物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

moonlightとmoonshine

2020-09-30 11:45:54 | 本と雑誌
岩波書店の雑誌「図書」10月号を読んでいたら、数学者・時枝正さんのエッセイにmoonlightとmoonshineという語がでてきて、moonlightは俗語で「内職」の意味があり、moonshineには「密造酒」の意味があると書かれてあった。

それですぐに小学館のProgessive英和辞典を引いてみたら、名詞としてのmoonlightの訳に内職はなかったが、動詞として「(夜間に)アルバイトする」という意味が出ていた。

moonshineの方は「密造酒」が訳の最初に来ていて、「月光」という私たちには普通と思われる訳は3番目に来ていた。

「月の光」という曲をピアノで(?)弾いていると、時枝さんの小さな息子さんがベートベンの「月光」弾けと注文がつくという話のところにこの話が出ている。

時枝さんという人がどういう人かよく知らないのだが、フランスで高校時代まで教育を受けて、その後イギリスで大学教育を受けた国際的な方らしい。



棚と戸棚

2020-09-29 13:42:46 | 本と雑誌
棚と戸棚とはどう違うと聞かれたら、だれでもすぐに答えられるであろう。

ところが私には棚と戸棚とが意識して違いが分かっていなかった。
それも実はドイツ語でder  Schrankとdas Regalとの違いはと考えて、ようやく棚と戸棚のちがいを意識できた。

戸棚で一番よくわかるのは食器棚であろう。私もときどき夕食後の食器洗いを手伝うが、それらの食器を乾燥した後では食器棚にしまう。

戸棚はだから、かならず前面に戸がついている。ところが料理のときにいろいろな食材を混ぜたりする食器を使うことがあるが、これはこのときに使うボールとかは普通の棚においてある。これには戸がついてはいない。

グラスを戸棚におくときにはドイツ語ではdas Glass in den Schrank stellenといい、もしか棚におくのならdas Glass ins Regal stellenという(注)。

das Regalは棚であり、der Schrankは戸棚である。

(注)ins Regalと書いたが、insはin とdasとの融合形である。すなわち、ins=in das である。これは慣用語として映画に行くとかきはins KIno gehenである。演劇を見に行くのはins Theater gehenという。

ドイツ語での不定詞句は動詞が一番最後にくる。もちろん、文章をつくるときには動詞は文の2番目の要素となって、たとえば、

”Er geht mit ihr ins Kino.  (エア ゲート ミット イア インス キーノ) 彼は彼女と映画に行く” というように不定詞句では最後にあった動詞が文章の2番目の位置に移動する。

死ぬ前に行きたい場所は(2)

2020-09-29 09:41:56 | 本と雑誌
「死ぬ前に行きたい場所は(2)」の今回はどこかに行きたいところがあるかといえば、ベルリーンBerlinである(注)。

ここがまだ東西分断されていたころだが、一度だけここに行ったことがある。もちろん東西ベルリーンを分断するいわゆるベルリーンの壁は健在のころである。

ブランデンブルク門Brandenburger Torは壁のそばにあり、その壁ごしにブランデンブルク門をバスから見たという記憶がある。

そのあとで実は当時の東ベルリーンと西ベルリーンをべルリーン壁を突き抜けて、つないでいたチェックポイント・チャーリーを通って、東ベルリーンにも行った。しかし、その記憶はかすかである。フンボルト大学の前をやはりバスで通ったのも覚えている。

いまではベルリーンの壁は観光用に残されたところ以外はなくなっており、その残された壁には絵が描かれているのをテレビで見たことがある。

ここに住んでいる日本人作家の多和田葉子さんに会って話をしてみたいという希望ももっている。

(注)Berlinは日本語ではベルリンと発音されるが、カタカナでその発音を拙く書くとベアリーンであろう。しかし、ベアリーンと書くと日本語のベルリンとはあまりに離れてしまうので、その中間のベルリーンと表記した。






日曜日にはアクセスが下がるのが普通だが、

2020-09-28 11:59:48 | 本と雑誌
日曜日にはブログのアクセスが下がるのが普通だが、今週の日曜日は2800代のアクセスがあった。これは普通とは違っている。

昨日の日曜日はいつもとちがって休みをとらなかった。これは10月1日が締め切り日の徳島科学史雑誌の原稿を少しでも書こうと思ったからである。少しは進んだが、まだ出来上がるにはほど遠い。

今日は午前中に内科の検診に行って、血圧降下剤をもらった。もちろんこの薬を飲んだ結果であるが、今月は124, 74であった。

薬局で「少し血圧が改善されたね」と言われたが、だいたい毎月こんな数値である。

8月は140, 85くらいだったが、これは1キロくらい歩いた後だったので、特別に血圧が上がっていたのだと思う。

この内科の待合室で週刊誌「サンデー毎日」をちらちらと見たら、65歳以上の人にはラジオ体操で飛び跳ねると膝を痛めることがあるので、要注意と書かれてあった。

もっとも私はラジオ体操では、この飛び跳ねのところは割愛している。

死ぬ前に行きたい場所は

2020-09-27 11:55:47 | 本と雑誌
朝食後に昨夜のNHKテレビのドラマ「天使にリクエストを」を見た妻がいう。「死ぬ前に行きたい場所があったら連れて行ってあげるよ」と。「行きたいところははないよ」と答えたのだが、ちょっと考えてライプチッヒに行きたいと答えた。

ここのAuerbachkeller(アウエルバッハケラー)は詩人ゲーテが学生のころ通ってファウストのアイディアを得たところとか聞きおよんでいる。

それに日本人の物理学者・朝永振一郎が当時ライプチッヒ大学の教授だったハイゼンベルクの下で2年間ほど研究したところでもある。

自死はしないでほしい

2020-09-27 11:35:52 | 本と雑誌
三浦春馬さんが、つい先ごろ自死をしたと思ったら、今日は竹内結子(ゆうこ)さんが自死されたらしいと新聞を読んでいた、妻がいう。

人間はかならず死ぬ存在であるのだから、あわてて自死しないでほしい。悩みがあれば、だれかに相談してその悩みを克服してほしい。

三浦春馬さんとか竹内結子さんとかは俳優さんである。それもイケメンとか美貌の俳優さんである。

私などイケメンでもないし、頭もそれほどよくないが、81年生きて来たし、これからもまだまだ生きるつもりである。病気とか事故で自分の生が終わるときはあるのだろうが、そのときまで懸命に生きたいと思っている。

美貌やイケメンの俳優さんたちもコロナ禍で生きづらくなっていることは想像に難くないが、それでもなんとか生き延びてほしいものだ。

そのために友人とか知人がいるのだから、なんとか相談して生き延びてほしい。切にそう願っている。



『マルクス・エンゲルス全集』

2020-09-26 11:52:26 | 本と雑誌
『マルクス・エンゲルス全集』(大月書店)なんてものにこの年まで縁がまったくなかった。

武谷三男の技術論を今年は徳島科学史雑誌に投稿予定の論文のテーマに挙げたので、はからずも『マルクス・エンゲルス全集』の中の1巻を調べてみなくてはならないことになりそうだ。

ということで、庭にある書庫からこの大部な『マルクス・エンゲルス全集』の中の2つの巻を取り出してきた。23a, 23bである。

もともとこれは私のもっていた本ではない。60歳直前に交通事故で亡くなった長兄の蔵書であった。

だれも住んでいない、長兄の家をとりこわすことになったので、次兄に「お前この全集がいるか」と言われたので、家に持ち帰ったが、もちろん、それを読むなどとは思いもしなかったので、庭の書庫に入れておいた。

この巻は『資本論』の翻訳であるので、取り出してはこなかったが、もう1巻あるにちがいない。長谷部文雄訳だと『資本論』は3冊本になっているから。ちなみにこちらのほうは居間においてあった。こちらも次兄からもらった本である。

とはいっても嶋啓さんの『技術論論争史』の引用された訳が正しいかどうかの確認のためであるから、ここまで筆が進み、この当該の巻を開くのは来週早々にくらいになるだろう。

書庫の中でも何冊も何冊も30冊以上あるのを確認した。いやはや、うんざりである。



『教育の場における物理』

2020-09-25 11:47:13 | 物理学
『教育の場における物理』は日本評論社から出版されている、江沢洋選集の第6巻で、これが最終巻である。

この中に

    30. あの頃の哲学と物理
 
という章がある。この文章の中にこんな部分がある。それはいま私が書いている論文の武谷三男にも関係した部分である。

(引用はじめ)
(前略)
武谷先生は『弁証法の諸問題』(1946)をはじめとする論文集や雑誌論文において弁証法・論理・方法論・理論の立体的構造などといったキー・ワードをしかるべき文脈の中で生き生きと働かせた。(中略)さてその文章に一歩ふみこんで考えてみると、どうもわからない。(中略)

どうやら武谷先生は大変に勘のいい人で、勘と勘の間をキー・ワードでつないでいるのではないかなどと失礼なことを考えたこともある。物理の現場を経験したいまでは考えが多少は変わった。ときに立体的論理構造といいたくもなり、弁証法の言葉が使えたらと思うこともある。
(後略) 
(引用終わり)

「物理の現場を経験したいまでは考えが」どのように変わったのかは説明がないが、そこらを詳しく知りたいという気がする、今日この頃である。

この本の 4. 科学政策とプルラリズム とか 25. ハイゼンベルク生誕九十年祭 -朝永先生のドイツ留学 とかおもしろい文章が掲載されている。

また、29. 憲法九条と幣原喜重郎 というエッセイも秀逸である。これは憲法への戦争放棄の提案は実はアメリカの提案ではなく、ときの総理大臣であった、幣原喜重郎の提案であったことが記された文章である。これには幣原側の証言と一方の相手のGHQの長だったマッカーサーの自伝での証言があるらしい。





ブログにアクセスしてくれる方たち

2020-09-24 14:04:40 | 本と雑誌
私のブログにアクセスしてくれる方たちの中でいろいろ「いいね」とか評価をしてくださるのうちで、逆に私がその方のブログを訪問してなにかコメントを書ける方とまったく書けない方がある。

コメントを書ける方は何らかの特徴をもったブログを書いておられる方であり、例えば、空の雲や山の写真を撮っておられたり、身近な街角やご自宅とかの花の写真を撮ってブログに載せておられる方とかである。

ところが私のブログにしばしば訪れられるのでなにか私もその方のブログを訪れてコメントをしてあげようと思ってもどうにもできない方もおられる。申し訳ない。

私の感性の鋭敏度が低いのではあろうが、なんとかご自分でも努力してはいただけないだろうか。

カラーボックス

2020-09-24 13:42:26 | 科学・技術
昨日、重信のダイキに行って税込みで1000円強のカラーボックスを2つ買って来た。

それを昨日妻と組み立てようとしたが、力が全く入らない。工具が悪いのである。それで仕方なく止めて、今日再度工具を変えて挑戦して、さきほど出来上がった。

仕事柄ファイルが増えるのだが、それを入れておく棚がなかったので、机の上とかに放り出してあった。まだ整理整頓はできないが、ちょっとかたづけができそうな感じがしてきた。

とはいうものの、ファイルの数はどんどん増える一方である。だいたい、仕事が遅いうえに頭があまりよくないと来ている。それだからわからないことが多くて、宿題が増える。

それに普通の人ならすぐに了解できることでも、たいていひっかかってしまうという性質である。

自分が納得できたと思えないと自分の疑問が解けたと思わないという気質である。こういう人はあまり世の中にいないと思うので、最近は自分の物わかりの悪さも自分の天分ではないかとまで思うようになった。

生きている限り疑問な点はなくならないので、因果なのものである。





逆格子空間と双対空間

2020-09-23 14:52:08 | 数学
逆格子空間と双対空間などというとわからないものの代表かとも思われる。

実はここで言いたいことはただ一つ。「結晶の幾何学での逆格子空間は実はベクトル空間での双対空間の例となっている」ということである。

ベクトルの双対空間のまた双対空間は元のベクトル空間になるという証明というがあったりするが、逆格子空間のまた逆格子空間は元の直接格子空間である。

このことを逆格子ベクトルの逆格子ベクトルをとって示すことができるはずだが、まだ直接に示したことはない。現在は忙しいのでそれを証明する暇はないが、できるはずだ。

ところが私がただ、見聞がすくないだけなのだろうが、どうもわかりやすく書かれた結晶の幾何学の本を見たことがまだない。

「かかと」と「つま先」

2020-09-22 12:12:30 | 本と雑誌
数年前から正午と3時にラジオ体操をしている。

完全なラジオ体操ではなく、飛び跳ねるべきところは飛び跳ねはしないので、完全ではない。しかし、ラジオ体操をしていることはまちがいがない。

このラジオ体操でかかとを上げるとかつま先を上げるとかの指示があるのだが、私にはどちらが「つま先」でどちらが「かかと」なのかわからなかった。

最近、ようやく「つま先」と「かかと」の区別がつくようになった。老人性の認知症でこの区別がつかなかったのではないと思う。いやそれもあるかもしれないが、たぶん違う。

昨日か一昨日だったか、妻がやっている脳トレの中に、「つま先」を漢字に書くとか「かかと」の漢字を書くのがあった。

「かかと」の方は知っていた。踵である。ところが「つまさき」の漢字を知らなかった。それでその裏の解答を見ると爪先とあった。それでやっとつま先の意味が分かった次第である。

こういう妙にアンバランスなところが私にはある。


連休の最終日

2020-09-22 11:15:53 | 本と雑誌
秋のいわゆるシルバーウイークの最終日で、秋分の日である。この日のことをドイツ語ではdie Tagundnachtgleicheという。文字通り夜と昼とが等しい日というわけである。

そう今朝妻にいったら、 すぐにスマホで英語でどういうか検索してくれた。

autumn equinoxとかいうらしい。この発音を聞くと何回聞いてもアラーノクスとでもいうのだろうか。そうとしか聞こえない。

それで秋autumnを英語と米語で聞かせてもらったが、英語の方は私たちの知っている、オータムに近いが、米語はそれに近いがちょっと違った音に聞こえる。

それでもこれはまだ私たちの知っているオータムであることはかろうじてわかる。autumn equinoxのほうはフランス語でいうリエゾンとかアンシェヌマンとかのようにautumnのnとequinoxのeとがつながるからであろう。

意味は秋のequinoxである。いま辞書を引いてみたら、分点と訳があった。

タンポポ

2020-09-21 11:25:25 | 本と雑誌
坂村真民の詩集『タンポポ』(郁文社)につぎのような詩がある。独文の対訳があるらしいが、それを私は知らない。

真民の前書き

朝鮮に渡り、女学校の教員となった。チョークの箱の裏に『死して生きよ』ゲーテの詩の言葉だった。敗戦により、引き揚げ、教員を続け、生徒たちが私にゲーテとあだ名をつけた。

     ドイツのゲーテを訪ねた、そのときの詩
かつての純真な若者たちが
わたしにゲーテという綽名をつけた
そのゲーテの家に来て
落ち葉を拾う
ゲーテから何よりもの贈りもののように
ゲーテの愛用の机の上に
持っていったゲーテの詩集を置く
ああ何よりの想い出
ゲーテの家を訪ねた記念に
・・・
タンポポを一株持って帰る
タンポポよ
因縁の不思議さを語り合う

(注)このゲーテの家がどこにあるのか知らない。私も一度フランクフルトのゲーテの生家を訪ねたことがある。しかし、たぶんここではあるまい。もっともここには中庭があったと思う。

ゲーテと縁の深い町としてはライプチッヒLeipzigとか他の町がある。ここはいわゆる東独であったので、1989年以前はいまほど簡単には行けなかった。

ドイツ再統一後にはドイツのどこにでも簡単に行けるようになったが、私は東独だった地域へは、昔の東ベルリーンを除いて、行ったことがない。

詩人・坂村真民

2020-09-21 10:53:12 | 本と雑誌
昨日、知人が近代史文庫の例会で詩人・坂村真民について話すというので、午後教育会館に出かけた。

けっこう大勢の人が出席していたので、ロの字型の席の外側に2列に並べれられた席に妻と並んで座り、Kさんの話を聞いた。

Kさんは最近松山に住まわれるようになった方であるが、彼自身も詩人である。その話はかなり詳しく準備されものであって、つくられた資料も充実したものであった。

ところどころで詩の朗読が入った。やはり詩は朗読されるのを聞くに限る。朗読をした方は比較的若い女性で朗読はときどきミスはあったが、全般的にはなかなか立派なものであった。

ここで、一つくらい真民さんの詩を紹介すべきであろうが、今回は止めておこう。次回以降に一つ二つ紹介できればいいのだが。