物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

電磁気学の難しさ

2010-12-10 12:51:10 | 物理学

電磁気学の単位については放送大学の岡部洋一さんのインターネットのサイトに詳しい説明があり、私にも少しづつわかってきている。また、EMANの物理学にも説明がある。それらを総合してわかりかけているが、まだ全部わかったというわけではない。

なぜ電磁気学が難しいのかもそれらのサイトの説明でわかりつつある。以前には本が頼りであったので、電磁気学の単位系についても、なぜ電磁気学がわかりにくいかの分析も明らかではなかったが、それを明らかにしている、インターネットのサイトができている。

これは書籍にはページ数を惜しんで何でも書くことができないが、インターネットでは文を簡潔に書く必要は必ずしもないので、長さを気にしないで詳しく書くことができるから読んでわかる説明に接することができるようになったのであろう。

新しい電磁気学の書籍はSI単位系によって記述されることが標準的になってきたが、場の量子論のテクストは昔からヘビサイド・ローレンツ単位系で書かれることがほとんではなかったろうか。場の量子論の新しいテキストを見ていないので、単位系のことを断言できないが、場の量子論のテキストの単位はいまでもヘビサイド・ローレンツ単位系のままではないかと思う。

これがcgsガウス単位系が捨てられない大きな理由であるような気がする。ヘビサイド・ローレンツ単位系はcgsガウス単位系で有理化だけをした単位系であるから。

SI単位系は物性としての磁性の研究をしている人にはあまり好かれていなかったように思うが、さて磁性の専門家の友人のTさんはどうなのだろう。現在は電磁気学をSI単位系ではない単位系で教える先生は多分一人もいないだろう。だが、SI単位系での磁性関係のいろいろな単位はどうもなじめない。しかし、これは単に自分の歳のせいと慣れの問題かもしれない。


逆格子は難しいか

2010-12-09 12:53:49 | 数学

最近なぜか逆格子のブログへのアクセスが増えている。

逆格子は難しい概念だろうか。私は難しい概念だとは思わない。ただ、その従来の説明の仕方が、天下りなので難しいように思われるのだろう。

これについては私自身の理解にいくつかの未解決のことがあるので、逆格子についてのエッセイを書きかけで仕上げてはいないのだが、世間の人にそれについての要望があるのなら近々書いてみたい。

私の大学院で行っていたセミナーで有名なキッテルの固体物理の本(もちろん翻訳)の一部を毎年講読していたが、この逆格子の説明を私は実数の逆数からはじめていた。

普通の数に逆数があるように直接格子ベクトルにも逆格子ベクトルがあるというのが私の見解である。

ただ、実数の逆数とちょっと違ったところがある。

それは実数の場合にはその逆数は実数体の中にあるのだが、逆格子ベクトルは元の直接格子ベクトルの空間にはない(私はそう思っているが、間違っているかもしれない)。そこが実数の場合とは違う。

北野正雄著『新版 マクスウエル方程式』(サイエンス社)によれば、直接格子ベクトルは実空間のベクトルであり、それに双対な空間のベクトルが逆格子ベクトルであるという。もっとも北野さんの本にはこのことは明示されていなかったでしょうか。

ところが、逆格子ベクトルと直接格子のベクトルとの積が定義されて、かつそれがある実数とその逆数のような関係にあるとするとこの演算が許されるもっと大きな空間があるのではないかと思ってしまうが、その辺が自分でもよく分かっていない。

ベクトルとベクトルとの積がスカラーになる、スカラー積とか擬(軸性)ベクトルになるベクトル積とかは実数が体の中で閉じているという情況とは違うということをベクトルの歴史を書いた本の脚注か何かで読んだが、そういうことをその本を読むまで気がつかなった。

反変ベクトルの基底ベクトルを実空間での格子ベクトルとすれば、共変ベクトルの基底ベクトルが逆格子空間でのベクトルであるということは砂川重信著『相対性理論の考え方』(岩波)を読んで知ったことである。

最近では微分形式の理論が物理学者の間に普及している。微分形式では反変ベクトルは単にベクトルと言われ、共変ベクトルは1形式と言われている。 

固体物理学で学んで知っている、逆格子ベクトルの概念と共変とか反変ベクトルとかが関係していることを長い間知らなかったのは、どこか私の物理学の学び方が悪いのだろう。

(2018.5.8 付記) はじめて逆格子ベクトルを学んだ人はだれでも、これを難しいと感じる。逆格子ベクトルの定義に表れる分母の因子(ファクタ)は単に正規化の因子だから、あまり重要ではない。まず比例定数を何か文字(たとえば定数 V)で表しておき、それを後で正規化の条件から決めてやればよい。そういうあまり本質的ではないことは後に残して、本質的なことに焦点をあてて逆格子ベクトルを定義すべきであろう。また、そのようにテクストを書くべきだろうに。それをしないので毎年この時期になると私のこのブログが検索されるという事態になる。

(2021.9.7付記)逆格子のことについて書きたいと思いながら、なかなか書けていない。相反基底とか双対基底とか言われるものと関係があるのだが、なかなかそれについての考えがまとまらない。

一応原稿をつくっていたのだが、友人に見てもらったら、逆格子の定義がまちがっているとかの指摘があったので、混迷に陥ってしまった。まちがっているはずがないのだが。

これについて明解な解説を書きたいと思いながら、なかなかそれが満たされていないという状況である。世の結晶学を学び始めた方々にはすみません。

電磁気学の単位系

2010-12-08 10:54:56 | 物理学

現在、また電磁気学の単位系の変換が気になって調べている。ところがインターネットでもこのことを書いたサイトはたくさんあるのだが、どうも満足できない。結果は間違っていないのだろうが、どうも気に入らない。

熊谷寛夫さんの書「電磁気学の基礎」にもこのことが書いてあるのだが、はじめ読んだときはなるほどと思ったのだが、電荷の静電単位系とSI単位系の電荷の換算の導出をはっきりと書いていない。別にこれを既知の知識としているわけではないのだろうが、どうもすっきりとしない。

世にはたくさんの電磁気学の書があり、Kさんの書いた本には、「SI単位系がとてもよくできているのだからそのほかの単位は気にしなくてもいい」と書かれているが、そうもいかないのではないかというのが私の個人的な気持ちである。

そのほかいろいろみなさんが書かれており、その内容はそれぞれ学ぶところが多いが、それでもまだ十分に納得できないような気がする。だが、多分にまだ私の理解が十分でないことが原因なのであろうとぼんやりと考えている。


毛糸の帽子

2010-12-07 11:22:12 | 日記・エッセイ・コラム

妻が今年も毛糸の帽子を編み始めた。これは誰からか注文が出たためであろう。

昨年は30個ぐらい作ったと思う。毛糸の原価の300円で帽子の作成を請け負っている。これは原価の毛糸代くらいであって自分の儲けにはなっていない。

もし毛糸をもってくる人には100円で編んであげている。これは妻が自分で編んでかぶっていたら、誰かにそれと同じものを色違いで編んでくれと言われたことからはじめたのである。

とはいっても人の頭のサイズは人によって違うのでまったく同じサイズではあり得ない。それだけではなく、注文主から出来上がったものについて修正の注文が出たりしていた。

人がかぶっていて素敵だと思えた帽子にしても自分がかぶって他人が素敵だと思ってくれるかどうかは、その人その人によるのだろうが、それでも他の人から注文が多かったのは冬には寒くて頭が帽子をかぶっていると温かいということもあるだろう。

いまのところそれほど寒くはないので、昨年のようにはまだ注文が来ているわけではないが、そのうちに肩がこると言い出すくらいに注文が来るのかもしれない。人が喜ぶ姿を見たいのであろう。


数学・物理通信第5号発行

2010-12-07 11:01:38 | 数学

昨日ようやく第5号を発行した。11月の20日過ぎに編集を始めたが、Nさんの原稿が少し遅れたこととその編集に続けて時間がとれなかったことではじめの予定よりは遅れた。

一年前に第1号を発行したが、どれだけ続くものかわからなかった。3号か2号で終わってしまうかもしれなかった。だが、予想に反してNさんをはじめとして投稿が多くて、原稿を次号に送るというようなことまで起こる始末であった。だから、予想とはまったく違っていたことになる。

どうしても原稿がなければ、自分が書くというつもりではあったが、そういう心配はする必要がまったくなかったことは喜ばしい。

いま気にしているのは何号で一巻とするかである。10号で一巻とするのかそれとも12号で一巻とするのかということである。季刊であるので一年には4冊しか発行されない。それで12号で一巻とすると3年かかるわけである。だからもう少し早めに一巻が終わるようにした方がいいかもしれない。

そんなことを思っているこのごろである。


鏡よ、鏡よ、鏡さん!

2010-12-06 14:53:14 | 外国語

またまた外国語ネタですみません。

先週の小塩節先生の金曜日の「ドイツ語うるわし」の放送でSpieglein, Spieglein an der Wand, wer  ist die Sch"onste im ganzen Land ?(シュピクライン シュピクライン アンデア ヴァント、ヴェア イスト ディ シェンステ イン ガンツェン ラント)という文がとり上げられた。

これは日本語では「鏡よ、鏡よ、鏡さん、国中で一番美しいのはだあれ?」とでも訳されるだろう。これは言うまでもなく白雪姫の義理の母の王妃の台詞の文句である。

この文の冒頭部分を発音をカタカナで書くと「シュピーグライン、シュピーグライン」と発音すると思っていた。正しくは「シュピークライン、シュピークライン」と濁らずに発音するということを知らなかった。

確かにSpiegleinは規則通りの発音だとgの後に子音のエル l が来るので、gはクと濁らずに発音するのが正しいだろう。

-leinはドイツ語の縮小語尾でFr"auleinとかBachleinとかと使われる。この-leinがついた語は中性名詞だということもちょっとドイツ語を学んだ人ならば知っている。

ところが、普通にこの縮小語尾をつけないときにはSpiegelであり、このときにはシュピーゲルと濁る。それでシュピーグラインと濁ると思ってしまったのであろう。

昔、テレビのドイツ語放送でこの文句を聞いたことがあり、そのときにシュピーグライン、シュピーグラインと濁って言っていたと思ってしまったらしい。クかグで聞き取りの区別が難しいからしかたがないのだが、正しく聞き取れなかったということである。

よく、ドイツはドイツ語ではDeutschlandであるので、ドイチュランドと語尾のdをドと発音する人がときどきあるが、正しくはトと澄んでいるのが正しい。しかし、これもなかなか聞き分けることが難しいことである。

ここでトと書いてもこれを日本語風にトオという風に母音のオを入れてはいけない。そのことは当然の常識として話をしている。

こういう間違いの例で私が最近までしていた間違いにBlinddarmentzuendung(盲腸炎)がある。私はブリントアルム(エントツンデュング)だと思っていた。

だが、Blindはブリントと語尾が澄んでいても、後ろにDarmとdの直ぐ後ろに母音aが来る。そうすると発音はやはりブリントダルムとなるであろう。このときにブリントのトはほとんど発音されずブリンダルムと聞こえるであろうし、それが正しい発音であろう。

なかなか外国語の発音は難しい。


What a mess !

2010-12-04 13:29:09 | 外国語

先日のドイツ語のクラスでnachschlagenという語が出てきた。ein Woerterbuch nachschlagen (アイン ヴェルタブーフ ナーハシュラゲン) と言うと、辞書を引くという意味である。この言葉がでてきたときに先生のR氏からつぎのような話がされた。

彼はドイツ語と日本語のちゃんぽんで話したのか、日本語で話したのかはっきりとは覚えていないが、多分日本語で話したのだろう。話は以下のようである。

クラスの参加者は私以外はみんな独和辞典をクラスにもって来ている。あるものは書籍としての辞書であり、あるものは電子辞書である。K夫人は電子辞書をもってきていた。それは三省堂のクラウン独和辞典である。この大問題はクラウン独和辞典についてである。

R氏が教室で教えていたときのこと、電子辞書にドイツ語の動詞の3基本形のうちで不規則(強変化)動詞の過去形と完了(過去)分詞が載っていないと学生が言い出した。それはこの電子辞書の第4版であった。

隣にいた学生は第3版をもっていたので、比べさせたところ、第3版はこの動詞の3基本形は見出し語のすぐ後ろに載っていた。ところが改訂されたはずの第4版にはこの3基本形が載っていないという。

いま、この不規則動詞をgehen(行く)だとしよう。普通の辞書にはこのgehenの後ろにging, gegangenという過去基本形と完了分詞が載っている。ところがこの第4版には少し後ろをクリックするか何とかすると元の不定詞gehenに帰ってしまうという。

それで、R氏は編集発行した三省堂に電話を入れた。ところがこの三省堂では話がつかず、クレイムセンターへと連絡することが要請された。ところがこのクレイムセンターでも話が理解されなかったらしいが、結局この3基本形の過去形と完了分詞の削除は三省堂編集部の指示であるということが告げられた。これでぐるっと話が一周したことになる。

仕方なくR氏はその電子辞書を販売したE大学生協に問題点を説明したが、電話ではなかなか大学生協はその問題点が理解されず、その後で事情を聞きに大学生協の職員がR氏のところを訪れた。

そのときに問題点を説明したのだが、なかなかわかってもらえず、それで困り果てたR氏はつぎのような、たとえで説明した。「もしあなたが英和辞典を買ったとする。そのときに英語で”行く”を意味するgoという語の過去形と過去分詞のwentとgoneが載っていない英和辞書を買いますか」と尋ねた。

それでやった大学生協の職員もやっとこの独和辞典の電子版の欠陥をわかったらしい。いろいろ調べた挙句にこのgehenの説明の3ページ目に、このgehen, ging,gegangenの変化が出ていることを突き止めたらしい。

だが、不規則動詞でのこの3基本形はとても重要なことであって、3ページ目にあるからいいという話ではなかろうというのがR氏の見解である。そしてその操作もとても面倒らしい。

What a mess !

私はこのクラウンの独和辞典の編者がどなたであるか知らない。多分編者自身もこの事態をご存じないことだったと思われる。だからクラウンの独和辞典の電子版第4版を貶める意図はまったくないが、欠陥があることが明白になった時点でその早い改訂をお願いしたいと考える。

辞書などというものは多くの人が使うものである。それだけに慎重な編集がされているのだと思うが、それでも人間のすることで間違いはつきない。

ごく最近だが、物理学者のNさんが私が編集している「数学・物理通信」第5号に岩波書店の数学辞典第4版にまだ残っている公式の間違いについて投稿されている。

ちなみに、この数学辞典は日本数学会が全力を上げて編纂したものであり、英語にも訳された世界的にも権威のあるものである。

私も3度ほど岩波書店に別の数学公式集のミスを通知したことがあるが、この書店は社員が忙しいのだろうか、すでにこのミスは訂正済みだとかなんとかいう通知は一度も受け取ったことがない。確かにこういう通知に一々答えていては本来の業務が進まぬのであろう。

だが、現在はメールでも返事がすむ時代である。ちょっと返事を書く誠実さは持ち合わせていてほしいような気がするが、とても難しいことなのだろうか。

(2012.1.25付記) 昨日だったかながら族でラジオを聞いていたら、英会話の講座だったかで、What a mess !を部屋が散らかっている表現に使っていた。だから、この表題の私の表現はおかしいのかもしれない。英語に強い方の助言がほしい。


著作権の期限

2010-12-03 12:23:30 | 本と雑誌

二日前だったか教育テレビで著作権についての意見を都倉俊一さんという著作権協会の会長さんが話をしていた。その中で欧米等の多くの国で著作権が作家の死後70年で、日本は50年だが、はっきりとは言われなかったが、70年に延長したいような口ぶりだった。

これは欧米がおかしいので、本当は死後50年に統一すべきだと思う。ところが、ディズニーの会社とかが自分の会社の作品で続けて利益を上げる対象にしたいので、50年の著作権を70年にしたとかいう記事を新聞で読んだことがある。それは会社は続けてその作品から利潤が上がればそれに越したことはないと思うが、いつまでも社会の共有財産にしないことには私は反対である。

著作権が死後50年ということで十分ではないかと思うのである。私も小さな本を1冊だが書いているが、その著作を死後50年後も利潤を得るなどということに反対である。

こんなことをいうとお前の本なんてとるに足らないものだから、どうでもいいだろうが、といわれると思う。しかし、それは50年間の著作権の保護で十分ではないか。そう思うのである。いかに偉大な作品にしても50年間の保護期間に十分な報酬が得られなくて、その後の死後50年から70年の間に報酬が大きかったとしてもそれは仕方がないことであろう。

だが、ディズニーのような大きな会社の圧力は強くて世界的にはその著作権の保護期間を50年から70年にしたというのが実情であろう。しかし、それには賛成することができない。

死後50年を経たら、世界の共有の財産とするようなことを考えた方がいい。それは音楽でも小説でもはたまた他のなにかでも同じとするのがいい。いつまでも偉大な作家の遺産で潤うようなことは遺族といえどもすべきでないだろう。


数学・物理通信第5号

2010-12-02 12:46:08 | 数学

数学・物理通信第5号の発行の準備をすませた。それで、著者に点検のお願いを入れた。ただ、Nさんには私が原稿をもっていかねばならない。郵送でもいいのだが、郵送もお金がかかることだし、それに時間がかかる。それで、プリントアウトをもって行ったほうがいいと判断をした。

これで、一年経ったことになる。2号か3号かで発行できなくなるかもしれないと思っていたが、近々第5号の発行ができるのはうれしい。これには毎号投稿してくださるN先生のご尽力が大きい。彼は老齢になっても研究意欲が衰えない本当に研究好きの方である。研究が自分の地位とか名誉とかとは関係なく好きなのであろう。こういう友人や知人が結構いることを知っているので、日本も捨てたものではないという気がしている。

彼らがこれからきわめてすばらしいことを研究できるかどうかはどうでもいいことである。もちろん、いい研究ができればそれに越したことはないが、そうでなくても名誉とか地位とかにこだわらずあくまで自分の好きな研究を続けられるという姿勢や態度が大切なのである。

これはいつかもこのブログでも述べた、化学者ポーリングのような研究に対する真摯な姿勢や態度がかなり多くの研究者に日本でもだんだんと根付いているということであり、とても喜ばしい。

もちろん、実験研究をしている人にはある研究所や学校等に所属しなくなると研究手段がなくなるので、研究を続けることは難しいのだが、それでもなんとか遣り繰りしている人も居られるのは敬服に値する。


野球選手はアメリカでは?

2010-12-01 11:30:57 | スポーツ

日本人の野球選手でアメリカで成功しているのはイチロー、野茂、それに松井秀喜くらいだろうか。

他の選手も活躍は一時的でなかなか長期にわたっては活躍できない。あの松坂ですら、本当に成功しているかどうかはもう少し見なければならないだろう。

だが、それにしてもアメリカに行きたがるのはどうしてか。これはいまの若者の外国離れと比べるといい傾向のようにも思われるが、本当に喜んでもいいことなのだろうか。

誰でも野球の本場のアメリカで評価されるのなら、一度はそこでやってみたいと思うのは人情というものだろう。

だが、アメリカでは活躍できるときはいいが、それがうまくいかないときはすぐに首になる。そういう点ではまったくドライである。だから、不調になるとシーズン途中でもトレードされたりする。

これは別にスポーツの世界だけではないらしい。学問の世界でももう新しい研究をしていないとなると研究会や学会にも呼んでくれないと聞いた。ドライだが、それはそんなものであろう。

野球にもどると、昔は選手の行き着く上がりは読売ジャイアンツの選手になることであったが、このごろはアメリカの大リーグができたので、ある意味で戦力が平均されることに大リーグの存在が寄与している。

それはいいことである。でもいまでもそうだが、ジャイアンツは金にあかせて他のチームの4番バッターをFAで引き抜くということがあるので、一部のファンからは嫌われている。

選手にはその選手生命は長くはないので、稼げるときに稼ごうというのは別に責められる筋はないが、しかし、それにしてもそのことを「どうかな」と疑問に思ってしまうのは古い考えだろうか。