物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

電子体温計は?

2015-05-30 11:27:57 | 日記
今朝の朝日新聞に電子体温計の体温が短時間で測れる仕組みが書かれてあった。これは20秒から30秒電子体温計をわきに挟んで測れるという。

仕組みは体温の上昇する曲線から推測するのだという。昔使っていた水銀体温計は熱平衡に達するまで10分くらいかかったという。この10分という数値はちょっとオーバーではないかとは思うが、それでも3分間以上5分くらいは脇にはさんでいなければならなかった。

それが30秒くらいに測れるようになったのだから、すばらしい。だが、ちょっと本当にそれで体温を測ったと言えるのだろうかと心配にもなった。

普通にはやはりこの電子体温計で体温を測ったことになるのだろうが、温度計で測るはずの最終的な熱平衡状態の温度ではなく、電子体温計の温度が上昇していく曲線から推定をしているのだという。

そのためにこの電子体温計をつくったテルモでは10,000人くらいの人の体温の上昇曲線を測定して計算式をつくったらしい。そのことはいいのだが、実際は電子体温計と体の熱の熱平衡状態の温度を測定しているのではないのでこういう場合に温度を測定したといっていいものかどうか。

これは一種の哲学的な問かもしれない。だが、体温上昇の一部の曲線を測っただけでほぼ確かに体温を推定はできるのであろう。だからやはり体温を測ったことになるとテルモはいうに違いない。

だが果たしてこれで体温を実際に測ったと思うかどうか。短時間で体温を測る仕組みを説明されると新たな疑問がわいてくる。

「え、全然疑問には感じませんって?」、そんなあなたとは議論したくはない。

宅ファイル便

2015-05-29 10:30:39 | 日記
はじめて、宅ファイル便というものを受け取った。これはある先輩がもっていた論文別刷をスキャナーでスキャンしてできたPDFのファイル群である。

そのPDFファイルをつくった人から直接にではなく、宅ファイル便という名前で送られてきたものである。そのシステムがどうなっているのかは知らない。

よくファイルを添付書類にして送ったりしたときにはメモリが多くて受け取ってもらえなかったりするが、そういうことがないようにというためなのかどうか。

見かけない名前なので消去しようとしたが、知っている人の名前があったので、よく見たらそういうファイルが添付されていた。

やれやれ、消去しないでよかった。先生でもあり、先輩でもある方々の論文別刷のPDFファイルであって、私が最近幾人かの先生や先輩の方々の論文リストをつくったことがあったり、つくっているのを知っている人が私に送ってはどうかとアドバイスしたのであろう。

いま、S先生という昨年10月のはじめに亡くなった先生の論文リストをつくっているが、それに出ていない論文があることがわかった。すでに前に作ったYさんの論文リストの修正版をつくらねばならない。

100分で名著「荘子」の放送

2015-05-28 13:11:17 | 日記
NHKの水曜夜の「100分で名著」の「荘子」の放送の最終回だったが、どうしてかいつもノリノリに感じる伊集院さんの発言もゲストの発言もなんだか上っ調子に聞こえてしょうがなかった。

いままでこういう感じを持ったことがなかったので、これは自分の体とか気分の調子がいまひとつなのかなと思ったが、それはそれとしてもやはり上っ調子に聞こえてしかたがなかった。

荘子は故湯川秀樹博士がことに愛した思想家であり、どちらかといえば私も嫌いな思想家ではない。だが、最終回の回だけはどうも三人の出演者のいうことどれもウソっぽく感じてしかたがなかった。

大抵は私も「100分で名著」の放送を楽しんでいる方なのにである。これはどうしたことなのであろう。

後期高齢者の生活

2015-05-28 12:19:47 | 日記
後期高齢者の生活がどんなであるか。若い人には想像がつかないと思うのでブログに書く。

とはいっても日常生活のことではない。経済的なことである。昨年の10月だったか国民年金の老齢基礎年金の額の約60万円からそのほぼ半額が後期高齢者の国民健康保険と介護保険で差し引かれるようになって大いにボヤいたら、そのときに妻の反応は「年金でもらうよりも多くは徴収されないのだから」とえらく冷たい反応だった。

ところが、この数か月にわたって預金通帳の残高がなくなって、オ―バーローンの状態が続いているので、さすがに心配となったらしく預金通帳の出納記録から我が家の経済状態を調べて、これらの源泉で徴収される出費が我が家の経済状態を悪化させていたとの結論を報告された。

昨秋にだから言ったのにと笑ったら、御冠である。だが、そのときには自分に害が及ぶとは思っていなかったらしい。あまい、あまい。

しかたなく妻は自分の国民年金の一部で預金通帳の一部のローンを払ったらしいが、それでも25万円を越えるオーバーローンが残っているという。それで仕方なく特別会計から15万円を出して赤字の補てんにあてたが、それでも10万円を越えるローンである。定期預金が少しだけあるので、これくらいのオーバーローンなら許容されるが、30万円を越えるオーバーローンは認められていない。

もっとも妻は自分の国民年金は自分の収入というスタンスだから、自分の国民年金から家計への今回の補てんはかなり自分が堪えた結果の緊急的な反応である。それでも全額生活費に充てるという考えは彼女にはない。その余得がときどきだが、子どもへのプレゼントに化けたりはしているけれども。もっともプレゼントとはいってももらった本人ですら、もらったことを忘れるような些細なものである。

それでもまだいまはいいが、数年後に妻も75歳に達したら、その年金も手取りは約半分になってしまう。そのときは本当に生活に困ってしまうのではないか。

国民年金はもらう額があまり多くはないけれども、それでも生活の足しにはなっている。だが、健康保険の額が後期高齢者になったためにぐっと上がったために生活を圧迫されている。

国の経済政策をやっている中堅の人にはまだ自分のことではなくて、なんてこともないかもしれないが、そういう人にも老後はあるのだ。それに備えておかないと生きてはいけない。入る収入をほとんど使っているナンテことはできればいいけれども、それはいつまででもできるわけではない。

完全な福祉社会国家なら預金はいらないが、中福祉国家の日本である。老後の備えは欠かせない。

中国語では

2015-05-27 19:00:56 | 日記
チラッと見ただけだが、NHKのEテレビの中国語の講座で檀密さんが好青年の好をハオと読みかけたと言っていた。

中国語ではないが、そのような経験を最近した。それはブールス・ウイルスのDie Hard 3を見た後で、出演者の名前などが出てきたときにドイツ語風にディ ハードと読みかけて、「そうだった、これは英語だからダイ ハードだったよな」と思った。

英語でonという前置詞がでてくれば、フランス語の一般的な人々を表す代名詞のonと思ってしまうということもときどきある。

最近ではテレビのフランス語講座でもラジオのフランス語講座でもonについても動詞の変化を練習するという風になって来ている。もし代名詞のonが難なく使えるようになれば、私たちの代わりにonを使うことができるのでとても便利なのである。

科学的合理性だけでは

2015-05-27 14:52:10 | 日記
科学的合理性だけでは人は生きられない。そんなことをいうと科学的合理性というものがつまらないかのように思われるのでちょっと注釈がいるだろう。

もちろん科学的合理性というものは非合理性よりも優位になければならない。それは必要条件ではあるが、十分条件ではないということだ。

最近聞いた話だが、ある病院のカフェーで食事をつくって出している人たちが実はその病院の清掃を担当している会社員の有志がまたカフェーの食事を調理しているという。

そのときに病院の清掃をしていた人たちが服装を改めて食事を調理しているので、衛生的にあまりいい印象をもたれないという話であった。

実際には病院の清掃を担当した人たちが食事を提供するときに不衛生であることはないだろう。これは多分保健所がすでに検査に入って衛生的に問題がないことを検査しているであろう。

科学的合理性の範囲では多分これは異存がなかろう。ところが人はそれでは十分に承知できるかどうかはわからない。むしろ危惧が強いであろう。これはいくら保健所が衛生的に大丈夫だと太鼓判を押しても変わらない。

人間は科学的合理性に大いに依拠しているのではあるが、それだけでは十分ではないのである。そこらあたりが人間の難しいところである。

こういう場合のいい例を出して説明をしたことがあるのは武谷三男である。彼は「科学的合理性が満たされれば人間は何をしてもいいか」という点についてこんな例を上げた。

透明なガラスの瓶に密封した糞便を入れて食卓においてあるとする。このときその食事に招待された人が招待主の主人公にそんなことを止めてくれと頼んだら、主人公はこの便を入れたガラス瓶は密封してあり、匂いもしなければ、大腸菌もなにも外には漏れ出さない。あなたは科学的合理性を解しない人だと主張したとする。この主張は明らかに間違っている。

だから、科学的合理性は大事なものではあるけれどもそれだけでは十分ではない。

なお、この例を武谷があげたのは次のような文脈においてであった。いま大阪の熊取町にある京都大学の原子炉をどこに設置するかという候補地を探していたころ、宇治市の水源池近くに原子炉を設置する候補地があがったことがあった。

京都大学でその当時原子炉の設置の候補地を探していた責任者が原子炉はバスよりも安全だとか言ったことに対する反論として言ったのが上に挙げた例である。

水源池は人の飲む水に関係している。原子炉がはたとえバスよりも安全だとしても水源池近くに設置されることを許してよい理由にはならない。ましてや原子炉はそれほど安全ではないのだから。

貧しさ

2015-05-27 14:11:40 | 日記
貧しいことを喜ぶ人はいないと思う。どちらかといえば、貧しいよりも富んでいる方がよい。

なにがなんでも富んでいることが貧しいということよりも優位にあるなどとは主張するつもりは全くないけれども。

今日の朝日新聞の鷲田清一さんの「折々のことば」欄につぎのことばが載っていたが、ちょっと言葉足らずで説明がほしいところである。

(引用はじめ)
貧しさこそ、真の出会いに必要であるということは、われわれを深く慰めてくれる。
(霜山徳爾)

聖書の「心貧しき人は幸いである」をはじめ、多くの宗教が貧しさの深い意味を説く。この臨床心理学者は、その貧しさをなんと嬰児のほほ笑みに見る。「自らに閉じ困らず、といって世界とのかかわりで全く一定に決められてもいず、相対的で、満たされない不十分な状態」、つまりは「きわめて貧しい素朴な態度」だけが出会いを可能にする、と。 「仮象の世界」から。 
(引用おわり)

よくわからないのは心の貧しさのことなのか、それとも物質的な貧しさなのか。はたまた心の貧しさとはなにか。

最近、子どもの貧困をどうやって救うかという運動などがマスコミで報道されている。私は子ども貧困を救うことには賛成だが、これではひょっとして貧しいことがいいといっているように誤解されはしないか。まさかそんなことを鷲田さんが主張されているとは思わないけれども、鷲田さんのコラムは短い語数のコラムなので、今回は誤解を招くのではないかと恐れている。


省エネと経済学

2015-05-26 10:43:41 | 日記
『軍縮の政治学』という岩波新書を書いたのは国際政治学者の坂本義和さんだったが、それとよく似たタイトルの『軍縮の経済学』という岩波新書を書かれたのは経済学者の宮崎勇さんだった。

どちらもそれらを購入して読んでみたいと思っているうちに少なくとも『軍縮の経済学』の方はあまり見かけなくなった。もっとも『軍縮の政治学』の方は亡くなった長兄の蔵書の中にあり、現在は私がそれをうけついでいる。

昨年だったか一昨年だったかのNHKで放送があったCalifornia工科大学だかUC Berkleyの物理の教授だった人の「大統領のための物理学」とかで新しいエネルギーをつくる出す方法を考えるよりも省エネの方法を考えた方がエネルギー政策としては意味があるということを教えられた。

そのアナロジーでいえば、戦争などというものはムダの最たるものであろうから、武器をつくるような産業、そして、それを消費する軍隊などはムダの最たるものである。そういう言う考えにもとづいた経済学がつくられてもいいはずだが、どうもそういう方向には世界は進んでいない。

先ほど終わったNPT国際会議でも最終文書の採決には至らなかった。これはムダをこれらかも続けて行くという意志の表れ以外の何物でもないだろう。

ISがイラクやシリアで軍事的に優位を保っているとはいうが、これらの勢力がいつまでも国として統治できるはずがない。それは多数の市民や国民の支持を得ない限りは国を維持していくことなどできないはずだからである。

もし、維持していけるためには自ずから政策変更をしていくことができる組織でなければいかに軍事的に一時隆盛を誇っても無理というものであろう。その辺は一時的がどれくらいの時間かはわからないが、やはり10年20年のオーダーではISがいままのままでは成り立たなくことは多分明らかであろう。

もし、それがうまく統治ができる組織として機能するのならば、それは不断に自己変革をできる政体でなければならないであろう。

こんなことをかくつもりはまったくなかった。言いたいのはムダを極力省くような経済学はできないのかということである。どこが無駄かはなかなかいうことができないが、戦争と武器はたとえそれが軍事産業に一時的な経済的な利益をもたらすにしても大きな無駄であることは変わらない。

日曜日には

2015-05-25 10:50:40 | 日記
いつものように昨日の日曜の午前中は新聞を読んで、読書欄の書評をよんだ。あまり収穫はなかったが、自己啓発書について書いた書の書評がおもしろかった。

牧野智和『日常に侵入する自己啓発』(勁草書房)である。著者はある大学の若い先生である。副題に「生き方・手帳術・片づけ」とあるらしい。

こういうものが学問の対象になるというところがおもしろい。実際に私もある種の自己啓発本である、地球物理学者だった、竹内均さんの仕事術の本を数冊読んだりしたことがあるので、自己啓発は日本でも流行のテーマであろうか。

「自己啓発セミナー」というものまであるそうだが、こちらは多くは一種のカルトであってそこから抜け出せなくて苦しむ人も多い、意外と知的レベルの高い人にこの自己啓発セミナーにひっかかる人がいる。こからようやくのことで抜け出せた人はもちろん自己啓発セミナーに批判的になる。

しかし、一般的にいって自己啓発それ自身がわるいはずはない。もっともカルト的な「自己啓発セミナー」が要注意であることはもちろんである。

書斎のかたづけが10年くらいできていないのは、私の怠惰もあるがそれだけではなくいろいろ制約を言った妻の責任もある。もっとも彼女は「片づけとは捨てることだ」という哲学の持ち主であるからかなわない。

私が計算をした紙などそこらあたりに放っておくのが悪いとも言えるが、すぐにどこかに捨ててしまわれそうである。先週の土曜日にも雑談会という数人でやっている会合のために机の上にあった書類を危うく捨てられそうになった。

実際にみんながその前に座る机の上からは私がすでに書類を完全にのけておいたにもかかわらず、そのときに隣室の使わない机の上にあった書類を捨てようとしたのだ。

私だって最低限の整理を前の金曜日からしているのに。

書くことがないが、・・・

2015-05-23 10:55:22 | 日記
NHKの「ハリウッド白熱映画教室」の第4回目を昨夜見た。普段は先に就寝してしまう妻が傍で「ふんふん」とうなずきながら見ていた。

映画にはいろいろな技法があってそれらを駆使して映画がつくられており、それを知っているとよりよく映画が鑑賞できるという。

そうだろうが、そういう技法があってもその知識は私たちにはなかなか身につかないので、いつも漫然と映画を見てしまう。

映画はカットで構成され、カットが集まってシーンとなり、シーンが集まってシークエンスとなるという。それで全体のストーリがつくられている。

なるほどそうかとは思うが、頭の中を右の耳から入って、左の耳からこのような知識は抜けて行く。一つも頭には残らないということである。それで結局映画の見方はちっとも変わらない。

映画でも音楽でもいろいろ深い約束事だとかいろいろあるようだが、どうもそれを知る機会はあまりない。だから、「ハリウッド白熱映画教室」なんてものも意義があるのだろう。

坂本龍一の音楽のスコラだったかエコールだったかいろいろ音楽についてもNHKで放送があったが、それも面白いと思って見ていた。なかなかそれでも音楽についてもわからないことばかりだ。

理系の文化と文系の文化とがあり、それらはほとんど交わらないとか言ったイギリス人がいたが、音楽のわかる人とわからない人とか、映画のわかる人とかわからない人といった類別も可能であろう。

ただ、映画も音楽もそういう技法なり、約束事を知らなくてもいくぶんは鑑賞できるところが科学や数学とは違うかもしれない。

私の兄は法学部の出身だが、半年程前だったか、さる数学の数学者が書いた初歩の数学書を読んでいたから見上げたものだ。もっとも私に「お前の書いた数学の本はまったくわからん」と言われたので、こちらはギャフンであった。

東京は?

2015-05-22 11:49:08 | 日記
昨年の11月に1週間ほど急に東京に滞在した。

そのときに感じたのだが、東京というのは広い都市だととそれまで思っていたのだが、意外に結局は小さな町が連なってできた都市ではないかという実感であった。その一部をとればそれは私の住んでいる街とあまり変わらないのだと。

もちろん、霞が関の官庁街があったり、新宿の摩天楼街があったりはする。しかし、とどのつまり小さい町がずっとつながって行っていまの東京ができたという風に感じるほうが正しいのではないかという感じを強く持った。

最近、NHKのドイツ語の講座の応用編の放送で新宿はそれまで日本橋とか東京駅周辺が東京の中心であったのが、関東大震災で周辺の村だったために震災で被害がそれほどひどくはなかったためにもとの中心地の復興に加わって発展してきたものだという話が書かれていた。

そういう風に東京を理解するのはやはり一つの理解のしかただと思っている。そしてそれは意外にも本質を衝いているのかもしれない。

終りに近づいていたのに

2015-05-21 10:21:25 | 日記
このところ、ミー散乱の解説論文を読んでいるのだが、終わりの方に近づいて来てどうしてもギャップがあることに気がついた。

それは符号とか位相因子の問題である。そこのところがはっきり述べてなくてぽんと結果を書いたところがある。それで結局のところ他の文献を読む必要を感じて、他の解説を読むことにした。

まえの解説論文はノートをつくらずにメモだけをつくっていたのだが、今回はノートをつくりながら読むことにした。

ところがまた、またつまずいている。脚注がうまく理解できない。それで昨夜自宅で就寝前に論点を整理した。まとまったので、今日はそれをノートに書き留めるつもりである。

ミー散乱については日本語でもいくつかの解説はあるのだが、どれも数式、数式の解説である。あいまいなところがないか、また式の計算がフォロー可能かどうかが私の気にしている点である。

解説論文を書く人によって注意するところが違うので、ほかの人の解説を読むことがどうしても必要になる。

もっとも能力のある人なら、基本のマクスウエル方程式から全部を自分で導けるのであろう。そういう人もおられるとは思うのだが、そしてそのほうが人の解説論文を読むより早いという方もおられるだろう。そうかもしれない。だが、私にはそれ程の能力がない。

「かっこいい」もの

2015-05-20 11:18:50 | 日記
日本で外国人が「かっこいい」と思うものについて書きたい。

先日、新聞に日本でかっこいいと思うもののベストスリーは「温水便座、・・・、、百円ショップ」とあった。この・・・を覚えていないのだけれども。その記事にはこれらが日本人のかっこいいと思うものとは微妙にずれているとあった。

外国人が「かっこいい」と思っているかどうかは知らないが、コンビニなんかも便利なものであろう。もっとも私はコンビニは真夜中の12時からつぎの朝の6時くらいまでは閉めるべきだと思っている。コンビニは利用する者にとっては便利なものだが、やはりそこで働く者にとっては労働酷使以外のなにものでもない。これは日本残酷物語の最たるものであろう。

こちらは労働者の酷使と関係があるかどうかは私には定かではないが、宅急便も便利なものであろう。アマゾンコムが注文された本をドロ-ンで届けるというテストをアメリカでしたとかテレビとか新聞で読んだが、これはあまり勧められない。

日本では外国語を学ぼうとすればNHKのラジオ第二放送を聞けば、主要な外国語をいつでも学ぶことができる。中国とか韓国とかの外交関係がうまく行っていないと言われているときでもそういうこととは関係なく中国語やハングル語の放送が続けて放送がされている。これだってとてもいい日本の環境といっていい。

こうやってフランス語やドイツ語を学んでフランスやドイツに行くことができた人は私のみではあるまい。実はスペイン語の講師をしている福島先生もそのようなお一人だとテレビでいっておられた。テクストは数百円だし、費用は極めて安い。ただ、動機づけを持ち続けることが難しい。それ以外はあまり困難はない。はじめはわからなくても人に対して恥ずかしい思いをすることもない。

(付記) 最近日本の現状を肯定的に捉えたブログの内容が多いと思っている。これは私が年寄りだから「日本回帰をする」というつもりではない。現状をただすなおに捉えているつもりである。

最近の日本の政治的状況はあまり誉められたものではないし、これはあまり他国のことは言いたくないが、中国の南シナ海での岩礁の滑走路の設置とかもあまりほめられたことではない。そしてそれに対応した日本の首相の政治対応もいけないと思う。

これはちょっと違った状況で、昔の核戦略のバランスということで行われてきたことの別の面でのくりかえしである。そこで一度すでに心理的に安定的な核戦略のバランスはできないということを人類がすでに学んだと思うのに、それと同じことを別の面で繰り返そうとしている。愚かしい。

中国が空母を持っていないときにはそうでもなかったが、空母を持つようになって海外進出の意図があるのかなと思わせるようになった。それに対応した日本の軍備増強も行われている。

安倍首相は防衛費という名の軍備増強を明言しているらしい。嘆かわしい。

なんでも専門家がいるものだ!

2015-05-19 11:20:59 | 日記
昨日、E大学に行って「O plus E」という雑誌を借りてミー散乱の箇所をコピーした。10時過ぎに出掛けたのだが12時過ぎまでかかった(注1)。

これは図書館にはその雑誌がなく昔の同僚だった I 氏の研究室を訪ねて、その雑誌を借りて図書館でコピーをしようとしたら、コインの持ち合わせがなかった。他で千円札でコピーできるところがないか探したのだが、ない。結局いつも本を注文している、大学生協のカウンターで千円札をコインに両替してもらって図書館に帰り、コピーをした。

A3でコピーをしたので、あまりお金はかからなかった。270円くらいであろうか。
それのコピーがすんだので、雑誌を返しに行き、コピーは終わった。

今日はそういうことを述べるつもりではまったくなかった。ミー散乱でもそれを研究している人はもういないけれどもその解説を詳しくしてくれる能力のある人がおられる。それも日本では一人や二人ではない。

ということはある論文をみてよくわからなかったら、他の人の解説を見ればいいのだ。

もっともどれも数式満載である。私のようにちょっと気弱なものには体が引けてしまうくらいである。もっともそれらの式を詳細に見れば、どこかですでに見かけたようなものが多い。

その後はいま読みかけている解説論文を読みなおした。どうもフォロ―できなかった式はミスプリントがあるような気がする。これは実際に計算をやってみないとなかなかわからないことだ。

この解説論文を書いた人はきちんと計算をしているのだろうが、解説を書くときにうっかりミスをしたのだろう。道理でなかなか導出ができなかった。もう1項の計算が残っているが多分計算できるであろう(注2)。

1行の計算式を導出するのに1週間ほどかかった。要するになかなか計算をする気になれなかったのである。

(注1)「O plus E」とは専門家でないと何かわからないが、Optics plus Electornics(光学とエレクトロニクス)である。量子光学が進んできて会社でも光学を利用することが行われているのであろう。「波動光学の風景」というシリーズの連載の解説であり、光学を学んだことのないものでも少し数学の素養があれば、わかるように波動光学のいろいろの側面を解説している。

波動光学というけれども、けっきょく電磁波工学でもあろう。また、そのような解説を書く能力をもった優れた研究者が日本にはいる。

こんなことは日本では当然だと思われるが、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、中国とかの主要な国以外では普通のことではなかろう。日本ではこういうことがほとんどすべての分野に及んでいる。これは高い技術を要する分野も含めてのことである。

(注2:2015.5.22付記)この残ったもう1項はつぎの日に計算したら、私の予想通りに計算できた。もっとも、きちんとノートをつくるときにもう一度確かめておく必要がある。

トラウマは存在しない?

2015-05-18 12:26:10 | 日記
昨日の朝日新聞の読書欄の次のページに『嫌われる勇気』という本を勧める話があった。

槇村さとるさんという女性の漫画家が、『嫌われる勇気』を紹介していた。

(引用はじめ)

(前略)
いままで読んだ心理学の本は、過去のことや親との関係で心に負った傷(トラウマ)が現在の不幸を引き起こしている、というのが多かったけれど、アドラーは「トラウマは存在しない」と言い切っています。「これまでの人生に何があったにしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」と(注)。(中略)

それが、過去があなたを規定するのではない、自分の人生を決めるのは現在のあなただ、といわれて驚きました。「立ち止まらないで、早く立って」と背中をはたかれたようで新鮮でした。過去やだれかのせいにする生き方は、甘えといえば甘えですよね。

ただ「自分で決める」というのはとても難しい。(後略)

(引用おわり)

この本は2013年にダイヤモンド社から出版されたという、槇村さんは紹介されていなかったが、韓国語にも訳されてやはりベストテン入りしている。

トラウマに悩む人に勇気を与える書であるのであれば、いうことはない。

よくいわれるいい方に「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」というのがある。これもいまの自分から出発して未来を切り開くという視点があって、なんだかぐずぐずして言い訳ばかりしている自分をいつも励ましてくれる観点である。こういう前向きの気持ちをすべからくもちたい。

(注)アドラーはフロイト、ユングと並ぶ心理学の三大巨頭の一人だという。