物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

憲法か生活か

2013-07-31 15:01:14 | 日記・エッセイ・コラム

参議院選挙の前の世論調査で新聞は生活優先で憲法は後回しのようであったことに岩波のPR誌『図書』8月号の「こぼればなし」で述べている。

そして、憲法は生活の前提になるのだから、二者択一ではないはずだが、と疑問を呈している。

そして、「そうとらえられていないとすれば、それはなぜなのか」という。

これの回答はなかなかわからないが、今の憲法が与えられたものとしてその空気の中で育ってきた多くの人にとってはそれが保障されなくなることを想像できていないのではないか。

だが、それが憲法改悪というような事態が生じた後でようやく分かっても遅いはずであるが、それが想像というか考慮に入っていない。

いつだったか、とてもある若い男の子に尋ねたことがあった。「もし君が徴兵されて軍隊に行き、戦争に行くことになってもいいの」と。

その子はそれは嫌だといい、その気はないという。だが、それだからと言って憲法9条をまもるとかいう意識はまったくもっていないようだった。

現在の徴兵がなく、戦争放棄の原則を当然のこととしているが、積極的にそれを擁護すべきものととらえてはいない。そういう想像はまったく考えたことがない。

そして、その問題を提起されてもまったく無反応である。そういう若い人が大多数であるという事実をどう考えたらいいのか。


中国語?

2013-07-30 13:02:56 | インポート

言語音声の聞き分けの脳が生後6~8月で決まるというのが昨夜のNHKのTEDでの結論であった。

そのときにそれとは直接関係がないが、気になったことをここに書く。それは中国語をどういうかということである。

昨夜の放送では英語で中国語のことをMandarinと言っていた。辞書を引いてみるとこれは中国語の標準語である、北京官話を意味する。

普通に中国語をChineseと英語ではいうが、それはいろいろな方言まで含めたものであろう。中国語でも広東語CantoneseはMandarinとは全く違うと聞いている。

それで気になっていることがある。昔2年間ほどラジオで中国語講座を聞いたことがあったが、そのときに中国語はこのままであったが、最近ときどき見るともなしに見ることのある、NHKのテレビでは中国語は漢語Hanyuといっているようである。

私が25,6歳の頃から言えば、ほぼ50年を経過しているので、言い方が変わっても不思議ではないが、言い方が変わってしまったのだろうか。そのいきさつを知りたいと思っている。


言語の習得

2013-07-30 12:43:46 | 外国語

言葉を学ぶのにその年限がある。それが昨夜のNHKのTEDカンファランスでPatricia Kuhlが話していたことである。

どういうことかというのは少し説明がいる。英語と日本語では音声のスペクトルがちがう。日本語ではlaとraの音の区別がないが、この l と r とは英語では明らかにちがう音であるという。

その区別をつけるかどうかは赤ちゃんの生後6~8ヶ月で決まるということを最近Kuhlさんを中心とした方々が発見した。

音声のスペクトル分布が日本語と英語で違っているという。それは生まれて6~8ヶ月で決まるとすれば、その後の母語ではない言語習得の努力はムダを意味するのだろうか。

そのときに生の人間がかかわらないとビデオとかテレビとか音声だけでは役に立たないということも研究で調べられている。

それについてはKuhlさんの研究では言及されなかったが、ちょっと私を含めた外国語学習者にとってはちょっと気落ちするような事実である。

もっともこの生後6~8月以後にアメリカと日本とを行き来して、いまでは英語と日本語とのバイリンガルになっているMITメディアラボ所長の伊藤穣一さんなどもおられるのだから、このKuhlさんの研究結果に気落ちする必要がないのかもしれない。

その辺りの事情の研究も将来は進めてほしいものである。


クラウド・ファンディング

2013-07-29 13:39:47 | デジタル・インターネット

クラウド・ファンディング(crowd funding)という語を知ったのはNHKのTEDカンファランスで、あるアメリカの歌手の方がCDやDVDを出さないで、生の演奏会で聴衆から少しだけ資金を出してもらうというか謝礼をもらうという経験からはじめたと話をしていた。

7月27日の朝日新聞にそのクラウド・ファンディングの種類とか説明が出ていた。

それによると

1) 寄付型

2) 購入型

3) 投資型

の3つに分けられるという。

私もこれとは違うのかもしれいないが、一つ経験したことがある。それはWiki-Pediaをあるときに検索したら、数千円の献金を要請されていた。それを無視してもよかったのかもしれないが、そのときはなるほどと思ったので、額は忘れたが数千円の献金をした。

これはクラウド・ファンディングではなくて、ネット献金であるかもしれないが、こういうことを経験をした。

私はe-Learningのコンテンツをつくっているが、まだこれをインターネットに展開できるようにはなっていない。こういうネット献金とかクラウド・ファンディングとかで資金が得られたら、それが可能になるかもしれないなどと考えている。

もっとも献金を強制するのは嫌だし、あくまで自発的にお願いするのが筋であろう。

もし100万円(のオーダー)であれば、一人1、000円の献金としても1,000人の人が献金がなくては達成ができない。

1、000人の広がりはどうも達成できそうにないから、ネット献金によってもクラウド・ファンディングによっても、私のe-Learningのインターネット展開は難しそうである。自分の資金をもってそれくらいの額ならなんとかなればいいのだが、それもままならない。


ふえのねカフェ

2013-07-29 12:23:34 | 音楽

市駅前の近くのビルの地下室にあるカフェsing outで阿部一成さんとそのお弟子さんたちの篠笛コンサートとゲストの田付里英先生のコンサートを昨日聞いた。

阿部さんのお弟子さんたちは結構たくさんいて、多くの曲を聞いた。習い始めの人とか結構長くやっている人とかいろいろであったが、それでも狭い会場は満席であり、たぶん聴衆は100人を越えたのではないだろうか。

阿部一成さんはヨーロッパで10年ほど活躍していたそうだが、現在では新居浜在住の由である。

「月の粉」という篠笛とギターの合奏がよかったと思う。さすがにヨーロッパで活躍されるだけのことはあると思われた。最後は「永遠」という題の曲だったが、これをそれぞれ英語やドイツ語やフランスではどういうだろうかと思った。英語ならeternityかなと思ったが、foreverだろうか。

foreverは辞書によると副詞であるので、題としてはふてきとうだろうか。フランス語ではeternelがあるが、果たして適当だろうか。

第2部はゲストの田付先生のシャンソンである。再会(原題:私は決して忘れない je n'oublie jamais (?))などは昔恋人だった男性と年を経て、出会ったという内容の歌らしいが、田付先生が歌うと本当にそういう実体験をしたのでないかと思われるのような情感たっぷりの歌い方であった。その歌われている瞬間はその歌の文句通りの気持ちをもたれなければ、ああは歌えないだろう。

声楽家というのは素晴らしいものである。


自己言及パラドックス

2013-07-29 11:29:55 | 国際・政治

7月28日の朝日新聞の政治断簡という記事の冒頭に佐藤武嗣さんが「自己言及のパラドックス」として書かれている。以下に引用しておこう。

数学や論理学で「自己言及のパラドックス」というのがある。 「私はウソつきだ」と語る人の発言は果たしてウソか本当かーー。

ウソつきならば「私はウソつき」と語るのもウソだから、ウソつきでないことになる。逆にその人が本当のことを言っているのなら「私はウソつきだ」というのも本当だからその人はウソつきで。いずれも矛盾をきたす。『張り紙禁止」と書かれた張り紙も自己矛盾。自分自身に言及するとたちまち論理矛盾を引き起こすというものだ。(引用終わり)

「私はウソつきだ」という言い方は簡単であるが、それを自分自身に当てはめると矛盾をきたすという論理はこれで十分説明されている。

これも以前にこのブログで書いたことがあるはずだが、もっと複雑な言い方では

「あるクレタ人は『クレタ人はみなウソつきだ』といった」

というのがある。これもそのクレタ人自身について考えると論理的な矛盾が生じるのは上の話と同じである。

この命題は数学の不完全性定理との関係で、よく使われる。

上の朝日新聞の記事の冒頭のことと論理的に同じ話を「板倉式発想法」という題ですでに書いた。


ブログの休み

2013-07-27 12:59:13 | 日記・エッセイ・コラム

2日ほどブログを休んだ。これは妻が風で咳が出て苦しんでおり、熱もあったから仕事場にこなかったからである。

完全に治ったわけではないが、すこしよくなったようなので、ようやく仕事場に出てくるkとができた。

妻は活動的な方だが、どうもときどき大木がどっと倒れるように寝込むことがある。それが起こったのである。数年に1回か2回である。このときは私の出番なのだが、私は赤子の手をひねるよりも簡単なくらいなにもできない。

それでも精一杯氷水でタオルを濡らせて頭を冷やしてやったが、私もほとほと疲れた。ということで夜はぐっすりと寝た。いまどきだから、エアコンなしでは寝入るのが難しい。

ところがエアコンをかけて少し気温を下げると喉をごほごほいわせてつらそうである。仕方なく別の部屋で寝ていたが、寝返りが打てないのでよく眠れないとこぼしている。

それで、仕方なく一寝入りした後でエアコンを切ったよと夜中に言いに行ったら、それからは一寝入りできたらしく数日振りに元気を取り戻してきた。やれやれよかった。


bezier曲線で楕円を描く

2013-07-24 11:31:10 | 数学

bezier曲線で楕円を描く。これがいま私のしたいことである。

だが、昨日その半分を描いたのだが、どうも気に入らない。どうも楕円のようではないのだ。

どうも単なる卵型の曲線に近い。ovalという曲線と楕円eclipseとがどう違うのかよく知っているわけではないが、多分昨日描きかけた曲線は卵形曲線に近いと思っている。

それは端の方が少し普通の楕円の曲線よりも尖っているからである。描きたい曲線はもともとは円であるがそれを斜め上から見ているので、楕円のように見えることを表そうとしている。

picture環境で曲線を描くのは十分に点数を多くとればどんな曲線の近似曲線でも書けるはずである。だが、描いてみてどうも感じがよくないようだとまたやり直しである。

ちなみに楕円は2つの定点からの曲線の距離の和が一定である点の軌跡である。ovalにも楕円と同じような定義があるのかどうかは調べていない。

2定点ピンを立てて、そのピンのところに一定の長さ(2定点の距離は長い)の細い糸を結びその糸をぴんと張ったところに鉛筆をおき、動かしていくと楕円が描ける。

ちょっと朝食のときに、いま楕円を描こうとしているが、うまく描けていないと言ったら、楕円はどうやって描くのであろうというので、妻と話した話題である。

(2019.11.27付記) latexではもうベジエ曲線で楕円を描くことはない。tikzを使えば、簡単に楕円を描くことができるからである。


詩人となった、いじめらっれ子

2013-07-23 10:55:44 | テレビ番組

またまたTEDの話で恐縮だが、昨夜のTEDではかつていじめられっ子だった詩人がいじめられっ子を励ましためにいろいろの試みをしているという話だった。

シェ-ン・コイサン(?)は小さいときに両親が離婚して、祖母に引き取られカナダの北の方の小さな町で育った。

かれは太っていたためにいじめに会い、いじけてしまうがそれでも今では詩人となり、冬季オリンピックの開会式で自作の詩を朗読するくらいに有名になり、多くの人に知られるようになった。

今でも(up to today)いじけていないとは言えないし、心が傷ついてはいるが、それでも雄々しくいじめに立ち向かっており、いじめられている子どもたちを激励している。

そのためのサイトを開いたり、多くの人の協力を得て、漫画やアニメをつくってもらっている。そしてそれを自作の詩と共にサイトに掲載している。

もちろん、いじめは現在でもなくなってはいないし、その言葉は以前よりも激しさを増しているともいう。

それでもそれらのいじめに対して果敢に立ち向かう人々が現れたということは知っておきたい。


2222回達成

2013-07-23 10:38:47 | 日記・エッセイ・コラム

この回でめでたく2222回を達成した。よくも、よくもこんなに書くことがあったなと感慨深い。

このブログを書くためには自分自身がいろいろなことに関心をもっていなければ2000回を越える、このブログを書くことなどできなかった。

そのためにはNHKのテレビや朝日新聞を中心とした新聞記事、岩波のPR誌『図書』とか私の長年聞いているラジオのフランス語とドイツ語の講座や私の関心のある、数学や物理学とかそのほかのありとあらゆるものを使ってきたし、それらについて語ってきた。

それでもまだ自分の全部を使っているわけではなく、触れるべきであったのに見過ごしてしまった事柄が多くあるであろう。それらはひょっとしたら、私の感受性のなさのために見過ごされているかもしれない。

しかし、一人の人間のやれることなど高が知れているわけだから、すべての読者(おられるとしての話だが)にお詫びをしなくてはならないだろう。

だが、記念すべき今回の2222は単に私のブログの単に1回にしかすぎない。ブログはこれからもまだまだ続けるつもりである。


ジョルジュ・ムスタキのヒロシマ

2013-07-23 10:24:36 | インポート

googleで検索したら、ムスタキのヒロシマという歌が出ていた。これは日本語の歌詞とはかなり違うということで検索したサイトでは原詩とその忠実な訳が載っていたので、無断で転載をする。意味は後の訳を見てください。

一つだけ余計なことを言うと、colombeは鳩のことだが、昔イタリア語を半年だけクラスに通ってイタリア人から学んでいたとき、彼はアメリカ大陸の発見者コロンブスのことをコロンボと言っていた。「Mr. 鳩さんがアメリカを発見した」というと親近感が増すであろう。

さらに言うとテレビ映画で有名な「刑事コロンボ」もコロンボの意味は鳩のはずである。なお、日本語では「刑事」という言葉がついているが、原題は単に「コロンボ」というらしいことをドイツはフライブルクのゲーテ・インスティチュートでのドイツ語のクラスで知った。

この「コロンボ」は世界各国で人気のテレビドラマのシリーズである。

なお、Peut-être viendra-t-elle demain. (プテートル ビヤンドラ テール ドマン:おそらく彼女は(平和)は明日やってくるだろう)とある、elleは人間の女性ではなく、la paix(平和)であることが詩の最後でわかるとは元のサイトの解説にある。

あとはご自分で訳詩を参照されてこの詩を味わってください。

Hiroshima
      Georges Moustaki                  

      Par la colombe et l'olivier, 
Par la détresse du prisonnier,
      Par l'enfant qui n'y est pour rien, 
Peut-être viendra-t-elle demain. 

Avec les mots de tous les jours,
      Avec les gestes de l'amour,
      Avec la peur, avec la faim, 
Peut-être viendra-t-elle demain.

      Par tous ceux qui sont déjà morts,
      Par tous ceux qui vivent encore,
      Par ceux qui voudraient vivre enfin,
      Peut-être viendra-t-elle demain.

      Avec les faibles, avec les forts,
      Avec tous ceux qui sont d'accord,
      Ne seraient-ils que quelques-uns, 
Peut-être viendra-t-elle demain.

      Par tous les rêves piétinés,
      Par l'espérance abandonnée,
      À Hiroshima, ou plus loin,
      Peut-être viendra-t-elle demain,

      La Paix!


ヒロシマ
      ジョルジュ・ムスタキ

鳩とオリーブによって
囚人の苦しみによって
罪のない子どもによって
      たぶん明日来るだろう

日常の言葉とともに
愛の仕草とともに
恐怖と飢えとともに
      たぶん明日来るだろう

      すでに死んだすべての者たちによって
      まだ生きているすべての者たちによって
      とにかく生きようとする者たちによって
      たぶん明日来るだろう

弱い者たちとともに、強い者たちとともに
合意するすべての者たちとともに
      それが一握りの人々でしかなかろうが
      たぶん明日来るだろう

踏みにじられた夢によって
打ち捨てられた希望によって
      ヒロシマに、あるいはもっと遠くに
      たぶん明日来るだろう

平和が!


ジョルジュ・ムスタキ

2013-07-22 15:06:27 | 音楽

フランスのシンガーソングライターのジョルジュ・ムスタキさんが亡くなったと新聞で読んだのはいつだったか。

6月のことだったかなと思ってインターネットを検索したら、2013.5.23のことだった。とすれば私の誕生日の直前だったことになる。彼は1934年5月3日生まれというから、私よりも5歳年上ということになる。

ムスタキを知ったのはNHKのテレビのフランス語講座で彼のMa solitudeが演奏されたときだった。多分そのときの講師だった丸山圭三郎さんが一度演奏会に行って、とても感銘を受けた歌手だと述べておられたと思う。

ムスタキはギリシア系のフランス人であり、なんだか深い感じのするシンガーであった。Youtubeで、この「私の孤独」を聞いてみたが、リフレインの

Non, je ne suis jamais seul (ノン ジュ ヌ スイ ジャメ スル)

Avec ma solitude (アベック マ ソリチュード)

をムスタキについて歌ってしまった。他の曲も聞いてみたが、私にはやはり聞き覚えのあるこのMa solitudeが一番胸にジンとくるようだ。

ムスタキのことを書こうと思いながら、忘れてしまっていた。ようやくムスタキのことを書けて肩の荷が下りた感じがする。Youtubeでときどきムスタキの歌を聞いて彼を偲ぶことにしよう。


Do you have a pen ?

2013-07-22 12:33:55 | 外国語

先週のドイツ語のクラスでR氏からDo you have a pen ?と問われたら、どう答えるかと聞かれた。

Yes, I have a pen.と答えたらバツだった。

私はどう答えたらいいかわからなかったのですが、みんさんどう答えたらいいかわかりますか。

語学的には

Yes, I do.

とか

No, I don't.

でしょうが、それを期待されているわけではありません。このときはpenを相手が貸してほしいのだろうから、

Yes, please.

とペンを差し出すか、自分のカバンとアタッシェケースかなにかの中にペンがあるかどうか探すのではないかとR氏は言っています。

見事に落第をしてしまったわけです。これはR氏がヨーロッパ語を話す人にこの問いをしてすでに実験済みだとのことでした。ちゃんとした反応をヨーロッパ人はするそうですが、日本人はトンチンカンな答えをすると言っています。

実はクラスのはじめにメンバーのある方がペンを忘れて誰かに借りたいというので、発した問いでした。

Do you have a pen ?

という問いを聞いたときに、私はいつだったかこのブログで述べた冗談のNishi is a penを思い出していました。これは「西伊豆でペンを拾った」というのを英語でどういうかというユーモアの答えでした。

この話の方は作家の片岡義男さんが誰かにかけられたなぞなぞでしたが、いつだったかの岩波書店のPR誌「図書」に出ていた話です。


e-Learningと高校数学

2013-07-20 11:24:15 | 受験・学校

私がつくった理系の大学生のおちこぼれを救うためのe-Learningと高校数学との違いについて考えてみたい。

私のつくったコンテンツには普通に高校の数学で学ぶ多くのことが載っていない。たとえば、分数関数、分数方程式・不等式、無理関数、無理方程式・不等式、三角方程式・不等式等がその主なものだろうか。

2次関数の最大最小とか2次不等式もあまり出て来ない。これは私の教育経験からそういったものにあまり出会わなかったからである。

だから、じゃあ上に挙げたこれらの項目を学ばなくてもいいかというとやはり一通りは学ぶべきであろう。分数方程式の解については、一度武谷・豊田の『原子炉』(岩波書店)でお目にかかったくらいで、本当に必要なことに私は出会ったことがない。

これは私の経験が狭いからであり、無理方程式や分数方程式およびそれらの不等式が絶対不必要だというつもりはない。

だが、高校時代と大学に入ってからの、理系で落ちこぼれそうになっている学生に対しては自ずから力点が異なってくるのが当然であろう。

姪の子が高校生でいま中国の深圳で高校生活を送っている。その彼が今夏休みで日本に帰郷しており、最近会ったら数学が難しくなったとこぼしていた。

それで私の以前につくったe-Learningのコンテンツを参考に送ってあげると約束をしたので、数日前にメールで送った。

その後、電話で尋ねたところではどうもまだそこまで学んでいないという。何が足らないのかは聞かなかったが、どうも上に挙げたような内容らしい。少なくとも三角方程式の解き方について知りたそうな口ぶりであった。

いずれにしても私のe-Learningのコンテンツは高校数学の内容にぴったり一致しているとは言えない。


惑星整列と?

2013-07-19 13:14:56 | デジタル・インターネット

先日テレビで映画を見ていたら、これが惑星整列という現象と絡ませた事件が起こるという映画であった。

それとは直接関係がないのだが、ブログの回数が2222という数字がならぶときに近づいてきた。まだ5~7回くらい書かないと惑星整列ならぬ、2222という数字整列にはならないが、こういうときは珍しいのでちょっと心待ちにしている。

そういう趣向を好む人は世間にいると見えて、たとえば1999年9月9日9時9分とかそういう数字が並ぶときを記念したものを手に入れようとするとかいうことがあるようだ。

なんでもないことだが、人間にはそういうことを好む性質があるらしい。

ちなみに今回は2217回である。