物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

累乗根

2009-10-31 12:48:34 | 数学

「指数と根」という節のe-Learningのコンテンツをつくっている。ここで、累乗根について書こうとして「主たる」n乗根という語にぶつかった。あまり聞いたことがない言葉である。ちょっと調べてみたが、そういう語を使っている書籍はあまりないようだ。

それで仕方なく田島一郎編集の昔の高校教科書を見たら、主たるn乗根という語は出ていなかったが、n乗根についての知識がまとめられていた。それでそれをそのまま採用することにした。このごろの本は早く関数について書こうというのか、どうも代数のそこらあたりがあまりきちんと書かれていないようである。

e-Learningのコンテンツをつくるためにはもちろん下敷きにする種本があるのだが、もっともその内容はほとんど種本とは違っている。取り上げる項目がこの種本にほぼしたがっているというだけである。

しかし、仕事は遅々として進まない。


ゲルファントの死去

2009-10-30 17:24:00 | 数学

つい先日数学者のポントリャーギンとゲルファントのことを書いたら、今朝の新聞にゲルファントが10月5日に死去していたというニュースを見た。ロシアの数学者と思っていたが、最晩年にはアメリカに住んでいたとのことである。

このことは岩波書店のゲルファントの「学校に行かないでもわかる数学」にも出ていた。高校にも行けなかったとかで、だから独学の人のためのテクストを書いたということだった。

いまの高校に行けないでも数学者になる道が開けているだろうか。日本でそういうことが可能か。大いに疑問である。親が貧困なら、子どもも十分な教育を受けるチャンスがもてないという風に、このところなってきつつある。

だから、政権交代で民主党の政権ができたということだろう。これでもまだ同じようなことが続くなら、市民はどうしたらいいのだろうか。


親馬鹿ちゃんりん

2009-10-30 11:41:28 | 日記・エッセイ・コラム

野原三郎という英語の先生が居られて、旺文社の学生雑誌にいろいろ書かれていた。その中に「親馬鹿ちゃんりん、蕎麦屋の風鈴」ということわざがあった。これを英語では It is a wise father that knows his son. というとあった。これは中学生の頃その雑誌を取っていた級友のO君の指摘で知った。

もちろんこの英語のことわざは反語であって、自分の子どものことをよく分かっているような父親は滅多にいないということである。その野原先生は「医家の不養生」ということもいわれていた。もっともこちらに対応する英語のことわざは知らない。

これはもちろんことわざであるが、このことわざには幾分かの真理が含まれているようだ。もう何十年も前に岩波書店のPR雑誌の「図書」で、文豪として有名な森鴎外はもちろん医者であったが、自分の体を養生しないで仕事の方を優先して亡くなったとか書いてあるのを見たように思う。

今週の日曜の同期会でも医者は不養生だということをやはり聞いた。これはやはりその職業のせいがあるのかもしれない。そういえば、Heisenberg が晩年にガンにかかっていたが、その治療を断って(痛み止め以外は)75歳か76歳に亡くなったと彼のもとに長くいた山崎和夫さんが書かれていた。そして私がドイツ留学のためにフランクフルトに到着した1976年2月1日だったかに亡くなったことを後で知った。

生きるということに関して、ある種の考えをHeisenbergはもっていたのに違いない。生きるとは主体的な営為だと思う。


私の方法論

2009-10-29 14:34:14 | 物理学

物理学と数学での私の方法論は「比較と類推」である。それしか自分のもっている方法はないのかと言われれば、それまでだが、その二つをできるだけ使うようにしている。

特に比較というかクロスチェックは昔のまだ駆け出しころからそういうことを心がけてきた。

物理には一般に実験結果があって、理論的な計算は実験と比較するのであるから、実験と合わないともちろんいけないのだが、それ以外に理論の計算が信用できるものであるかというチェックがいつでも必要である。

だから、粒子と粒子との散乱の断面積の計算でも部分波に分けた計算だけでなく、ボルン振幅からそのまま断面積を計算してこれが一致するかどうかを数値的に調べて自分の計算を確かめていた。

これは私が粗忽でいつも簡単に計算を間違うので、それを発見するためにそういう方法をとっていたのだ。

前に先行する研究がある場合にはそれ結果と比べるとかその計算を自分でもやってみて、自分の計算結果と比べるということをやってきた。

これは指導してくれた私の先生たちから言われてしたことではなかったが、いつでも少なくとも二つの違った方法で自分の計算結果を確かめるようにしていた。これは朝永さんがHeisenbergに言われたとかいう方法であった。

Heisenbergは量子論の計算でも古典論的に計算して、それを比較していたという。またなんでも計算結果がそうなりましたというのではなく、直観的に説明できるということを大事なこととしていたらしい。

大家がそういう努力をしているのならば、凡人の私などはもっと努力すべきだと思ったのだが、それにしても計算が合わなくて苦労したことが多い。

あるときは先行論文の計算と自分の数値計算が合わなくてその論文の計算が間違っているのかと疑ったことさえあった。

だが、これは私の座標系のとり方が正しくなかったためで、その間違いに気がついて正すとぴったり数値的に一致することがわかった。疑うべきはまず自分であった。

その後のいつだったか国内であった、国際会議でその論文の著者Fさんにお会いしたのでなかなか計算結果が合わなくて困りましたと言ったら、問い合わせてもらったら良かったのにと言われた。

そういうことを考えもしなかったのだから、私がいかに間が抜けているかがわかる。

計算がへたくそでそれも大きな間違いをしてなかなか気がつかない。だから仕事に時間がかかる。いつもそういう風であった。

武谷三段階論で現状を批判的に見て、自分の仕事をするというようなことは残念ながら一度もできなかった。もっと卑近な考えで仕事を進めてきた。


ポントリャーギンの数学

2009-10-28 13:02:58 | 数学

「ポントリャーギンの数学」とでもいうべき書が何冊か出ている(注)。

そのうちの数冊を購入した。「やさしい微積分」という本がその中にある。まだくわしく読んだわけではないが、極限についてあまり述べないで微分や積分を学べるというような趣旨の本らしい。

ポントリャーギンの名を知ったのは多分遠山啓の「無限と連続」(岩波新書)だったと思う。盲目の幾何学者ということだった。その後大学院のころ、池田峰夫先生から「連続群論」(岩波書店)のセミナーをやってもらったが、これがまったくわからず群論を敬遠する原因をつくった。

その後、LipkinのLie group for pedestrian (North Holland)等を読んで群論がまったく不可解なものではないとの認識をもつようになった。

当のポントリャーギンは直観的な数学者のようである。ゲルファントにしてもロシアの数学者には優れていて、かつ独特の数学者がいる。 ゲルファントも独学で数学を学んだとかで夜間中学用の数学の教科書を書いている。

(注) ポントリャギン数学入門双書 全6巻 (森北出版)である。それ以外に「やさしい微積分」(ちくま学芸文庫)がある。また「連続群論」 上、下(岩波書店)は名著として名高い。


e^{x}の展開の求め方

2009-10-27 13:19:52 | 数学

もちろん、普通の方法でe^{x}の級数展開を求めるのではない。マクローリンの展開の求め方は簡単だ。ここではlog(1+x)の級数展開から逆に解いてe^{x}の級数展開を求めるということを志賀浩二さんの本で見た。それをy=sin^{-1} xにならって求めたいのだが、今朝起きてちょこちょこと鉛筆を動かして見ただけで、まだ詳しく考えているわけではない。

1/(1+x)は二項展開できるので、それを項別積分すればlog(1+x)の級数展開はすぐに得られる。これを逆に解いてe^{x}-1の級数展開を求められるという。

sin xの展開のエッセイを書こうと思って昨夜「無限のなかの数学」(岩波新書)を拾い読みをしようと思ってみたら、このことが書いてあった。それでそのことを理解したいと思っている。


続々sin x の9次の展開係数

2009-10-26 14:24:11 | 数学

土曜日に夜まで頑張ったお陰でやっと1項の見落としがあったことがわかり、それを入れて強引に電卓で計算したら、分子が1となった。それで分母を計算して志賀先生の本に出ている数値と比べたらぴったり一致した。630という数を素因数分解して、それを残りの因数とかけあわせたら、9!が出てきた。「やった」と計算をした紙に書いて土曜日の夜に家に帰った。

6次の係数までの結果を使って、7次以上の係数を計算したのが、あたった。手間を少し省くことができたかと思う。だが、6次までの係数の導出をもう少し陽に書き換えたらと一昨日の寝ているときに思いついた。そこを書き換えて数学エッセイを書こう。1週間ほど悩んだが、できてみれば何でもなかった感じがするから、不思議である。


同期会への参加

2009-10-26 14:04:41 | 日記・エッセイ・コラム

I 市での高校の同期会への参加してきた。これは高校卒業から51年になることや私たちの学年が古希を迎えることから開催されたものである。

同期会に参加する前にはいつも不安になる。それは出席した同期生と話が合うのだろうかというような心配である。いままでのところそういうちぐはぐの感じをあまりもっていないが、いつもそういう不安を持ちながら参加している。

そういうことを同級生のY君に話したら、話が合わなくてもいいじゃないかと明解である。だが、いつもそういう不安をもちながら、同期会に参加している。

私たちの先生も二人参加されていて、ご健在なのが確認された。一人の先生は体育の I 先生でご自分の住んでいる地区の老人会のお世話をされているということだったが、それらの会に70歳の人が来たら、若い人が来たという感じだそうである。そういう感じはある意味でわかる。80歳代でもこのごろの老人はお元気な方が多いそうである。


続 sin xの9次の係数

2009-10-24 17:34:05 | 数学

今日も計算をやってみたが、式はあっているみたいなのに数値計算で分数の計算をやると毎回違った数値が出る。

式で計算をしてできるだけ後で数値を代入することにしたのだが、まだ間違っている。9次まではニュートンが計算しているというので、頑張っているが、私は計算が下手なのだろう。

まあ、問題は逃げないから、ゆっくりとやろう。どうも意地になっているのがいけないなかしら。8次まではなんなく計算できたが、9次はどうして計算ができないのだろう。

多分つまらないところでミスをしているのだと思う。


sin xの8次の係数

2009-10-23 12:25:49 | 数学

昨日、8次の係数が0になることを確かめたので、続いて9次の係数の計算にかかったが、また間違えてしまった。答は1/9!であることはわかっているのだが、私の計算ではどうも変な係数が出てくる。

今日また再計算をして見るつもりである。ここまでは昨日も書いたようにニュートンが求めているのだ。それをした後でエッセイを書くつもりである。もっとも志賀浩二先生のほかの著書に計算の方法は出ているのかもしれない。

志賀先生はなかなか教育熱心な先生であって、そういう本をいたるところで書いている。それのいくつかは私ももっているが、その大部分の本は読んだことがない。ときどき辞書代わりに開いて見るだけである。


sin x の7次の係数

2009-10-22 11:37:27 | 数学

数学の話題という程ではないので恐縮だが、sin xのマクローリン展開の7次の係数が昨日やっと計算できた。一昨日の計算を調べたら、面倒な計算の箇所はあっていて、最後のまとめのところで共通因数を間違ってくくりだしていた。計算の終わりの方で疲れてくると注意力が散漫になるのかそれとも私の習性かで簡単なところでいつも間違う。

同じように8次の係数を計算しようとしたら、これはまたミスってしまった。もっとも計算のためのヒントは昨日見つけてあるので今日は多分できるだろう。8次の係数はもちろん0である。これはsin xが奇関数であることの結果である。

9次の係数までニュートンは求めているので、私もここまでは求めておきたい。それでないとエッセイは書けないだろう。この方法ではマクローリン展開の係数を決めるのに普通に使う微分はまったく使っていないので、計算が少し面倒である。だが、2次の係数が0であることを使えば、少し計算が簡略されそうである。

普通の人がまったく気にしない細かなことに引っかかってしまう因果な私の性格である。


アンチエイジング

2009-10-21 11:41:31 | 健康・病気

アンチエイジングとは何かよく知っているわけではない。多分認知症に象徴されるような老化現象をどう抑えるかということであろう。昨夜テニスの後の入浴後にNHKの「プロフェッショナルの条件」を途中からみた。

茂木健一郎さんに住吉美紀さんが聞いていた。それによると「おしゃべり」がアンチエージングにいいのだという。歳を取って夫婦で会話があれば、それが一番いいアンチエイジングの方法だという。

だが、妻はもう夫にはあまりかまわず近所の人とか友人とかと外出したりして楽しんでいるのが多くの家庭の現状であろう。ということで我が家でも会話はそれほどはない。だから、妻はともかく私のエイジングが問題であろう。

ときどき子どもに妻が電話をかけると「親父の面倒を見ているか」といわれたと言っているが、すぐにそのことは忘れて自分たちで楽しんでいる。もっともときどきはお誘いを受けることがあるのだが、出不精なのであまり一緒に出かけることがない。

昨年もハワイに兄嫁さんと私の妹とまたマラソンに出場する姪と妻が出かけるときに妻から一緒に行かないかとお誘いを頂いたが、忙しくて出かけられなかった。


広島への出張

2009-10-20 15:15:45 | 学問

もう、どこにも勤務をしていないのに広島へ出張をしてきた。とはいってもたったの一泊どまりである。先輩のYさんの研究回顧を聞きに行ったのである。朝の10時過ぎから夕方の6時過ぎまでであった。一応録音をして暇々にテープを起こしをするつもりである。

私は体が頑丈でないので、少し作業をすると飽きてしまうというか根気が続かないのである。だから長い期間をかけて少しづつ作業をするつもりである。

話はまったく別だが、土曜日と日曜日にはニュートンがsin xのマクローリン展開の係数を決めたという方法で係数を決めてみたが、5次までは係数がすぐに出たが、7次の項の係数がなかなか出せない。

それでその場ではあきらめて今日午後仕事場に出てきてまた計算をしなおして見たが、うまく出せない。どこをどう計算が間違っているものか。今日はうまく計算ができると思って計算をしたのだが。これはもちろん微分していって各項の係数を決める普通の方法ではない。

ニュートンが最初にしたのは逆sin関数の級数展開からそれを逆に解いて、sin関数のマクローリン展開の係数を決めるという方法で志賀浩二先生の「無限のなかの数学」(岩波新書)pp.105-111に書いている話である。

志賀先生はこの係数の実際の決め方には言及していない。彼にはその決め方がわからなかったとは思わないが、実際に計算を示すにはスペースが増えすぎるという判断をしたのだろう。それでニュートンの決めた結果のみを引用している。

実はこのことを知ったのはアマゾンのこの本の書評からである。この書評を書いた人がその方法で係数を実際に決めることができたかどうかはわからないが、感動して書評を書いている。

どうもニュートンのような天才にしかこの係数が決められなかったという風に思いたくはないので、係数を決めることを2項展開を用いて試みて見ると簡単に決められることがわかった。だが、7次の係数を決める計算は複雑になってきて、計算ミスをしてしまった。

まだ見落としている項があるか、係数を決める式の中に出てくる係数を落としているかだろう。7次の係数が決められたら、またこれについての数学エッセイを書くつもりである。実は係数の実際の決め方を志賀先生が述べていないことが私には不満なのである。


アニール・セルカンの話題

2009-10-17 13:00:39 | 科学・技術

アニール・セルカンの業績のほとんど盗用だとか、というコメントがこの前のアニール・セルカンのブログを書いた後についた。コメントで留めていたのだが、これが本当なのかまったくインターネット上で流布している単なる中傷なのか、いまのところ判断を保留しておこうと思う。

ただ、セルカンは高額のセミナー参加料金をとって、セミナーをやったりしている。別にセミナーをやって悪いこともない。本当に参加する価値があるかどうかは参加者が判断することである。しかし、その参加の額を聞いただけで私のような貧乏な者はこれには参加できないなと思ってしまった。

日本は外国人に弱いところがあるのかもしれないし、神童はあまり日本の世界には育ち難いかもしれない。というのは画一な教育がされているというのがある意味で日本の教育の特徴なのだから。

もちろん世の中にはいくら画一教育を受けてもそれにめげない人はいるもので、そういう人が優れた業績をあげたりする。だから、日本もまんざら捨てたものでもないという気がしている。

昨年ノーベル物理学賞をもらった益川氏にしても大分特異な性質が言われたようだが(もっとも彼を悪く言う人はいないようだ)、彼の人を思いやる、やさしさという点が私には記憶に残っている。私が大学院のころに名古屋大学でのある会議に参加した後でその労をねぎらってくれて、どこかのレストランで一緒に数人で食事をしたことを覚えている。

そういうことをさりげなくしてくれる人だった。研究上は自分の意見を頑強に主張する人であったかもしれないけれど、それはあくまで研究上のことだと思う。


インフルエンザ・ワクチン

2009-10-16 10:52:44 | 健康・病気

季節性インフルエンザワクチンの注射を昨日受けた。一昨日2回接種すると急にかかりにくくなると医師から説明を受けていたので2回目はいつですかと聞いたら、ワクチンが足りないのでもし余ったたらとのことである。

新型インフルエンザのワクチンの製造のために季節性インフルエンザのワクチンの製造が抑えられているという。製薬業界のワクチンの製造能力が全体で限りがあるからなのであろう。

インフルエンザには記憶する限りで2回かかった。いずれもかなりひどくて2回目は子どもが小さいときであったが、家で寝ていると子どもはあまり家にいないお父さんが家にいるのでかまってほしくて寝ている私の上に乗っかってきたことがあった。

普段には子どもが小さいときに子どもとじゃれあうのは嫌いではなかったのだが、このときばかりは胸かどこかが痛くて跳ね除けたことを覚えている。子どもには申し訳ないことであったが、このときは病気なので仕方がなかった。

もう一度は大学生の春休みのときで、このときにやはり2週間ほど寝ていてそのときに退屈で仕方がないので、遠山啓著「無限と連続」(岩波新書)を寝床に寝ながら読んだと記憶している。もちろん、2週間も寝ていると背中やわき腹が痛くなって本当は寝て居れない。体がよくなれば起きられるのだが、起きたらふらふらするので仕方なく寝ていた。