経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 12 新商品開発の提案は散々な回答

2024-10-11 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 12 新商品開発の提案は散々な回答  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-12 新商品開発の提案は散々な回答
 竹根は、市場要求の仕様にそぐわない商品ではビジネスが成り立たないと確信し、提案した新商品案に対する本社の評価は、竹根が想像していた以上にひどい反応であった。
 ここまで来たら、角菊の怒りだけではなく、本件では竹根の最大の理解者であるケント光学の北野原もあきれてしまった。それを含め、顕微鏡の輸出は、従来商品で行うようにと、指示というより命令として竹根のところにもたらされた。
 竹根は、そのような本社からの態度にお構いなしにさらにレポート送付を続けた。この経験は、後に経営コンサルタントになってから多いに役立ち、文章を書くことが苦にならなくなった。
 顕微鏡の光源は、ケント商品は鏡で、自然光を利用して凹面鏡で検体を照らす方法である。竹根からは、顕微鏡のベースに光源を組み込む形にするように要求した。それも高電圧式の照明と低電圧式の六ボルト照明、鏡光源のものと三種類から選択できるようにという内容であった。
 返事は、「外付けのケーラー照明を使うことができる」という短い返事であった。
 竹根の次の要求は、接眼レンズは、四十倍以上はフラットフィールド・アポクロマートである。顕微鏡を覗くとどうしても中心部分と周辺部分の焦点が均一にならない。フラットフィールドは、視野内が均一にピントが合う、レンズ構成をした接眼レンズである。少なくても使用頻度の高い四十倍だけでもフラットフィールドにするようにと主張した。
「フラットフィールドは、ケントの実力では無理である」という回答であった。
 竹根は、フラットフィールドを再度主張した。
 ここまで来ると、北野原が根負けをしたようである。一本の四十倍接眼レンズを送ってきた。これについて市場で評価をしてもらいたいという内容の手紙が、相本の手でしたためられてきた。
 竹根は、早速ロングアイランドのフィルモア光学に飛んでいった。フィルモアの親父は、値段次第で売れるというのである。竹根は、この朗報を、訪れたことのあるフィルモアの親父の意見ということを一言加えて北野原に直接手紙にして返事をした。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 11 新商品開発の提案

2024-10-04 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 11 新商品開発の提案 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-11 新商品開発の提案


 竹根は、目の前にある商品の市場開拓に腐心することが多くなった。しかし、自社商品が仕様上で劣るにもかかわらず、原価が高いという難問にぶつかっていた。そのような中で、商品改良や新規商品開発は吃緊の課題と考え、本社に提案書を書いたのである。
 「新機種開発など、もってのほかだ」という回答が本社から返ってきた。
 竹根は、お構いなしにレポートを続けた。
 顕微鏡を覗く部分のレンズを接眼レンズという。顕微鏡を覗く時に、めがねをかけている人は、従来型の接眼レンズではめがねをはずさないとめがねのレンズが接眼レンズに当たってしまい観ることができない。焦点の長い、ハイアイポイントと呼ばれる接眼レンズの開発が必要だとレポートを送った。
 今度は、竹根のレポートが無視されたのか、返事が来ない。
 次に竹根は、接眼レンズについてレポートを送った。接眼レンズは、検体を乗せたスライドグラスにぶつかって壊れないように、ぶつかった時にレンズの先端がへこむようにスプリングを入れたものにする必要があると主張した。
「福田商事もケント光学も、プロが使う顕微鏡を開発し、輸出をする意図はない」ということが、厳しい表現の中に、断固とした意思が読み取れる。
 竹根は、「研究者向けの顕微鏡を開発する意図はありません。私が欲しいのは、医大生が使う、量販顕微鏡です」と回答した。
 竹根のいうスペックは研修者用の顕微鏡であり、その開発の費用を福田商事もケント光学も一円たりとも使う意思はないと、前回以上の厳しい返事が返ってきた。
 竹根は、その返事を無視してさらに次の提案に移った。
「顕微鏡のヘッドは、単眼だけではなく、双眼にすべきである。単眼の場合も直筒型ではなく傾斜型で、ヘッドが回転する形にしないと、旧式顕微鏡としてみられてしまい、市場性がない」と伝えた。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 10 手持ち商品売り込みへの取り組み

2024-09-27 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 10 手持ち商品売り込みへの取り組み  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-10 手持ち商品売り込みへの取り組み
 アテンド客として渡米していた、光学機器メーカーの北野原の一週間の予定は、フィラデルフィア、ワシントン、ボストンの大市場を慌ただしくまわって、北野原嵐はあっという間に過ぎ去った。
 北野原の帰国後も、竹根は仕事の一環として、顕微鏡ビジネスの市場調査を継続した。次第に、顕微鏡の業界についてわかってくると、顕微鏡市場に対する時間投入も増えて
きた。
 もっとも底辺は、顕微鏡セットといって、顕微鏡を使うためのピンセットのようなツールやスライド、カバーグラスなどという消耗品、見本スライド、等々、子どもが研究者気取りになれるようにセットにした商品である。クリスマス商戦の商品の一つである。
 その上は、小学校や中学校向けの顕微鏡である。すでにプラスチック筐体で安価な量産品が出回っていて、ケント光学の顕微鏡では価格的に太刀打ちできない。高校や大学の教養課程的な授業向けは、日本製が大半を占めている。ここは、価格競争の世界で、竹根はあまり乗り気ではない。ただし、ここには偏光顕微鏡など、特殊な顕微鏡は市場性があるとにらんだ。
 大学でも生物学とか医学の分野向けの顕微鏡は、本格的な研究に使うより価格が安く、品質はそこそこのものでも許されそうである。ケント光学が狙うのはこの市場がよいと考えている。ただし、この市場では日本のスバルに加え、日本を代表する二大顕微鏡メーカーの計三社がすでに市場の七〇%以上を占めている。日本の企業同士の価格競争も激しい。とりわけ、日本二大メーカーは品質はケント光学を大きく凌駕している。
 ケントには、この市場向けの顕微鏡がスペック的にも貧弱であり、現在のモデルは市場では旧式と見なされる直筒式である。すなわち、ケント顕微鏡には、この市場向けの商品はないと考えた方がよい。この結論をもとに、この市場向けの機種開発を提案するというレポートを竹根は出した。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 9 北野原社長の辛口トーク

2024-09-20 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 9 北野原社長の辛口トーク 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-9 北野原社長の辛口トーク
 北野原社長との中国料理の夕食は、竹根には豪華すぎる思いをしていた。それだけではなく、北野原の顕微鏡愛の強さが伝わってきて、食事が一層おいしく感じられた。
「スバルというブランドの顕微鏡を知っているかい?」
「スバルですか?日本の顕微鏡のようですね」
「スバルというのは、星野商会という従業員が十人にも満たない会社だ。そこが、日本のレンズメーカーや、加工業者を使って顕微鏡の形にただ組み立てをするだけで、アメリカやヨーロッパに輸出をしている。毎年、三十億円もの売上を上げているのだ」
「たった十人で三十億ですか」
「そうさ、それに対して福田商事はどうだ。年間アメリカに百万円にも満たない金額しか顕微鏡を輸出できていない。自分たちが売りやすいものしか、売らないからだ。顕微鏡のように、販売に手間がかかるものは、代理店に任せっきりだ。そのアメリカの代理店も先般倒産してしまった。だから、今は福田商事はアメリカに顕微鏡の販路を持っていない。接眼や対物レンズが少し出ているだけだ」
 竹根は、福田商事の顕微鏡ビジネスについて、初めてその現状を知った。その実状が、あまりにもひどいことにショックであった。すくなくてもケント光学は福田商事の子会社である。その子会社の製品すらアメリカでは微々たる実績しか上げていない。
「代理店が倒産したからといって、福田商事の海外営業部は誰もその代わりを探そうとはしない」
 声が少々うわずってきた。不満が北野原の気持ちを高ぶらせているようだ。しかし竹根はなんと声をかけてよいのかわからない。
――子会社としては福田商事のやり方に不満を持つのも当然だ――とただ、そんなことを考えるだけである。
「福田商事がうちの顕微鏡を売ってくれないのなら、他に販売チャネルを開拓したいと思うけど、福田商事の子会社だから、まさかそうするわけにも行かない。だけど、これでは飼い殺しだ」
 強い紹興酒なので、まわりが早い。北野原は、限界を超えたようで、口数が次第に少なくなってきた。これが潮時であることを、この数日間で竹根は学んだ。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 8 我が子を愛しむような商品への誇りと愛着

2024-09-13 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 8 我が子を愛しむような商品への誇りと愛着  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-8 我が子を愛しむような商品への誇りと愛着
 ケント光学の北野原社長との夕食は、チャイナ・タウンで食事をすることになった。かつて、フルブライト留学生としてニューヨークに来たことのある北野原は、昔行ったことがあるという中国レストランを目指すことにした。道筋はあまり変わっていないと言いながら、そのレストランがある場所に行ってみると、なんと昔のままにそのレストランがあることを北野原は喜び、驚愕した。経営者は変わっているかもしれないが、四十年近い年月がたっても、同じ形で残っていたのである。それにしても北野原の記憶力と方向感覚の良さには恐れ入った竹根である。
 何種類もの料理が次々と出てくる。中国料理といえば、ラーメンや餃子くらいしか食べたことのない竹根であったので、酒池肉林といえるほどの豪勢な料理ではないが、竹根にとっては竜宮城に来た気分である。舞姫はいないが、家族総出で走り回って客の応対をしている。
 暖められた紹興酒に、ザラメを混ぜて飲んでいた北野原は、少し酔いがまわってきた。このくらいの時が一番口がなめらかになる。
「顕微鏡は、かわいいよ。レンズを乱暴に取り付けるとパーセントリシティが出なくなる。パーセントリシティって、竹根さん、わかるかね?」
「たしか、対物レンズのレボルバーを回転させた時に、中心がずれないことですよね」
「すごい!竹根さん・・・そこまで理解してくれてるか」
 少々ろれつが回らなくなってきた。まだいつもほど飲んでいないのに、本人は気がついていない。ろれつが回わらなくなり始めたということは、北野原に旅の疲れが出てきているのではないかと竹根を心配させた。
「ところがだよ、竹根さん、ちょっと気を抜いて対物レンズを取り付けると、セントリシティだけではなく、パーフォーカリティも狂ってくるんだ。わかるかなフォーカリティ。アッ!これは愚問だったな。英語ができる竹根さんなら、こんなのわかるよね」
「英語ができても、専門用語は別物ですから。これもレボルバーを回転させて倍率を変更した時に焦点調整をしなくてもほぼ焦点が合うように、一台一台チェックと確認をするんでしたよね。調整までは実習でやりませんでしたが、パーフォーカリティのチェックをしたことは覚えています」
「この二つは、少なくても顕微鏡メーカーとしてはきちんとやらなければならないことだ。ところが、顕微鏡というやつは優しくやってごらん、ちょっと調整をするだけで、ピタッと決まるんだ」
 我が子のことを思う口ぶりである。両手で、育てていく、慈しみの気持ちの大切さが込められている。
――この人は、顕微鏡が好きなんだ。その好きな顕微鏡を何とかアメリカでも売りたいんだ。子孫をアメリカにも広めたいのだ。それを私にやって欲しいと、無言のうちに頼んでいるのだ。そういえば、北野原社長にはお子さんがいないのだ。それだからか――
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 7 入札ビジネスにいかに対応するか

2024-09-06 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 7 入札ビジネスにいかに対応するか 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
 一方で、駐在員事務所としての重要業務のひとつアテンドでスケジュールが乱れることも多い、毎日でした。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-7 入札ビジネスにいかに対応するか
 ケント光学の北野原社長とロングアイランドのフィルモア光学を訪れた竹根は、なんとか北野原社長にお土産となる「注文」をとりたいものだと考えていた。
 翌日は、マンハッタンの南の方、ソーホー地区にあるソーホー科学機器を訪問した。ここは、入札専門のビジネスをやっている。顕微鏡だけではなく、いろいろな理化学機器や測定器の入札があると応札する。ケントの顕微鏡も対象になりそうであるが、日本からの出荷では、納期的な問題がありそうで、アメリカ国内に在庫を持たないとソーホー科学機器とは取引ができそうもない。顕微鏡だけではなく、顕微鏡の対物レンズや接眼レンズといった部品類も入札の対象になるという。
 短納期に対応するためには空輸をするか、福田商事が倉庫を借りてそこに在庫を保管しておくか、等と考えた。しかし、福田商事のニューヨーク事務所は、「駐在所」ですので、在庫を持つことはニューヨーク州法ではできない。ニューヨーク駐在事務所の法人化を真剣に考えないと、ビジネスの拡大は難しそうであると竹根は思いながら、ソーホー科学機器を離れた。

 その日は、晴れた良い天気であったこともあり、ソーホー科学機器からそれほど遠くない自由の女神に行くことにした。竹根も初めてである。バッテリー公園の船着き場から十数分の船旅である。海猫が船を追いかけてえさをねだる。乗船客の中には手慣れたもので、飛んでいる海猫群にお菓子を投げる。それを上手に海猫が空中キャッチをすると、乗船客が歓声を上げる。
 小太りの北野原であるが、意外と健脚である。ゆっくりではあったが、自由の女神の王冠のところまで百段以上ある階段を登った。そこから見るマンハッタンは、まさに摩天楼が天に突き刺さる光景であった。今日なら、新宿などあちこちで高層ビルを見ることができるので誰も感嘆することはないであろうが、竹根は、平素は、ビルの下を縫うように走る道を歩きながら上を見上げるだけであったので、自由の女神からやや俯瞰的に見る大パノラマは初めてであった。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 6 アテンド客との同行でロングアイランドへ

2024-08-30 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 6 アテンド客との同行でロングアイランドへ 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-6 アテンド客との同行でロングアイランドへ
 午後は、ケント光学の北野原社長と、ロングアイランドにある顕微鏡を主体とした光学機器の販売店に行くことになっている。
「これから行くところは、竹根さんの知っているところかい?」
「いいえ、先々週初めて電話をしたところ、快く社長の訪問を受け入れてくれました。アメリカ人というのは、自分にプラスにならないとなかなか会ってくれないようなのです。ニューヨークといっても、ロングアイランドにあり、まだ田舎の良いところが残っていて、いわゆるヤンキーの伝統的な良さを持ち続けているようです」
「ケントの顕微鏡が売れるようなところだろうか?」
 ニューヨークの喧噪から離れた、マンハッタン島の東にある東西に細長い、その名を表すようなロングアイランドである。
「不勉強で申し訳ありません。私もアメリカでどのような顕微鏡が売れているのかよく知りません。それどころか、社長の会社で二日間の研修を受けながら触らせてもらったのが十何年ぶりというお恥ずかしい次第です」
「福田商事は、事務機、電子機器、文房具、学校教材、理化学機器など幅広いから、当たり前だよね」

 昨日の雪で、郊外に入るとさすがに雪の積もっているところが多い。高速道路で四十五分ほどのところにあるフィルモア光学に近いインターを出た。高速道路がほぼ西から東に延びているので、高速道路をおりてから右方向、すなわち南に数マイル行ったところである。さらにその道をまっすぐ行くと大西洋だ。運転には自信のある竹根だが、高速道路をおりた雪道はさすがに怖い。VIPを乗せているだけに慎重だ。
 フィルモア社長は、大学の医学部の学生を対象としたビジネスが核であるために、光源つきの、安価な単眼顕微鏡が中心である。安価といっても、ケントの顕微鏡はおもちゃのようなレベルであることがわかった。
 ケントの双眼顕微鏡が安く作れるのであれば、ライバルが嘆願顕微鏡を中心にしているだけに差異化(差別化)ができてビジネスがうまく行くのではないかと竹根は心の中で思った。口にしなかったのは、今のケント光学の力では、双眼顕微鏡を安く作れるだけの力を持っていないことを承知しているからである。

 帰りに、ロングアイランドを東に、すなわち東端方向にさらに三十分ほど行ったところにある漁港のレストランまで足を伸ばした。大西洋の波が押し寄せる海岸に建っている。時間的にディナー時間までには早いこともあるからだろうが、客は竹根たちだけである。窓側の席に案内された。
 レストランのほぼ中央に大きな水槽がある。水槽にいるメインロブスターを自分で選ぶと、それを料理してくれる。日本の伊勢エビとは比べものにならないほど大きい。左のはさみが異常に大きく、挟まれたら痛いだろうと思いながら一匹ずつ、二人で格闘することになった。
 北野原の要望で、しっぽの部分は生で出してもらった。醤油はないが、何もつけずに口にほおばるとプリプリした新鮮な歯あたり、甘味が口に広がり、かくもうまいものがこの世にあるのかと二人とも夢中になった。言葉もない。ひたすら、皮をむき、身を食べて行く。
 白ワインでも飲みたいところなのだろうが、運転をする竹根のことを考えて、さすがに北野原はアルコールを控えた。

 ホテルに戻ってから、近所のバーに入った。ピアノがおいてあり、曲を選ぶとピアニストが演奏をし、それにあわせて歌を歌うのである。ピアノバーと呼ぶことを日本人から教えられていた。今日のカラオケの前進のようなお店である。北野原が美空ひばりの悲しい酒を頼むと、ピアニストが上手に弾いてくれる。日本を思い浮かべているのか、昔を懐かしんでいるのか、北野原も良い声で歌った。それから二人が交代で何曲か歌ってから、その日はお開きにした。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 5 福田商事のCI戦略

2024-08-23 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 5 福田商事のCI戦略 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-5 福田商事のCI戦略
 アテンド客のひとり、北野原はケント光学という福田商事とは付き合いの長いメーカーである。北野原にはニューヨーク着任前に何かとお世話になっていた。
 昼間は日曜であることから、彼のたっての願いと言うほどではないが、楽しみにしていたという自然博物館に連れて行ったが、それが嬉しかったようである。
 夜になると、また酒の席に下戸である竹根は引っ張り出された。幸い、北野原は酒の強要はしないが、その後アメリカ詣でに来るたくさんの人に悩まされることになる。アメリカでは、酔って汚物を出したりすると罰金をとられるので気を遣う。酒飲みに対して寛大な日本と大きな違いの一つである。
 その日の北野原は、福田商事が企業イメージ戦略の一つであるCIの一環として、それまで技術者に慣れ親しまれてきたKENTブランドが使われなくなる。北野原は、社名にケントと入れているだけに、残念な気持ちが強いようである。竹根は、せっかく確立したブランドを捨てることはもったいないと思う程度で、北野原のようなこだわりはない。子会社の意向を無視した福田商事のやり方が不満なようで、北野原は少々荒れた。
 因みにCIとはCorporate Identityといって、企業イメージ高揚のためのマーケティング戦略の一つである。社名をカタカタ文字に変える企業が出たのもこの時期に多い。社名が変わるとその経済効果は大きい。CIを実施した企業側は、印刷物をはじめいろいろなところにコストがかかるが、印刷業界、建築装飾業界など多くを享受できた。CI実施企業にとっては、メリットはばらつきがあった。
 福田商事は、社名を変更することはなかったが、ブランドはすべて「FUKUDA」ブランドに統一され、それまで理化学機器や製図機器関連はケント、事務機器関連はオリエントを使っていたが、それらは一切使わなくなった。

 翌日の月曜日は、午前中は事務所で手紙や本社関連の事務処理をした。本社の相本が送ってくれたであろう手紙について、各担当者に返事を書いた。北野原を待たせているだけに、急いで書くこともあり、書き損じが出て、かえって時間がかかってしまったかもしれない。北野原は、近くの五番街を廻ってきたとかで、高島屋のニューヨーク店があまりにも小さいのでがっかりしたとか、タイムズスクエアあたりのブロードウェイは、彼がかつて滞在していた頃とあまり変わっていないとか言っていた。高島屋が小さい店構えであったのは、それが、日本の国力の実情だろうと、北野原は自分を慰めていた。
 二人で事務所裏にあるコーヒーショップに入った。
「社長、私がアメリカに来る時の飛行機の中で、ジュースがおいしかったのが非常に印象的だったんです。そのときに、アメリカ人は、毎日こんなうまいものを食べているのかと、うらやましくさえ思いました」
 アメリカ生活の経験がある北野原には、竹根が言いたいことが解ったらしく、ニヤリとした。
「ニューヨークで生活するようになって、アメリカの食事をするようになるとすぐ、『よくアメリカ人はこのようなまずいものばかりを毎日食べていられるな』と思うほど、なかなかうまい料理にありつけませんね」
 北野原、頷きながら笑っている。
「わらじステーキは、肉ではないよな」
 竹根がニューヨークに来てまもなくの頃、近くのステーキ屋に入った。丁度わらじのような大きさと形をしたTボーンステーキが二、三ドルで食べられた。値段が安い分、わらじをかじるような歯ごたえのある肉である。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 4 包容力のある経営者との再会

2024-08-16 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 4 包容力のある経営者との再会  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-4 包容力のある経営者との再会
 竹根の業務と並行して、その後も日本からアメリカ詣でと称して、何人かの経営者が訪問してきた。仕事に熱中することで、東京本社で竹根の業務を支援してくれる、相本かほりのことを、気持ちとは裏腹に忘れようとした。かおりからの業務連絡の手紙を受け取るたびに、暗い気持ちになるのは、以前とは全く反対の感情である。失恋とは、かくも自分の感情をマイナス方向に向けてしまうのかと、今更ながら思うのである。

 次に来るアメリカ詣での中の一人が、福田商事の資本が入っているケント光学の北野原社長であった。ニューヨークに着いたのが四月も末近くである。四月にしては珍しく吹雪く中、飛行機の着陸が一時間延びたものの、幸いケネディ国際空港に着陸できた。
 空港に迎えに出た竹根の顔を見ると、長旅の疲れも見せず、六十歳を超えているとは思えない元気な笑顔を北野原は投げかけてくれた。竹根がアメリカに出張するまえに、工場で加工実習まで体験させてくれた唯一の社長である。竹根の両手を、小柄な北野原ががっしりと握った。竹根には、なにか感動するものがあった。
 竹根はご老体の長旅を気遣って、ホテルまで連れて行ってそのまま別れるつもりであった。
「竹根さん、この寒空の下に俺を一人にする気かね」
「空の下ではなく、ホテルの中ですよ、社長」と冗談を言うと、「ニューヨークのこの寒い時期に、なんで俺が来たのかわかるかい?」と真剣な眼差しに引き込まれて、最上階のラウンジで酒の相手をすることになった。
 下戸である、竹根にアルコールを強要はしないが、酒が飲めないと商社では出世できないということを、アルコールが廻るにつれ、くどくどと言い続けた。竹根には、北野原が自分に期待をしていることが、言葉がなくてもわかった。

 翌日は、日曜日であった。約束の時間に北野原を迎えに行き、北野原が希望していた自然博物館に連れて行った。連れて行ったことは行ったが、むしろ北野原の方がよく知っている。聞くところによると北野原は、フルブライト留学生第一号の一人で、ニューヨークには、終戦後まもなく数ヶ月住んでいたというのである。それだけではなく、博物学にも通じていて、それが顕微鏡を製作することにつながり、福田商事の学校ルートで顕微鏡を販売している。顕微鏡開発の苦労、顕微鏡が日本を代表する輸出商品になるまでの業界の苦労、福田商事の販売ルートに乗せるまでの苦労、熱く熱く語る北野原を見て、自分にはこのように熱く語れるモノを一つでも持っているだろうかと思うと、自分の小人さを思い知らされた。
 ケントという社名は、北野原が学生の時に製図の授業で使った製図器のブランドだそうだ。それは福田商事の商品であることは、当然竹根は知っている。ケント製図器がなければ、今の会社も、今の社名もなかったとしんみりと語ってくれた。北野原の福田商事に対する思いを感じ取った。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 3 商社マンの基本を実直に

2024-08-02 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 3 商社マンの基本を実直に 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-3 商社マンの基本を実直に
 アメリカ詣でという名称で、日本からいろいろな会社の経営者・管理職や現場の人達が竹根のいるニューヨークにやってくる。
 来客者は、アメリカに来ても、どこを訪問して良いのか決まっていないことが多い。来客者の会社の状況や事前に本社から連絡を受けている訪米目的に応じて、事前に訪問先のアポイントを取っておくのも商社マンのアテンド業務の中で、時間のかかる作業の一つである。
 しかし、それだけでは情報が不十分であり、必ずしもニーズにピンポイントでマッチするわけではない。むしろ、見当違いの企業にアポイントを取ってしまうことの方が多い。それでは来客者のアメリカ詣での目的を果たせない。
 朝食に付き合いながら、アメリカ詣での目的や、会社がどの様な方向に進もうとしているのか、何に困っているのか等々を訊き出すようにする。その情報と自分のつたない経験で、どの様な企業や団体を訪問したら、来客者の目的にちかづけるかを考える。
 その結果を秘書に連絡をし、情報を集めさせたり、調べさせたりする。

 予定に基づいて、来客者が行こうとする場所に案内する。訪問先が車で行ける場合には、ホテルまで車で来て、ホテル近くの安い駐車場に止めておき、その車で移動する。地理不案内の竹根には、地図が不可欠である。書店で売っている地図は、書籍タイプになっていることが多いので、車の中で調べるには扱いにくい。訪問先近くのガソリンスタンドで給油をし、その時に地図をもらう。その近辺の地図は無料で提供してくれるので、便利である。時には、ほぼ満タン状態で、給油するガソリンの量が少なく、申し訳ないので、買えなくても良いオイル交換をしてもらうこともある。
 列車で移動した方が効率が良いこともある。その場合には、グランドセントラルなど、ターミナル駅までタクシーで行く。竹根ひとりなら地下鉄で移動するのであるが、ニューヨークの汚く、危険な地下鉄に「お客様」を乗せるわけにはいかない。
 訪問先では、来客者のために通訳をしなければならない。専門用語が多く、専門用語はそのまま英語で通訳をする。来客者のほとんどは、英語の専門用語を知っていることが多いので、専門的な知識がなくても何とか通訳をすることができる。竹根は普段、Thinking in English(英語で考える)でやってきているので、日本語を介さないでコミュニケーションをとっている。そのために、通訳という英文和訳や和文英訳はあまり得意ではない。得意ではないことをやらざるを得ないので、気疲れに加え、そのストレスが加わり、疲労感が大きい。
 訪問先で商談を終え、ホテルに戻り、夕食に出かける。夕食をとったあと、ホテルに来客者を届けると事務所に戻る。
 朝食の時に訊きだした来客者のニーズに即して、秘書が調べてくれたり、資料を集めてくれたりしたものをもとに、来客者のニーズに合うような企業の選定をし、アポイントを取るように秘書に指示書を作成する。本社からの通信をもとに本社に返事を書いたり、来客者関連のレポートを作成し、それを本社宛に郵送する。秘書からの細かいメモに目を通して、諸対応を指示書に追記する。
 アテンド業務中は、帰宅するのは真夜中を廻ることが多い。
  <続く>
■ バックナンバー

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 これまでのあらすじ 経験不足の竹根のもがき 7月

2024-08-01 17:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業 これまでのあらすじ 経験不足の竹根のもがき 7月 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。それを私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 商社の海外戦略に関わる人事案件なので、角菊貿易事業部長の推薦する三名を元に、準備は水面下で慎重に進められていました。その中に竹根の名前が含まれていることは、社員の誰もが思いもよりませんでした。
 討議を重ねた結果、福田社長は、海外戦略にも関わる高度な人事の問題なので、専務と社長に一任してほしいと言って三者会談を終えることにしました。しかし、後日、角菊事業部長は、最終的に、自分が推薦した佐藤君ではなく、竹根に決まったと聞かされます。
 一方で、角菊は、自分の意図とは異なる社長の結論に納得がいかないのですが、かといって、それをあからさまにすることはしませんでした。他方、竹根は角菊からの内示なしに、社内には竹根に白羽の矢が立っていることを知りました。
 竹根に何の説明もなく、ニューヨーク駐在の人事発表が発表されました。海外経験のない竹根は戸惑うばかりで、どの様な準備をしたらよいのか途方に暮れていました。そのような時に、直接の上司である長池が再びアドバイスをしてくれ、準備を始めました。しかし、あっという間に出発の日が来たのです。
 空港で家族や長池の見送りを受け、初めての飛行機に搭乗。シートに座っても落ち着きません。次々と出てくる機内食にも戸惑います。初めてのカルチャーショックを味わう竹根です。
 雲と海だけの長いフライトの末、ようやく地上が見えてきました。サンフランシスコの上空から滑走路に向かうのです。着陸の不安、着地後の安堵、アメリカという新天地への期待などが入り混じっていました。着陸したときの安堵感は束の間、自信があった英語のリスニング力も吹き飛ぶほどで、空港内のアナウンスが聞き取れないのです。
 ようやくニューヨークに着き、竹根にとって初めてのアメリカ生活が始まりました。まずは、アパートさがしとニューヨーク事務所さがしです。幸い、日本人の不動産屋さんに出遭うことができ、順調に決めることができました。しかし、家具や内装などでは、カネ次第で、アメリカ時間で動くことに竹根は打ちのめされそうになりました。
 アメリカ生活、最大のショックが訪れました。戦後25年も続いてきた1ドル360円が崩壊したのです。そのような経済環境にもかかわらず、一方で竹根の胸にはひとりの女性が悩まし続けています。しかし、会社は次々と新たなミッションを命じてきます。
 商社マンの業務の一つである、アメリカ詣でに来られた社長さん達のアテンドには、まだ慣れない竹根です。根っからの性格もあり、誠意を持って対応することに心がけ、かいがいしく動いています。
 アメリカで、自分の判断での初めての営業活動の臨んだ竹根ですが、日本の商品が、そのままアメリカに売れるとは限らないという大きな問題に直面するのです。竹根は、マーケティングを学んできていますので、「原点に戻って、マーケティングの原則で考えよう」と自分に言いきかせるのです。
 東京側でのアシスタントの相本嬢が機転を利かせて竹根にこれまでになかった商品の情報を届けてくれたのです。その結果、竹根にとって初めての商談が成立することになりました。
 ここで喜んでいるだけではないのが竹根好助の良いところです。常に明日を見ながら、次に何をすべきかというテーマを持つようにしているのです。そのようなときに、かねてより本社から指示を受けていた教育関連のミッションがいよいよやってきます。主目的は、CAI(computer-assisted (aided) instruction の略)の現状視察です。ところが、進んでいるアメリカの教育界でも実際にCAIを導入しているところはないのです。そこで、先進的な教育をしている学校を事前に調べて、そこを訪問することになっていました。
 実際に、20人近い学校の先生や文部省(現在の文科省)関連の人達の世話をすることは容易ではありません。幸い、旅行社の人がベテランで、社会経験の浅い竹根は学ぶことが多かったようです。


【過去のもくじ】
 1.人選
  1ドル360円時代
  鶏口牛後
  竹根の人事推理
  下馬評の外れと竹根の推理
  事業部長の推薦と社長の思惑
  人事推薦本命を確実にする資料作り
  有益資料へのお褒めのお言葉
  福田社長の突っ込み
  竹根が俎上に上がる
  部下を持ち上げることも忘れない
  福田社長の腹は決まっていた

 2.思いは叶うか
  初代アメリカ駐在所長が決定
  初代所長の決定に納得できず
  竹根に白羽の矢
  竹根の戸惑い
  長池係長のアドバイス
  急ごしらえの出張準備が始まる 

 3 アメリカ初体験
   いよいよ渡米、最初のカルチャーショック
  キュンとしたりトロトロしたり
  心細いサンフランシスコ上空
  生まれて初めて外国の地に降り立つ
  ニューヨーク事務所開設準備が始まる 
  ニューヨークで稼働開始
  ニューヨークの時計はカネ次第で回る速度が変わる!?
  ニューヨーク生活もカネ次第

 4 迷いの始まり
  初めてのアテンドも吹き飛ぶ事態発生
  これって“恋”?
  新しいミッションはCIA???
  新しいミッションはCIAのスパイではなかった
  新しいミッションの準備と竹根の気づき
  仕事を通して人脈ができてくる
  誠意を持った対応
  竹根にとって初めての顧客開拓
  アメリカでの初めての商談
  原点に戻ってマーケティング
  ビジネスでの落ち込みに効く特効薬
  相本の機転
  初めての注文は相本との連係プレー
  日本からの教育ミッション
  甥御さんへのネクタイ選び

 5 中小企業を育てる
  アテンドに大わらわ
■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 2 誠意を持った対応

2024-07-26 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 2 誠意を持った対応 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。
 これからコンサルタントを目指す人の参考になればと、私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
 日常業務をこなしながら、アテンドという商社マンにつきものの業務を自分なりに見つめ直す竹根です。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-2 誠意を持った対応
 現地駐在員というのは竹根ひとりであり、直接、ここで収益が上がる業務ではないので、秘書はひとりだけである。
 毎月4~5組程度の来客があり、その大半を本社指示によりアテンドすることになる。竹根の真面目な性格から、自分の仕事をできる限り秘書に代わって処理してもらうようにしている。朝、早く出勤して、秘書に指示書を作成、もちろん現地人ですので、英語で指示書を書く。前日から解っている作業は前日中に指示書を作成しておき、朝出勤して、本社から入っているテレックスをもとに指示書に追記してゆく。
 それだけではなく、新聞やテレビで日本のニュースを見つけるとそれを切り抜いたり、メモをとったりしておく。それから来客者のホテルに迎えにで向かう。中には、朝食のとり方が解らないという人もいる。その場合には、一階だけはホテルのレストランに連れて行って、好みを聞いた上で、何を食べたら良いのか、どの様に注文したら良いのかを教える。それにより、翌日からは自分で朝食を採ることができるようになる。
 毎朝、ホテルの朝食では、金銭予算のあるだろうからと、コーヒーショップに連れて行って食べさせることも多い。多くの来客者にとって、コーヒーショップの方が気が楽らしい。たしかに、ホテルの朝食は決まったようなメニューに限られ、1ドルが360円換算にすると、飛び出るような金額であるから、日本から来たばかりの人にとっては大きな出費である。
 食事の時に、事前に用意していた日本情報を提供する。アメリカに何日か滞在していると、日本の状況をつかめないでいる人が大半である。現地の新聞は、当然英語で記述されているので、英語が多少できる人でも、見出しを読む程度で、記事本文まで読む人は少ない。英字新聞の見出しは、慣れない日本人には、単語の意味はわかっても、その見出しで何を言っているのかわからないことが多い。文法的にも、受身態表現が少なく、自動詞を使った文章で簡略表記されている。文法を重視した、日本の英語教育の文法では、意味が通らないのである。
 そのために、日本で今何が起こっているのかを話してやると大変喜ばれる。アメリカでは、日本に関する情報提供が非常に少ない。3日遅れで届く日本の新聞を手渡すと、非常に喜ばれる。朝食を採るのも忘れて、隅から隅まで目を通しているようにすら感じる。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 1 アテンドに大わらわ

2024-07-19 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 1 アテンドに大わらわ  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。それを私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。

【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。

◆5章 中小企業を育てる
 商社マンは、商品を輸出すれば良い、というのが、それまでの商社の生き方でした。
 はたしてそれで良いのか、疑問に纏われながらの竹根好助でした。その竹根が、何とか現状で仕事をしながら活路を見いだそうと考えていました。
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆5-1 アテンドに大わらわ
 商社マンにとって、「アテンド」は欠かせない業務の一つである。自社の取引先などがアメリカ詣でと称して、アメリカ視察で市場を見て、自社商品のラインアップ強化などの参考にするのだ。
 竹根は、商社マンとはいいながら、あまり営業センスが良い方でもなく、人見知りをする傾向もある。そのような竹根にはアテンドが苦手である。苦手に拍車をかけるのが夜の接待だ。
 接待というのは、酒がつきものであり、酒が飲めない商社マンは成功しないという「伝統」のようなものがある。ニューヨークに赴任する前に、竹根のアメリカ駐在が決まると先輩が竹根を飲みに誘ってくれては、「商社マンは酒が飲めなければダメだ」を聞かされた。竹根は、下戸である。酒のうまさも解らない。
 彼等は、先輩として、それを竹根に教え込むというよりは、自分が酒を飲むための口実に竹根を誘っているのかもしれない節も見える。それが解っていながら、下戸の竹根は先輩の誘いを拒まなかった。拒まないというよりは、商社マンとして成功するための試練だと自分に言いきかせているのだ。
 飲めない酒を飲めば、酩酊どころか、飲食したものを戻して他の人の迷惑になる。それがわかっていながら、竹根は先輩達についていった。が、体質的にアルコールを受け付けないのであろう、成長はせず、酒を飲めないままニューヨークに赴任してきた。
 その竹根が、アテンドをしなければならないのである。それも相手はほとんどが竹根より年上である。それだけではない。彼等の大半は、福田商事に商品を納めている中小企業の経営者なのだ。彼等は、一国一城の主であったり、それに近い人達なのだ。竹根の気遣いは半端ではない。
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業4章 迷いの始まり 18 甥御さんへのネクタイ選び

2024-07-12 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業4章 迷いの始まり 18 甥御さんへのネクタイ選び  

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。それを私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。

【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。

 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。

◆4章 迷いの始まり 18 甥御さんへのネクタイ選び
  ※ 直前号をお読みくださるとストーリーが続きます。
     直前号 ←クリック

◆4-18 甥御さんへのネクタイ選び


 教育ミッションのパーティの席上でのことである。
 東京のある小学校の山本と名乗る女の先生が来た。
「竹根さん、この二週間、本当にありがとうございました。お世話になりついでに、最後のお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、私にできることなら喜んでお手伝いしますよ」
「実は、私の甥にちょうど竹根さんと同じような年回りの子がいるのです。その子には、今回の旅行前にいろいろと世話になっちゃったのよ。そこで、ネクタイをお土産に持ってゆきたいのだけれど、一緒に選んでくれません」
「ええ、もちろんかまいませんけど、私は着るもののセンスがないので、他の人の方がよいのではないですか?」
「でも、その子、竹根さんと趣味がよく似ているし、性格も同じようなところがあるのね。だから、竹根さんが選べばきっと気に入ってくれると思うの。お願い!」
「わかりました」
 二人は連れだって、パーティ会場のホテルにある洋品店の一つに入った。竹根が、その人の趣味などを利いても、きちんとした返事は返ってこない。竹根の好みで選んでよいというのである。ようやく選んだ二本の中からでさえ、結局は最終的に竹根に選ばせた。
 会場に戻ると、また別の先生が竹根のところに来る。手を握ったり、握手を求めたりする先生もいる。竹根は苦労した甲斐があったと思った。
 先生方の感謝の声のうちにパーティが終わった。このミッションに同行してきた福田商事の国内営業を担当している海部が、「疲れているだろうが、このあと時間を作ってくれないか」と声をかけてくれた。竹根も、このミッションと同行している間に何度も海部に助けられたので、お礼を言いたかった。
 先生方が、三々五々自分の部屋に戻ったのを確認すると、二人はロビーの端にあるバーコーナーでテーブルを挟んで座った。
「先ほど、山本先生という女の先生が、これを竹根君に渡すように預かってきたよ」といいながら、先ほど竹根が選んだネクタイを手渡してよこした。
「ありゃ、やられました」
「どうしたの?」
 竹根は、山本先生との先ほどの出来事をかいつまんで話した。
「私は、このような高価なものをいただくわけにはいきません」
「竹根君、いいじゃないか、君の努力は皆認めているのだよ。よくやってくれた。私も感謝したい。もらっておいたらどう」
 竹根は、改めて、その先生の思いやりがうれしくて、感極まるものがあった。
「実は、相本さんから、君に伝言があるのだ。身体に気をつけて、がんばってくれと言っていたよ」
「そうですか。うれしいですね、相本さんがね」
 竹根は、それ以上言葉が出なかった。
 それをあたかも無視するように海部が続けた。
「相本さん、近々結婚するようだよ。はっきりしたことはわからないけどね。あの子いい子だよね。きっと海外営業部の若い奴らは歯ぎしりしているのじゃないかな」
 竹根の気持ちを知らない海部は、世間話をするように話した。どのような人と結婚するのかだけでも聞き出したかったが、海部は知らないようだった。最近、指針が来ないので何か支障があるなとはうすうすながら感じていた。
――これで、万事休すか――
  <続く>

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業 これまでのあらすじ 経験不足の竹根のもがき 6月

2024-07-05 12:03:00 | 【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業

  【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業 これまでのあらすじ 経験不足の竹根のもがき 6月 

 
■ 【小説】 竹根好助の経営コンサルタント起業 
 私は、経営コンサルタント業で生涯現役を貫こうと思って、半世紀ほどになります。しかし、近年は心身ともに思う様にならなくなり、創業以来、右腕として私を支えてくれた竹根好助(たけねよしすけ)に、後継者として会社を任せて数年になります。 竹根は、業務報告に毎日のように私を訪れてくれます。二人とも下戸ですので、酒を酌み交わしながらではありませんが、昔話に時間を忘れて陥ってしまいます。それを私の友人が、書き下ろしで小説風に文章にしてくれています。 原稿ができた分を、原則として、毎週金曜日に皆様にお届けします。
【これまであらすじ】
 竹根好助は、私の会社の後継者で、ベテランの経営コンサルタントでもあります。
 その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。


 1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
 商社の海外戦略に関わる人事案件なので、角菊貿易事業部長の推薦する三名を元に、準備は水面下で慎重に進められていました。その中に竹根の名前が含まれていることは、社員の誰もが思いもよりませんでした。
 討議を重ねた結果、福田社長は、海外戦略にも関わる高度な人事の問題なので、専務と社長に一任してほしいと言って三者会談を終えることにしました。しかし、後日、角菊事業部長は、最終的に、自分が推薦した佐藤君ではなく、竹根に決まったと聞かされます。
 一方で、角菊は、自分の意図とは異なる社長の結論に納得がいかないのですが、かといって、それをあからさまにすることはしませんでした。他方、竹根は角菊からの内示なしに、社内には竹根に白羽の矢が立っていることを知りました。
 竹根に何の説明もなく、ニューヨーク駐在の人事発表が発表されました。海外経験のない竹根は戸惑うばかりで、どの様な準備をしたらよいのか途方に暮れていました。そのような時に、直接の上司である長池が再びアドバイスをしてくれ、準備を始めました。しかし、あっという間に出発の日が来たのです。
 空港で家族や長池の見送りを受け、初めての飛行機に搭乗。シートに座っても落ち着きません。次々と出てくる機内食にも戸惑います。初めてのカルチャーショックを味わう竹根です。
 雲と海だけの長いフライトの末、ようやく地上が見えてきました。サンフランシスコの上空から滑走路に向かうのです。着陸の不安、着地後の安堵、アメリカという新天地への期待などが入り混じっていました。着陸したときの安堵感は束の間、自信があった英語のリスニング力も吹き飛ぶほどで、空港内のアナウンスが聞き取れないのです。
 ようやくニューヨークに着き、竹根にとって初めてのアメリカ生活が始まりました。まずは、アパートさがしとニューヨーク事務所さがしです。幸い、日本人の不動産屋さんに出遭うことができ、順調に決めることができました。しかし、家具や内装などでは、カネ次第で、アメリカ時間で動くことに竹根は打ちのめされそうになりました。
 アメリカ生活、最大のショックが訪れました。戦後25年も続いてきた1ドル360円が崩壊したのです。そのような経済環境にもかかわらず、一方で竹根の胸にはひとりの女性が悩まし続けています。しかし、会社は次々と新たなミッションを命じてきます。
 商社マンの業務の一つである、アメリカ詣でに来られた社長さん達のアテンドには、まだ慣れない竹根です。根っからの性格もあり、誠意を持って対応することに心がけ、かいがいしく動いています。
 アメリカで、自分の判断での初めての営業活動の臨んだ竹根ですが、日本の商品が、そのままアメリカに売れるとは限らないという大きな問題に直面するのです。竹根は、マーケティングを学んできていますので、「原点に戻って、マーケティングの原則で考えよう」と自分に言いきかせるのです。
 東京側での脚ステントの相本嬢が機転を利かせて竹根にこれまでになかった商品の情報を届けてくれたのです。その結果、竹根にとって初めての商談が成立することになりました。


【過去のもくじ】
 1.人選
  1ドル360円時代
  鶏口牛後
  竹根の人事推理
  下馬評の外れと竹根の推理
  事業部長の推薦と社長の思惑
  人事推薦本命を確実にする資料作り
  有益資料へのお褒めのお言葉
  福田社長の突っ込み
  竹根が俎上に上がる
  部下を持ち上げることも忘れない
  福田社長の腹は決まっていた

 2.思いは叶うか
  初代アメリカ駐在所長が決定
  初代所長の決定に納得できず
  竹根に白羽の矢
  竹根の戸惑い
  長池係長のアドバイス
  急ごしらえの出張準備が始まる 

 3 アメリカ初体験
   いよいよ渡米、最初のカルチャーショック
  キュンとしたりトロトロしたり
  心細いサンフランシスコ上空
  生まれて初めて外国の地に降り立つ
  ニューヨーク事務所開設準備が始まる 
  ニューヨークで稼働開始
  ニューヨークの時計はカネ次第で回る速度が変わる!?
  ニューヨーク生活もカネ次第

 4 迷いの始まり
  初めてのアテンドも吹き飛ぶ事態発生
  これって“恋”?
  新しいミッションはCIA???
  新しいミッションはCIAのスパイではなかった
  新しいミッションの準備と竹根の気づき
  仕事を通して人脈ができてくる
  誠意を持った対応
  竹根にとって初めての顧客開拓
  アメリカでの初めての商談
  原点に戻ってマーケティング
  ビジネスでの落ち込みに効く特効薬
  相本の機転
  初めての注文は相本との連係プレー
  日本からの教育ミッション

■ バックナンバー
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする