物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

スジャータ

2012-01-31 12:55:16 | 日記・エッセイ・コラム

今日、車で仕事場にやってくる途中に前を走っていた車にスジャータとあった。私などはスジャータとあれば、コーヒーに添加するミルクを売る会社の広告だと思う。ところが先日意外な話を聞いた。

仏教に詳しい人はスジャータと聞いたら、お釈迦様が悟りを開く前に厳しい修業を終えて、疲労と空腹状態のお釈迦さまに乳粥を振舞った若い女性がスジャータだと知っているであろう。

そして、お釈迦様が悟りを開かれるそのきっかけがそのスジャータの行為にあったらしい。お釈迦様はそのとき苦行の修業をすることだけではいけないと悟られた。

そういうことを私はまったく知らなかった。これは子どもがそのパートナーからきいた話を私たちにしてくれて知ったことである。そういう所以がスジャータという商標(?)か商品名についてあるとは知らなかった。

何にでもそれなりの由来があるものである。なんか大いに感じ入ってしまった。

実は今日はその話を書くつもりはなかった。私の家は朝日新聞を購読しているが、ここ数年朝日新聞の紙面に広告が増えており、そのことは何を意味するかを知りたいと書こうと思っていた。

別に朝日新聞に広告が増えてもどうってことはないが、これは産業界の活気をしめすものなのか、そうではなくて新聞社の経済状態の窮状を示すものなのか。それともその両方か。それとも別の理由があるのか。

これはまた別の権威である、出版社の岩波書店の不振が一時密かに語られたときがある。これが真実だったかどうかは私は知らないし、そのことにはあまり関心がない。しかし、そのころ岩波書店は朝日新聞社の資本系列に入るとかどこかでチラッと読んだことがある。

スジャータから話がまったくひょんなことに飛んでしまったが、岩波書店の本の企画の一部を見ていたりするとちょっと岩波書店の不振の話が本当なのではないかと思ったりしたことは事実である。

しかし、全般的にいうと岩波書店は出版において健闘しており、今後もさらに健闘されることを願っている。


漢字クイズ

2012-01-30 12:02:04 | 日記・エッセイ・コラム

先日から妻が漢字クイズに凝っている。このきっかけはひょんなことである。

妻の友人が手術をして入院している。それで暇だろうから、その暇つぶしに何かクイズを買っていってあげようと友人とお見舞いに行くときに相談して、百円ショップで漢字クイズを買ったらしい。そのときに自分のためにも一つ買った。難しさの程度があまり難しいものではないのを買ったらしいが、それでもなかなかできない。

妻と私の二人でそれも辞書を使いながらやっている。これは生産的なことでもないのだが、人間というのはそれでもわからないと気になるものである。

でも辞書といってもなかなか使いやすくはできていないので、役に立つことは少ない。

単語の語尾から引く逆引きの辞典が出ていたりするから、そういうものがあれば少し役立つのかもしれないが、そういう辞書をもっている人は少ない。

そいういえば、私はまったく知らないのだが、数独というクイズがあるらしい。そしてそういうクイズにのめりこんでいる小学生とかもいるとか。これも別にクイズであるから生産的なものではないのだが、それでも人間というものはのめりこんでしまうという性質をもっている。


歩くこと

2012-01-28 12:47:21 | 健康・病気

歩くことが体の基本であることはわかっているが、最近ほとんど歩かない。多分一日3千歩までも達しないだろうか。これはいけない。車を使うので、遠くに行くときは基本的に車である。

だから、ときどき足がひょこんと崩れ落ちそうになる。普通に歩いているときでもそうなのだから、もっと歩く必要がある。白寿を前にして亡くなったE大学工学部のA名誉教授は何でもよく歩く人だった。松山駅からE大学の城北キャンパスまで歩くのだと言われていた。これは大学を辞められてからの話だったと思う。

ところが私は散歩もしない方である。よく大学に勤めていたときには先輩教授の方で気分転換を兼ねて構内を散策しておられた方に出会ったが、何かを購入するために大学生協に行くとかとか、または図書館に書籍を探しに行くためとかぐらいであまりで歩くことはなかった。

第一、弁当持参であまり昼食にも外に出たことはない。もちろん、ある時期は昼食に食堂へ出かけた時期もあったが、それは勤務していた37年間で数年のことにすぎなかった。

昼に研究室の学生と生協の食堂まで行き、それからまた午後の仕事をするという方々もたくさんおられた。

そしてそこで、学内で誰かにあって、話ができたからよかったという友人もいた。ともかく歩くことは誰かに出会うことでもあるが、別に私はそういう出会いを拒絶してきた訳ではない。

だが、基本的に一人であることを好むというか、あまり恐れないタイプの人間である。むしろ人との接触をあまり好まない人見知りをするタイプといった方がよいかもしれない。


崩壊熱

2012-01-27 12:49:48 | 物理学

高専に勤めていた友人のS君の述懐である。

彼は原発で、その使用済み核燃料の処理が大きな問題であることは知っていたが、原発を止めても放射性崩壊物からの崩壊熱のために原子炉を冷やし続けなければならないということを知らなかったという。

そしてお前は知っていたかと言われた。そのことをたまたま知っていたが、それは私がE大学の工学部で10年ほど応用物理学の講義で実際には「原子力工学」というテクストを使って教えたことがあったからである。

もし、このことを知らなかったからといって、物理をやっているS君が不勉強ということではないだろう。もちろん、反原発に以前から関心があったりすれば、これは当然の知識であろうが。

原水爆禁止運動をしていた方々の多くも原発は原爆と地続きと問題であるとは普通の人は思わなかったであろう。それで、S君は私や彼の先生の、現在、原水爆禁止運動を熱心にやっているSさんはこの崩壊熱のことを知っていたであろうかと私に尋ねた。私は即座にSさんが知らなかったはずがないと答えた。

Sさんはヒバクシャであり、彼の生母は原爆で亡くなっている。そして、その後素粒子物理学の研究者になったという稀な経歴の方である。彼は大学退職後の、いまも広島の放射能の影響の研究の不備を突く研究を続けており、原爆被災者の国家補償の裁判に重要な役割を担っている。

政治的な意味ばかりではなく、科学研究としても重要な意味を彼の放射線の後遺症の評価に影響を与えつつあるらしい。特に原爆の後にその後1週間以内に広島に身内を探す等の理由で入市したヒバクシャの後遺症の問題にも取り組んでいる。

政治的な立場は私とこのSさんとは異なるかもしれないが、その真摯さには頭が下がる思いである。


赤福

2012-01-26 12:54:49 | 日記・エッセイ・コラム

「なばなの里」と伊勢神宮の1泊2日のバス旅行から帰って来た妻がおみやげに赤福を買ってきた。一つは友人へのおみやげであり、一つは自分たちで賞味するという。

これが赤福を食べた最初ではない。10年位前に大学の出た研究室の同窓会が鳥羽であり、お土産に赤福を帰ってことがあった。それで食べてみるとなかなかおいしい。

食品表示の問題が取りざたされたことがあり、そのときにこの赤福も賞味期限を過ぎたアンを使っていたとかがニュースで話題になったことがあるが、結局赤福の人気は落ちてはいないらしいのは結構なことである。

赤福といえば、鶴見俊輔さんのエッセイかなにかで、夢野久作の伝記を書こうとして遺族の方と接触をしたとかで、久作の長男さんか誰かと知り合いになった。そしてその彼がときどき鶴見さんのところを訪れたことがあったとかで、そのときにお土産に赤福を持って来られたことがあったと読んだ記憶がある。

その当時、私は赤福の存在を知らなかったが、赤福を今度は久しぶりに味わってよかった。私はそれほどアルコールが好きなほうではないが、おつきあい程度には飲む。そこらあたりはビールが一番苦手と聞く、鶴見さんとは違うが、それでもあまりビールとか酒がなくても別に困るということもないから、あまりアルコールとは縁がないのだろう。


シェーバー

2012-01-25 12:51:59 | 日記・エッセイ・コラム

シェーバーとは昔風の言葉でいうと、電気かみそりである。私が学生だった頃にそろそろ日本でもその製品が売り出されてきた。

一番初めに私がシェーバーを手に入れたのは、大学生活を再開した2度目の大学1年生の1959年の夏休みであった。それはパナソニックのシェーバーであったが、これはその春に就職をしたばかりの次兄がその給料で私に買ってくれたものであった。

振動型のもので、はじめはうまく作動していたが、使っていくうちに、ひげがときどきひっぱられて痛くて、あまり性能がよくはなかった。これはその後だったと思うが、ロゲルギストとして知られた、一群の物理学者の書いた、エッセイにシェーバーの性能が話題に取り上げられて、ときどきひげを引っ張ることがこの振動型のシェバーの欠点だとあった。

兄がもっていたのはフィッリプス社の回転型のものであり、その当時は少し高値で私にはその頃は「高嶺の花」だった。しかし、いまでは私自身もこのフィリップス社製のシェーバーをいつも購入している。

アラン・ドロンだったかが、主演のフランス映画でバイクとこのシェーバーが印象に残っている。1950年代の終わりから60年代のはじめはフランスはまだ日本と比べてちょっと裕福といった感じをそれらのフランス映画から受けたが、もちろんアメリカ映画から受けるほどの生活の豊かさはまだ感じられなかった。

ひげの濃い、物理学者のUさんなどもこのシェーバーには感謝をしているとかいつだったか言われていた。私なども数日ひげをあたらないと、ほほにひげの帯ができてしまう方である。これは小学生のころからそうである。よく高校で健康診断に来た内科医の先生に不精はいけないと叱られたものであった。


高知弁

2012-01-24 12:40:57 | 日記・エッセイ・コラム

日曜日に子どものパートナーの父親の葬儀に参列したが、それで高知の方のいわゆる高知弁というのか高知の人の方言のアクセントを初めて聞いた。

もちろん、いままでに高知出身の人が知り合いに一人もいなかった訳ではない。だが、今回初めて典型的な高知弁のアクセントに出会った感じがした。柔らかい温かみのある方言である。

一昨年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」とその龍馬を演じた福山雅治さんのせいで高知弁も有名になった。福山さんの高知弁の最後のアクセントが高知の人が聞くと微妙に違うらしい。どういう風に違うのかは私には高知人ではないのでわからないのが、残念である。

そういえば、高知で泊まったホテルの朝食のレストランに行ったら、一群の学生がすでに朝食を食べていて、彼らの話を聞いた妻は彼らがこれから龍馬の史跡やその他の史跡の観光に出かけるらしいと後で話してくれた。

ホテルでもらった市内の案内地図には、そこここにアルファベットがついていたが、これを見て感心してしまった。これは街の交差点とかにこのアルファベットがついていて、その地図には明治維新頃の歴史上の人物の史跡等の名所に行くにはどのアルファベットのところで電車や車を降りたらいいかが、わかるからである。

妻は地図を見る前に市内の交差点等にこのアルファベットがついているのに気がついていたらしい。しかし、彼女には意味がわからなかったが、観光の市内地図を見てその意味を理解したらしく、私に教えてくれた。おかげでその後には高知市の斎場にも簡単に行けたし、帰りの高速道路へのアクセスも簡単であった。

これは私の住んでいる松山でも取り入れたらと考えられる、アイディアであろう。もっとも同じアルファベットの箇所が離れたところにあるのに気がついた。が、これはかなり離れたところにあったので、場所の混乱を起こすことはないだろう。もっともそのことは長い間の未解決の数学での問題であった、地図の「四色問題」を私に思い出させたが、そのことについては妻には話さなかった。


精密な不確定性関係

2012-01-23 15:01:26 | 物理学

Heisenbergが不確定性関係を打ち立てたのは1927年のことだから、もう80年以上前のことになる。その不確定性関係が精密化されたと聞くと感慨なきにしもあらずである。

今朝新聞を見ていたら、『小澤流「不確定」仕分け』と出ていたので、あれまた小沢一郎氏がなにか政府に注文をつけたのかと一瞬思った。

よく見たら、そうではなくて名古屋大学の小澤正直さんが樹立したHeisennbergの不確定性関係の精密化のことだとわかった。その精密化された式も出ていた。「ゆらぎ」がそのキーワードらしい。

量子力学では粒子の位置とその運動量を同時には精確に測定できない。というのがHeisenbergの不確定性関係である。それに位置とか運動量の値のゆらぎを考慮して新しい不確定性関係式をつくったのが、小澤さんだった。ところがその当否を実験で調べられるようになったという。

小澤さんには悪いが、重箱の隅をつついたような研究だという評もありうるだろう。しかし、そういうところをきちんとするという研究は日本人のお得意の研究かもしれない。

電磁気学でのベクトルポテンシャルAの実在を実験的に示した、日立におられた外村彰さんの研究とかなかなか日本の研究には堅実なものが多い。

愛媛県の出身の研究者としては中村修二氏の青色ダイオードの発明とか、少し以前ならば近藤淳さんの業績もある。

これらの研究は各研究者の執念が感じられて私たち凡人には、なかなか真似が簡単にはできないものだが、日本の教育の画一性とか日本の理科系教育の貧困が言われたりするが、それでもそういう方がぽつぽつとではあるが、出ているということはある種の希望なのかもしれない。


日常への復帰

2012-01-23 12:19:36 | 日記・エッセイ・コラム

先週の金曜日に三原へ友人のS君と共に、友人のH君の弔問に行った。その日に子どもから連絡があって、子どものパートナーのお父さんが亡くなったというので、土曜日に高知市に行った。そして昨日の日曜にその葬儀があり、列席をした。

はじめて子どものパートナーの家族や親戚と会うことになった。それまでにはまったく機会がなかったのである。家族も親戚も知的な感じの方が多かったので、ほっと安心をした。

金曜日に生口島から三原の須波港へとフェリーに乗った。そのときに中国地方の海岸の白い砂浜が見えたときにきれいだったので、「砂浜がきれいだなあ」とつぶやいたら、それを聞いたS君がH君の死を悼んだ詩でもつくれと言ったが、そのときには「私は詩人ではないからそんなことはできない」と答えた。

しかし、その日の夕方の6時前に今治駅で特急を待つ間に30分ほど時間があったので、私にしては珍しく駅の喫茶店に入ってカプチーノを飲んだが、そのときに私の知っているシュベールトの曲、「鱒(die Forelle)」がBGMで数分流れた。それを聞いて少し私の心が慰められたように感じた。

帰宅して夜遅くS君の要請に応えるわけではないが、ドイツ語で詩らしいものを綴ってみた。これはもちろん詩の体裁をなしてはいない。だが、ここに載せておきたい。

このブログの読者の中にどれくらいドイツ語を解する方々がおられるかは想像がつかないが、ドイツ語を解しない方々はうしろの日本語の大意をみて私の気持ちを察して頂けたらよい。

      Zum Tod meines Freundes

Du, weisser Sand !

Kennst du mir die Traurigkeit ?

Mein guter Freund Gyo ist schon weg.

Seine Frau hat uns viel von ihm erz"ahlt,

aber das wollte sie nicht aufge"oren.

Man sagt, Zeit heilt uns.

Und ich erinnere mich an seine Optimismus.

Wenn ich kein Optimist w"are.

     友人の死に

白砂よ、君は私の悲しみを知っているか

親友 暁は逝ってしまった

彼の妻は彼のことをたくさん語ったが、

それを止めようとはしなかった

そして、私は彼の楽天主義を覚えている

たとえ、私が楽天家ではないとしても


新聞記事が読めない

2012-01-19 12:40:35 | 外国語

昨週、宿題としてR氏に出されたニュースのドイツ文がわからない。それも短い記事だのに。辞書で単語は全部引いて調べたのだが、それでももう一つよくわからない。これはどうしたことなのだろう。

今夜、ドイツで今年から変った法律等の情勢がどう変ったのか報告しなければならないのにである。単語でも十分に知っているつもりの単語でも辞書を引いて確かめないと意味がわからないという始末である。

普通にドイツ国内での社会常識となっている知識を私が知らないということもあるし、そういうニュースの記事で使われている用語を知らないということもあるのだろうが、こういうことでは駄目だ。

いままで、専門ではないからという理由で、逃げに逃げてきたが、腰を落ち着けてこういう文章に取り組む必要がある。文章としては難しいものではないが、文法上の問題ではなく、もっと語彙とドイツ事情が必要らしい。


怠け心

2012-01-18 14:21:40 | 日記・エッセイ・コラム

火曜日の夜にテニスがあって、次の日の水曜には怠け心が全開である。今朝も9時半まで寝ていた。それから起きていったら、珍しく妻がまだ在宅していた。

だが、それでも私が朝飯を食べ始めると「歌声エコーズ」という自分が主宰している団体(歌を喫茶店で自由に歌うグループ)の新年会だというので、いそいそと出かけていった。

そのうちに植木屋さんが庭の木々の消毒に来て、玄関の戸をたたいた。彼に消毒の代金を払ってから、コタツに入って新聞を読んでいたら、11時を過ぎてしまった。

毎日、11時からフランス語のアンコール講座がある。これは聞いたり聞かなかったりだが、11時30分からのドイツ語の講座は大抵聞くことにしている。しかし、どうも仕事場に行くにはもう時間がなさそうだ。

それで、今日はパスしようと怠け心を起こした。それでも、ひげをそり、顔を洗って時間に少し遅れてもまったく聞かないよりもいいだろうと思って、妻のラジカセを居間のコタツの上にとり出してきて、聞くことにした。

ラジカセの設定はいつもはCDを聞くようにしてあるので、そのファンクションをラジオに変えて、ようやく聞き始めたが、昨日の講座の練習問題の口頭練習は終わっていた。

普通はこのラジオ講座は仕事場でテクストを片手に聞くことにしているのだが、今日はテクストがない。それでも一日一日の積み重ねが必要なので、聞かないよりは聞くほうがいい。

学生の頃に「外国語を学ぶのはピアニストがピアノの練習をするようなものだ」と聞いた。ピアニストは毎日ピアノを弾く練習をするそうだ。それを一日しなかったとて、急に腕が落ちるわけではないだろうが、毎日ピアノを弾くという。

先日、11時過ぎにちょっと遅れてラジオをつけたら、それは実はフランス語の講座だったのだが、私にはドイツ語が話されていると一瞬誤解をした。こういうことではまだまだである。


偶然に一致2

2012-01-17 12:31:41 | 日記・エッセイ・コラム

先日1月13日金曜日のテニスクラブの新年会で、テーブルスピーチで前から用意して、13日の金曜日が今年は1月、4月、7月の3回もあるとかの話をした。

次の日の1月14日の朝日新聞の天声人語を見たら、ほとんど同じことが話題の一つとして取り上げられていた。これまったく偶然の一致なのだが、こういうこともあるのだと思う。

もっとも私は昨年の5月13日(金)に13日の金曜日というテーマをブログで書いておいた。それをちょっと復習して13日の夜のスピーチをしただけだが、あまりスピーチの得意ではない私としては長い話となったので、隣の席にいたSさんからクレームが出た。

これは偶然の一致とは無関係だが、最近の朝日新聞の連載で熱心に読んでいるコラムは「プロメテウスの罠」と「原発とメディア」である。どちらも興味深いが、「原発とメディア」では朝日新聞の科学部が原発の賛成の論陣を張ったことをあぶりだしている。

個人的には記者の中には原発に懐疑的な記者もいたことはこの記事からも読み取れるが、少なくとも70年代から朝日新聞が原発容認の論陣を張っていたことは疑いがない。いまとなっては彼らの誤りは明らかになったが、新聞社としてはその点の反省が、「原発とメディア」に出てくることを期待している。

日本の新聞社として一番意見が理性的と思われている、朝日新聞社の意見が偏っていたことは反原発運動をしていた人たちや心ある人々からは危惧されていたことである。その検証がようやくされるとすれば、それはいいことである。

もっとも、原発推進の論陣を張った方たちは容易に自分たちの過ちを認めはしないだろうが、存命中の人たちは大いに反省をするべきであろう。


Sさんの展覧会

2012-01-16 13:13:04 | 日記・エッセイ・コラム

日曜日の午前中にSさんの個展を見に、砥部市を訪れた。この日が個展の最終日なのでこの日を逃せば、もう個展に行くことができないから最後のチャンスだった。

昼前に会場に行ってみると、友人のUさんがご夫妻で来られていた。それで、一通り絵を見せてもらってから、このUさんのギターの弾き語りや彼の自作のソングを数曲聞く機会があった。

このUさんは普段は真面目な顔の、E大学のドイツ文学の先生であるが、彼のつくった、この土地の方言の歌はとてもこの地方の様子の実体を反映しており、真に迫っていて、とても滑稽である。

歌ばかりではなく、弾き語りの小話はとても滑稽でそれを聞きながら、笑い転げた。Sさんが最終日のアラクションに頼んでおいたものだろう。

Sさんは私たちのドイツ語のクラスの先生R氏の夫人であり、最近は私たちのクラスにも参加されている。先日の12日のクラスで「年末と年始に何をしたか」という課題の、クラスメンバーの短いドイツ語のスピーチで「個展をぜひ見に来てください」と言われていた。

が、私はいつも週日は自分の用であまり外出できず、土曜日も無料塾で中学生に理科の受験勉強を手伝っており、彼女の個展に行くことができなかった。

行ってみると40ほどの絵画の中で、会場の入口から見て、正面にあった「ふれあい」という題の大きな絵が明るい赤系の色彩で一番良いように思われたので、そういうことをSさんに申し上げたら、夫君のR氏もまったく同じ意見だったという。


親友の死

2012-01-16 12:43:53 | 日記・エッセイ・コラム

親友の死は堪える。それも死を知らなかったから。土曜日に家に帰ったら、友人の奥様から友人の死亡のお知らせがあった。これは私の出した年賀状への返事であったが、友人は昨年の12月19日に亡くなっていた。

これには腰を抜かさんばかりに驚いた。彼は私よりは1歳年下だったから、まだ71歳であった。大学の4年のときに同じ研究室に入り、その後大学院の5年間を一緒に学んだから少なくとも6年を机を並べて学んだ間柄であった。私たちは研究を始めた初期に2つばかり共著の論文を書いた。

その後も、お互いに行き来をしており、ごく最近ではあまり連絡が少なかったが、彼が私の勤めていたE大学に出張で来たことは年に2回ぐらいはあった。またそのときには必ず私の家に泊まった。出身大学の研究室の同窓会はごく最近は来なかったが、まだそれほどの年ではないので、元気にしていると思っていた。

彼は音楽が好きで、住んでいる三原市のオーケストラに所属をしていたと思う。また、私が定年退職した一年後に新居浜在住の友人のS君と二人が松山にやってきて、3人で道後のKKRの保養所である、S荘に泊まってお互いの定年退職と今後の健康を祈って祝杯をあげたものだった。

このH君とS君とは野外派であって、野菜をつくったり、野山を歩いたりすることも好きだった。これはあまり野外に行くことが好きではない私とは違った性質である。

H君は親戚の従兄弟とかがロサンジェルス近郊に住んでいるいうこともあって、UCLAに留学をしたり、アメリカの壮大な自然を好んで車で旅行したりした。

よく生前一年でも、または半年でもいいから、金持ちが住んでいるということで有名なビバリーヒルズに住むことが夢であるといつも言っていたが、定年退職後に数箇月ロスアンゼルスに行ったことはあるが、ビバリーヒルズに短期間でも住んだかどうかは聞いていない。多分まだその志は果たしていなかったと思う。

もし、彼がビバリーヒルズに住むことがあれば、あまりアメリカが好きでない私も遊びに行くからと言っていたのに。

20日にS君と共に三原まで弔問に出かけることを予定している。


花の贈り物

2012-01-14 16:38:35 | 日記・エッセイ・コラム

二人の子どものそれぞれのパートナーから、年末から、年始にかけて贈り物を妻がもらった。京都南座の観劇から帰って来た次の日の1月8日に届いた花はいろいろな花のコンビであり、いまも食卓を華やかに飾っている。

年末に妻が何か小物をこれらのパートナーに贈ったもののお返しだが、どうもお返しの方が立派なもののような気がする。妻は子どもをよろしく頼みますという気持ちを込めて、小物をプレゼントしたと思う。

しかし、誰でもそうだが、プレゼントをもらってうれしくない人はいない。それでその気持ちがお返しのプレゼントに表れるのであろうか。

昨日のテニスクラブの新年会では近々、孫ができるという人がおられて、喜んでおられたが、私には孫はいない。将来、孫を持つとも思っていない。そこらが普通の人とは私の家が違うところかもしれない。

私たち夫婦は子どもを二人もったが、子どもたちがどうするかは子どもたちの人生とか生活であるから、私たちがとやかくいうことではない。これは負け惜しみとかではなくそういうものだと思っている。