物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

気力が抜けて

2009-06-30 11:41:02 | 日記・エッセイ・コラム

武谷三男の業績リストの改訂3版が1箇所を除いて出来上がり、またMY博士の業績リストもやはり1箇所を除いて出来上がった。続いてSS博士の業績リストやWW博士の業績リストをつくる計画はあるのだが、どうも続いてすぐには取りかかる気が起こらない。

これは大分湿度、気温が高くなって環境がよくなくなってきたたためでもある。パソコンの前が気温が高く、風もなかなか通らない。これは毎年そうなのだが、これから数ヶ月は仕方がない。それでできるだけここ数ヶ月はパソコンの前には座らないような生活をする必要がある。

それでということもあるのだが、場の量子論の復習をしようかと思っている。いくつかの疑問点をもったまま何年もそれを解決していないからである。WentzelのQquantum Theory of FieldsやK"allenのQuantum ElectrodynamicsやNishijimaの本を取り出して見ている。

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講義の後で

2009-06-29 15:50:22 | 日記・エッセイ・コラム

90分の講義の後では快い疲れで一息をつく。いつも少しでも分かりやすいようにと思って話をしているが、今日は3人か4人寝ていた。これは暑くなってきたので居眠りが出たのであろう。

教室はエアコンがついてはいるが、それでも少し暑いだろうか。講義をしていて暑いとまでは思わなかったが、やはり以前と比べれば暑いのであろう。それにプリントがあるので、後で読んだらいいと思ったのだろうか。

後試験も入れて3回の講義となってしまった。来年も講義を出来るのかどうかはわからない。いつも今年が最後と思ってやっている。内容が電磁気になって難しいと感じているようである。だが、例年よりも分かりやすかったとかよく分かったといってくれる学生が多いような気がする。今年は優秀な学生が多いのだろう。

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稲の成長

2009-06-27 10:59:09 | 日記・エッセイ・コラム

自宅前に田圃がある。そこに田植え機で植えられた苗ははじめは赤ん坊のように細く弱弱しかったが、最近になって力強くなってきた。それに伴ってみどりも濃くなってきた。

今年は5月、6月と少雨で例年のように水不足が心配であるが、先日の一雨でなんとか当面はしのいでいる。これからの予想は予断を許さないが、まだこれから梅雨の雨が降るだろうと思っている。

少雨のせいで田植えが遅れたようだが、それでもなんとか最悪の事態だけは回避しているようだ。

昨日は非常勤講師をしているM大学に行ってその図書館から本を借りようとしたら、そのためのカードの作成が必要とわかった。またそのカードに写真が必要なので、どこからか写真を探してくるか新たに写真を撮らなければならない。

昨日も述べたかもしれないが、思想の科学社の出版物である、「源流から未来へ」がこの図書館にあるというので借りようと思ったからである。この書籍も8,000円あまりで購入するには貧乏人の私には重すぎる。

思想の科学50年史委員会というところが、思想の科学の50年を記念して3冊の書籍を出版している。1冊は「思想の科学総索引」でこれは22,000円以上の値段である。これは県立の図書館にあるから、必要ならばそこにいって見ることにしよう。2冊目が上に挙げた、「源流から未来へ」である。3冊目は昨日述べた「思想の科学」ダイジェストである。これは仕方がないので自費で購入することにした。

昨日、M大学の図書館でちらっと、「源流から未来へ」を見た範囲では私の必要な箇所は数ページである。だが、数ページにしても必要である。

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Bolgna process

2009-06-26 11:42:35 | 受験・学校

ヨーロッパでボローニャ課程(過程?)というのが始まったが、それが機能しないということが問題になっている。ヨーロッパの大学でどこの大学で単位をとってもそれが認定されて大学を卒業できるということを想定した制度であったが、実際にはそれが機能しないらしい。

それで学生がそれに反対するようになってニュースになっているらしい。大学の学長の中でもこのボローニャ課程(過程?)が機能しないということに気がついて学生の反対運動を支持することを表明した人もいれば、まだそれに気がつかないで依然としてこの制度を推し進めるという学長とに分かれているらしい。

学部課程が3年でその後に修士課程2年の5年で学業を終えるという目論見だったらしいが、どうも3年の学部課程で辞めるという学生もいて、カリキュラムは複線になっているところもある。それで教授たちも忙しくなっているのはヨーロッパも全世界の例外ではないらしいが、それでも大学に入ればよっぽどのことをしないと卒業が出来るような日本の大学とは違う。

教授の権威は高く、単位認定権は強い。それで教授によってはなかなか単位を認定しない人もいる。すなわち、厳しく学問を取っている教授も多いということである。

ボローニャ過程がどういうものかとかその問題点がどういうものかは当事者でもまだよくはわかっていないという。どうも嫌な時代になってきている。

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遠山啓と武谷三男

2009-06-25 14:34:15 | 学問

昨夜から武谷三男の「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」をメモを取りながら読み始めた。まだ前半も読み終えていないのだが、彼は理論が危険を冒すことによって鍛えられるということを強調している。

そこには哲学者が危険を冒さないでそのためにいつまで経っても科学を進めるのに役に立たないことに苛立ちがある。

他方、雑誌「数学教室」のシリーズ「いまこそ遠山啓を語る」では7月号に井上正允さんが教育学者から聞いた話として

遠山が戦後の「生活単元学習」を激しく批判し、居並ぶ教育学者を前に「抽象的な教育論ではなく、具体的な教科について語れ」と喝破したとき、教育学者は誰一人として反論ができなかった

ということを書いている。これがいつのことだったかはわからないが、戦後まもなくのことであろう。

これは武谷のエッセイとはまったく別のコンテキストであるが、発想にはいうまでもなく並行性が感じられる。哲学や方法論の有効性をあまり強調すると有効性だけがとりえだと主張するのは学問の本質から外れるとの批判(広重の武谷三段階論批判のように)が出るが、抽象的な議論に終始してまったく役立たない教育学に愛想をつかした、遠山さんの苛立ちは分かる。

遠山は1909年生まれで、武谷は1911年の生まれである。二人とも学校嫌いだった。それで二人ともほとんど独学的である。武谷の方は生涯を通じて教育に違和感をもったが、遠山は逆に教育に関心をもった。だが、それも学校教育に肩入れをするというよりも独自の塾教育というか、独自の教育を目指した。

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思想の科学ダイジェスト

2009-06-25 13:30:36 | 本と雑誌

「思想の科学ダイジェスト」という本が思想の科学社から出されている。

約50年の雑誌「思想の科学」に投稿された1万件の論文から2000編を選んだという。これを買いたいのだが、ほぼ一万円に近い。

さらに、エンゲルスの「自然の弁証法」の訳本が新日本出版社から出ているという。

これがまた一万円近い。本来ならこんな高価な本は購入する気などは起こらないのだが、どうもこれらが武谷三男に関係してしているとなると、購入しなければと思ってしまう。

いつもいうように定年退職して収入が現役時代の約1/3になっているから、経済的につらい。大学の図書館にこれらを購入していないかと調べたが、E大学にはこの両方とも入っていない。このごろは高価な書籍は大学の先生も買うのは控えるのかもしれない。

家計から支払ってほしいといっても妻はいうことを聞いてはくれないだろう。仕方がないから、自分のとても乏しいポケットマネーからこれらの書籍を購入する費用を捻出しなければならないだろう。

(2014.2.12付記) 「思想の科学ダイジェスト」(思想の科学社)の方はその後購入をした。

だがMEGA版のエンゲルスの「自然の弁証法」の方は購入できていない。これは多分どこかの図書館で借りて読むしか私には方法がない。

というのは年金生活で購入するだけの経済的余裕がないからである。むかし、エンゲルスが大英博物館かどこかの図書館に通って資本論の校訂をしたとか何かで読んだ気がする。

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豊田利幸さんの死

2009-06-24 11:41:41 | 物理学

パグウォッシュ会議で世界の非核化に尽力した豊田利幸さんが亡くなっていたことを先日の朝日新聞で知った。5月に亡くなっていたらしい。だが、豊田利幸さんを悼む死亡記事など見なかったように思う。

晩年は目を傷めて活躍が制約されたらしいが、それでも核兵器の禁止等についてはなみなみならぬ気持ちをもっていたらしい。

武谷さんと豊田さんは同じ立教大学に勤めておられたのだが、どうも仲がよくなくなって豊田さんは名古屋大学に転勤されたという風にうわさでは聞いている。

豊田さんは学生に評判がよかったので、豊田さんが立教大学を辞めたことが武谷さんにはねかえって武谷さんが1969年に立教大学を辞めるきっかけにもなったのではないか。

これは本当のところはうわさにすぎないので、確かめるすべはない。もう一人のM先生も武谷さんが辞めた後だったとは思うが、立教大学からK大学に勤めを変わられた。それも武谷さんとの関係がうわさされたが、その点についても真偽のほどは知らない。

ただ、武谷さんは個性の強い人だったので功罪があるようである。

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牧二郎の武谷三段階論の展開

2009-06-23 13:08:14 | 物理学

牧二郎の追悼記念号が「素粒子論研究」に出ていたのを思い出し、その該当した号を取り出してきて、昨夜と今朝にかけて読んで見た。

特に科学論を武谷三段階論からはじめてもっと精緻にするとかと素粒子研究の段階をどう捉えていたかについて、いくらか知った。このことをシンポジウムで話をしたのは菅野さん(大阪市大名誉教授)である。

牧さんは実体論的段階の概念が曖昧だということで、もう少し武谷三段階論を精緻にするということを提案しているらしい。また、牧さんは素粒子の世界と原子核の世界とをはっきりと区別するということを主張していたらしい。

牧さんのもとの論文を読んだわけではないのでわからないが、多分広重の武谷三段階論批判については触れられていないのではないだろうか。

牧さんは哲学も好きで、また読書家でもあるので、広重の武谷三段階論批判を読まなかったとは思えないが、もしその論文にこのことについての言及がないとしたら、それは何を意味するのだろうか。

そういえば、この頃は原子核と素粒子とは違ったものと捉えている。原子核という言葉があまりふさわしくないとすれば、ハドロンの物理と素粒子の物理とは違うということだろうか。

素粒子とはレプトン、クォークやゲージ粒子これにヒッグス粒子も入るだろうか。ハドロンは素粒子には現在では入れない。

私が学生の頃に聞いた用語でいえば、当時の素粒子に対して基本粒子という語を使っていたが、その基本粒子にあたるものがいまの素粒子で、50年以前に素粒子といわれていたものはそのほとんどがハドロンというようになった。用語も変わるものである。

藤本陽一氏によれば、素粒子論はヨーロッパでは核物理Nuclear Physicsといっていたらしい。素粒子物理学Particle Physicsはアメリカ発祥の用語らしい。

アメリカの大学の物理学科の掲示板でParticle Physicsとあり、何だろうと思って近づいてよく見たら、それは素粒子論のことだったという、新聞か雑誌の中村誠太郎さんのエッセイを読んだのももう30年以上前のことになってしまった。

広重の武谷三段階論批判を読んでとりとめもなく思ったことはもっと違ったことである。

それは科学認識の段階の取り方は本当は一義的なのかもしれないが、現状をどう捉えるかということについては広い範囲を大づかみに捉えることもできるし、ある段階を狭い範囲で部分的に細かく捉えることも可能なのではないかというようなことであった。

人はいろいろだからどこをどう捉えてても、それは勝手(自由)といえば勝手(自由)である。

そうだとすれば武谷三段階論にもとづいた研究をすすめると個人的には思ってもそれぞれの研究者の捉え方はきわめて異なって捉えられるだろうということである。そこが面白いともいえる。

ましてや、すべての研究者が武谷三段階論に賛成な訳ではないから、研究の様相は色々と多岐にわたる可能性があるということである。また、そうありたいものである。

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熱力学でのエントロピー

2009-06-22 15:47:10 | 物理学

エントロピーSは普通dS=d'q/Tで定義される。ここでTは絶対温度、d'qは微小な熱量である。

昔、ある集まりで熱工学が専門の先生がエントロピーが学生(ひょっとして自分)がわかるようにならないと嘆いたら、ある機械工学の先生がするすると説明をされた。それを正しいかどうか分からないが、再現して見よう。

上の式を変形するとd'q=TdSとなるが、これはd'W=-pdVとよく似ている。というか高いところにある物体がもつポテンシャルエネルギーが運動エネルギーに変わるのと同じように考えるとd'W=mgdhと並行的に考える。すなわち、dS=S_{1}-S_{2}としてS_[1}は物体が高い場所にいることと同じように熱的に高い場所にいる。それがS_{2}では熱的に低い場所にいる。これは物体が高度の低い場所にいるのと類似のことであると考える。

熱力学第一法則によれば、内部エネルギーをUとして、dU=d'W+d'qがなりたつ。ここでd'wとd'qにプライムがついているのは、これはこれらの量がある状態量の微分ではないことを示している。ところがこの二つの量を足したものは状態量Uの微分である。

これがどうしてか不思議でたまらなかったが、これは熱を力学的に定義すれば、解決することはムーアの『物理化学』(東京化学同人)の上巻に書いてある。有名な田崎清明(学習院大)さんの『熱力学』(培風館)の本もその線に沿って説明がなされているのだろうと思う。

エントロピーSを導入して状態を表し、絶対温度Tで状態を表すことを考えないのは相変化が起こるときには温度Tは変化しないが熱的には物質の状態が変わるからである。

相変化とは例えば、液体の水が気体の水蒸気に変わるとか固体の氷になるとかいう場合である。

物理の本でエントロピーSについての分かりやすい説明を読んだことはないように思うが、これは単に私の不勉強のせいだろうか。

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分数の取り扱い

2009-06-20 14:29:39 | 数学

学習会でいいことをならった。分数の取り扱いについてである。

分数を導入するには等分割の操作で導入する。量分数とか割合分数とかいうことが言われたけれどもこれらは分数の導入にはどうも都合が悪いという。

また、分数の足し算(引き算)はできるだけしないで、小数の足し算でおきかえる。だが、分数の掛け算(割り算)は分数の方が小数の割り算、掛け算よりもはるかに簡単である。

掛け算と割り算の混合演算では左側の演算ほど優先されるとは生徒は「計算の規則」としては知っているのだろうが、割り算が掛け算よりも難しいために掛け算を優先する生徒が多いという。

分数係数があれば、できるだけ整数係数に直す。具体的には方程式の場合には適当な数をかけて整数係数に変換する。分数の場合には分子分母に同じ数をかけて(倍分するという)分数係数を整数係数に直せばよい。

これは分数の取り扱いではないが、割り算と掛け算の混合演算では割り算はその逆数の掛け算に直す。こうして演算の種類を加算と乗算の2種類にする。こうして割り算と掛け算の混合演算を掛け算だけの演算に直す。

というのは割り算が左にでており、その右に掛け算がある混合演算では掛け算を先にする生徒が多いからだという。

量分数と割合分数という論争が昔あり、割合分数が理解が難しいということから量分数が提唱されたが、その導入はうまくいかなったという。

これは遠山啓氏とか銀林氏の提唱でもあったらしいが、やはりうまく行かないので分割の操作で分数を導入するということに落ちついたらしい。

これは事実に基づいて議論をするということが数学教育協議会では最終的に徹底していて、いくら遠山さんや銀林さんのような偉い先生のいうことでも実践的に難しいことはダメだということが普通に行われているからであろう。

しかし、こういう実践に基づいてなんでもものごとを判断するという考えを遠山さんや銀林さんが否定していることではないので、彼らの不名誉にはならない。

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教育の崩壊

2009-06-20 13:28:12 | 受験・学校

教育の崩壊が始まっている。まだ完全には教育の崩壊が起こっているわけではないが、それがいま準備されている段階であろう。

午前中に久しぶりに小学校の先生方を中心とする学習会に参加した。そこで先生方から語られることはこういうことではこれからの教育はどうなるであろうという心配であった。具体的には先生方の日常業務が以前と比べてとてつもなく忙しくなっており、そのために授業のための学習教材の研究の時間はほとんど取れなくなっている。

また、無意味な数値目標の達成のための計画を立てることに時間をとられる。これはそういう計画を出すことが教育委員会から要請されるのだが、そのときに明らかに意味のないと思われる数値目標がないと計画が絶対に承認されないのだそうだ。

それでしかたなく文字的に数値目標を入れるが、それはどうやって客観的に検証できるようなものかといえば、どう考えてもそんなことはできない。かなり主観的な評価しか出来ないようなものだという。

これは教育委員会の問題かといえば、どうもそうでもないらしい。もっと上の文部省から来ているらしいという。そういう要請を出している文部省の官僚もむなしいかもしれないが、それを阻止することが出来るどころかむしろ促進しているという。

改革と称してつぎからつぎへと新しい制度とか試みが上から課されてくるが、これは本当文部省への批判を封じ込めるために出されているのではないかと邪推したくなるとまで言う先生もいる。

それに10年ごとに教員資格の検証が行われるようになっているが、これは職業としての教師を続けることができるかどうかを危ぶまれることになってさえいるという。これはある意味では優秀な人材は教職にはつかないことを意味すると思う。そういうことでいいのかどうか。

もちろんあるごくごく少数の教師の中には問題の教師もいるかもしれないが、ほとんど大部分の教師はそんなことはないだろう。それだけならず、独立志向で優秀な学生や教師を抑えるためという意図があるのではないかという。

これでは早晩、日本の国力は衰退するであろう。人の言うことだけ素直に聞く人だけつくってもしょうがない。

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キルヒホッフの法則

2009-06-19 12:42:57 | 物理学

「キルヒホッフの法則」についての授業のプリントをつくっている。

昨年その内容については自分でノートをつくって話をしたのだが、やはり今年はプリントをつくって渡したほうがいいと判断をした。

全国のほとんどの大学で使っているといわれる、ある有名な教科書の回路図にキルヒホッフの法則を適用して、その回路に流れる電流についての連立方程式を立てて、それを解くプロセスを詳細に書いたものである。

もちろんこの教科書にはそんな詳しい話は書いていない。それは普通には単なる数式の解法で物理とはみなされないからである。それにそういう詳しいことを書いていたら、教科書はページ数だけが増えて困るだろう。

だが、私の教えている学生にはそういうプロセスを詳しく教える必要がある。というのはすべての閉路について広い意味のオームの法則を適用した式を立てるとそれらは全部の式が独立な式ではないことを示したい。

それから実はどの電流とどの電流が決まれば、後の電流はそれらか決まるということを示したい。この方法はもうどこへノートがいったか探さないと分からないが、私が大学の教養課程で聞いた、物理学の講義で取られた方法でもあった。

そのような冗長と思われることをやらないとやはりものごとは分かってこない。合理的な無駄を省いた教え方を考えることは重要だが、ときにはわざと冗長であることも必要である。

(2012.11.21付記) いつか電気電子工学科の元同僚の先生がキルヒホッフの法則を電気電子回路の授業で教えようとして疑問に感じたことがあったと話していた。

私自身は疑問に感じたことはなかったので、そのO先生がどういう風なことに疑問を感じたのか聞こうと思いながら、そのままになってしまった。

もちろん、その先生は私よりは若いし、生きておられるので、聞きに行けば、話してくれると思うのだが、その機会はまだない。なんでもよく考えると疑問に感じることが出てくるということはあり得る。

だからその先生が駄目な先生だとかはまったく思ったことがない。むしろその自分の疑問を率直に表明される方はご自分にある意味で自信をお持ちの方なのであろう。少なくとも私はその方の率直なものの言い方に好感をもっている。

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汚れた水で皿を洗う

2009-06-18 13:09:29 | 日記・エッセイ・コラム

「汚れた水で皿を洗う」ということわざが中国にあると聞いている。

汚れた水で皿を洗ってもきれにはならないことは細菌学的には正しいのだろうが、目で見えるような大きな汚れのついた皿はその汚れが落ちることは確かである。

どうしてだか分からないが、このことわざが私は好きである。これとか本当の意味を知らないが、「神は細部に宿る」という言い方も好きである。この後者は哲学者の久野収が好んだと言葉だとも聞いている。

細かなことの積み重ねで画期的な発明や発見が起こるわけではないが、そういう積み重ねは必要なのだと勝手に思っている。

大きな技術上のブレークスルーはそれに基づく原理が変わるのだとは星野芳郎の技術論の本から学んだ知見だが、そこへ行くにはやはり小さな改良の積み重ねがあるのだろう。

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創造的に仕事をすること

2009-06-17 11:37:19 | 日記・エッセイ・コラム

なんでも創造的に仕事をすることは難しい。アイディア豊富で楽々と仕事を進めているように見える人も人知れず苦労をしているに違いない。なんでも新しい視点を見つけてここは新しいことだよと主張するのが研究者のすることである。

これは教育でも同じことが言えるのだが、教育では誰でも知っているはずのことを教えるので新しい視点を学生や生徒に提供するのは難しい。だが、それでも何かの新しい発見がなければ、授業も面白くはないと思う。

しかし、行き過ぎる場合もある。新しい視点を授業で提供しているのにそれにひっかかってしまうことがあるのだろう。いまの話題は対数についてである。

月曜日にも対数について話をしたのだが、わからないという感想があった。どういう風に分からないかを書けと常々いっているのだが、そういう風な分析はまったくないので、どこをどう補足したらいいのか見当もつかないのである。

対数と指数とは同じものだといえばいいのだろうか。対数よりは指数が分かっているかどうかを聞いてみようか。

月曜日にさらに新しくエントロピーという概念を授業で定義をしたのだが、案の定、分からないという反応があった。

それは「場合の数」の対数で定義をしたのだが、その意味を話してはいない。このエントロピーの意味は統計力学的な定義はそれほどは分かりにくくはないが、それでも分かりやすいとはいえない。

特に熱力学で出てくるエントロピーは本当に分かり難い。私自身も熱力学的な意味でのエントロピーを理解しているとは言えない。

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看護技術と武谷三男

2009-06-16 11:41:47 | 健康・病気

武谷三男のことをインターネットで調べていたら、旧知の物理学者Bさんのブログだかホームページで看護技術のことが書いてあった。

ナイチンゲールが単なる看護師ではなく、統計学者でもあったとか、その彼女が長い間細菌が病気を起こすことを認めなかったとかで、そのギャップに悩んだが、どこかでナイチンゲールが自分の間違いを認めているということを知ってそのギャップが埋まったという話だった。

また、看護技術研究会にBさんが呼ばれて講演をしたときに川嶋みどりさんの論文が優れていることに感激をしたという話をしたら、当の川嶋みどりさんがその会場に来ておられたというような話である。

そしてその川嶋みどりさんたちが看護技術についての研究会を立ち上げたときに武谷三男にその研究会に出席をしてもらって技術論の観点からいろいろ議論をしてもらったとか。

Bさんは湯川・朝永の関心の範囲も広いが、武谷の関心の範囲の広さに感激したというようなことで文章を終えている。どのサイトだったかは覚えていないが、Googleで検索をしてみれば出てくるだろう。

もう一つは別のサイトでの話しだ。これは経済学に関しているが、都留重人や杉本栄一等が武谷を呼んで議論をしたのが、本になっているのだが、その中で「期待」を理論の中に取り入れて理論をつくることを武谷が主張したとはある経済学者のブログにある。都留と杉本はそのことに関心をもってはいたが、それは難しいだろうとの意見のようであった。

この本は「自然科学と社会科学との現代的交流」という題で出版されていて現在では武谷三男著作集の中にも再録をされている。現在の経済学の理論に入れるのは難しいのかそれともそういうことはすで織り込み済みなのか知りたいものである。

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