物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

木は葉を繁らすといい

2011-11-30 12:01:59 | 日記・エッセイ・コラム

私はとても単純な考えの持ち主である。木は葉がたくさん繁っていればよい。

もう何十年か昔のことだが、県の緑化センターに行って椿の木を求めたことがあった。そのときには木の葉がよく繁っていた一本の木をほしいと思って係の人に連絡をしてもらったら、その木の持ち主が車で夫人同伴でやってきた。

そのときに彼に私はこの木が気に入ったから購入したいといったら、その樹木の持ち主がいうには「あなたは木のことがわからないというが、なかなか眼が高い」という。どうせお世辞には決まっているが、続けて言われた。

「この木は一本の椿だが、いろいろな花が咲くなかなかいい椿である。だが、ちょっと木に勢いがなくなったのでこの緑化センターに持ち込んで養生をさせていた」のだと。

私には木のことは分からない。それで木として葉がいっぱい繁ったのがいいという基準で選んだだけである。それ以来この椿の木は私の家の庭で冬にいろいろな色の椿を咲かせている。

ある庭師さんが私の家の庭をつくってくれ、はじめの散漫な庭から狭いながらも、いまは趣のある庭になっている。そのときにももちろんこの椿は少し位置は移動したかもしれないが、ほぼ同じ位置で冬の庭の彩を添えている。

しかし、色とりどりの椿の花が咲くということは私にはどうでもよくて、椿の葉が繁ることが大事だというその気持ちは変らない。

だが、昨日庭木は剪定されて、きれいに庭木は散髪されて冬支度になった。折角夏に繁った木の葉を切り落とす庭木の剪定にはいつも不満なのだが、来年木が葉を繁らすためだと聞いて仕方なく本格的な冬の前に行われる庭木の剪定を黙認している。


漱石全集

2011-11-29 12:48:23 | 本と雑誌

私の生家では父があまり小説とかを読まなかったせいか、小説の類はほとんどなかったが、大判の古い漱石全集だけがなぜかあった。

それで、「我輩は猫である」は小学生には退屈で読めなかったが、漱石の他の小説は読んだような気がしていたが、NHKのテレビのJ文学で昨夜「道草」がとりあげられていた。ところがそのあらすじを聞いても読んだ記憶がない。

小学生には難しくて結局は読んでいないだろう。どうもこの「道草」は自伝的な要素があるとかで、現実は小説で描かれたほど極端ではなくても金の無心に漱石自身が苦しんだところがあるのかもしれない。

そういえば、もう50年以上昔のことになるが、旺文社のラジオの大学受験講座で国語を担当しておられた塩田良平先生は森鴎外の小説は読むと歳を取ればとるほど面白いが、漱石の小説は若いときにも歳をとっても同様に面白いと批評されていた。

そういえば、物理学者の湯川秀樹先生はどうも漱石があまりお好きでなかったようにお見受けをした。もちろん本人が直接そう言われたわけではないが、「坊ちゃん」の小説の観点は中央の地方蔑視だと言われた。それを松山の人が有難がる必要はないと言われたのを確かにこの耳で聞いた。これは卓見である。

いつだったかこれはエッセイにも書いたことがあるが、彼の「本の中の世界」(岩波新書)に鴎外は取り上げられているが、漱石は取り上げれていない。それで漱石はあまりお好きではなかったのではないかと推測をしている。

文学としての鴎外は歳をとるとますます面白くなる小説を書いたとしても、医務官僚としての鴎外=森林太郎には問題点がある。それは脚気の原因を捉えることに失敗したということである。

日本から見れば、医療の先進国であったドイツに留学して医学を修めた、鴎外はヨーロッパにはない、脚気の原因の追究の障害になっている。それで原因の究明が遅れたらしい。

これはもちろん鴎外一人の責任ではないのだが、それに結果的に加担したことになる。その辺の事情は仮説実験授業で有名な、板倉聖宣氏の脚気の歴史に詳しい。


地球の年齢

2011-11-28 13:36:17 | 物理学

地球の年齢は何歳か。

これはこのすでにブログで何回も触れている、西條さんの「測り方の科学史 I 」(恒星社厚生閣)に出ていることである。

しかし、放射性元素の半減期からのその地球の年齢の測り方をこの本にはさらっと述べられているだけなので、それをもっときちんと知りたいと手元の本を探したが詳しく書いた本をまだ見つけていない。

高校物理の教科書の演習問題にそのことを問題にしたのがあったと思うので、古い教科書にあるかと調べたのだが、手元にある教科書の中には載っていない。

その教科書の該当箇所をコピーしてどこかにもっているはずだが、いまどこにあるかはわからない。自分のもっている文書を逐一調べる必要がありそうである。

西條さんの本には地球の年齢は45.6億年と書いてある。その決め方を具体的に知りたい。

その問題をe-Learningの演習問題として採用したい。試験のためにつくった問題は好きでないから。人間が疑問に思ったことをそのまま高校数学の演習問題としたい。

この地球の年齢の決め方では放射性元素の崩壊の知識がいるが、e-Learningのコンテンツは高校生のためではないので、いいだろう。数学の知識以外に少し物理の知識を少しもっていれば、いろいろなことを知ることができる。

具体的で興味深い高校数学のe-Learningのコンテンツを目指したいと前から思っていたが、それがまだできていない。かなり努力をしてつくったのだが、出来上がったe-Learningはもう一つ面白さが足らない。

もっとも私と同じようなことを考える人は世界にはいるもので、高校数学の範疇ではないが、微積分を学ぶとかなりいろいろなことを取り扱うことができることを示した本がすでにある。

あまり熱心に読んだことはないのだが、何十年も昔に出版された本でゼリドウィチ著「科学者・技術者のための数学入門」(岩波書店、1961)などがそれである。


対数と指数再論

2011-11-26 13:56:17 | 数学

「指数関数と対数関数の構成 (II) 」という論文を読んでいる。

これは友人の数学者のNさんと物理学者 I さんの共著で、数学・物理通信への投稿論文である。それを少しづつ読んで文章に手を入れている。まるで、自分の論文かなにかのように。

それはまあ大したことではないのだが、対数と指数の関係についてこの論文ではあまり明確に述べられていない。

これは私の発見ではないが、

    対数と指数とは同じものだが、単に見方がちがうだけだ

というのは札幌藻岩高校の数学の中村文則先生のご指摘である。その解説をインターネットで読んでやっと私なども認識したことであって、その指摘にしたがって私も「対数とは」ということをテーマにしたエッセイを何回か書いた。

ところが、「指数関数と対数関数の構成 (II) 」ではそれらが、密接に関連があることは書かれているものの指数と対数とが同じものであることを書かかれていない。だから、靴の上から足を掻くようなもどかしさがある。

徳島科学史雑誌にも数年前に「対数とはなにか」という題でエッセイに書き、そのコピーをNさんにもさし上げたので、私のエッセイを読んで下さっているにもかかわらず。

誤解を招かないために、数学をご存知の方のために少し説明をしておくと、

「指数と対数とが同じものであるからといって、対数関数と指数関数とが同じだといっている訳ではない」

対数関数と指数関数とは互いに逆関数となっているということはよく知られている。そして、グラフを描くとこの二つの関数はy=xに関して対称になっている。

もちろん、対数と指数とが同じものを指すといっても焦点のあて方に違いはある。どういう違いかというと

a=c^{b} は c と b とがわかっていて c^{b} (c のb 乗)がどういう数 a になることが関心があるときに b は指数といわれる。

また、a=c^{b} で a と c が与えられていて、b を求めたいとき、この b を対数といい、またこの b を log_{c}a と表す。すなわち、a は c の何乗であるかを求めるのが、対数である。

だから、b=log_{c}a   ( log_{c}a は c を底とする a の対数)  はa=c^{b} と数学的には同等である。

したがって、a=c^{log_{c}a}が成り立つ。この最後の等式はちょっと不思議な感じがするのだが、上のことを理解していれば、なんでもない。

もっともM大学の薬学部での物理の授業で、この対数を説明したときに、a=c^{b} を分からないという学生はいなかったのに、b=og_{c}a は分からないとか難しいという学生が授業後にアンケートをとると必ず数人はいた。

単なる記号の問題ではあるが、b=log_{c}aのlog 記号が難しい思われるからだと思う。

それで、いつもアルバート・アインシュタインがアルバート・アインシュタインと呼ばれるのは、アインシュタイン自身のせいではないのにと独り言のように呟くのが常だったが、学生たちには理解してもらえなかった。


故人を偲ぶ11月

2011-11-25 12:50:41 | 日記・エッセイ・コラム

日本では亡くなった人を偲ぶのはお盆のある8月であろうが、ドイツでは11月が故人を偲ぶ月だという。普段は訪れない墓地(Friedhof)を訪れ、お墓に花を供えて、父や母とかを偲ぶという。

どうして11月がこういう月になったのかはわかならないが、12月はクリスマスがあって厳粛のうちにも楽しいイメージもあるので、その前の月が故人を偲ぶ月となったのであろうか。

それにドイツではもう11月は雲のかかったどんよりとした空で陰鬱な天気が続く。夕方も早い。森に行くともう冬支度であるが、森によっては月の初めころはまだ紅葉が残っているかもしれない。

モーゼル河 (die Mosel) の河畔からちょっと入ったところにある、ブルグエルツ(Burg Eltz)というお城を10月だったか11月だったか家族で訪ねたことがあった。

黄色や赤の落ち葉が積み重なって地面が見えなくなっている、大地を踏みしめて森の中をブルグエルツに向って歩いた。ブルグエルツには日曜日ということで城の中に入って見ることができなかったが、このときのハイキングはいつまでも頭に残っている。

森は、妻や私のような不信心な者でも世の中に神様がいることを信じてもいいのではないかと思われるのような神々しい景色であった。幼い子どもたちがそのときにどう感じたかはわからないが、そういう気持ちを話し合いながら、ブルグエルツからMainzに帰った。

もちろん、数日でそんな崇高な気持ちは直ぐに失せて、元の不信心者に帰るのにそんなに日数はいらなかったけれど。

だが、あの陰鬱な空と対比しての神々しいばかりの森の中では白雪姫のお話の小人がひょこひょこと出てきても違和感を感じないであろうとも思ったりした。


冬の朝寝坊

2011-11-24 12:47:58 | 日記・エッセイ・コラム

寒がりの私は冬が近づいてくると起きるのが遅くなってしまう。これは寝床が温かくて気持ちがいいので、なかなか起き難い。要するに自分が怠惰ということを告白しているに過ぎないが、日差しが居間に差し込んで暖かいところとか、コタツの暖かさとかが無性に好きである。

居間に日が差し込んで暖かいことは毎年このブログで書いているが、今年もそのことを書きたくなる季節が来た。この頃は怠け心がさらに高じている。そしてコタツで昨夜「計り方の科学史 I 」をまた10頁ほど読んだ。

この本によると、ニュートンとかその後のキャベンディシュとかは地球の質量を測るという意識がなくて、その密度を測るという意識が強かったらしい。そういえば、湯川さんの「物理講義」(講談社)にもニュートンの質量の定義は質量=密度*体積であるとか書いてあったように思う。

いまならば、質量と体積から密度を定義するというのが普通だが、昔は質量とは密度*体積という感じだったのだろう。

万有引力定数を測定したのが、キャベンディシュの業績ということに現代から見ればなるのだが、その当時の感覚とか意識とは違うのだと思う。この万有引力定数を測定は、すなわち力学から地球の質量の測定に直結することとなった。

昔、学生の頃に物理を教わったS先生は万有引力定数の測定のために黒い箱の中をいつもキャベンディシュが覗いていたので、棺おけの中をいつも覗いているという噂がたったと話されていた。

ところで、地球の質量を求めることを私のe-Learningの演習問題の一つにしてある。これは数値計算の練習という意味もあるが、地球の質量だって求められるという、思考上でもすばらしいことを人類が知ったことを少しでも多くの人に知ってほしいからである。

どうも高校数学は大学受験の影響で、大学入試の問題のような試験の問題の影響を受けた演習問題が多すぎる。それは大学にすでに入った学生とかすでに社会人になっている人々にとってはあまり生産的ではないと私は思っている。

だから、私には西條さんの「計り方の科学史 I 」はとてもいい数学の演習問題のタネ本になると思っている。しかし、私のような物の見方はあまり正統ではないので、こういう視点で西條さんの本をほめるのはどうかとは思うが、私個人にはそういう利点がこの書にはあると思われる。

いつもいうように、確かに人間若いときには学校で教育を受けるのだが、それはまったく人生のごく一部であって、その後の長い人生を一般社会で生きる。教育にもそういう視点がなくてはならない。


TPPへの疑問

2011-11-23 13:26:01 | 社会・経済

TPPへの疑問というとTPPに反対するのかという風に聞こえるかもしれない。私の「TPPへの疑問」とはそれ以前のことである。

どういうことかというと新聞にしろテレビにしろ、はたまた、各省庁の官僚にしろこのTPPがどういう影響を与えるのかについての議論というか、その全貌がまったく報道されないし、明らかにされないことがどうしてなのだろうということである。

誰にもどういうものかよくわかっていないのだろうか。もしそうだとすれば、少なくとも日本の行政に係っている各省庁は展望に欠けていると言わざるをえない。TPPがこれからの大問題であるとするのならば、それについて各省庁を超えた勉強会をすでに開いて詳しく調査していなければならないだろう。

もっとも国民にその実体を知らさないで、ことを自分たちの都合のいいほうに進めて行こうとするのならば、それはまったく怪しからんことである。

もっとも日本の農業の産物の品質はアメリカ産品の質をはるかに凌駕しているので、TPP恐れに足らずという説を最近インターネットのおおくぼさんのサイトで見たが、本当のところはどうなんだろう。

妻によると米には200%(この数字はまったく確かでない)の輸入関税をかけているのに、工業製品は数%の輸出関税しかかけられていないのだとかいう。そうだとするとあまり工業製品についてはTPPはメリットがないように思うが、どうなのだろう。

それと主食である、米とかの食料についての食料安保という考えも理解できるが、それにしても、もし200%も関税をかけないと日本の農業を守れないという体制は、米の生産として本当にいいのかという議論があってもよいはずだ。

もちろん、食料は先ほど述べ食料安保といった観点はある得るが、だから世界的に何倍も高い米を買わなければならない国民になってみてほしいという議論もあるだろう。

ともかく、そういうTPPのすべての全貌が明らかに明らかにならないのならば、それはどうしてかという議論はあっていいはずだし、ただ農業だけの問題ではない。

むしろ、影響を受けるのは農業ではなくて、医療とか他の分野の話だという議論もあるようだが、それもはっきりとして述べられたものはない。


子どもからの小包

2011-11-22 13:00:42 | 日記・エッセイ・コラム

子どもから一昨夜電話があり、借りていた本を返すという。それで気にせずに待っていたら、昨夜に届いた。開けてみたら、3冊の本が入っていた。

その中の1冊にDiracの量子力学があった。これはみすず書房から出たリプリント版でこの書は子どもにやったつもりだったが、借りていたということで返してくれたらしい。

私は35年ほど前にイギリスに行ったときに、ロンドンの書店でこのDiracの原書を買い求めていたので、実はこのみすず書房のリプリント版は子どもにやったつもりであった。昨夜子どもに電話したときにそう言ったら、、じゃあ今度帰ったときに、またもらって行くということであった。

実は今年の夏に子どもとそのパートナーがオスロに行ったのだが、そのときのお土産の品を送ってくれたのである。昨年の3月だかにパリの学会に行ったとき、買って帰った写真のお土産も送ってくれていた。

それで、昨夜パリのことを覚えているかと尋ねたが、エッフェル塔に登ったことは覚えていたが、他のことは覚えていないという。4歳ぐらいのことだから仕方がない。学会に出かけると会議に出るのが忙しくてなかなか観光は難しいらしい。

他の小物のお土産も送ってくれたが、それが何だったかはいま思い出せない。11月の始めに上京して子どもたちにほぼ一年振りに会ったのだが、そのときにお土産をもってくるのを忘れたと言っていたので、それを送ってくれたのであろう。

ノールウェイのお土産はなかなかしっかりしたビール瓶の栓抜きであった。妻はそういう小物のお土産を結構喜んでいたようである。

(一言注意) 上で原書という語を使ったが、この語は私の世代までの語であろう。洋書と和書という分類があるが、いまでは原書という語はほとんど使われない。昔は原書は英語とかドイツ語、フランス語、ロシア語の本とかを意味していたが、私は翻訳ではない元の書というつもりで使っている。言葉も変るものである。

お年の人には懐かしい語かもしれないが、ここでは洋書の意味では使っていない。


「測り方の科学史 I」の発刊

2011-11-21 15:01:27 | 物理学

徳島の科学史家である、西條敏美さんの書いた「測り方の科学史 I」 地球から宇宙へ(恒星社厚生閣)を出版社から送ってもらった。

編集者からの手紙が入っていて、雑誌とかWeb等での書評をお願いしたいとの依頼文が入っていた。昨夜テレビを見ながら、10ページほどを読んだが、私にはこういう本は一日に10ページほどしか読めない。

それに毎日読めるとも限らないので、140ページに少し足らない本ではあるが、まともに読んだら、1ヶ月以上かかるであろう。それでも送ってもらったからには真面目に読まねばならないであろう。

このごろ、ときどき書籍を送ってもらうことがある。いい加減に読み飛ばしてその読後感として本の著者に手紙を書いてお茶を濁していたのだが、先日も「技術論文の書き方」という書の感想や私の気になったところを少しだけ書いて送ったら、著者の一人のUさんがえらく感激をして、電話があり、もっと詳しく読んで感想をくれと依頼をされた。これは将来この本の改訂版を出したいという意向があるかららしい。

そのときにUさんと電話でしばらく話したのだが、学生の経済事情が緊迫化しているせいか、教科書にした書籍でもなかなか買わないのだという。もちろんこれは書籍の価値がないということではない。

「測り方の科学史 I 」の話題にもどると、なかなかこういう本はあまりない。

西條さんの小学校のときの先生がものの大きさや重さを測るとかいうような教育をされたという。そのことを「あとがき」で書かれているが、天才的な物理学者ファインマンのお父さんがものごとを具体的なイメージを描いてみせることを徹底されていたので、ファインマンがものごとを具体的に考えるというようになったという話と類似の話であるように思えて興味深かった。

さらに、話がまったく異なるが、私は高校数学のe-Learningのコンテンツをつくっているが、その中に演習問題を入れている。この演習問題はあまり人が試験問題としてつくった作為的なものではなく、できるだけ実際に則したものが望ましいと考えて、できるだけそういうものを採用している。

たとえば、ある物性の書の中にあった太陽表面の温度を求める問題を演習問題として採用したことがあった。この点についての話もこの書に出てくる。しかし、この「測り方の科学史 I 」にはそういういい問題が多く隠されている。どういう風に地球の大きさを決めたかにしても、高校数学のいい演習問題になる。

言い方を変えるとそういうことを詳しく書いてほしいと私個人は思うのだが、これははじめから無理な注文であり、この書の欠陥というわけではない。むしろ本を簡潔に書くにはこのような書き方がいいのであろう。

しかし、これはかなり私個人の見方なので、学校の理科の先生たちはどのようにこの書を見るのであろうか。


久保亮五の統計力学

2011-11-19 12:01:29 | 物理学

久保亮五の『統計力学』というと、多分物理学を学んだ人は彼の『統計力学』(共立出版)を思い出すだろう。だが、ここではその有名な著書のことではない。

金曜日に古書でダイアモンド社の「新物理学講座」というシリーズ本を購入した。その中の1冊にこの表題の書があった。この書は100ページそこそこの小冊子なので、統計力学の考え方を中心に書いたとあとがきで書いている。

これの3章に気体の拡散について書いてあるが、いままで私がこういうことをなぜ統計力学の書で書かれてないのだろうと思っていたようなことが書いてある。まだ、十分に了解ができてはいないところもあるが、いままでの理解の隙間を埋めてくれるような気がしている。

これに近い書き方がされていることを私が知っているのは、和田純夫さんの『熱・統計力学のききどころ』(岩波書店)の第1章のはじめのところである。

それにチラッと見たことがあるのは横浜市立大学だったかに居られた都筑さんの著書に私の知りたいことが書いてあったように思う。その書の名は失念したが、森北出版から出された書であったと思う。

名著として有名な朝永振一郎の『物理学とはなんだろうか』(岩波新書)の中の熱力学と統計力学の項にもあまりヴィヴィッドには書かれていないことなので、少し欲求不満を起こしそうだった。とはいうものの、「物理学とはなんだろうか」が名著であることは間違いがないが。

M大学の薬学部でのリメディアル教育の数年前まで私が担当していた、物理講義でも熱力学については和田さんの本の一部を敷衍して講義をしていたが、あまり私の意図は学生には伝わらなかった。というのはたぶん、私とは熱力学とか統計力学とかでの問題意識が違ったからであろう。

私は「なぜ熱は高温から低温に流れるのか」を熱力学のテーマとして取り上げようとしたのだが、これは学生にとっては当然の経験的な事実であるから、それについて説明を必要とするという考え方はなかったに違いない。

もちろん、よく知られているように熱力学の範囲では、「系に何も仕事をしないと、熱は高温から低温に流れる」というのは熱力学の第2法則そのものであってその熱力学の範囲では説明をするできることではない。

しかし、熱力学のそういう側面を正面から統計力学の専門家は取り上げないのかと思っていたが、さすがに久保先生はそのことをわかりやすく説明する必要を感じておられたことがわかった。

私と同じ問題意識を物理を教えておられる方々が持っているかどうかはわからないが、高校等で熱力学や統計力学を真剣に教えようと思っておられる方には表題の書は役に立つに違いない。図書館等で見てみられることをお勧めしたい。


柿(かき)3

2011-11-18 13:08:34 | 外国語

岐阜県に住んでいる、妻の従兄から今年もきれいな柿が届いた。数年前から妻が年末に愛媛県産の温州ミカンを送ってあげていることの返礼という感じで柿を送ってくれるようになった。

とてもきれいな柿で先日一つ食してみたがまだ、ちょっとまだ甘味が足らないから、すこしおいておいた方がよいのであろう。

ところで、この間見るともなくテレビを見ていたら、イタリア語の講座で、un caco, cachi (つづりはあまり確かではない)とか書いて単数はカコといい、複数でカキというのだという。カキは日本からきたといっていた。

本当は日本語では単数でも cachi なのだが、イタリア人は i で終わる語は複数なので、un cacoという単数をつくったという。unは不定冠詞で一つを意味するが、「ウン」と発音する。フランス語のように「アン」ではない。

ちなみにイタリア語では chi はキと発音する。決して「チ」ではない。念のため。

スペイン語ではカキ、カキスというと、複数にはsをつけるとそのときつけ加えられていた。そのスペイン語のアルファベットのつづりはいまここでは再現できない。

もう35年以上昔のことだが、ドイツで八百屋か果物屋の店頭にカキが並んでいたのを見た妻が「ああカキがある」と喜んだら、私の家によく遊びに来ていたKarl Schmidtという学生がこれはder Kakiと言って、スペインから来たのだと教えてくれた。

もともとカキの原産がどこか知らないが、原産は日本ではないかと思ったことであったが、それについて調べたことはない。いま独和辞典でKakiを調べたが、果物のカキだとは訳には載っていない。

色彩としてのカキ色として使われているらしいことは辞書からも分かる。独々辞典を引いてみたがKhakiの項にも果物としてのカキはでていない。この独々辞典にはKakiのつづりではなにも載っていない。この辞典ではdas Khakiと中性名詞である。男性名詞のder Khakiも独和辞書にはある。

いま広辞苑を引いてみたら、カキは東アジア温帯に固有の果樹で長江流域に野生、日本には古くから輸入されて栽培されていたとあった。ミカンも同じように中国原産らしいから、カキも同じように中国原産であるらしい。ヨーロッパへは中国経由ではなく日本から行ったことが考えられる。


日本のマルクス主義者

2011-11-17 11:58:37 | 本と雑誌

「日本のマルクス主義者」(風媒社)は1969年に発行された本であり、昨日古書のインターネットで購入した。これの中に鶴見さんの書いた「武谷三男」があるから購入したのである。

私は筑摩書房から出されている鶴見俊輔著作集をもっているので、その中で読んだことがあるのかもしれないが、初めて読んだ感じがした。だから本当にはじめて読んだのかそれとも前にも読んだことがあるのかはわからない。

もっとも内容は初耳のことはなかった。だが、いつものことながら、鶴見さんの自分の判断できるところだけを述べて誰かの権威によらないところは気持ちがよい。

この文の中で終わりに「科学者としての武谷だとか技術史家としての武谷は論じなかった」という。自分に判定ができないところを誰かの権威によるのではなく潔く判断をしないというのは誰でにでもできることではないのかもしれないが、それでも言うべきことを言い切っているという感じを与える。

鶴見さんは4つの点について述べているのだが、ここでは最後の箇所だけを引用しておく。

思想の第一の目標は、同時代にとってのもっとも整然とした理論体系をつくることではなく、同時代にとっては見えにくい混乱した問題領域の中に入って、すぐれた解決方向をとらえるいとぐちを見つけることにある

とある。

さてはて、これも誰にでも真似のできることではなかろうが、確かに武谷の目指したことの一つではあろう。


経済学は生き物?

2011-11-16 12:03:09 | 学問

先日テレビのチャンネルを回していたら、池上彰さんのテレビ講義をやっていた。間違っているかもしれないが、池上彰さんは私の子どもたちが出た中学・高校であるA学園の先輩だと思う。いまマスコミで超売れっ子である。

ここで述べたいことはしかしそういうことではない。彼は経済学について話していたのだが、経済学はその時代時代で状況が変るので、その状況に応じてアダム・スミスの経済学からマルクスの経済学へ、さらにまたケインズの経済学からフリードマンの経済学へと変ってきたという。

多分そうなのであろうが、私の子どもなどは経済学は自然現象と似ているとか言っていたので、どうもそういう認識と池上さんの考えとは違っているのではないかという気がした。

また、政治がいろいろな規制をしてみたが、うまくいかなったことがあり、その規制が数年後に撤廃されたとか。これは大型小売店規制法だが、これを試行したために街の店舗が却って衰退したのだという。

それで、その規制は撤廃されて現在に至っているという。それで成功した例として吉祥寺駅前の商店街のことが上げられていた。こばんざめ商法とかいう名がついているという。

これとは違うかも知れないが、最近聞いた話では中央線沿線の立川が商業的に多くの店舗が進出してにぎわっているということであった。

いつだったか何十年も昔、イギリスで「マルクス経済学」と「近代経済学」といういい方をしたら、この近代経済学という語は英語ではまったく通じなくて、ケインジアンというのだと言われたことがあった。これは本当なのでしょうか。


わかるから創造へ

2011-11-15 12:30:23 | 物理学

西谷さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)を読んで、思ったことがある。

それはすでに出来上がっている、学問がわかることと新しい科学を創造していくこととの大きなギャップについてである。

普通、学校では出来上がった学問について学ぶが、それすらもなかなか分からないというのが私などの困難を感じているところである。ところがさらに新しい科学の研究を進めるとはさらに困難を感じる。

北川民次さんという、新しくて自由な絵画教育を推進している人との対談で坂田は自由にさせている自分たちの研究室の研究者を育てる方針と北川の絵画教育の方針とが似通っていると述べている。

それはそれでわかるが、しかしそこにいけるまでには基礎的な教育が必要なのではないかと私などは思ってしまったのだが、そのギャップはあまりに大きいと感じている。

なんでもすっと理解していける人が科学者として適性を持っているとは思わないのだが、そうはいってもある程度理解力もないと科学者にはなれないだろう。

私自身は数学でもはたまた物理学でもなかなか理解ができない方の部類であり、そのことが私が現在の考えをつくりあげてきた一番の元になっていると思っている。

凡人の物理学を標榜してきた坂田にしても若いときには計算の仕方一つでもそのやり方を考えてきたらしいとは以前にどこかで読んだ気がするが、それとこの伝記に出ている考えとはかなりの隔たりがあるような気がしている。

坂田の伝記に何でも坂田に関することが書いてあると期待することなど本当は無理な注文だが、私自身はそういうことに関心がある。

(2011.11.16)コメントで北川民次さんと教えられたので、民次と直したがもう一つ自信がもてない。ちょっと文献を調べれば済むことなのだが。だが、多分正しいだろうと思っている。


数学・物理通信10号

2011-11-14 11:00:27 | 数学

12月に発行予定の数学・物理通信の10号の編集がほぼできた。一日をフルタイムでこの編集に費やしているわけではないが、二日目か三日目で目途がついてきた。

編集後記を書いておいたが、もう一度論文やエッセイのスタイルについて編集後記で書いておきたいと思っている。

これは投稿者に対する苦情だと思ってほしくはないのだが、投稿者が違うとそれぞれ好みが違うので、節を表すコマンド\section{ }を使いたくないという方も居られる。

だが、サーキュラーとしてはある程度統一が必要だから、このコマンド\section{ }を使って書き直している。その辺は投稿者の方々も許容して下さるものと考えている。

式の番号を入れたくないと思われる方もおられるし、また、本当に投稿者のlatex原稿の書き方はいろいろである。これを面倒だとみるか、編集者としてそれを統一してサーキュラーとして発行するのは楽しいと考えるか。

私はむしろ楽しいと考える方だが、そう考えないとこのようなサーキュラーの編集などはできないだろう。

それで思い出したのだが、一緒に仕事をしていて楽しい人とそれほど楽しくない人とがいる。なんでも面倒くさがらずに、外から見たら、嬉々としてやっているように見える人がいる。

そういう人と一緒に仕事をするのは楽しい。ところがいやいや仕事をしているように見える人とは一緒に仕事をするのはこちらも苦しくなる。不思議なものである。

私の経験でも一緒に研究をしていたときに、Yさんなどはもちろん私の先生だということもあるが、投稿論文の英語は直してくれるし、図のいろいろな編集上の指定とかも赤字で入れてくれるし、仕事をするのがとても楽に感じた。

坂田昌一が死の直前に意識を失って、スカラーだとうまくいかないが、ベクターだとうまく行くとうわごとでもらしたとか誰かが書いていたが、それは彼の研究の一番楽しいときだったからであろう。

現在では原子核中のパイ中間子はベクター中間子ではなく、擬スカラー中間子であることが確立しているので、上の話を読んで私などはちょっと違和感を感じたものだが、それでも坂田が湯川、武谷と共に一番楽しく研究を進めていたのが、この中間子論を研究していた時期であったことは疑いがないように思われる。