映画「ひろしま」の修復にはアメリカの記録映画の制作会社か撮影所か何かが資金を出していたと先日見たNHKのEテレの番組で知った。
映画「ひろしま」は1953年に撮影されていたというが、これが一般の映画館で上映されることはなく、いわばお蔵入りになっていた。
フィルム自身はどこかに国立の文書館かどこかに保存されていたらしいが、傷みがひどく修復が必要だった。それでその修復の資金を出してくれたのがアメリカの映画会社だったとか。
これを支援したアメリカ人がいたということは原爆自身の悲惨さを認めるアメリカ人がいるということを示している。そして、この人はアメリカでもこの映画を見る必要があるとの意見だったという。
厚労省は現在、介護や病気の初期の段階1,2にはほとんど経費を支出しないようになった。
ところが最近見たNHKの認知症の放送で、この初期の段階に経費の支出を惜しまない方が結局全体の費用の節約になるというイギリスの例が紹介されていた。
日本の国家予算は半分くらいが国債の発行に頼っており、国家予算はもうある意味で破産している。
マクロ経済の専門家にいわせると、それでもまだ日本では国債を購入する人は日本人が多くて、それほど心配ではないのだという。
それでも国家予算が問題であることは各省庁に勤める官僚もよく知っており、それで厚労省でも認知症や心臓病・糖尿病の初期の段階にはあまりその予防には予算を支出していないらしい。
それで最近は大きな病院経営が難しくなっていると聞く。ところが認知症予防と心臓病と糖尿病とには相関があるとの統計がイギリスで得られており、それで初期の段階に費用を支出することによって結局国家予算の中で医療費の節約になっているという。
これは認知症の発症を大幅に遅らせることができたからだという。
こういう事実を日本の優秀な官僚たちが知らないとは考えられないが、それにしてもそれを知らないかのような予算の出し方である。この予算の出し方が来年以降に是正されていくのかかどうか。
もう一つは昨夜のNHKのオイコノミアで言われていた。就学前児童への教育投資が30年後の国家財政に寄与しているのではないかという結果が話されていた。
これはアメリカの話だが、就学前の児童に対してある種の教育を施しておくと30年後にはその教育を受けた子供は持ち家の主であり、ちゃんとした職業についていたという事実がある。
これは名前は記録しなかったが、あるノーベル経済学賞をとったアメリカの経済学者の調査結果らしい。
これなどもそういう費用はあまり役に立たないから削減しようというのが、現在の国家の考え方であろうが、それが意外や意外に役にたつという。
この就学前の子どもへの教育投資は子どもの非認知能力を増すのだという。非認知能力とは何かあまりメモを取らなかったのだが、人との協調性や我慢強さとかを意味するらしい。
この番組のキャスターの又吉さんは教育投資というと小学生に算数や国語を教えるのですかと大竹先生に尋ねていたが、そうではないという。
絵を描かせたり、人と協調して遊んだりとかゲームをするとかいうことであろうか。私たちの想像が難しいことが存在しているらしい。
経済学者はこれらの可能性についてもう少し詳しく研究してほしいものである。
イスラエルのガザ地区への爆撃は許されるべきではない。
世の中の多くの人がそう思っているとは思うが、なかなかイスラエルの横暴をたしなめられない。
ハマスのイスラエル攻撃もあるだろうが、圧倒的に強い、イスラエルに非があると私は思っている。
力に力で対決する方式は解決には至らない。そんなことは百も承知なのだろうが、それでもそれを選んでしまうという愚かさを悲しむ。
特にナチの迫害を受けたということで建国をしたイスラエルが自分たちの民族がされたような迫害をパレスチナの人々にするという、こういうことが許されるべきではない。
Gaza Stripというこの地帯は地図で見るとまるで、細長い布の切れ端のようである。それでGaza Stripと言われるようになったらしい。
私がガザの人々にしてあげられることは何もないが、イスラエルの人道的な不正をインターネットで述べることくらいはできる。
またまたTEDの話である。
先日アフリカ出身の女性の経済学者の講演があったのだが、それが考えさせられた。
いま中国がアフリカの諸国を経済援助していると言われている。そしてそれはアフリカに豊富な資源を確保するための方策ではないかという。
中国はアフリカの各国の政治形態には注文をつけずに経済援助やインフラ建設のための資金を投下している。
アメリカはアフリカの諸国を経済援助するときに西欧的な民主主義の政体を要求することが多いので、どうもその援助はうまくアフリカ諸国には受け入れられていない。
ダンビサという経済学者の言では、どうも人々が貧しいところで政治形態として民主主義を要求してみたところで、経済がうまく行かないとその政府は長続きをしないし、人々の満足も全く得られない。
ところがまずはその政体については何の注文も付けない中国の援助は人々の生活を豊かにし、インフラが目に見えてよくなってくる。
ここでは考え方の転換をしたほうがいいというのが、ダンビサの提案である。
アメリカやその他の西欧の国々の政府がこの提案を受け入れるかどうかはわからない。だが、そういう考え方の転換は必要ではあるまいか。
世の中にはなかなかあり得ないようなことをしている人がいるものである。
先週の土曜日にはウガンダのHDCCという組織を支援している松山在住のUさんの話を聞く機会があった。
個人として支援をされているのである。いくらか財政的支援が必要であるらしいが、それを企業とか篤志家を募っての支援ではなく、まったく個人としてしている。
頭が下がるが、それでも誰かに助けてほしいとか基金を募るとかいうことではなく、個人として行っている。
そのUさんの話を聞いた後で、数人の人たちとちょっと話す機会があったが、みんな年金生活の身ではなかなか自分自身の生活さえできにくい現状では支援に募金することは難しいと異口同音にいう。
そういう現状であるから、ますます個人としてのその支援に頭が下がる。
Uさんがご自分のしている、ウガンダの支援について話したのははじめてであるという。そして「これが最後の機会でもであるだろう」と言われるから、むしろこれからあちこちで話をしてほしいと要望をしておいた。
どうも日本の将来はどう考えても明るくない。
先日の日曜日に愛媛大学で開かれた愛媛県社会保障推進協議会(以下協議会と略称)の主催の「社会保障の明日を考える」というシンポジウムに出席した。
ところが社会保障は国家の財源難のために縮小するという。特にいまの新自由主義の政府は自己責任ということを振りかざしている。
ところがそれは怪しからんというのが協議会の主張となる。特にほぼ10年後の2025年のことが大問題だという。
そのことまでは政府や官僚と協議会との認識に違いはあまりない。ところがその後の政策となると大分ちがってくる、たとえそうではあるにしても人間の生存が難しくなるような社会福祉の切り捨ては認められないと協議会は考える。
財源がなくなるので、増税というところはある程度一致しているとしてもどこからとるのかというと消費税くらいしかない。
いつだったか私たちの雑談会で、経済学者のNさんが企業はずるいのだと言っていた。それが本質であろう。企業の社会的責任とかいう言葉もあるが、できるだけ利益を上げるという体質は変わらない。
そうでない経営者ももちろんおられるけれども、それは圧倒的な少数派である。
そういう社会福祉の切り捨てや教育研究分野に関わる国家経費の節減は激しい。
実際問題として総額はあまり変わっていないとしても、底力としての日本の学問の品質は大学の研究者の懸命な努力にもかかわらず、その政策によって劣って行くことはまちがいがない。
そういう学問の裾野を広げたり、しっかりしたりするという財政的な力はもう日本にはないのではないかと思わせる。
それだのに力の政策だけが出て来て、武力の行使が日常茶飯事となりつつある。集団的自衛権の行使を認めるとかどうかということにそれが現れている。
では、なにか挽回策があるかとなると、日本でのすごい頭脳集団であるはずの、官僚らもあまりいい策はもっていない。
これは別に日本だけのことではないらしい。世界的な傾向である。それがヨーロッパなら、スペインのような国に現れている。
どうもインテリとか国際関係に詳しい人には集団的自衛権を内閣が認めるという話は評判がわるい。
どう考えたって単なる限定的な集団的自衛権で話が収まるはずがないし、それよりも現在の個別的自衛権だけを認めるという国家の姿勢は100年以上他の国家より先行した思想であるのに現実路線とかである。
どれくらいその現在までの憲法9条を尊重する、政治路線の価値があったかはそれが完全に壊れてしまわないとわからないらしい。
それが壊れてしまった後で、企業が世界で利益をうまく上げられなくなったとして、地団駄を踏んでもおそいのにである。
確かに、世界を見るとイラクもそうだし、シリアもアフガニスタンもなかなか国が治まらない。
これは国のある一部の民族だけの利益がもたらされるように政治が行われるとなかなか他の民族はうんとは言わないだろう。
一部には自分の私腹だけを肥やす類の政治家も後を絶たないのだろうが、それだけではないようである。
国家だけを重要視する現在の政治はもう時代遅れだというのは入江昭氏(ハーバド大学名誉教授)である。
もちろん、直ぐに彼の主張のよう国際政治がなるとは思えないが、すでに政治家がそういう思想を取り込んでいなくてはなるまい。
そうではなく、昭和10年代のような国家がいいと言わんばかりの美しいかのような国家観は時代錯誤がはなはだしい。
ウガンダ、タンザニア、ブルキナファソはすべてアフリカの国である。
ウガンダについては6月の雑談会で弁護士夫人のSUさんウガンダへの支援のことをはなしてもらうことになっている。
タンザニアは知り合いの弁護士さんの夫人YIさんが支援にかかわっていることを知っている。
それでいつかはYIさんにも話を伺いたいと思いながら、そのことをお願いしていない。
ブルキナファソは昨日の車中のFM放送の中でブルキナファソにJICAから派遣されて野球の普及に努めているという若い男性へのインタービュを聞いた。
アフリカの国といえば、部族同士の争いに明け暮れるという印象をもってしまうが、ブルキナファソは国民性が穏やかであるという。
もちろん、まだ貧乏な国であり、スポーツもまだ、だれでもできるというほどにはなっていないという。
だが、平和に暮らしてそれも勤勉な国民性もあるので、これから発展していくであろうとのことであった。
それにスポーツを通じてのコミュニケーションは言語を通じてのコミュニケーションでないだけ、強いところがあるとか。
「原発をどうするか」はとみに政治の問題になってしまった。
端的に言うと、ここに至っては原発を止めるしかない。
だが、それは純理論的に言っての話であって、現状をどうするかはなかなか難しい問題である。
それはその存続に電力会社の維持が係ってきたりするからである。政治的または人類の生存だけを考えるのであれば、原発廃止以外に方策はない。
これは言い切ってもいいのだと思う。ところがそれが現在ある電力会社や原子炉の建設を請け負ったり、原子炉を実際につくっている重電機産業の会社にとってみるとそこで利益を得ていたところであるから、死活問題である。
そこらが理論的または事故が起きたときの影響まで考えたときの後の現在の福島第一原発の後処理などを考えたときに処理費用の支出などを考慮したときの「原発廃止」に踏み切れない大きな理由がある。
だが、理論的にははっきりしていて、人類がまだこれほど巨大な機構の発電施設を制御できないことを示したことでもであり、事故の影響があったときに大きさを考えたときに、廃止以外にはない。
だが、それをいろいろな利害関係から以下にもっともらしく世間を説得して原発再開にもっていくか。これが現在の政治の課題であるかのようだ。
そして、原発を廃止するなど明言する首相を認めないというのが、産業界の意向であろう。それは本当は産業界が依拠しているはずの日本国民を痛めつけてしか、産業界が生き残る方策がないということを示しているのだろうか。
日本の産業界にはもう賢明な人々はいないものだろうか。
福島第一原発の所長であった、吉田氏の政府事故調査委員会での聞き取りした、吉田調書の文書が朝日新聞社の手に入り、それが少しづつ新聞紙上に出て来ている。
最近では細川豪志氏のインタビュー記事が出て、その吉田調書の内容がほぼ細川氏の記憶と同じであることが報道された。
それだのに政府はその吉田調書は公開しないという。これは聞き取りをしたときに公開をしないことを条件に聞き取りをしているからだという。
ところで、実際に大きな事故を福島第一原発が起こしたことはまぎれもない事実である。それだのにそれを公表しないなどというのはありえない。
そういうことがまかり通るとは中国政府の閉鎖性とか非民主性を唱える日本政府としてはおかしいであろう。
もっとも現在に公表すると社会を混乱するというのなら、その時期をはずして2~3年が経てば公表するという手もある。そこら辺りを隠してまた新たな原発の運転再開に走るとは言語同断である。
細川氏が「政治家は歴史の審判を受けるべきだから、自分の証言は公開してもいい」と朝日新聞に語っているのは覚悟をもった政治家としてその姿勢は大いに評価できる。
6月5日は天安門事件が1989年に起きてから20年だという。
中国の内政に関することではあるが、ちょっと言及してみたい。
多分、当時中国の政治の自由であることよりも経済的に裕福になることを政策として選択した鐙小平の決断はその当時としてはしかたがなかったのかもしれいないが、それを軍事力によって抑圧までしたことがいい選択であったのか。
これは歴史はもう一度その時点まで時間を戻して再度ちがう選択をしてみるなどということは実際上は行えないので、いまのところはなんともいえない。
しかし、現在の習近平政権がとっている取り締まり政策はあまり賢明な政策ではなさそうである。ではどうしたらいいかとなるとなかなか代替案はない。
それでも共産党の一党独裁でその要職になる方の親戚が私腹を肥やしていたり、腐敗していたりすることはもうどれだけ自粛を徹底していくことをスローガンとして取り上げてもなくならないだろうと思う。
そうだとすれば、共産党批判を力で抑圧することはかえってその腐敗を容認することになりはしないか。やはりマスコミや市民の批判を自由に受けることは必要なのではないかと思われてくる。
私などが死んだ後の世代でソフトランディングの決着がつくのだとは思うが、どのような決着をつけるのか。知恵のある人が中国にいつかは出てくるのであろう。
そのときに習近平はどういう歴史的評価を受けるのだろうか。