物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

遠山啓 『数学入門』

2012-06-30 12:44:53 | 本と雑誌

遠山啓著『数学入門』(岩波新書)は名著だと思うのだが、その上巻の1959年11月発行の初版には誤植がいくつかあった。

それらがきちんと訂正されているかどうかは前々から気になっていたことであったが、それを今日までチェックしたことはなかった。

新しい版とはいってももう10年以上前の2000年5月の62刷と比べてみたところ、さすがに長く読み継がれているだけあって、私の見つけていたミスプリはすべてなくなっていた。

2000年のときには重刷という感じで、しばらく品切れになっていたのを品切れをなくすというような意味があったのだろう。それで新しいのを買い求めたらしい。

いま振り返ってみると、1959年は私が二度目の大学一年生を繰り返していたころで、もはや戦後ではないといういい方がされて、まだ間がない頃であった。『数学入門』の上巻の方は読んだと思うが、下巻はその当時には読まなかったと思う。

下巻はあまり目新しいことが書かれていないと思ったのか、微積分のことは十分に知っているという思い上がりからであったかもしれない。「下巻は上巻ほど面白くない」という誰かの評もずいぶん後になって、どこかで読んだ気がする。

2005年に勤めを退職してから、下巻を読んで、遠山さんが書かれている連続複利法にもとづいた自然対数の底 e の導入法を詳しく説明したエッセイを書いた(つぎに引用するものは、前に書いたものの改訂版でインターネットでアクセスできる。「数学・物理通信」8巻2号(2018.3.15)11-15)。

これは遠山さんの説明が岩波新書であるというスペースの制限のためにその記述はまだ十分でないと思ったからである。だが、それにしても元のアイディアは遠山さんにある。

上巻で感心したことは虚数単位 i の説明であった。このような説明をまったく知らなかった訳ではないが、徹底した説明であり、これで虚数単位 i を身近に感じるようになった。これと関連して(-1)*(-1)=1であることも納得したと思う(注1)。

私はこの『数学入門』(上)の第1章を読むのにとても抵抗を感じた。だから、1980年代の終わりに、この上巻を読み直したときには上巻の最後の複素数の章から一つづつ前の章へと帰っていくという方法をとって、それを読み終えるのに約1週間かかった(注2)。

これはもちろんそのときは学生ではなく、勤めもあり、夜間の暇を見つけての読書であったから、これくらいの時間がかかったのは仕方がない。いまだってそればかりに熱中しては読めないからやはり同じくらいの時間がかかるだろう。

だが、この書はいまでも読み継がれている。

(注1) 遠山さんの『数学入門』よりも以前に、藤森良夫先生の著書『解析の基礎』 続(考え方研究社、1954)で複素数の90度の平面回転としての i の働きや(-1)*(-1)=1の説明をすでに高校生のときに読んでいたと思う。しかし、それでも遠山さんの徹底した i についての説明は大いに役に立った。

(2018.3.12付記)上に書いた藤森先生の 虚数単位 i の説明は私の読んだ上に引用した本よりも以前にすでに藤森良夫『初等複素関数論学び方考え方と解き方講義』(考え方社、1941)p.21-22に述べられている。この書は私の亡くなった父の蔵書の1冊である。

(注2)私がこの『数学入門』上、下を読み返していた1989年はべルリンの壁が崩壊して、当時の東独と西独とが再統一され、新しいドイツが誕生した記念すべき年であった。

(2019.7.28付記)「数学・物理通信」9巻4号に「遠山啓の岩波新書を読む」というエッセイを載せている。これは以前にある雑誌に載せたエッセイを改訂したものである。「数学・物理通信」はインターネット検索すれば、すぐにわかるので、そちらも読んでみてほしい。


 


タダ塾北持田塾生募集

2012-06-30 11:04:47 | 受験・学校

昨年の10月に有志の方々と「タダ塾北持田」を立ち上げた。昨年は中3生が一人、途中でもう一人来られていたが、どうも認知度が低い。

今年も医療生協などの組合員活動でこの塾の存在を知らせてもらったりしたのだが、今年もまだ申し込みは一人である。認知度が極めて低い。

文字通り、家庭の経済的な事情で塾にいけない中学生に勉強を英語、数学、理科、社会等の科目を無料で指導する。そういう趣旨の塾である。もちろん、名前の通り受講料等はとらない。これはボランティアワークであるが、どうもPRが足らない。

もっともあまり大々的に宣伝すると、既存のいわゆる塾の経営を脅かしてもいけないので、その存在はなかなか微妙である。本当はそういう「無料塾」に子どもをやりたいと思っている家庭には実は情報は届いていないのだろう。

今年の5月末くらいに松山市が築山町の青少年センターで、生活保護世帯を対象にこのような塾を開いたとか聞いた。生活保護世帯等でそういう要望のある世帯は松山市に一度接触をしてもらいたい。

ただ、私たちの塾は生活保護を受けていることを条件にしている訳ではないが、中学生一般を対象にしているところは同じらしい。「らしい」としかいえないのは私のもっている情報が伝聞情報にしか過ぎないからである。

私たちの塾に関心のおありの方は事務局長の田中さんの携帯090-8977-3576か自宅電話964-5845に連絡をしてみてほしい。

本日6月30日13時30分から松山市北持田町の教育会館内の一室ではじめる。教育会館は松山東警察署の近くにある。また、時間は毎週土曜日の午後13時30分から15時30分に開いている。

無料塾を開くという運動は現在の親のもっている生活格差を次代の子どもには引き継がせないようにという意図で各地で開かれているが、それがどれくらいの広がりを見せているのかは私は知らない。

ただ、そういう運動が全国的に出ていることは誰かが何かのためにする運動ではなくて、全国の心ある人たちの草の根運動の一環だろうと受けとめている。


車の故障

2012-06-29 11:36:06 | 日記・エッセイ・コラム

私の車はスズキのワゴンRである。小さな軽の車だが私が自転車代わりに使っているので、不足はない。

ところが、先日仕事場に行こうと車に乗ってエンジンをかけたが、エンジンがかからない。数回やってみたがどうしようもない。それで本当は妻をヒメギンホール(愛媛文化会館)へ送って行こうとしたのだが、それもだめになってしまった。

それでその日は妻が自分の車で私を送ってくれて、その車は私の仕事場の駐車場に駐車させていた。その翌日ホンダに電話をかけてバッテリーを交換してもらうように頼んでいたのだが、忙しいとかですぐには来てもらえなかった。

ところが今朝電話がかかってきて、バッテリー交換に来てくれるという。待っているとまもなく来てくれた。それでバッテリーを交換してくれてエンジンがかかるようになり、ようやく数日振りに自力で今日は仕事場に来れた。

こういうことは稀であるが、それでも車をもっている人なら、何年かに一度は経験することであろう。それが自分にも起こっただけではあるが、考えさせられることであった。

それはいまよりも歳をとって車に乗れなくなることとか、もともとの車の是非とかである。公共の交通機関の利用が便利なところなら、車を乗ることを止めることがそれほど難しくはなかろう。だが、公共の交通機関の利用が難しいところではそうも行くまい。

だからどこに住むかということは大事なことになる。コンパクトシティという構想が生まれる由縁である。

話はまったく飛ぶが、映画「タワーインフェルノ」で映画の終わりに、新築の高層のビルの火事の消火が終わって、スティーヴ・マックーインの扮する、消防士を誰かが自宅まで車で送ろうかと言うと、そのときにスティーヴ・マックーインが I (would) prefer public transportation.という(いまwouldが入っていたかなと思ってwouldを入れたが、本当はどうなんでしょうね)。

字幕では公共の交通機関の方が好きだと言う。そこがなんとも印象的で実は消火活動のすごい困難の箇所は忘れてしまったのに、そこだけは覚えているから不思議である。

ちなみにインフェルノを辞書で引いてみると「猛火、地獄」とある。昔引いたときには「炎熱地獄」とあったと思う。中島・忍足編の岩波の英和辞典では「地獄」しか載っていなかった。これはもう辞書としては古いものであるからしかたがない。

またまた余計なことだが、忍足は「おしたり」と読んだと思う。


ephemere

2012-06-28 13:36:44 | 外国語

'eph'em\'ere(エフィメール)はフランス語で昨夜の「テレビでフランス語」で好きな言葉をインタビューしていた中に若い女性の好きな語にあった。

「はかない」と字幕がついていたが、私にはこれは英語のephemeralに当たる語だなと見当がついた。

私の知っていたephemeralの訳としては「短命の」という意味だったが、いま辞書を引いてみると「はかない」という意味もついていた。

このephemereはフランス語なので、アクサンがついているのだが、なかなかここでは再現が難しい。それで冒頭でだけアクサンを入れてみたが、後は失礼をする。そして eの前の \' はアクサン・グラーブのつもりであり、eの前の '  はアクサン・テギュのつもりである。

どういう前後関係で英語のephemeralを知ったかといういきさつは前にも書いたが、物理学者のF.J. Dysonが彼の論文選集で数学の論文は未来永劫に真だが、物理学の論文はephemeral(短命)だと書いてあった。

そのときにもちろんephemeralなんて言葉は知らなかったから、辞書を引いて意味を知ったのであった。

美人薄命だとか天才薄命とかともいうが、はかなさは人間の感覚としては繊細なものであろう。そういう語を好きだというフランス人女性はなかなかの繊細さであると思う。

私はclarte(明晰な)という語が好きである。この語もclariteとばかり思っていたが、いま辞書を引いてみるとclarteとiは入っていなかった。simplicit'e(サンプリシテ、単純さ)も好きな語である。

「テレビでフランス語」では好きな語を一語だけみんなに言わしていたが、imaginationが好きな方だとかespritが好きな女性がいたが、ギタリストの村治香織さんはlumiere(光)を好きな語としてあげておられた。

lumiere(光)といえば、物理学者ならばド・ブロイの「物質と光」という今では岩波文庫に納められている、書を思い出すであろうし、またson et lumiereという行事を思い出すフランス通も居られるかもしれない。

son et lumiereを実際に体験したことはないが、ロワール河畔の古城かどこかで夏の夜に照明で古城をライトアップして、かつ音楽を奏でるという催しである。いまでもフランスではどこかの名所で毎夏の夕べにこういった行事があるとか聞くが、フランスは遠く、経済的にも行くことなどなかなかかなわない。

(2018.8.25付記)  NHK「まいにちフランス語」で先日C'est 'eph'em/'ere, C'est la vie.というのがでてきた。その訳は「すぐ、なくなっちゃうんだよね。しかたがないよ」であった。なかなかくだけた訳である。もし直訳すると「それははかないね。それが人生というものさ」とでもなろうか。


,

100分で名著

2012-06-28 12:01:32 | テレビ番組

NHKの「100分で名著」を毎回見ているわけではないが、昨夜のパンセの最終回を見た。生物学者の福岡伸一さんが仏文学者の鹿島茂さん以外にゲストとして来られていた。

福岡さんは「人間の体は刻々一刻と変っているので、自分では同一人物と思っているが、体の組織や脳の組織はまったく入れ替わっており、それらの組織の面からいうならば、同一人物であるとは言えないほどである」という。

確かに体や脳の組織はそうであろうが、だからといって、人間の自己同一性がなくなっているわけではない。私はむしろそちらの方の観点を強く感じた。

だから、いくら福岡さんのいうことが正しくても、それにもかかわらず自己同一性をもっているという、その事実をどう考えるかを述べなくてはならないのだと思う。だが、そのことは論点がずれていくからだろうが、述べられなかった。その点に不満が残った。

デカルトとパスカルとの対比もこの時間には簡単に語られた。私は前にこのブログでも述べたようにデカルト派であり、パスカルには組しない。ただ、考え尽くした上でもどうなるかは分からないと説く、パスカルにはちょびり共感しないでもない。

だが、デカルトの考え尽くして結論が出れば、それが間違う場合もあるではないかといわんばかりの評価は間違っているだろう。間違っている場合にはそれはまだ考え尽くしていないのである。

一応の結論はデカルト的な立場で出す場合もあろうが、それはあくまで暫定的なものであり、間違っているならば、あくまで正さねばならないというのが、デカルト的な立場であろう。

ただ、自然現象がすべて解明できるとの期待はもっていない。これは宇宙の現象等での新しい現象が見つかっており、それは現在のところまだ到底解明の予想がついている訳ではない。

そして、そういう謎はもしかしたら、人類の滅亡までに解明されないかもしれないのだ。しかし、人類の滅亡があるとして(それは確実だが)それまで人間の好奇心はそのれらの謎を解明しようとし続けるであろう。そのことを私は信じて疑わない。


膨大な書類の処理

2012-06-27 11:04:55 | 日記・エッセイ・コラム

一人の人が亡くなるとその遺したものをどう始末するかが問題になる。いや人のことをいっているのではない。私自身のことである。

もっていた蔵書も問題だが、それ以外に膨大な書類やノートが問題となる。これらは個人的に何十年というその人の生きてきた証でもあるが、それでも他人にはゴミ以外のものではない。

湯川秀樹などという偉大な学者なら、その遺したデータのArchiveをつくる作業をしてくれる人も出てくるだろうが、私などはそんな人が出てくることはまったく考えられない。

妻がさきほど言っていたのは子どもとその連れあいに来てもらって、すべての書類を紐で縛って、市の焼却場まで運ぶという。それをしてもらうことも恐縮だが、結局はそういう手順になろうか。

それまでに自分の体の利くうちに、なんとか意味のあることを残してまとめておかねばならない。

ところで、私などはまだ現在でも計算ノートをつくっている。これなどはさしづめエントロピー増大の法則に則って世の混乱を増すものだろう。

さて、どうしたものか。


私はいま魂の抜け殻

2012-06-26 10:28:22 | 日記・エッセイ・コラム

「僕たちの体は星屑のかけら」とかいう題の子ども(?)の本があるらしい。今日のブログの題はそれにならった。

「僕たちの体は星屑のかけら」という本を読んだことはないのだが、この本はファンタージーではなくて、多分本当に私たちの体をつくっている元素が宇宙の進化と共につくられたということを述べたものであろう。そんな馬鹿なという方もおられるかも知れないが、これは厳然たる物理的な真実である。

どういう話かというと元素は宇宙進化と共につくられていったということであり、その詳細はまだ研究が進んでいるかと思うが、星の進化とか超新星爆発とかいった宇宙での進化過程で私たちの体を構成する元素は形作られたのである。

そういうことを知ったのはいつのころか覚えてはいないが、岩波講座「化学」の早川幸男さん(宇宙物理学や宇宙線とかの研究で有名だった)の担当の分冊から知ったと思う。そのころまでそんなことを考えたこともなかった。

ところで、表題のことだが、実は昨日数学・物理通信2巻2号を発行して、一段落をして、感じたことが「現在、魂の抜け殻のようだ」ということであった。

「通信」の編集は大した手間ではなく、自分のエッセイの原稿に手を入れることが大変だったのである。10番目の草稿までは数を数えたが、それ以降は小さな変更だが、やはりかなりの数の変更をした。それがなかなかの手間だった。

いや、変更自体はたいして面倒ではない。そうではなくて自分の原稿を読むことが大変だったのである。昨日ももう大丈夫だろうと思って最後の読み返しをしていたら、小さなことだが数式の入力ミスを見つけた。これには少なからずショックを受けた。

いや、元の原稿ではそれをすでに修正していたのだが、「通信」に取り入れた原稿の方には修正を忘れていたのである。

しばらく、気力を取り戻すには時間が必要である。


東雲コーラス全国大会へ

2012-06-25 11:35:17 | 日記・エッセイ・コラム

東雲コーラスがお母さんコーラスの全国大会に今年は参加できることになった。これは妻が所属しているコーラスグループだが、ここ数年、毎年今年こそはと思いながら、達成できていなかった。

それが今年は達成できたので、妻もほっとしている。別に誰かの責任ではないのだが、そういう巡り会わせだったのであろう。それで、今年は8月24日に全国大会がある。

私はこのときに用が松山であるので、東京には一緒に行けないのは残念だが、妻は子どもと会えることを楽しみにしている。特に子どもが国際会議へ出かける直前なので忙しそうだが、会ってくれるらしい。

それも転居した直後の住居への訪問になりそうであるが、自宅に招待をされるらしいので、妻は大いに喜んでいる。

昨日の朝日新聞主催だった愛媛支部大会の写真が今日の新聞に大きく出ていたので、妻はそれを切り抜いて知人や友人に見せると大張り切りである。


不幸と感じたことがあるか

2012-06-24 11:54:42 | 日記・エッセイ・コラム

先日、ドイツ語のクラスで

Wenn wir doch nicht gefragt h"atten, h"atte keiner etwas gemerkt ?

(それを私たちが尋ねなかったら、だれかがそれに気付いただろうか: 反語的表現で、「尋ねなかったら、よかったのに」という後悔の念を表している)

というような後悔の念を表す例文をつくれといわれた。それでうまくつくれないので、

Wenn ich nicht Physiker w"are, w"are ich noch langweiliger. 

(もし私が物理学者でなかったら、もっと退屈だったろうに)

といったような文章を苦し紛れにつくったら、そのような、いいことにはこの文章は使わないと言われた。

その指摘はもとのドイツ語の表現に対してはあたっているのであろうが、だが私は自分を不幸に感じたことがないと言ってしまった。どうも少々強がりだったようでもあるが、確かに自分を不幸だと思ったことがない。

では私には苦しいことがなかったかといえば、やはり苦しかったことは何回かある。

だが、それでもそれを自分の不幸だとは思わなかったことは事実である。自分の子どものことで苦しんだことがなかったかといえば、それはうそになるだろうが、それでもそれを自分と自分の家族にとっての不幸だとは感じなかった。

などというと、私はとても強靭な精神の持ち主であるか、おめでたい奴なのであろうと思われるかもしれない。が、そういうことはなく、ごく普通の人間である。

自分にあれもできない、これもできないと、できないことを嘆くよりもできることだけでもやってみようとする、そういうchallengingな生き方が好きである。実際にはあまり言葉でいうほどchallengingではないのが残念だけれど。

先日、ラジオのドイツ語講座で、ドイツ人のゲストに「恋愛小説(-r Liebesroman)を読むか」と講師の先生が聞いていたが、男性と女性のゲストの両方とも恋愛小説を読まないという答えだったらしい。実は私はそこのところがよく聞き取れず、講師の先生の説明を聞いて彼らの言ったことがようやくわかった。

女性のゲストが「恋愛は小説で読むものではなくて、実際に自分たちがするものだ」と答えていたらしい。それを聞いて、「うーん、なるほど」と思ってしまった。人生を十分に楽しむという視点が私たちには欠けている。


アトピー皮膚炎に朗報

2012-06-23 12:43:38 | ニュース

「アトピー皮膚炎に朗報」とはニュースの文句である。実際に現在アトピーに悩んでいる人がその悩みから解放されるのは10年後くらいとなるだろう。

それにしてもアトピー皮膚炎を慢性化させる、たんぱく質が佐賀大学の研究者によって特定されたとかで、それを切りはなす薬ができれば、慢性疾患としてアトピー皮膚炎による、体のかゆみから多くの人が解放されるだろう。

これはまだ可能性にしかすぎないが、その可能性はすでに原理的に開かれた。製薬会社は大きな利潤の獲得に向けてすでに研究を開始しているだろうか。

実は子どもがアトピーで長年本人はもちろんのこと親子が悩まされている。最近は子どももアトピーとのつきあい方が上手になり、なんとか小康状態を保っているが、それとて大きなストレスがかかると悪化の可能性がないわけではない。

だから、慢性化する原因となる、たんぱく質が特定されて、それからの切りはなしができると本当に多くの人がひどい体のかゆみから解放される。アトピーはアレルゲンが原因であることはわかっていたが、その慢性化の機構はよくわかっていなかった。

だから、ニュースで朗報といわれるのはよくわかる。私自身は春先の花粉症で毎年苦しめられているが、それもいい薬ができてきたお陰で毎晩鼻がつまって眠れないという状況は脱した。それでも何らかの影響はあるが、昔ほどのつらさではない。

医学はなかなか科学にはならないとは、知り合いの医学者から30年以上前に聞いた話であったが、それでも対症療法としての医学は進んできている。なんでもその原因を知りたいと思う研究者の努力の成果であろう。


日本の不思議さ

2012-06-22 12:56:46 | 社会・経済

今の日本は八方塞がりだと私などもこのブログで書いたが、その一方では日本は非常な不思議さをもっている。

私は「演習形式で学ぶリー群・リー環」(サイエンス社)という題の書に触発されて、キーポイントシリーズ「行列と変換群」(岩波書店)を読んでいる。

しかし、このような二つの書が英語ではなく日本語で出されるような日本社会というのは不思議な活性のある、社会であると思える。英語でならいろいろなテーマの本が出てもそれを関心をもって読んでくれる読者は多いと思う。

私なども英語で読むのは嫌いだというが、それでもほどほどには英語を読む。だから、ぺーパーバックでかつての名著の復刻版を出す、Dover社のような出版社が成り立つ理由はわかる。ところが世界では日本語を解する人は多分1億5千万人よりは少ないであろう。

だが、そこで上の2書のようなある種の啓蒙書が出版されるというか、出版できるというのは本当は大きな驚きである。そして、上のような書は広い意味の数学書である。

もちろん専門書ではないであろうが、そのような需要が日本の社会にあるというのは日本という社会の不思議さといってよいであろう。

まことにいろいろな数学書や物理書も出されている。それだけではない、大抵の世界的に有名な本ならば、しばらく待っていれば、その翻訳が手に入ることはほとんど間違いがない。そういう国が世界中を探してそこいらにごろごろ転がっているとは思えない。

日本のマンガやアニメが世界を席巻しているらしいことはときどき耳にするところである。日本に留学する中国の若者まで日本のマンガの影響を受けていると聞く。もちろんこの分野では韓国の追撃を受けて最近は苦戦しているとか聞くが、そのもとはやはり日本であろう。

スミルノフ「高等数学教程」(日本語訳)のシリーズを韓国人の物理学者がもっていたのを知っている。

彼は日本語は話さなかったが、数学を学ぶためだけに日本語の数学書を読むことだけはできるようになったと言っていた。それはドイツの大学で私と同室だったK. J. Kimさんだった。

もちろん、社会の将来の展望が難しく、希望が持てなくなっているのは事実である。だが、これは世界中のことであって、日本だけのことではない。別に日本は自分の国のことを世界に威張り散らす必要はないが、むやみに悲観的になることもない。

それくらい特異な文化なり、学問的な雰囲気をもった日本である。これは世界の中でエリート意識をもつことではなくて、自分たちの文化の特性を見極めるということだと思う。


数学・物理通信2巻2号発行

2012-06-22 11:38:23 | 数学

数学・物理通信2巻2号発行の発行の準備が整った。すぐに発行してもいいのだが、私はあわてものだから、思わぬミスをするので週明けに発行しよう。

今回は私の原稿をつくるのに大分苦労した。それで、発行が遅れたが、それでも発行予定月内に発行できそうだから、まあ許してもらえるだろう。別の手持ちの原稿がなかったわけではないが、新しい原稿を書くことに執着をした。

数学者のNさんが集合論の一連の論文を書始めたところが従来とは大きく異なっている。今回も投稿が多くて、まだ処理されていない論文も残っているが、それは次号として今月中または来月の初旬までに発行できると考えている。

これで、私もなかなか忙しいのである。

話は突如変るが、パスカルのパンセに死のことが書かれているらしい。が、生きている間はなかなか死のことを考えることなどできないから、死んでからゆっくりと考えたのでよかろう。

一番大切なことは要するに創造的な生活ができなくなったときにどうするか。このことがこれからの人生にとって大切なことであろうか。

気晴らしをすれば、死を暫時忘れるというのがパスカルの論点らしいが、気晴らし(divertissement)など気晴らしにしかすぎない。

気晴らしのまた気晴らしが必要になるなどということになるのがオチであろう。

(2012.7.5付記) 実際の発行は6月25日にしたが、その後原稿からの字落ちが見つかって訂正版が発行になったのは6月28日だったと思う。googoleで「数学・物理通信」と入力して検索をすると、名古屋大学の谷村さんのサイトにたどり着く。そこに最新号を含めたすべてのバックナンバーがあるので、PDFの文書をダウンロードできる。


大沢やすのりアナ

2012-06-21 12:05:12 | テレビ番組

愛媛テレビ朝日の看板アナの大沢やすのりさんが彼のお父さんのことを朝日新聞の愛媛地方版に書かれていた。それを読んで妻と話したら、彼のお父さんは妻の今治西高校での同期生らしいとわかった。

やすのりさんのお父さんは西高校時代は生徒会の会長をされた方だという。それでも某国立大学に現役合格されて、生徒会長の経験者が今治西高校ではじめて国立大学理工系学部の現役合格したと誇っていたらしい。

しかし、実はやすのりさんのお父さんの一年上にやはり同じ今西の生徒会長をして、某国立大学理工系学部に現役で合格した、私の従弟がいるので、やすのりさんのお父さんが最初ではない。だが、それはともかくすばらしいことである。もう何十年も前のことになるのだが。

やすのりさんのお父さんの大沢君(失礼、私の方が今西の数年先輩なので)は数学の先生だったらしいが、かなり早い段階で亡くなったので、妻なども驚いていた。まだ妻だって70歳にはなっていない。それはともかく大沢君は今治西高校で野球部の名部長の名をほしいままにした方らしい。

やすのりさんの方ははいうまでまでもなくイケメンの愛媛テレビ朝日の看板アナであり、妻などもファンの一人である。私も1週に一度火曜日には彼の夕方の放送番組を見ている。大沢やすのりアナの今後のご活躍を切に祈っている。


四元数と空間回転3

2012-06-20 16:47:45 | 数学

四元数と空間回転についてのエッセイを書いて、これを数学・物理通信2巻2号として編集しているところだが、今朝インターネットで検索をしていると「四元数での空間回転の公式」の意味を解説したサイトに行き当たった。

これは空間回転を2度の鏡映変換で表すところか来ているとの説明があり、このことをそのサイトの著者は河野俊丈さんの「組みひもの数理」(遊星社、1993)から得たとあった。

虚部だけの二つの四元数NとPがあり、Nを単位四元数とするとNPNは四元数での演算はちょうど鏡映変換をしたことになるという。確かに、式を計算してみるとその通りだが、それをどのようして気がついたのだろうかという、疑問が残る。

それはおいておくとすれば、もう一度違った単位四元数UではさんでP"=UP'Uと変換する。前のP'=NPNと変換を2度すれば、P"=(UN)P(NU)となり、UNとNUは共役であるから、NU=\bar(UN)と表される。

いまQ=UNとおけば、P"=QP\bar{Q}でこれが四元数での空間回転の公式となっていると説明されている。

そして、UとNとの間の角を\theta /2とすれば、UとNとが虚部だけの単位四元数であることを考慮して、これらをベクトルで表せば、積UNの実部はベクトルuとベクトルnとのスカラー積であり、虚部はベクトル積になっている。それで、UN=\cos \theta /2 +a \sin \theta /2と表せるという。ここでaは空間回転の軸を表す単位ベクトルである。

私はKuipersの別の説明によって空間回転の四元数での公式の説明をしたのだが、ここにした説明の方がエレガントであろう。ただ、どうやって、この鏡映変換とこのP'=NPN変換が同じものとなることに気づいたのかはこのサイトでの説明でもされていない。

どこかで鏡映変換のことを見かけたが、その意味するところがわからなかったことを思い出して、あわてて、Altmanの本を調べたところBiedenharnたちの本Angular Momentum in Quantum Physicsにこのことが載っているとの引用があり、簡単な問題が出されていた。しかし、詳しいことはこのAltmanの本には出ていない。


松山人は水を心配

2012-06-20 12:02:34 | 国際・政治

松山人は水を心配している。昨日のこのブログのアクセス数が179と急に50以上はねあがったが、どうもそのような問題となるブログを書いた覚えがない。

それで、この1週間のブログのアクセスの多いものの表を見てみたら、「石手川ダムの貯水率」という2,3年前のブログが60近くアクセスがあることがわかった。

松山人は水のことを心配していることがわかる。これはもういつのことだったか忘れたが、本当に水不足におちいり、松山人は苦労したことがあるからだ。もっともそのときの市長はいまでは県知事としてホップ・ステップ・ジャンプした。

県知事の選挙にその時出馬した元愛媛大学学長のKさんはこのとき善戦するも及ばなかったから、不思議である。

だが、底流として松山の人が水の心配をしていることは確かである。