私はとても単純な考えの持ち主である。木は葉がたくさん繁っていればよい。
もう何十年か昔のことだが、県の緑化センターに行って椿の木を求めたことがあった。そのときには木の葉がよく繁っていた一本の木をほしいと思って係の人に連絡をしてもらったら、その木の持ち主が車で夫人同伴でやってきた。
そのときに彼に私はこの木が気に入ったから購入したいといったら、その樹木の持ち主がいうには「あなたは木のことがわからないというが、なかなか眼が高い」という。どうせお世辞には決まっているが、続けて言われた。
「この木は一本の椿だが、いろいろな花が咲くなかなかいい椿である。だが、ちょっと木に勢いがなくなったのでこの緑化センターに持ち込んで養生をさせていた」のだと。
私には木のことは分からない。それで木として葉がいっぱい繁ったのがいいという基準で選んだだけである。それ以来この椿の木は私の家の庭で冬にいろいろな色の椿を咲かせている。
ある庭師さんが私の家の庭をつくってくれ、はじめの散漫な庭から狭いながらも、いまは趣のある庭になっている。そのときにももちろんこの椿は少し位置は移動したかもしれないが、ほぼ同じ位置で冬の庭の彩を添えている。
しかし、色とりどりの椿の花が咲くということは私にはどうでもよくて、椿の葉が繁ることが大事だというその気持ちは変らない。
だが、昨日庭木は剪定されて、きれいに庭木は散髪されて冬支度になった。折角夏に繁った木の葉を切り落とす庭木の剪定にはいつも不満なのだが、来年木が葉を繁らすためだと聞いて仕方なく本格的な冬の前に行われる庭木の剪定を黙認している。