物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

没にした原稿の修正の構想

2024-10-31 12:47:05 | 数学
29日に没にした原稿の修正の構想ができた。

それに対する草稿も昨日ほぼできた。ただ、それを入力するのは今日の仕事のつもりである。

昔、「四元数と空間回転1」を書いたときにKuipersの方針にしたがって四元数による空間回転の表現について書いたが、その表現の仕方がもっと深く理解できたと感じている。

「四元数と空間回転1」ではKuipersの書いていることを、そのまま日本語に訳した感じだったが、10年ほど経ってようやく自分の理解になった感じがしている。

とはいってもやはりKuipersの寄与は大きく、私はKuipersの記述にささやかな改良をしたに過ぎないのだが。だが、これで私もようやく納得した感がある。

毎日気の利いたことを書くのは

2024-10-30 11:22:49 | 本と雑誌
毎日気の利いたことを書くのはとても難しい。それもほぼ毎日である。

もっとも私などは文章を書くこと自体が好きなので、そういう話題があろうが、なかろうが書くということに慣れてはいる。

それにしても今日はまったく気の利いたことを全く思いつかない。7000回以上もブログを書いていれば、誰でもそういうことが起こるだろうか。

それしにても朝日新聞に毎日コラムを連載をされる方の苦労はこれは大変なものだろう。昔は詩人の大岡信さんが「今日のうた」だったかでかなり長期の数十年にわたって書かれていた。

いまは哲学者の鷲田清一さんが書かれている。どこかの本とか雑誌とかはたまたテレビやラジオの番組から気の利いた文句を取ってくるのだが、こういう努力は大変なことだろう。

投稿原稿は没

2024-10-29 13:58:39 | 数学
昨日だったか雑誌に書いた原稿を投稿した。しかし、今日来て見るとこれは没だということがわかった。

編集者のいうことが全く一理があるのである。長い間四元数のことに関心もっているので、私はもう初心のようにはなれないのだった。

それで助言をもとに再度構想の練り直しである。その構想はすでにもっているのだが、最後までその推論で計算を進めていないので、その推論がきちんとうまくいくことをまずは自分が納得しなければならない。

文章をつくるのはその後である。こちらの構想が気になっていたので、本来の正道に帰ったということであろうか。

それにしてもなかなか難しいのはしかたがない。


回転と拡大・縮小

2024-10-28 17:01:17 | 数学
回転と拡大・縮小とは違った操作であるらしい。

負の数をかけるときでもー1をかけるのとー3とは違う。ー3=3*(ー1)であるから、ある数にー1をかけたときは数の絶対値を変えないで、その数を原点のまわりに反時計方向に180度回転させるだけである。

その後でその数の絶対値を3倍大きくしてやらなければならない。それと同じことが複素数でも起こる。ある複素数x+iyにr(cos s+i sin s)をかけるときでもr=1なら、cos s+i sin sをかけるのだが、これは絶対値は変えずに複素数をsだけ原点のまわりに回転させる。

そういうことを四元数でもしようと思えば、四元数の極座標表示が必要になる。オイラーの公式の四元数への一般化はすでに知られているので、その表示を使えば四元数の極座標表示ができる。そうすると空間回転とその絶対値の大きさの拡大・縮小の機能に分けることができるはずだ。

もっとも四元数の虚部を表す虚数単位i, j, kは非可換なので回転を表すためには四元数の前から単位四元数を、四元数の後ろから、その単位四元数の共役四元数をかけてやれば、うまく空間回転を表すことができる。

ということになっていると思われるのだが、まだ私には十分に納得できるところまでには至っていないのが現状である。


衆議院議員選挙

2024-10-27 23:12:41 | 本と雑誌
10時も過ぎてそろそろ今回の衆議院議員選挙の大勢が決まりそうである。

少し希望のもてる選挙結果かもしれない。ここ10年くらいはいつも失望ばかりしてきたので。

私は瀬戸内海地方の町に住んでいるので、圧倒的に自民党の強い地区に住んでいる。いわゆる保守の地盤だと言われるところである。気候が温暖だとそういう気質を人は持つのかもしれない。

それでも個人的には、社会が少しでも革新的であることが社会の進歩に寄与すると信じている。

10月の子規の俳句

2024-10-26 13:03:22 | 本と雑誌
10月もそろそろ終わりそうになってきたのであわてて10月の子規の俳句を書く。

 文を書く横顔見えて夜長かな    子規

 writing letters
    I can see your profile
    a long night                                         Shiki  1900

E大学校友会のこのカレンダーの写真は宇和町の開明学校の教室の写真が載っている。私も一度か二度だが、ここを訪れたことがある。教室の中は暗いが、窓からの明かりがいい。

um Gottes willen

2024-10-25 12:26:41 | 本と雑誌
いままで一度もum Gottes willen(ウム ゴッテス ヴィレン)(注)というドイツ語のフレーズを聞いたことがないということはないのだが、willenというのが前置詞(後置詞というべきか)だとは知らなかった。willenは(~のために)という意味だと辞書にはある。

meiner Meinung nach(私の意見では)とか普通にいうと前置詞だが、名詞の後ろに置かれる前置詞もある。しかし、willenという前置詞があるとはほぼ65年近くドイツ語を学んでいたのに知らなかった。

いや知らなくてもいいのだろうか。私は別にドイツ語やドイツ文学の専門家ではないから。willenは2格支配の後置詞だという。そういう後置詞があることも知らなかった。Willen(神の意志)かと思っていた節がある。

私みたいな頭の散漫な者にはいつまでたっても学ぶべきことがある。

(注)um Gottes willenは独和辞典には「とんでもない」「お願いだから」と訳がついている。どういうときに使うかわからないので、独独辞典を引いてみたら、verwendet, um Ueberraschung, Ensetzen,Bedauern o. Ae. auszudrueckenとあった。「驚いたときとか、悲観したときとか、残念がるときとか」に使うのだろう。oh, mein Gott, oh, du lieber Gottとかも同じように使われるという。

右からか左からか

2024-10-25 12:11:33 | 本と雑誌
人間が何気なくすることで右からするのか左からするのかいつも気になっている。

こういうことをいうのは私が右と左との区別がつかない人間からなのだろうか。
こういうブログを書くのは横書きだから左から右へ書いていく。数式なども左から右へ書いていくのが普通である。

横書きは左からと思っていたら、もう何十年も昔のことで記憶も定かではないのだが、ドイツで知り合ったエジプト人のS氏はアラビア語を横書きだのに右から書いていたようだった。

このS氏はエジプト人だから英語は上手に話したが、ドイツ語のいわゆる枠構造とか、副文章の場合の定動詞後置の原則などはわかっていなかった。その後このことを知ったかどうかはその後つきあいが途絶えたのでわからない。

つい、まったく関係ないことにそれてしまった。いつも正午と15時にラジオ体操をしているが、こういう体操運動のときにも体を左から動かすのが普通なのか、それとも右から動かすのが普通なのか。

どうもラジオ体操の動きだと左からのことが多いが、それはいつでもそうなのかどうか。またもし左から動きを始めることが多いとすれば、それは何故なのか。

こういった普段は気にも留めないことだが、こういう些細なことも気になる困った性格の持ち主である、わたしは。もっともそれで悩んで不眠症にはなったりまではしないのだが。

荒っぽくではあるが、

2024-10-24 16:51:44 | 数学
荒っぽくではあるが、原稿のスケッチの入力を終えた。

もっとも図はまったく描いていない。図を入れないと本当の原稿にはならないのだが。それに図は結構スペースをとる。参考文献もまだ入れてはいない。

でも大筋では問題点をクリアしたと言ってよいだろう。あとどれだけ文章を付け加えることができるか。それともまだ文章を削除しなければならないかまだわからない。

まずは数式の番号を文章中に当面記入しておいた番号と入れ替えをしなくてはならない。

これは近いうちに数学・物理通信に発表する原稿の下書きとなるはずである。もっとも数学・物理通信ではスペースに制約はないのである意味では自由である。特に空間回転の四元数による表現qv\bar{q}の追求としては4番目の試みになる。

もっともいままでの3つの説明のどれにも十分に満足しているわけではない。だから4つ目の説明に挑戦したのだが、やはりまだ説明としてはまだ十分ではないだろう。




またまた障害が生じた

2024-10-24 11:25:29 | 本と雑誌
原稿を書くことに取り組み始めた。原理的な問題はいまはないと思うのだが、表現のしかたについては問題があるということがわかった。

そこでまたまた障害が生じたということである。さてどうするか。これはその雑誌では2段組で文章が組まれているということだった。

はじめに気がついたのは式の1行が長すぎるということだった。それをいくつかにわけて記述しようとしてなかなかうまく書きこめないという障害が起こった。

どうしたらいいかはわからないが、一つの考えはベクトル記法を使うということである。四元数にベクトル記法を使うということはちょっと気が引ける感じもするが、一度この四元数の積をベクトル記法で表せば、式がずいぶん簡潔に表すことができる。

もっとも一方でベクトルとスカラーとを足すことができるような錯覚を与えるかもしれない。だが、ベクトル表記を使うとベクトル代数を知っている方々には計算の見通しが格段によくなる。

さてはて、うまく切り抜ける方法はあるのか。

何度も原稿を書こうとして

2024-10-23 13:39:11 | 数学
ここ数日何度も原稿を書こうとして挫折をしてしまった。昨日ようやく見通しが見えた感じがしたのだが、さてはてその通りに行くだろうか。

もうすでに2,3回同じことを試みて失敗している。今日もうまくいかないかもしれない。だが、これだけ失敗を重ねると失敗が怖くなくなる。不思議なものだ。

少なくとも今月中には原稿を一度最後まで書いておきたい。その後で推敲をして文章を全面的に変更することも十分できよう。だが、一度最後まで書いておかないとそういうことが全くできない。

萩の実

2024-10-22 14:11:06 | 本と雑誌
庭の萩を抜こうとした妻のブラウスに萩の実がいっぱいついてしまった。

あわてた妻は洗濯機に入れて洗濯してブラウスについた萩の実をとろうしたが、失敗して、二人で90分ほどかけて脱水した洗濯物のブラウスの袖や背中についた萩の実をとった。

はじめはブラウスのいたるところについていたのだが、少しづつ萩の実が取れていくとある意味で自分の領地が広がっていく感じで、その領地を少しでも増やす感じで萩の実を取って行った。

いちいち数を数えていたわけではないのだが、数百以上あったのだと思う。椅子に座って足元にゴミを入れる屑籠をおいての萩の実の除去だった。

久しぶりの共同作業で妻から大いに感謝されたし、私もブラウスがきれいになってうれしかった。

四苦八苦している

2024-10-21 10:25:57 | 数学
四苦八苦している。四元数入門の原稿である。

はじめは『四元数の発見』の4章とか5章とかの簡潔な要約のつもりで書きだしたのだが、四次元の空間回転というテーマに引きずられて悪戦苦闘している。

そういうインターネットのサイトがあり、そこから新しく学んだのは3次元の空間回転という視点ではなく、4次元空間での回転を考えるという視点である。

私たちは4次元時空に住んではいるが、残念ながら第4次元は時間であるので、住んでいる空間は3次元である。そうすると全部空間だけの4次元の空間は想像できないのである。

松岡学『数の世界』(講談社ブルーバックス)でもいろいろ工夫をされた説明があるが、やはり明晰には頭に描けない。そこが問題である。

式の上だけでも4次元の空間を述べるしかないのかもしれない。


四元数と空間回転

2024-10-20 20:42:08 | 数学
四元数と空間回転との関係は論じつくしたか思っていたが、どうもそうでもないらしい。

私の目指しているのはわかっていることをそのまま正しいと認めるという理解のしかたではなく、できるだけ発見法的に理解したいということである。

そういう観点から3つの方法で四元数による空間回転の導出を『四元数の発見』では行った。だが、いま4つ目のそういう方法を紹介しようとしている。成功するかどうかはまだわからないが、もちろんそういう試みをしたサイトを見たからである。

もちろん少し手を入れた説明にするつもりである。もっともこの説明にしても完全に発見的な方法かといえば、そうも言えないだろう。

だが、少しはそれに近づいた方法であると判断している。

LGBTQと言語

2024-10-19 16:14:05 | 本と雑誌
LGBTQと関係がないのかもしれないが、前々から不思議に思っていることがある。

生まれた性は女性だが、女性にはなじめず、むしろ自分は男性だと思ったり、
逆に生まれた性は男性だが、それになじめず、むしろ自分は女性だと思ったりする人がいる。

そういう人のことを悪く言うつもりはない。ヨーロッパの言語は男性と女性で形容詞の語尾がoからaに変わったりする言語がある。私の少し知っている言語ではイタリア語である。そういう言語を話す人たちで私の言うような方々はやはりこの語尾変化にも敏感に違和感を感じておられるということなのだろうか。

日本語も、もちろん少しは女性用語とか男性用語とかがないわけではないけれどもje suis heureux(私は幸せだ)がje suis heureuseとかという風には変わらないのでさほど困難ではないが、上の場合のフランス語では明白にちがってくる。こういう言語においても違和感を感じるとすれば、かなり深刻である。

そういうことを直接聞く機会は私にはないだが、どういう風に感じておられるのだろうか。フランス語の初歩を学ぶときには、そういう人のことを思って好奇心がわく。