zust"andigは「担当の」とか「権限のある」という意味である。anst"andigの方は「礼儀正しい」とか「満足のいく」というような意味らしい。
これらの言葉の意味を昨年のドイツ語検定試験の前には憶えていたが、すぐに忘れてしまったらしい。昨日のドイツ語のクラスでまたこのzust"andigという語を聞いた。そのときに多分「担当の」という意味だろうなとは思ったが、確かではなかった。ましてやanst"adigの方は意味を忘れてしまっていた。
やはりそれらが検定試験のときだけではなく、いつでもきちんと思い出せるようでなければならない。どうも試験だけ通ればいいという気はしない。検定試験に通ってもやはり実力はないという気がする。
昨日もブログに書いたかもしれないが、接続法第二式の用法でマーラーの歌曲にいろいろな日本語訳があるというのはやはりそれくらいドイツ語を私たち日本人には母語のようにはわかっていないということだろうか。
と書いて、昨日のブログを見たら、上に触れた接続法第二式の話は書いていなかった。それでちょっとだけ触れておく。
In diesem Wetter, in diesem Braus,
Nie h"att ich gesendet die Kinder hinaus;
Man hat sie getragen, getragen hinaus.
Ich durfte nichts dazu sagen.
の2行目の訳としていろいろの訳があるというので、「ドイツ語圏とその文化」1-5にこの記事を寄稿された K さんはその訳の広がりが大きいので、その意味をとりかねて悩んでいるというのです。
それで決着をつけようと思ってドイツ語の入門書をとりだしてみたのですが、やはり良く分からないというのが私の現状です。
接続法第二式は普通には非現実話法と言われるものが主な用法ですが、一般には遠慮がちにお願いや依頼をするときに使われます。
接続法ではそれが事実であるかどうかは保証されないというのが、特徴だと大学のドイツ語の講義で聞いたというかすかな記憶があります。だとすれば、
Nie h"atte ich gesendet die Kinder hinaus;
は「決して子どもたちを外に出したりしない」となるのか、むしろそれの非現実性を述べたものとして「こどもたちを送り出さなければよかった」となるのか。
現実には「送り出してしまった」のではなかろうかという気もしてくるから、やはり決着はなかなかつきそうにありません。
In diesem Wetter, in diesem Braus,
を一種の条件文と考えれば、結論部が「子どもたちを決して外には送り出さないであろうに」と考えるとどうも現実には子どもたちを嵐の中に送り出してしまったという風にもとれるので、やはり K さんならずともやはり悩んでしまうのです。
もう一つの解釈は条件文と考えられた
In diesem Wetter, in diesem Braus,
まで否定されているとすれば、子どもを外に出していたのはこんな嵐の天候の日ではなかったということになります。だからそのときにはこのような嵐の天候のときではないので、子どもを外に出してやっていたが、それで不慮の事故が起こり子どもたちの命が奪われたことになります。どうもそう解釈するのがよさそうに思えます。
よく、非現実話法の例として出される文に
Wenn ich ein V"ogelein w"are, flo"ge ich zu dir.
というのがありますが、「もし私が小鳥なら、君のところへ飛んでいくのだが」となりますが、これは条件文の方も非現実なので現実には「私は小鳥ではなく、だから君の所へ飛んでいけない」というのが現実となります。