経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 1031 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師 ■ 葛飾 北斎 生誕 江戸時代後期の浮世絵師

2023-10-31 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1031 ■ 安倍 晴明 平安時代の陰陽師 ■ 葛飾 北斎 生誕 江戸時代後期の浮世絵師

 

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 安倍 晴明 平安時代の陰陽師


 あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら
 延喜21年1月11日〈921年2月21日〉- 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉

 平安時代の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖です。官位は、従四位下・播磨守です。

 幼少の頃については確かな記録はありませんが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に、陰陽道を学び、天文道を伝授されたといわれています。

 960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)でありました晴明は、村上天皇に占いを命ぜられていて、出世は遅れていましたが、占いの才能は既に貴族社会で認められていました。

 979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を封ずる儀式を行っています。

 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになりました。

 花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めたようです。

 

■ 葛飾 北斎 生誕 江戸時代後期の浮世絵師


 かつしか ほくさい、葛飾 北齋
  宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉


  江戸時代後期の浮世絵師で、化政文化を代表する一人といえます。

  代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家であることは周知の通りです。

  森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表したと言われますので、超人的な面もあると言えます。

  若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵も傑出した作品を残しています。

  北斎は、絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなったといえます。

  北斎は、浮世絵で高い芸術性を表しましたが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力が見えます。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したことは、意外と知られていません。

  毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であると、専門家は表しています。

  葛飾派の祖であることはいうまでもありませんが、ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、多くの芸術面でも大きな影響を与えています。

  ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究し、自分で試みたといいます。

  また、油絵に対しても関心が強かったようですが、遂に果たせなかったのです。

  1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしています。

 その功績の大きさは、計り知れないということでしょうか。

 

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■【きょうの人】 1030 ■ 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長 ■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成

2023-10-30 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1030 ■ 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長 ■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成

 

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 芹沢 鴨  新撰組初代筆頭局長


 せりざわ かも、芹澤 鴨
 天保3年(1832年)? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日)


 幕末の水戸藩浪士で壬生浪士、すなわち新選組の初代筆頭局長です。

 前名は、下村嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)といわれています。諱は、光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされていますが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていません。

 江戸で結成された浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命されました。

 芹沢らは、八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)、この前後より「壬生浪士」と称され始めました。

 その際、内部抗争が起き、暗殺され、仲間も離脱しますと、壬生浪士は、芹沢派と近藤派が牛耳ることになりました。

 内部抗争が激化し、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されました。

 

■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成


 おざき こうよう
 1868年1月10日(慶応3年12月16日)- 1903年(明治36年)10月30日


 江戸時代に生まれた、明治時代の小説家で、本名は徳太郎といいます。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持っています。

 1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊しはじめました。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期の文壇の重鎮といえます。

 1897年(明治30年)から『金色夜叉』の執筆を始めましたが、未完のまま没してしまいた。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生を育ててました。

 小説だけではなく、俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称されました。

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■【きょうの人】 1029 円珍 天台寺門宗寺門派の宗祖

2023-10-29 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1029 円珍 天台寺門宗寺門派の宗祖

 

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 円珍 天台寺門宗寺門派の宗祖


 えんちん
 弘仁5年3月15日(814年4月8日- 寛平3年10月29日(891年12月4日)


 平安時代の天台宗の僧で、天台寺門宗(寺門派)の宗祖でもあります。

 法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」で、諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)と称し、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人ですので、最澄・空海らと肩を並ぶお人なのです。

 讃岐国(香川県)金倉郷に誕生しました。その地の豪族・佐伯一門のひとりで、俗姓は「」和気」といいます。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたるといわれています。

 15歳で比叡山に登り、義真に師事、12年間の籠山行を終えました。

 役行者を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼しました。吉野での修験道の発展に寄与することになり、承和13年(846年)には、延暦寺の学頭となりました。

 仁寿3年(853年)に、新羅商人の船で唐に向かう途中で暴風に遭って台湾に漂着したいりしました。

 天安2年(858年)帰国後、比叡山の山王院に住したの地、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜りました。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上におきましても注目されることです。

 

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■【きょうの人】 1028 ■徳川慶喜生誕 江戸幕府最後の将軍 ■酒井忠次 徳川家康のNo.2

2023-10-28 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1028 ■徳川慶喜生誕 江戸幕府最後の将軍 ■酒井忠次 徳川家康のNo.2

 

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 徳川慶喜生誕 江戸幕府最後の将軍


 天保8年9月29日(1837年10月28日)に江戸幕府最後となる第15代征夷大将軍の徳川慶喜が誕生しました。子供の頃、大人達が「ケーキ」といっていたのを聞いて「おもしろい名前の人がいるものだ」と思ったことがあります。


 毎朝、運動不足解消のために散歩をしています。すぐ近くに国際仏教学大学院大学があります。そこは、徳川慶喜終焉の地として知られています。慶喜に関するものは何も残ってなく、碑だけが残っています。


【Wikipedia】 徳川 慶喜(とくがわよしのぶ)

 江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。
 御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸城明け渡し(無血開城)を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。

生誕:天保8年9月29日(1837年10月28日)
死没:大正2年(1913年)11月22日
墓所:谷中霊園
氏族:徳川氏(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家)
父母:父・徳川斉昭 母・吉子女王(有栖川宮織仁親王娘)

 

図 1_309

 

■ 酒井忠次 徳川家康のNo.2として苦言を呈す

 さかい ただつぐ
 大永7年(1527年)-慶長元年10月28日(1596年12月17日)

 酒井忠次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将で、徳川の筆頭とされ、家康第一の功臣といわれています。

 酒井忠次の生誕地である井田城址で、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として今日の愛知県岡崎市井田町です。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕えていました。

 竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行しました。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕えました。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で激しい攻防の末、勝家を敗走させるなど軍略にも長けていました。

 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの酒井家武将と行動を別にして、家康に従いました。

 石川一正が、西三河を、忠次が東三河を統制することとなり、家康の主な戦いには全て参戦し、功を残しています。歯に衣着せぬ物言いをする人ですが、家康の厚い信任を受け、家康第一の重臣となりました。

 松平家が、織田信長から武田との謀反の詰問を受けたとき、家康の息子信康を十分に弁護できませんでした。これが家康の心のそこにあったのか、他の重臣が多くの禄を加増されましたが、忠次は、その恩恵を受けませんでした。

 天正16年(1588年)、長男の家次に家督を譲って隠居しました。加齢、眼病などがその理由のようですが、家康のやり方に嫌気がさしたのではないかと、私は考えます。

 慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去、享年70、墓所は知恩院の塔頭・先求院で、墓は知恩院山腹の墓地内にあります。

 

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■【きょうの人】 1027 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる

2023-10-27 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1027 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる

 

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 覚猷 鳥獣戯画の作者と言われる


 かくゆう
 天喜元年(1053年)- 保延6年9月15日(1140年10月27日)


 平安時代後期の天台僧で、鳥羽僧正(とばそうじょう)とも呼ばれます。日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、現在高山寺が所蔵します、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられています。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされます。

 覚猷は、1053年に源隆国の第九子として出生し、若年時に出家しました。園城寺にて天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになりました。

 長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めました。

 四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏など大寺社の要職を歴任する間、1132年には僧正へ、1134年には大僧正へ任じられました。

 1138年、47世天台座主となりましたが3日で退任し、鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となりました。それ以後、鳥羽僧正と呼ばれるようになりました。

 

  【カシャリ! ひとり旅】 高山寺
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_kousanji.htm

 

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■【きょうの人】 1026 ■ 岩倉具視 下級公家から明治政府の重鎮へ ■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ

2023-10-26 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1026 ■ 岩倉具視 下級公家から明治政府の重鎮へ ■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ

 

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 岩倉具視 下級公家から明治政府の重鎮へ


 いわくら ともみ
 文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)


 NHK大河ドラマ「西郷どん」で一躍名前を挙げた一人が、岩倉具視です。下級公家でありながら、世渡りの上手さで、明治政府の海外派遣団の団長となったり、五百円紙幣に登場したりする程までに出世をしました。

 安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦の日米修好通商条約が、多くの公卿・公家から批判をされました。「八十八卿列参事件」といわれるこの事件では、岩倉が始めて政治の舞台に躍り出て、孝明天皇を始め、多くからその存在が認められることになりました。

 また、「安政の大獄」では幕府寄りの姿勢から京都所司代・酒井忠義に認められました。

 徳川家茂への和宮の降嫁の件では、「和宮御降嫁に関する上申書」を孝明天皇にさしだすなどで、その功績が認められています。

   岩倉具視幽棲旧宅

   

 

■ 伊藤 博文 千円札の肖像画でおなじみ


 いとう ひろぶみ
 1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日


 旧千円札の肖像画でおなじみですが、長州藩の武士で、明治政府の政治家として活躍、従一位大勲位公爵を賜っています。諱は、博文(ひろぶみ、「ハクブン」)で、号は春畝(しゅんぽ)でした。貧しい農村に生まれ、幼名は利助(りすけ)でした。

 松下村塾の門弟となり、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、「俊輔(しゅんすけ)」となり、さらに「春輔」と改名しました。

 幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加しました。「長州ファイブ」の一人として、長州藩の公金を、半ば横領に近い形で利用して、仲間4人と共にイギリスに留学し、土木学など、実利的な学問を学びました。

 その最中に、下関戦争が勃発、急遽帰国して戦後処理に奔走しました。

 それらの実績が評価され薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使を務めるなど、頭角を現しました。帰国後は、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心人物となりました。

 初代内閣総理大臣になったことはよく知られていますが、その後も何回か総理大臣を務めています。
 立憲政友会を結成し、初代総裁となり、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印などのメンバーにもなっています。

 1909年、ハルビン駅で、朝鮮民族主義活動家の朝鮮人・安重根に暗殺され、女性問題が多かったり、死後、渋沢栄一によって幕末時の暗殺稼業が暴露されたりと、波瀾万丈の人生でもありました。

 伊藤博文は、松下村塾では、劣等生だったようです。しかし、「人の話を聴く」という点では、すばらしいものがあり、情報収集力に長じるようになったそうです。それを武器に、人脈作りの達人にもなりました。

 彼は、自分と意見を異にする人とも、人間関係を維持し、それらの人を通して、異なったモノの見方を学んだようです。彼が、総理大臣を務めたときには、自分の政敵ともいえる人達を大臣に登用するなど、人の使い方もうまかったのでしょうね。

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■【きょうの人】 1025 西山(せいざん) 浄土宗の開祖法然上人の高弟 永観堂とゆかり

2023-10-25 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1025 西山(せいざん) 浄土宗の開祖法然上人の高弟 永観堂とゆかり

 

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 西山(せいざん) 浄土宗の開祖法然上人の高弟 永観堂とゆかり


 西山上人は、浄土宗の開祖法然上人の高弟で、「証空」として知られています。

 自らが唱える「西山義」の教えを広め、西山によって唱えられた西山義は、やがて浄土宗西山派として知恩院の浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大きな派となりました。

 現在の西山浄土宗の母体である光明寺派は、その浄土宗西山派の流れをくむ一派です。

 西山の弟子である西谷(せいこく)流の浄音が、西山の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷流を唱えだし、光明寺や禅林寺(永観堂)を中心に西山義、西谷流の教えを広めたのが直接の始まりです。

 

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■【きょうの人】 1024 ティコ・ブラーエ 貴族でありながら天文学者で宇宙モデルを発表

2023-10-24 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1024 ティコ・ブラーエ 貴族でありながら天文学者で宇宙モデルを発表

 

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 ティコ・ブラーエ 貴族でありながら天文学者で宇宙モデルを発表


 Tycho Brahe
 1546年12月14日-1601年10月24日


 デンマークで最も有力な貴族家系の後継者として生まれたたデンマークの貴族ですが、天文学者・占星術師・錬金術師として知られ、作家でもありました。

 当時としては極めて正確かつ包括的な天体観測を実施したことで知られています。

 天文学と正確な観測器具の製作に関心を持ちました。

 天文学者として、コペルニクス体系に見出した幾何学的有用性を、プトレマイオス体系の哲学的有用性と共に、彼自身の宇宙モデルであるティコ体系に組み合わせることに取り組だ人です。

 ティコ体系は月が地球の周囲を公転し、惑星が太陽の周囲を公転していることを正しく描いていました。しかし、宇宙の中心に地球を置き、太陽が地球の周囲を公転するというものであったために、説明がつかない現象が多々発生しました。

 ティコのアシスタントをしていた、ケプラーは、後にティコの天文観測データを使用してケプラーの法則を発見しました。

 

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■【きょうの人】 1023 醍醐天皇 菅原道真を太宰府に左遷 ■ 西有 穆山 曹洞宗の僧侶、総持寺貫首

2023-10-23 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1023 醍醐天皇 菅原道真を太宰府に左遷 ■ 西有 穆山 曹洞宗の僧侶、総持寺貫首

 

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 醍醐天皇 菅原道真を太宰府に左遷


 だいごてんのう
 885年2月6日〈元慶9年1月18日〉- 930年10月23日〈延長8年9月29日〉


 日本の第60代天皇(在位:897年8月4日〈寛平9年7月3日〉- 930年10月16日〈延長8年9月22日〉で、諱は、維城(これざね)、のちに敦仁(あつぎみ・あつひと)とも呼ばれました。

 臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といいました。のち父の即位とともに皇族に列し、親王宣下ののちに敦仁親王に改めました。

 宇多天皇の第一皇子で、母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子です。養母は、藤原温子(関白太政大臣基経の女)です。

 立太子即位の時に、父宇多天皇から剣を下賜され、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれています。

 父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せました。

 時平の讒言を容れて菅原道真を太宰府・大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになりました。近年では、この事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられています。

 天皇は和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じています。

 33年間にわたって記した宸記『延喜御記』全20巻は早くから散逸して現存していませんが、諸書に引用された逸文を次の村上天皇のそれと併せた『延喜天暦御記抄』として伝わっています。

 天皇は、はじめ中宮藤原穏子との間に儲けた長子保明親王を東宮とし、その御息所に時平の娘・仁善子を入れていましたが、延喜9年(909年)に時平が死に、2年後には親王も21歳で早世してしまいます。

 しかし延長8年6月(930年7月)に、清涼殿落雷事件が起きますと、これ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病が篤く、皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位しました。

 

 西有 穆山 曹洞宗の僧侶、総持寺独住三世貫首

 にしあり ぼくざん
 俗名:笹本万吉
 文政4年10月23日(1821年11月17日)-明治43年(1910年)12月4日


 陸奥国(青森県)八戸出身の日本の曹洞宗の僧侶で、横浜市總持寺独住3世貫首でもあります。法名は瑾英(きんえい)、直心浄国禅師で、俗名は、笹本万吉です。

 天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、金栄と名乗っていました。天保10年(1839年)に、仙台に移転し、天保12年(1841年)に江戸に出て、吉祥寺旃檀林学寮に入りました。浅草本然寺の泰禅の後を継ぎ、牛込鳳林寺住職となり、小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行しました。

 瑾英に改名し、1861年、諸嶽奕堂会下の龍海院で修行中に大悟を得て、奕堂より印可を受けました。

 宗参寺・鳳仙寺を経て、大教院に呼ばれて中講義・大講義、總持寺出張所監院、本山貫首代理になりました。法光寺・中央寺・可睡斎・伝心寺を経ています。

 明治33年(1900年)に、信者の寄付により、横浜に西有寺を創建、翌明治34年(1901年)に總持寺貫首に選ばれます。翌明治35年(1902年)に、曹洞宗管長となりました。明治38年(1905年)に横浜で引退し、明治43年(1910年)12月4日に遷化しました。

 著書に『直心浄国禅師語録』4冊、『正法眼蔵啓迪(けいてき)』3冊などがあります。

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■【きょうの人】 1022 空也上人 口から仏像が出て来る!!

2023-10-22 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

【きょうの人】 1022 空也上人 口から仏像が出て来る!!

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■ 空也上人 口から仏像が出て来る!!


 くうや
 延喜3年 - 天禄3年9月11日 (新暦):903年 - 972年10月20日)


 平安時代中期に京都で生まれた浄土宗の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人とも称されます。

 口称念仏の祖で、民間における浄土教の先駆者と評価されます。空也流の念仏勧進聖は、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。

 俗に天台宗空也派と称する一派においても祖と仰がれていますが、空也自身は、複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ちました。

 没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は、現在真言宗智山派に属します。(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗でした)。

 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身が、いわゆる踊念仏を修したという確証はありません。

 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えました。

 遺命により11月13日をもってその忌日とし、踊り念仏を修して空也忌法要が行われます。

 

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■【きょうの人】 1021 江戸川 乱歩 探偵事務所勤務の経験を活かした小説

2023-10-21 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1021 江戸川 乱歩 探偵事務所勤務の経験を活かした小説

 

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■ 江戸川 乱歩 探偵事務所勤務の経験を活かした小説


 えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步
 1894年(明治27年)10月21日 - 1965年(昭和40年)7月28日)


 大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家です。

 戦後は推理小説専門の評論家としても知られています。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所に勤務していたという経歴を持っています。

 本名は平井 太郎(ひらい たろう)で、日本推理作家協会初代理事長を務め、位階は正五位、勲等は勲三等です。

 ペンネーム(江戸川乱歩)は小説家の、エドガー・アラン・ポーに由来するということは、推理小説にご興味のある方であれば、想像がつくでしょう。

 三重県名賀郡名張町(現・名張市)で、名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれました。平井家は武士の家柄で、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げました。

 1917年(大正6年)11月、鳥羽造船所電機部に就職し、庶務課に配属されました。技師長に気に入られ、社内誌「日和(にちわ)」の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に従事しました。

 1923年(大正12年)、『新青年』とう雑誌で、『二銭銅貨』でデビューしました。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志し、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残したのです。

 江戸川乱歩の小説は色々な形で出版され、光文社文庫の「江戸川乱歩全集」(全30巻)、創元推理文庫(全20巻)をはじめいろいろな形で出版されました。

 助手の小林少年が登場する名探偵・明智小五郎シリーズは、コナン君にも通ずるものがあり、少年達の心をわしづかみにしました。

 

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■【きょうの人】 1020 ■二宮 尊徳 歩きスマホの先駆者 ■夢窓疎石(夢窓国師) 禅宗の僧ですが庭園設計者としても知られる

2023-10-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1020 ■二宮 尊徳 歩きスマホの先駆者 ■夢窓疎石(夢窓国師) 禅宗の僧ですが庭園設計者としても知られる

 

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 夢窓疎石(夢窓国師) 禅宗の僧ですが庭園設計者としても知られる


 むそう そせき
 道号が夢窓、法諱が疎石
 建治元年(1275年)- 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日)享年76

 鎌倉時代末から南北朝時代・室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧です。

 伊勢国(三重県)出身で、幼少時に出家し、甲斐国(山梨県)に移住、1283年に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門しました。空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学びました。

 1292年に奈良の東大寺で受戒し、京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学びました。その後、鎌倉へ赴き、円覚寺や建長寺等で禅宗を学び、1305年には浄智寺で印可を受けました。

 正中2年(1325年)に、建武の新政を開始した後醍醐天皇の要望により南禅寺の住持となりました。1335年に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられました。

 生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称されます。

 世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られています。その作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものといわれています。

 

■ 二宮 尊徳 歩きスマホの先駆者


 にのみや たかのり
 天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日)


 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。自筆文書では、金治郎(きんじろう)と署名している例が多いのですが、一般には「金次郎」と表記されることが多いです。

 諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読みますが、「そんとく」という読みで定着しています。

 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。

  四字熟語 経世済民
  http://www.glomaconj.com/joho/keieijoho.htm#17

相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。

 尊徳は、まず生まれた堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁、20歳も若い、貞淑温良ななみ(波子)と結婚しました。

 文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げるなど、成果を出しています。

 小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼し、千両もの負債を償却し、頭角を現しました。

 文政4年(1821年)には、小田原藩主大久保家の分家であります宇津家の旗本知行所が荒廃していて、再興救済を藩主より命じられました。農民の抵抗で苦労しましたが、再建しました。

 晩年近く、天保4年(1833年)には、天保の大飢饉が関東を襲いましたが、金次郎の力を充分に発揮しました。


 二宮金次郎といえば、戦前には、どの学校にも銅像が建っていると言えるほど、一般的でした。背中に芝を背負い、本を読む姿は、子供達へのお手本でした。今日では、歩きスマホが非難を浴びていますが、当時は、むしろ誉められる行為だったのですね。
 

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■【きょうの人】 1019 高峰顕日 後嵯峨天皇の第二皇子、臨済宗高僧

2023-10-19 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

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 高峰顕日 後嵯峨天皇の第二皇子、臨済宗高僧


 こうほう けんにち
 仁治2年(1241年)- 正和5年10月20日(1316年11月5日)


 鎌倉時代後期の臨済宗の僧で、後嵯峨天皇の第二皇子です。諱は顕日、字は高峰、密道と号しました。諡号は、仏国禅師・仏国応供広済国師といいます。

 1256年(康元元年)に、円爾に従って出家し、十六歳の時に聖一国師につき得度しました。その後、兀庵普寧や弘安二年には、無学祖元に世良田長楽寺にて師事しました。

 下野国那須の雲巌寺の開山にもなっています。

 南浦紹明とともに天下の二甘露門と称されました。

 鎌倉幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任しています。門下には、夢窓疎石などの俊才を輩出し、関東における禅林の主流を形成しました。

 七十二歳で遷化しています。

 

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■【きょうの人】 1018 了誉上人 江戸小石川伝通院の基、無量山寿経寺を開創

2023-10-18 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

  【きょうの人】 1018 了誉上人 江戸小石川伝通院の基、無量山寿経寺を開創

 

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 了誉上人 江戸小石川伝通院の基、無量山寿経寺を開創


 りょうよ
 興国2年/暦応4年10月15日(1341年11月24日-応永27年9月27日(1420年11月3日)


 号は「酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)」である「聖冏(しょうげい)」は、南北朝時代から室町時代中期にかけての僧で、浄土宗(鎮西義)第7祖です。

 常陸国・椎尾氏の出身で同国瓜連常福寺の了実について出家しまし、太田法然寺の蓮勝に師事しました。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めてもいます。

 宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定め、神道・儒学・和歌にも精通し『古今集序註』『麗気記拾遺抄』を著しています。

 門弟に聖聡・了知などがおり、第8祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価されています。

 江戸小石川に伝通院を、無量山寿経寺という名で開創したことでも知られています。

 慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母「於大の方」が75才、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号しました。この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。

 家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り、千姫の墓標もここにあります。

 

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■【きょうの人】 1017 公海 入滅 天海僧正の後継者

2023-10-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人10月

 

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 公海 入滅 天海僧正の後継者


 こうかい
 慶長12年12月12日(1608年1月29日) - 元禄8年10月16日(1695年11月22日)


 江戸時代前期の天台宗の僧で、展開の弟子。父は花山院忠長、母は本願寺教如の娘で、天海の没後に日光山貫主を継承しました。

 1620年(元和6年)天海僧正の門に入り、1643年(寛永20年)に、天海が没するとその法をついで東叡山寛永寺に住し、天台宗の総本山である比叡山・徳川家康を祀る東照宮のある日光山を管理下に置いて天台宗一宗を管領するようになりました。

 1647年(正保4年)に、僧正に任じられ、翌1648年(正保5年)には大僧正に就任しました。

 天海の遺志をつぎ山科(現在:京都市山科区)毘沙門堂を復興しています。まさに、師展開を尊敬する功績ですね。

 

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  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

 

 


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