物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

物理学はいかにしてつくられたか

2016-11-30 12:58:44 | 日記

はEinsteinとInfeldの書いた初歩の物理学の本である。この本は岩波新書の旧赤版で石原純訳でいまでも読むことができる。原題はThe Evolution of Physicsである。

私はこの書の上巻しか読んだことがないが、この上巻を読んでようやく「場」の物理学における重要性がわかった。これは大学の1年か2年のことであり、それまでまったく物理における場の重要性がわかっていなかった。というか場などというものが物理の対象になるという観念がなかった。

電磁場にしても電気的な力とか磁気的な力が離れた電気を帯びた物体とか磁気を帯びた物体に働くという考えであり、その中間の空間に場というモノを考えるなどというのは考えたこともなかった。

だが、これは大学でそういう場の重要性を学ぶ以前であり、この『物理学はいかにしてつくられたか』上(岩波新書)はそういう意味では大いにお世話になった本ということができる。


物理学を学ぶときに

2016-11-30 12:10:52 | 日記

何をテクストとして学んだらよいか。これは意外と独学で学んでいる人に困ることである。

私がもし初心の学生なら、何を学ぶだろうと思い出しながら、書いてみた。だから世の中で名著と言われるものでも途中で挫折すると思われるようなものはあまり推薦しない。これらの名著はある程度物理の何たるかがわかってから、読んだらいいと思う。

さて一般物理としてはじめに何を学んだらいいのか。私には適切なテクストが思い浮かばない。原島鮮先生の『初等物理学』(裳華房)という本があった気がするが。それを読んだことはないので、それがよかったとも言えない。

力学についていえば、私自身は文句なく原島鮮先生の『力学』(裳華房)を推薦するが、その本が今も出ているのかどうか。

電磁気学を学ぶときには私たちの年代なら、高橋秀俊『電磁気学』を学んだものだが、私は砂川重信先生の『電磁気学』(培風館)を勧めたいと思う。そしてもっと進めば、いろいろの本が電磁気学には名著がたくさんあるだろう。しかし、一番初めはこれがいいのではないか。

相対論は何を読んだらいいか。私たちはメラーの『相対性理論』(みすず書房)を学んだ記憶があるが、一般相対論の方は今でもあまりよくわからないので、どれがいいかよくはわからない。広江克彦『趣味で相対論』(理工図書)か砂川重信『相対性理論の考え方』(岩波書店)がいいのではないかと思っている。それで初歩を学んだら高等な相対論の本はいくつもある。

量子力学を学ぶなら、やはり原島鮮『初等量子力学』(裳華房)がいい。それで初歩を学んだら、また多くの名著がある。私は大学4年生のときのセミナーでSchiffの"Quantum Mechanics"  (McGraw-Hill)を読んだ。もっとも全部読んだわけではなくて摂動論のところくらいまでである。

またボームの『量子論』(みすず書房)はたとえばエルミート演算子などについてよく分かるように書いてある。その点で私はボームの本にお世話になっている。この本はいまではDoverで安く購入できる。

熱力学を学ぶときには何を読んだらいいだろうか。私は統計力学とか熱力学はとても弱いので困ってしまうが、統計力学が理解可能だと思えるようになったのは原島鮮先生の『物性論概説』の統計力学の章を読んだからであった。それまでは統計力学は私には理解可能なものとは思えなかった。

熱力学はレオントビッチ『熱力学』(みすず書房)が大学のときのテクストだったが、これはあまり勧められない。いまの私ならムーア『物理化学』上(東京化学同人)1章から3章までを読むのがいいと思う。すくなくともこれくらいしか私は読み通したことがない。

統計力学もムーア『物理化学』上(東京化学同人)の4章と5章を読めばいい。

もちろん、フェルミの『熱力学』(三省堂)とかの翻訳もあるが、いまでは手に入らないだろう。


身につまされる

2016-11-29 13:41:14 | 日記

岩波のPR誌『図書』12月号に身につまされるような話が出ていた。高橋三千綱さんという作家の書いた「感動の人生」というエッセイの冒頭の部分である。引用してみよう。

三年半前に千七百円の値段で出版された単行書が古書店で二百円で売られていた。書き始めてから脱稿するまでに十一年かかった作品である。棚から手に取った本を抱え、後ろめたい気持ちでキャシャ―に並んだ。代金を支払うとき自分が頬かむりしているように感じられた。(引用終わり)

いや、作家の方でもこういうことがあるのですね。そうだとすれば、私の本などどうなってもおかしくはないか。

先ず値段が大体同じくらいだ。1700円に対して、私の本の値段は税抜きで2000円である。高橋さんは11年の年月をかけたというが、私だって7年くらいかもっと年月をかけている。

『四元数の発見』は私の書いた本であるが、この作家高橋三千綱さんの本のような運命をたどっているのだろうな。そう思うと高橋さんが気の毒になった。もっともこのことを高橋さんは『図書』に書いたからいくぶんは救われただろうか。

そして私はこのブログで自分の本のことを書いたことによって、いくぶんか救われているだろう。


英文に日本語の訳をつける

2016-11-28 13:07:35 | 日記

作業を日曜日に一日中した。先日書いたThe Evolution of Physicsの日本語の単語の訳をところどころ入れるという作業をしたのだ。

これはある知人が英語で物理を学んでみたいということだったので、その学習の際の障害を少しでも低くしたいということで難しそうな単語に日本語訳をところどころ入れる作業をした。

実はこの本は岩波新書に日本語訳されているが、それをとり出してみたが、これは日本語としてはこなれた訳だが、それだから元の英語を理解するにはこの訳は役立たない。

それでそのままの形で29頁足らずを英単語の訳を初めはかなり入れていたが、だんだんに少なくしていくというふうにした。もっともある英語が一度出て来てそれをすぐに覚えてしまうなどという記憶にも優れた人間では私はないから、私の知人もそうではないだろうという想定をしている。だから、何回目かにまた出てくる英単語も日本語訳をところどころつけている。

何回も同じことばが出て来てようやく外国語を覚えるのである。一度出て来たらそれを忘れないなどという人も世の中にはおられるけれども普通の能力のわれわれはそういうことは期待できない。なんどもなんども同じ単語が出て来てようやくその言葉を覚えるのである。

私にはすでに知っている言葉でも何回か日本語を書いておくということは学習的には必要なことであると思っている。


私の知人

2016-11-25 12:47:48 | 日記

が英語で簡単な物理を勉強したいから、なにかやさしい本を紹介してくれと言われている。

なかなか近来にない、いい心掛けの方なので、協力をしたいが果てどうしたらいいやら。かいもく見当がつかない。

やさしい物理学のテキストをと思ってもそういうモノがあまりないことに気がついた。自分でそういう書を書いて英訳することまで考えたが、それも大変な労力であり、一人の人間の簡単にできることではない。もっともそういう仕事を誰かがするべきであろうという感じはする。

一晩寝ながら考えたが、そういう根本的なことはできないが、EinsteinとInfeldの書いた"The Evolution of Physics"を1章くらいコピーしてその物理用語のところだけでも注釈をつけて渡して読んでもらうのがいいのではないかと考えるようになった。

物理の用語はすべて訳をつけた注釈を用意しておきたいのである。英語を読むときにその意味を英和辞書でそれを読む人に辞書を引いて意味を調べろというのは私はあまり賛成でない。そういうことでは英語は読めるようにはなかなかならないだろう。

そうではなくて難しい単語はその意味を注釈として欄外かどこかに書いてある、そういう本で英語を読むことを始めるのが、いいと思う。そうしないと英語の単語の難しさにひきずられて英語で物理を読む習慣などできないだろう。


教育(TEDの放送から)

2016-11-25 12:31:07 | 日記

昨夜、NHKのTEDの放送を見た。アフガニスタン人の女性でアメリカで大学教授にまでなった方が、自分の国を思うところからアフガニスタンに帰り、タリバンの勢力に脅かされながら、アフガンの女性教育にまい進をしているという話を当人がされていた。

あるとき、バスで他の女子教育の先生方とカブールの北部へ行く途中でバスを19人のライフルを背中にもった一団に止められた。そしてその先生はお前は女子を教育してその上に職まで世話をしているそうだなと言われた。そして彼らは「私たちは人を殺す仕方しか教わっていない。私たちはどうしてくれる」と言われたが、そこはそのまま通らせてくれた。

自分の住んでいるところに帰って自分で一人で考えていたが、いい考えは浮かばない。そこへその彼女の支援者の一人から電話がかかって来た。「どうかしたか」と聞かれたが、どう答えていいかわからない。それで口を濁していたが、やはりさらに重ねて聞かれたのでとうとうその経験を正直に話した。

すると支援者から男性のタリバン兵士も教育する機会を持つようにしようと提案されてアフガンの男性をも教育するようになった。そしてその19人の男性兵士は一番初めにアフガンの男性として彼女の教育を受けた人たちになり、いまでは彼女に付き添って教育の普及に努力するいちばんの人たちになっているという。

まさに教育は人を変えることができるという。

私は広い意味の教育をすることに関心をいだいて2005年以降、励んできたが、なかなかその実績が上がるとかいうふうにはなっていない。残念である。

それにしても「私たちは人を殺すことしか教わっていない。私たちをどうしてくれる?」という問いは素直な問いである。その問いを生かすことができた彼女の情熱はすばらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ProgramkinoとAbonnement

2016-11-24 13:17:26 | 日記

マネキネマという映画を鑑賞会に入っており、このことをいつかドイツ語のクラスでもたもた説明していたら、それはドイツ語ではProgramkinoプログラムキーノーというと教えてもらった。Kinoはドイツ語で映画をさす。

それから年に数回、定期的に音楽を聞く「市民コンサート(旧労音)」にも入っている。こういうのはAbonnementアボネマンというとこれは数年前に教わった。このAbonnementはその発音からもわかるようにフランス語由来の語である。

さすがに考えるところがあって、「市民劇場(旧労演)」には加入しなかったが。

これらは大学を退職後に妻が気を利かせて一緒に加入をしてくれたものである。それで年間、数回は一緒に音楽を聞いたり、映画を見たりしている。それ以外ではあまり一緒に映画を見たりすることはない。

しかし、それ以外は夫婦がそれぞれ好き好きで各自の活動をしているのが現状である。私自身はあまりどこかへ出かけるのが好きではないし、妻は誰かと一緒に活動するのが好きなのである。

歌を歌う、歌声喫茶みたいなグループも妻は世話しているし、なかなか忙しい。また、パソコンで何かをするクラブみたいなことも医療生協の活動の一環としてやっていたりする。

 


最近は

2016-11-23 16:46:41 | 日記

急に武谷三男の研究者のグループの方たちとメールで連絡を取り合うようになってきて、私の生活もメリハリが急に出て来た。

みなさん、有能な方が多いので、どうもおいて行かれそうである。はじめはそれぞれが別々に研究をしていたようだったのだが、ここに来てグループ研究の体裁が整ってきたのである。

これは一番年長な K さんの力によるところが多い。K さんはオーガナイザーとしての手腕も優れている。


数学・物理通信を準備中

2016-11-23 13:00:09 | 日記

12月が近づいてきたので、6巻8, 9, 10号の発行を準備中である。8, 9号はおよそ目鼻がついた。後は10号の準備が必要である。

8号の編集後記を N さんに書いてもらうように彼のいる施設に午前に出かけて来た。あまり体調がよくないとは言われたが、こういう仕事をしていた方が彼のためでもある。

原稿がいつも多いのは助かる。それだけみんなの要望が多いというのは編集者の生きがいとなる。自分の原稿も一つはすでに用意しているし、その他にも書きたいことはあり、少しづつ書いてもいる。

それらのテーマは「Fourier解析」、「n次元の球の体積」、「四元数(補遺)」等である。これらのうちでシリーズは後の2つのテーマである。

 

 


AIからの

2016-11-22 11:58:13 | 日記

人間の認識の発展が起こる可能性ができて来た。たとえば、AIが将棋とか囲碁を人間の棋士と勝負して勝つという事態が別に珍しくもなくなった。

そのような事例について将棋の羽生さんが「AIは人間の思いもつかないような手をさす場合があり、そのような場合には人間が将棋の指し方をなお深く研究する契機になるかもしれない」と述べているのを新聞で読んだ。

それと同様なことは『人工知能の衝撃』にも書かれていた。要するにAIによって普通には人間の考えつかないようなことを示唆されたとすれば、そのAIの処方をどうやって人間が理解するのか、そのことはまた人間の認識を深めることになるのであろう。

結局、人工知能AIがまた人間の認識を深めることにもなろうか。そのことは武谷認識論にも試金石となろう。

要するにAIは自然現象ではないが、AIの示すことも自然現象と同じように考えるということである。大体において、人間は自然現象の示す謎を解いて来たのだから、それが人間のつくったAIそのものにも適用するということであろうか。


ピアジェの認識論

2016-11-22 11:27:37 | 日記

ピアジェの認識論と武谷の認識論とを比較することが必要かも知れない。

先日、県立図書館から借りて来た『数の発達心理学』(国土社)を読み始めたと言いたいところだが、そうではなく、その本に付随してしていたCahierカイエを読んだ。カイエはフランス語で本当はノートを意味するが、これは実はよく本につけられていることの多い、月報にあたるものだろうか。

日本ではピアジェは水道方式の提唱で知られる、数学者の遠山啓、銀林浩氏らの紹介や訳で有名になった。『数の発達心理学』もこれらの方々に心理学者の滝沢武久氏が加わって訳がされている。また、『量の発達心理学』(国土社)という本の発行されており、こちらの訳者は銀林浩、滝沢武久である。

そういういきさつもあるのか、日本ではピアジェは教育心理学と関連していると考えられており、私などもそういう風に取っていたが、カイエに寄稿した吉田甫(はじめ)さんによれば、ピアジェは教育にはあまり関心がなく「認識の発生メカニズムこそが彼の生涯の研究テーマであった」という。

これはかすかに覚えているだけだが、武谷氏の著作の中でだれかの問いに答えて、ピアジェは研究の広がりとか奥が深いというようなことをリマーク(remark)している個所があった。それがどこであったかはいま覚えていない。

ピアジェはスイスのフランス語圏の生まれらしく、若いころから生物学に関心をもった学者であったらしい。そして、彼は生涯を通じて自分の見解を修正し続けた「修正主義者」だと言っていたという。

その後の認識心理学の発達によって、ピアジェの認識は細かな意味では修正を余儀なくされているという。しかし、その発端はすべてピアジェが与えたといるという。

それにしても日本では多分ピアジェのすべての著作が翻訳されているのではなかろうか。いま十分に調べたわけではないので確かなことは言えないけれども。

(2017.11.23付記)「修正主義者」と書いてこれは普通には政治的にある意味を持った語として使われると思うが、そういう意味をはずれて、毛沢東は自分の著作にたえず手を入れていたと聞く。そういう意味では彼はこのブログでいう「修正主義者」である。

そういう意味では私も前に書いた文章でも手を入れて書き直したいほうだから、バリバリの「修正主義者」である。時間が経つと知恵がついてきて、前の文章の欠点が見えてくる。

だが、そういう修正して文章が本当によくなるのかどうかはわからない。確かにわかりやすくなるとしても、はじめの文章を書いた熱気とか意気みたいなものは失われるのかもしれない。

 


AIはわからない

2016-11-21 11:22:09 | 日記

すこしAIについて通俗的にはわかってきたのだが、そうすると次にわからないことが出て来た。これはどういうことかというとデータを読み込ませてからそれをコンピュータ内部でどう取り扱うのかということである。

人間がはじめから変数を選定するというのではない方法があるらしい。「内部表現」というのがそれにあたるのかどうか。昨夜ちょろっと読みかけただけだから正確にはわからない。

小林雅一さんという人の書いた「人工知能の衝撃」という啓蒙本を読んだのだが、その2章が人工知能の数学というかそういうことを説明している。それでその章を2回半ぐらい読んだのだが、もうちょっと突っ込んだ疑問が出て来たというわけである。


とね日記

2016-11-19 11:34:11 | 日記

というブログがあり、これが物理に関係したブログのランキング1位である。私のブログがランキング2位を占めることが多いが、その差は大きく、「とね日記」は私たちの2位以下をはるかに大きく引き離してのダントツのNo.1なのである。

読んで見るとおもしろい。大学では数学を専攻した方らしいが、物理を学ぶということを主に最近はされている。そして200冊を超える数学とか物理の本を読んで適切に書評しておられる。

おもしろいことには彼は多くの本を読んで学んでいるが、それによって分かったことをどこかに書きたいとはそれほど思わないらしい。もちろん、「とね日記」というブログを書いており、そこで十分にご自分の思うことを書かれているので、それで十分と思われているのかもしれない。

だが、ブログの内容の質とレベルが高いので、文句なしのランキングNo.1はうなずけるもので、彼に打ち勝とうなどという気持ちはまったく起こらない。

今後もこのブログ「とね日記」が健在であることを願っている。


市役所の公務員

2016-11-19 10:58:44 | 日記

を次兄は長く務めていた。その仕事ぶりは私などにはわかるはずがないが、この兄がいつも言っていたことは市長は政治家であるからともすれば、市の調査で得られた調査データでも自分に都合のいいように変えたがるとのことである。

だが、兄は「統計データは変えるな」というのが彼の年来の主張であった。そんなことは当然とも思えるが、彼がそういうことを部下の市役所の吏員に言わなければならなかったのは市長が陰に陽にその改変を迫ったからであろうか。

それともう一つ彼が言っていたことは「新聞等の切り抜きの出所と年月日を必ず書いておけ」ということだった。曜日はあとからでも計算して見つけることができるが、年月日は新聞の切り抜きをして年月日をその紙面に書いておけば、資料としての価値が増す。その年月日が書かれていないと資料としての価値がなくなるというのが、彼の口癖であった。

それを聞いてからは私も新聞の切り抜きの年月日を書くようになった。それでもときどきその年月日の記入を忘れた切り抜きもままあって、しまったと思うこともあるが、ほとんどの切り抜きに年月日と新聞名との記録を忘れてはいない。

市役所の部長くらいの地位になると盆暮の贈答が業者等から送られてくる。それを受け取らないでいちいち送り主に返すというのが彼の主義であった。

そのために兄嫁は6月と12月には余分な仕事がいつもあることになった。それでも頑強に「贈答を受け取るな」というのが兄の考えであり、兄の考えを忠実に聞いて贈答品を送り返すことを実行した兄嫁をなかなか偉いと思っている。家庭に関することは主婦の仕事であるかもしれないが、それを実行するにはなかなか強い気持ちが必要である。


荒れた学校を治めるには

2016-11-18 11:59:24 | 日記

どうしたらよいか。これには簡単な名案はない。

私の長兄は彼は長い間中学校の教師であった。中年以後は彼は風紀の担当の中学校の教師として、また教頭としてまた最後には校長として、いわゆる荒れた中学校に赴任することが多かった。

そして彼が赴任するとしばらくするとその荒れた中学校が不思議なことに治まって来るというふうな実績があったらしい。

この兄は何年も前に亡くなったのだが、彼から聞いたところでは、彼は荒れたもとになっている当該の生徒の話をとことん聞いてやったのだという。それはもちろん教室ではない。

悪童どもがたむろしている、体育館の裏のさみしいところであったり、校庭の片隅であったりしたという。とことん、この悪ガキと言われている子どもの話を聞いてやると自然に荒れた学校がおさまって来るのだと言っていた。

つまり、どんな悪ガキと思われる子どもでも自分を尊重して自分のいい分なり、話を十分に聞いて気にかけてくれる人がいることを知った子どもはすぐには心を入れ替えたりはできないにしても、やはり自分を尊重してくれる、先生が一人でもいることを知るようになる。そうするとその子どもは以前のようには荒れなくなるのだという。先生と生徒との間との信頼関係が醸成されたということだろうか。

自分を愛してもらいたい、尊重してもらいたいという気は誰にでもある。だが、たとえば、その子の家庭では貧困のために、その子をかまってやれる余裕がないのかもしれない。そうだすると学校がうっぷん晴らしの場となるかもしれない。

このブログは見られる方はあまり小学校や中学校の先生はおられないだろうから、ここに書いたことがあまり役立つとは思われないが、それでもどこにも書かないよりは書いておいた方がいいだろう。願わくば私たちが少しでも賢明になるように願っている。