 伽藍
 萬福寺の伽藍は左右対称に配置されており、全体は西側を向いて乱れなく建てられています。
 一番西側にある「総門」をくぐり、右手に「放生池」を見ながら進むと、巨大な三間三戸の「三門」、そしてその奥には萬福寺の玄関にあたる「天王殿」があります。
 天王殿の奥には「大雄宝殿」、さらに奥には「法堂」が一直線になるように建てられています。
 萬福寺の伽藍は、そのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっています。回廊沿いにはそのほかにも、南側に鐘楼、伽藍堂、斎堂、東方丈が、北側には対称となる位置に鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が、並んでいます。
 これら萬福寺内の建物は、一般的な日本の寺院建築とは異なっています。宗祖隠元禅師が日本に渡ってきた中国の明時代末期頃の様式で造られています。建築材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用しています。各所に見られる「卍くずし」と呼ばれるデザインや、円い形をした窓、伽藍の扉に施された桃の実の形をした「桃符」という飾り、アーチ状に造られた「黄檗天井」など、ほかの日本の寺院では見かけることのないような建築手法、デザインが用いられています。
 また、三門から天王殿へと向かう参道を北側に折れたところには宗祖隠元禅師を祀る開山堂が建てられています。(【公式サイト】をもとに作成)

 

■ アクセス

 JR黄檗駅から徒歩5分、京阪宇治線黄檗駅から徒歩8分
 私は、JR黄檗駅下車し、改札正面辺りにある小径(わかりにくい)を入って行きました。
 京阪の駅は、JRより西側(萬福寺の反対側)にありますので、JR踏切を横切ってから小径に入ります。こちらも入り口が解りにくいので、地元の人に聞かれるとよろしいでしょう。

 

 

同寺サイトのコンテンツは充実していて

以下の説明は、公式サイトを基に作成しました。

 

 開山堂 

 

 開山堂 (かいさんどう、かいざんどう)とは、仏教寺院において開山した人の像を祀った堂宇を指します。

 寺院の「開山」とは、当該する寺院に最初に住した僧のことを指すのが一般的です。寺院の創立を発願し、経済的基盤を提供した人を「開基」といって、開山とは区別します。
 開山や宗祖の像を安置する堂を、寺によっては「祖師堂 (そしどう)」とか「御影堂(みえいどう、ごえいどう)」、「影堂(えいどう)」などともいいます。

 禅宗では、とくに中国禅宗の初祖である「達磨 (だるま)大師」を指します。

 

 

通玄門 (重要文化財)
開山堂にはいるための正門で

三門を入ると左手に位置しています。

中央は、石條が直線に連なり

左右に状砂が配されています。

通玄門は、重要な結界の一つであるため、

三門等と同様に円柱が使われています。

奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門です。

「通玄」の扁額

「通玄」とは「玄理を知る」ことです。

「玄理」とは「奥深い道理、深遠な真理」のことで

通玄とは、道理や真理の奥深くまで知ることを意味します。

 

 

通玄門 (重要文化財)
開山堂に入るための正門で

三門を入ると左手に位置しています。

中央は、石條が直線に連なり

左右に状砂が配されています。

この門は重要な結界の一つであるため、

三門等と同様に円柱が使われています。

奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門です。

開山堂 (重要文化財)

通玄門の正面にあります。

氷裂文の石畳(同じ形の石はまったくない)が中央に、

左右に白壁、白砂が目前に広がります。

建物には卍の勾欄(卍崩し)の建物です。

黄檗開山の隠元禅師がお祀りされています。

 上層正面の扁額「瞎驢眼」は費隠の筆

下層の扁額「開山堂」は木庵の筆

開山堂内陣

毎月1・15日には、山内の僧が祝拝し、

3日には、開山忌を営まれます。

祥忌の4月3日には、

他山から僧を招待し、厳粛に執り行われます。

開山堂内陣 隠元禅師像

勾欄(こうらん)
ここ開山堂だけではなく、法堂正面の勾欄は、

卍及び卍くずしの文様になっています。

これらはすでに奈良時代の法隆寺などの

南都寺院に使われています。

それとは別に、江戸時代初期にあらためて

黄檗を通じてもたらされたものです。

開山堂北側のハス

松蔭堂

松隠堂(重要文化財)
  白壁の塀に囲まれた書院造の和様の建物をした客殿で、宮川藩主関長政夫人寄進によるものです。
 寛文3年(1663年)に庵として建立され、翌4年に隠元が住持を退き、寛文13年(1673年)に死去するまで居住しました。
 死後は客殿として持続されたが、元禄7年(1694年)に現在地に移転・増築され、開山塔院(墓所)ともなりました。このときから「松隠堂」と称されるようになりました。
 松隠堂は元は萬福寺とは独立した宗教法人でしたが、1959年(昭和34年)に宗教法人萬福寺と合併したのです。
 

開山堂前の回廊

三内の建物は、回廊でつながれています。

 

中国的七堂伽藍を巡る

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b748d78db82db192352d412faf6250de

門と回廊

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/2ea2bd7248ec4587e29d17697f9ff258

開山堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a862cf8714f823fb0066f750814e2866

寿塔と石碑亭

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

潜脩禅・鼓楼・祖師堂

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/07d8ff7734cb7d67b9f14a74ce2d7159

天王殿 当寺の玄関

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/b1c971f5d6ae684410e0f52f989d64eb

大雄宝殿 最大伽藍

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/382b0ba3f3cc100e227f4c7a0552ee3d

法堂・鐘楼・開梆・雲版

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/578c48cf55819f437cafc8e201741479

庭園と放生池

https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6640d39a023332ddb3a5633aa3d75c38

 

  リスト http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmovie.htm

  ■ カシャリ! ひとり旅


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