物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

AIが盛んに議論されているが、

2018-12-29 12:30:54 | 数学

これにはやはり地道な数学や理科の教育的内容が必要とされるのではないかと思っている。そういう意味では日本は数学教育に関してもかなりの経験と知識とknow-howなどの積み重ねがあると思われる。

ビッグデータだとかディープラーニングとかいろいろ言われるが、やはり地道な研究とか教育の積み重ねがやはり大事なのではなかろうか。

数式処理とか計算代数とかが私の大学の在職中とかにも問題になった。それははじめはAIとされたが、そのうちにいわゆるAIの範疇から外れたと思う。

グロブナ―基底とかは線形連立方程式ではない、高次の連立方程式を解くときの必須の項目かと思うが、なかなかむつかしくてまだよくはわからない。

だが、以前にe-Learningのコンテンツをつくったときに、その解説ごときものを書こうとしたことはある。それは簡単なグロブナ―基底の解説をめざしたのだが。

いまちらっと書籍を眺めたところでは「多項式環の計算」の基礎がこのグロブナ―基底にあるらしい。

 

 

 


KU (kindle unlimited)

2018-12-29 11:51:55 | 科学・技術

というのがある。

kindleというのは、電子書籍を読むソフトの一つである。そして、そのKUでは登録された人が無料で投稿された書籍を制限なしに読むことができる。

そして、私は結構多くの数学を中心としたエッセイを書いてきた。それを編纂して、電子書籍にしておきたい。そう考えるようになってきた。

印刷された書籍としてはすでに『数学散歩』『物理数学散歩』(いずれも国土社)とか『四元数の発見』(海鳴社)とかが私にはある。

『数学散歩』『物理数学散歩』はいずれもlatexでの入力ではない。しかし、『四元数の発見』ではさすがにlatexを用いている。それ以前の訳書である、ゴールドスタイン・ポ―ル・サーフコ著(矢野・江沢・淵崎 訳)『古典力学』上、下(吉岡書店)はもうlatexになっている。

このときがlatex入力にする境目であった。だから、それ以後はlatex入力になった。だから、そのころから書いた数学エッセイはほとんどすべてlatex入力となった。

将来は、『数学散歩』『物理数学散歩』もlatexで電子書籍としたいが、その前に今までに書きためてきた171編のいくつかを選んで、『続・数学散歩』とでも題する電子書籍にまとめたいと思っている。

もちろん、この171編の中にはすでに『数学散歩』に収録された38編のエッセイも含んでいる。それに以前に書いた数学エッセイの改訂版もかなりの数になる。だから実際にはどれくらいの数の数学エッセイを実質的に書いてきたのかは私自身も定かではない。

いまはその数学エッセイのリストの作成が先決である。


ラメの定数の導出

2018-12-28 11:28:46 | 物理学

というエッセイを完成しようとしている。これは前から書きかけたエッセイであるが、なかなか完成していない。

それを年末から、年始にかけて完成させようという気になっている。これはメモをもう40数年前につくったが、それをきちんとまとめておきたいと思っていた。少しづつまとめてはいたが、なかなか時間がとれなくて、完成にいたっていない。

それを今回は完成させようと試みている。できれば、「数学・物理通信」に掲載するつもりである。内容は等方的な弾性体において、ひずみと応力の間には36個の定数があるのが、いろいろな対称性を使って2個のラメの定数に制限するということである。

物理的な説明があるとか聞いているが、その説明は知らないので、数学的な導出である。これは岩波書店の講座『現代物理学の基礎』の中に豊田利幸先生が書いたものの解説である。

完成すれば、かなり貴重な説明となるのではないかと内心では思っているが、そんなことはどうでもよいのがこの世であろう。


『数理釈義』

2018-12-27 11:55:21 | 数学

Mさんの論文で知ったのは、クリフォードの遺稿の日本語訳『数理釈義』(博聞社、1889)が発行されていることである。

これにはベクトル、複素数、行列式、ハミルトンの四元数、グラースマンの広延論(Ausdehunglehre)の簡単な記述があるとのことだ。すぐにE大学のOPACを調べたら、幸いなことに蔵書のなかにあることがわかった。

もう年末なので、年明け早々に調べに行くことにしたい。これは菊池大麓訳である。たぶん、これがこれらの話題についての日本初の紹介であろうか。

クリフォードはいまではクリフォード代数の創始者として知られている。最近の日本語のテクストでは金谷健一さんの『幾何学と代数系』(森北出版)の第6章にクリフォード代数の紹介がある。

だから、現代的なクリフォード代数ではこの書のお世話になればいいが、歴史的には『数理釈義』が役に立つであろう。クリフォードは1845-1879だというから、34歳の若さで亡くなっている。だが、新しい代数系を発見した。もっともそれがどういうものか知っているわけではない。

(注)クリフォード代数の解説は日本語では最近まで特別な分野以外ではなかったと思うが、金谷健一さんの上記の本で一般的になってきたのかもしれない。


エッセイ「分岐点の定義(新版)」

2018-12-26 09:55:00 | 数学

の完成が間近となった。昨日、ハウザーの分岐点の定義をようやく入力して、それを見直した。今日はその修正を入力して完成させるつもりである。

分岐点の定義について気にしている人はたぶん私一人ではないと思うが、日本人では故安倍斉先生以外は知らない。他にもおられるのであろうが、すくなくとも論文や数学エッセイとかで私が見たことはない。

安倍先生に続いては文献に書きとどめている日本人は私くらいであろうか。いや、言葉足らずであった。分岐点の定義についてはどの複素解析の本にも書いてあるが、それらの記述とはちょっと違った視点から書いたものという「但し書き」がいる。

こういう作業をしても誰からも褒められたことはない。もっともこういう異なった視点からの関数の分岐点の定義を知っている人は知っているので、知らなかったのは私ばかりかもしれない。

ベル『数学をつくった人々』(東京図書)を訳した、数学者の銀林浩さんはこの分岐点の定義をご存じであろうが、銀林さんは代数か、整数論が専門の数学者であるので、ことさら関数の分岐点の定義が云々を書かれることはなかったのだと思われる。もっともすべての銀林さんの著書を見たわけではないので、どこかにすでに書き留めておられるかもしれない。

(2018.12.27付記) 昨日、上記のエッセイの一応の完成をみた。


四元数の科学史論文

2018-12-25 12:34:30 | 科学・技術

をMさんが最近書いた。まだ最後まで読んでいるわけではないが、なかなかよく調べた科学史の論文である。そのコピーを徳島科学史会を主宰する西條先生が送ってくれた。

昨夜、1時過ぎまで読んだが、4節の中途までしか読んでいない。もちろん、飛び越してまとめのところは読んだ。

     木村駿吉の四元数理解と「万国四元法協会」の提案

と題する科学史論文である。木村駿吉がどのように四元数を理解していたかに肉薄するものである。この掘り下げについては評価をしたい。が、やはり現在からの評価としてはちょっと違和感を感じるものがある。

というのは四元数は現在ではベクトル解析の陰に隠れているテーマであるからである。20世紀の終わりくらいから、21世紀のはじめに3DCG(3次元コンピュータグラフィックス)のために四元数がよみがえったことは周知の事実であるが、それでもそれは四元数が全面的に復活したということではない。

Mさんもそこは心得て、まとめをされているが、やはりちょっと物足りない。四元数のベクトル部を取り出して、それからベクトル解析ができたとはいうが、それ以後の発展はやはりベクトル解析の明晰性によるところが大きい。ベクトル解析は四元数と比べて、それが表現方法だけのものかどうかを私は疑問に思っている。

すなわち、四元数のほうがベクトル解析よりも数学的に優れているという評価はあっているのだろうか。これが現在から見た「木村駿吉の見解への異論」である。

それに、いまでは大学の基礎数学の最終目標が「ベクトル解析」だということを主張する「森ダイアグラム」という数学教育協議会で共有されている、優れた見解というか視点がある。この目標を「四元数」に置き換えることなどできないと思う。

Mさんにこの辺を再度深く掘り下げてもらいたい。もっともMさんにしたら、私のこのような主張ははた迷惑のものかもしれない。

四元数の意味を評価する、志村五郎さんの『数学をいかに使うか』(ちくま学芸文庫)の言説もあるが、これだって他の分野への発展のきっかけとしての四元数の評価であったと思う。

 

 


他人から見た武谷三男4

2018-12-24 14:58:09 | 科学・技術

私の書いた「徳島科学史雑誌」の掲載論文である。先日、「徳島科学史雑誌」が送られてきた。それで自分の書いた論文を読み直した。

特にいい論文ではないが、いいたいをことは言った。それに自分の考えにそれほど過ちはないと思う。

「他人から見た武谷三男」のシリーズは1を除いて、武谷に批判的な人を取り上げている。まだいくつかの書籍についてとりあげたいので、このシリーズはなかなか終わらない。

今回は作家の菅孝行さんの「反核運動と科学思想」(『日本の原爆文学』1983)と塚原東吾さんの「ポスト・ノーマルサイエンスの射程からみた武谷三男と広重徹」(「現代思想」(2016.6))とを取り上げた。特に菅さんの論文を特に取り上げた。

この論文を推奨した方があって、それで期待をして読んだのだが、思ったほどには格調の高いものではなかった。また、塚原東吾さんの論文はすべてが、武谷批判ではないが、基本的なところで事実誤認があって、この人の論説の信ぴょう性が怪しくなったと感じている。

そんなことを書くといま売出中の偉い教授先生、塚原東吾さんを批判することになるのだろうが、しかたがない。自分の気持ちを偽ることはできない。


チャリティ・コンサート

2018-12-24 12:47:51 | 日記

に昨日行った。管楽器だけの楽団である。もちろん、ドラムとかほか少しは管楽器ではない楽器も入ってはいたが、管楽器のコンサートである。

団員は50名前後でなかなかの大世帯である。松山の近郊の町の一つの砥部町の町民会館で行われた。これは有志がやっているコンサートであるから、無料である。それどころか最後に抽選があって。クリスマスプレゼントもらうこともできる。それも4,5人なんて数ではなく、20人ぐらいの人に抽選でプレゼントを渡していた。私たちと一緒に行ったMさんも抽選でプレゼントがあたった一人であった。

小さい子どもさんもたくさん来ていた。会場は1000人くらい入ると思われるが、そこに500名程度の参加があった。団員一人びとりが家族とか知人友人に参加を呼びかけて10人に来てもらえば、500人という参加者があることになる。

妻の友人の子息が楽団の団員ということで、妻が私も含めて4人を動員したということで、友人は喜んでおられた。


カギは交代数

2018-12-22 21:12:06 | 数学

であると思っている。急になんだと思われるかもしれないが、詳細は伏せておく。交代数はあまり知られていない。

しかし、ベクトルのことを知っている人なら、べくトルの外積は交代数を体現したものであり、同じベクトルの外積はゼロとなることを知っている。そういう演算と交代数とは関係している(注)。

たとえば、ゼロではないのに2乗すると0になる変な数が交代数である。そんな変な数を考える人が歴史的にいたのである。どういう発想をその人Grassmannはしたのだろうか。

遠山啓の『数学入門』上(岩波新書)106の1部をここに引用しておこう。

「数学といえば、機械のように正確で、空想や幻想などの入りこむ余地はみじんもないものと思われている。しかし、グラースマンの奇妙な乗法はその正反対を物語っている。グラースマンの幻想的な計算法が、連立方程式を完全に解いたわけである」

(注)ベクトル解析の歴史を概観したCroweの著書に"A History of Vector Analysis" (Dover)があり、これの初期段階の主人公は四元数を発見したハミルトンとこの交代数を考え出した、グラースマンである。

いま気がついたが、Corweの本のタイトルにaという不定冠詞がついている。これはほかの人から見たら別の歴史がありうるという意味での不定冠詞のaなのであろう。こういうときには断じて"The History of Vector Analysis"とはならないのであろう。

 

 


新しい車に変えた

2018-12-21 12:54:57 | 日記

とは言ってもほとんど私が以後乗るわけではなかろう。私があるちょっとした自損事故を起こしたことが車を1台にする原因となった。

それで妻と私と別々の車で近くのホンダの営業支店まで出かけて古い車を引き渡し、新しい車を受け取ってきた。今後、私も少しはこの車の運転をするだろうが、運転はもっぱら妻がすることとなろう。

これはほとんど妻が車を使うからである。したがって、私は同乗者となることが多かろう。自分の車をもつことは行動の自由があるわけだが、これからはそうもいくまい。


図書館は知の宝庫

2018-12-21 00:20:47 | 日記

である。もっとも使い方を知らない人にはごみの山だろうが。

先日ある複素解析の本を探してE大学の書庫をさまよったということをブログに書いた。私も自分でもかなりの本の数を持っているほうだが、やはりなかなか自分の資力には限界があり、何でも貴重な本を持っているというわけにはいかない。だが、大学の図書館にはいろいろの書籍とか論文とかがある。

それがしかし、うまく使われているかというともはや使われてはいないという残念な状況にある。これはいろいろな先生方が定年となり、それで付属図書館に研究図書として購入した書籍を返却するからである。

たくさん同じ本があるとそれを図書館としても民間の古本業者に売却するということもあるだろうが、それにしてもいくばくかの書籍は残してあるだろう。

だが、それが誰にでも使いやすい形になっているかといえば、どうもそうでもないらしい。先日も私が目当ての本を探しあぐねていたときに、ちょうどある図書館員さんとであい、それで目的の書籍にたどりつくことができた。

その人曰く、「この図書館は迷路だといわれているんです」という。それくらい目当ての本を探すことが難しいということであろう。

人々の知的欲求があり、それに対する知識の宝庫としての書籍とか論文とかが蓄積されているのに、それを有効に使うことにはなっていない。まことに残念である。

 

 


授業はあいまいなほうがいい

2018-12-20 11:53:52 | 日記

という、主張をあるところで読んだ。そして、それがどうしてなのかの説明がその直後に書いてあった。

授業を聞いている学生とかに疑問を起こさせたり、考えさせたりする授業のほうがいい授業だというのである。

そこまで考えをめぐらせているのならば、何も言うことはない。

これはもう亡くなってしまったある数学者が大学で授業をするときに、わざと間違ったりするのだと言われていた。

これなどもこういう種類の配慮があるような授業を聞いたことはない。明瞭ではっきりした講義をすることを現職の大学教員のころは心がけてきたが、まだまだまだったとことがわかる。


血迷った日々は過ぎた

2018-12-20 10:48:10 | 日記

このブログのアクセスが400を超えた日が3日ほど続いたが、その日々も終わったようである。やれやれ。

なにかにつかれたように、または嵐のごとく、ブログが検索されるといったことは誰でも経験することであるから、その時期は身を潜めていわば台風の過ぎ去るのを待たねばならない。

100から200程度の読者をもつ、このブログでもたまにはこういうことも経験することを知った。

ブログを書き始めて、今年で13年目だが、普通に思いつくようなことは私としては言いつくしているので、新しい感覚でものごとを感じることはとても難しい。


なぜ日本が空母を持つ必要があるのか

2018-12-20 10:29:54 | 日記

わからない。戦争の手段としての軍隊をもたないことにしたのはとても先見の明があり、それで世界の尊敬をえているのになぜ普通の戦争のできる国に戻ろうとするのか。

その世界から受けている尊敬の念を過少評価しすぎではないか。北朝鮮の脅威だとか、中国の脅威だとかいうが、日本が独特の文化を持った国であることをとは軍隊をもっていることにそれでもはなく、大学程度の数学や物理のテクストが本当にたくさんあったり、どこの他の国よりも世界の書籍がいち早く翻訳されたりするところにある。

もちろん、出版業界は出版不況を嘆いてはいるが、それでもいろいろな書籍が出版されたり、映画やアニメが世界に広まったりする。このことによって、日本を好きになる外国人は半端な数ではない。

数十年の昔なら、日本の家電製品が世界を席巻していたことがあった。いまではそういうふうではないかもしれないが、それでも独特の文化を日本はもっている。

ただ、国を守るというなら、一番危険なのは原発であり、もし北朝鮮が日本を攻撃したいなら、日本の海岸に存在する原発を破壊すれば、すむことである。それは日本にとっての安全性の危惧されることの第一である。

空母をもって日本の国を守るなどとは時代錯誤もはなはだしい。

ちなみに、最近では中国も2隻の空母をもつようになったが、このこともあまりいい傾向であるとは思っていない。しかし、それにしても中国は領土が広いといった点でも大国であり、それで2隻の空母しかもたないのだから、話はまだまだ原始段階にあるといってもよい。