物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ケイレー(Cayley)の評

2013-09-30 14:32:27 | 数学

ケイレーは多作な数学者である。生涯に約800の論文を書いたという。

これはもちろんオイラーのには及ばないだろうが、それでも数学者として論文の多い方であると思う。

小倉金之助著作集8巻を引っ張り出してきて、昨日から読んでいるが、その中に藤沢利喜太郎が匿名で書いたというケイレーの追悼文が引用されていた(以下引用:字は現在の普通の書き方に直した)。

氏が一生涯に公にせる800の論文中、永久に価値を有するものは、わずかに20有余にすぎざるべし。著書としてはわずかに楕円関数論一部あるのみ。この如何に不都合なる書物なるか、知る人は知らん。・・・氏の楕円関数に関する研究のごときは真に研究と称すべき程のものなし。・・・余は多年に亘り氏の論文を熟読し、一つも得るところなく、余は実に貴重なる日月を浪費せり。氏のごとき既に数学者として名声ある人は、今少し濫りに論文を公にすることを慎みて貰いたきものなり。・・・

小倉金之助はその4年後に林鶴一先生の講演からケイレーが偉大な数学者であることを知ったという。

それにしても上の評はどういうことであったろうか。


風立ちぬ

2013-09-30 11:13:26 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日に2か月ぶりに雑談会を開いたら、Kさんが宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を見に行ったと話していた。

それを聞いた妻が昨日急に「風立ちぬ」をシネマサンシャインに見に行こうと言い出した。話題に遅れたくないという気持ちが彼女には強い。

それで、二人で15時からの上映に間に合うように出かけた。なかなか映画は面白い展開であった。

私は実際の堀越二郎はどうであるかは知らないが、二郎の恋人で妻になる人が結核に冒されているという設定は多分堀辰雄の「風立ぬ」をなぞっているらしい。

これはある種の反戦映画だと思うが、そこら辺りはあまりはっきりとはしない。堀越二郎が零式戦闘機の設計者であることは知られている。その後、ジェット戦闘機ができて、零戦はのりこえられたのだが、多分それはその後のことである。

「風立ぬ」とはフランスの詩の文句から来ている。Le vent se l\eve. Il faut tenter de vivre. (注)(ル ヴァン ス レ―ヴ. イル フォー タンテー ドゥ ヴィヴ―ル. 風が吹きはじめた。さあ、精一杯生きなければならない)。

文語風には「風立ぬ。いざ生めやも」と訳されているが、私にはよくわからないのでちょっと意味が離れているかもしれないが口語訳をしておいた。

(注)L\eveの\eはeアクサン・グラーブのつもりです。ミスプリではありません。


オリンピック招致演説

2013-09-28 13:05:37 | 日記・エッセイ・コラム

ブエノサイレス(Buenos Aires)でのオリンピックの招致の演説で演説としては安倍首相の演説が評判がよかったらしい。

演説を単独で見る限り、堂々としていて、かつ安倍さんはgood lookingであり、評判が良かった理由はわからないでもない。

冒頭部に

Some may concern about Fukushima. Let me assure you. The situation is under control.

と述べて後の質疑応答でもしっかりした受け答えだったという。

しかし、この演説は確かにオリンピックの招致を成功に導くには十分だったかもしれないが、国内、特に地元福島の住民からはそう言い切ったことに違和感を感じるという声が聞かれた。

漁業関係者とかには特にどこに「汚染水が制御されているのだ」との思いが強いだろう。海の放射線の汚染調査もされてはいるだろうが、その影響は何年か経ってみないと本当のことはわからない。

ただ、そういうことを心配だとか言っていては東京へのオリンピックの招致は覚束なかろう。そこでunder controlと言い切ってしまっているのだが、日本人としてはやはりそこまで言い切ったことに後ろめたさを感じる(注)。

もっともこういう場でではどういえば、誠実かつ納得が得られたのだろうかというとその解はなかったのかもしれない。

(注) 方便だからどうでもいいじゃあないかという意見もあるだろうが、やはりあがき苦しんでいながらも、真面目に取り組み姿勢を真摯に示すことや表現はなかったかという疑問は残る。


飽き足らなさ

2013-09-27 16:53:58 | 日記・エッセイ・コラム

若い人にはある種の社会民主的な思想が足らないというか、ないところが不満である。

そういうことを言ったら、若い人から反撃を食らいそうだが、どうもそこが思想の奥深さを感じられない理由なのだろうか。

いまの時代だから戦後すぐの若者がもっていたような国家に反権力的なところがない、または少ないのはしかたがない。それでもそういうある程度左翼的な思想がバックグランウンドとしてあるかないかはその人の思想の深みを与えているような気がする。

これは、今はいかにアメリカ全盛の時代であり、global化とは実はアメリカ化のことではあってもそうであろう。

一昔前なら、情報科学や情報工学とかそれに近い分野での学者で興味深いアイディアを出すアメリカの学者は生まれとか育ちがヨーロッパである人が多かった。そういう人たちにはなんというかいわゆるヨーロッパ的な感性というか教養が感じられた。

さすがに最近ではそういうことも少なくなったが、20年くらい前まではなんだかヨーロッパ文化の奥深さを感じさせられることが多かった。

哲学者の鶴見俊輔さんはマルクス主義の学者ではまったくないが、それでもその周辺を十分に理解された上で、ご自分の考えをもった方でやはりある種のバックグランドはお持ちだと思っている。

要するにまったく違った考えの人との交差というか交流があるかないかではなかろうかと考えている。


cobaye かguinea-pigか

2013-09-27 16:28:12 | インポート

cobaye (コバュ)もguinea-pigもどちらもモルモットを意味する。cobayeはフランス語でguinea-pigは英語である。

日本語ではモルモットというので、これを日本語辞典で引いてみたら、marmotとあり、これをもう一度英和辞典で引いてみて、もしモルモットとあれば、首尾一貫していることになるが、marmotはマーモットと訳がついている。

マーモットは日本語のモルモットの語源になったのであろうが、いわゆるモルモットとは違うらしい。

いま広辞苑を調べてみたら、マーモットはリス科の小動物らしい。地下の穴に住んでいるとか。

日本語のモルモットはもちろん実験動物のネズミも意味するが、同じように実験台にされる人間も意味すると辞書にある。これはしかし日本語だけではなく、英語でもフランス語でも同じようである。


Tous cobayes ?

2013-09-27 15:15:14 | 映画

Tous cobayes ?(トゥ コバュ ?:意味は「みんなモルモット?」)という映画を今朝見た。もちろん映画館でみたのである。

妻が朝食後、この映画のチラシを見て、cobayesにミスプリを見つけたと喜んでいた。チラシにcoboyesとあったと思ったのだろう。スマホのgoogleでcobayesであることを知った。

ちょっとそのチラシを見たときに、フランス語かスペイン語がわからなかったが、フランス語の辞書を引いてみたら、モルモットとあったので、フランス語だと分かった。

それで11時から始まる上映に向けて夫婦で出かけた。映画は遺伝子組み換えと原発の恐ろしさやその共通点を指摘するドキュメンタリー映画であった。

原発大国のフランスの映画としてこの映画がつくられているのは皮肉ではあったが、日本の福島の原発事故に翻弄される福島の人々の取材もあり、また遺伝子組み換え食品を2年にわたって食物として与えられたラットの腫瘍とかのできる数の増加を、あるフランスの大学の研究者が動物実験して見せているのが特に印象に残った。

ちなみに遺伝子組み換えトウモロコシ等の種子をつくっている、企業のモンサントは動物に3か月しか与えて検査をしていないそうである。そして、ラットの腫瘍が増えてくるのは実はこの3か月を過ぎた後だという。モンサントはこの3か月の検査で動物実験で無害を主張しているらしい。

モンサントというカナダかアメリカの企業が遺伝子組み換えトウモロコシの種子と雑草が生えないように農薬を合わせて売っており、それをフランスとかアフリカの国に売って莫大な利益を得ている。

そして、そのことで人間はまさにモルモットとしてガンとかの病気にさらされている。自分の国でそのような穀物を生産していなくても国が、企業がその農産品を輸入していれば、その搬入の港で働いている労働者はそれらの農産品に散布されたり、輸送の途中で散布された農薬の粉じんを吸い込んでガンになった人のインタビューもあった。

その人は子どもが成人したときにはこの事実を子どもに伝えてほしいと言っていた。そして映画のサブタイトルでこのインタビューの3か月後にインタビューされた方は亡くなったと出ていた。

今回の上映は今日で終わりであったが、結構多くの人が見に来ていた。私はこの映画を見たから、すぐに遺伝子組み換え食品がなくなったり、原発が廃止されたりすると考えるほどには楽観的ではない。が、それでもこういう映画がつくられ、それが少しでも多くの人に見てもらえることは遺伝子組み換え食品や原発の拡大への抑止力として最小限にしかすぎないが、機能するのではないかと思った。


昨夜の市民コンサート

2013-09-26 13:13:46 | インポート

昨夜の市民コンサート545会例会は彩愛玲さんとクリストファー・ハーディさんの合同コンサートであった。

レバー・ハープ(アイリシュ・ハープ)とパーカッションとのジョイント・コンサートであり、いろいろの古い打楽器の音色を聞きながら、音楽の起源とか楽器の変遷とかに思いを馳せる機会となった。

はたまた中東の音楽とかアジアの音楽とかに関心をもつ方が演奏者とか作曲家におられて、それらの音楽をその土地の人だけではなく大事にされているらしいことを知った。

これは音楽そのものを楽しむこととは違うかもしれないが、それらの音楽を聞きながら、そういう思考の広がりを感じたことはこれまで一度もなかった。

ハープを弾かれた愛玲さんの優雅な身のこなしに引き入れられるとともにハーディさんのドラムの一見単調だが、結構その音の多様性を楽しませてもらった。

物理学者のファインマンもドラムを叩くのを趣味としていた。彼は素人ドラマーとして玄人はだしであったという。しかし、彼の自伝にはプロのドラマーに教えを乞うという章があるが、やはりプロには及ばないという自戒の文章があったような気がする。

そういうことも思い起こしながら、クリストファーさんのパーカッション演奏は即興部分が入っているのだろうかなどと、考えたりした。


wie zu Hause

2013-09-25 12:37:03 | 日記・エッセイ・コラム

wie zu Hause(ヴィ ツ ハウゼ)とはドイツ語で「家にいるみたいに気楽」というような意味である。

先日のミニ外国語教育学会で英語を聞いてその話の大意はわかったつもりだが、どうもその学会のこと以外でのドイツ人との話でドイツ語を聞くとまるでwie zu Hauseなのである。

これは私がなんでもドイツ語で言えるという訳ではない。むしろ私は話そうとするときに言葉に詰まってしまってうまく話せないことが多い。

それにもかかわらずなのである。普通の会話ではそんなに難しいテーマを話すわけではないからということもあるのだろうが、それでもそう感じてしまう。

英語とドイツ語の聞く時間を比べると私には英語を聞く時間よりもドイツ語を聞いてきた時間の方がずっと長いということを示しているのであろう。

ドイツ語で論文を読んだりとか本を読んだりとかはほとんどしていない。K"allenというスウェ―デン人が書いた量子電気力学のテクストの購読をしてもらったくらいで、ドイツ語の本を読んだ経験はない(注)。

だから私のドイツ語の知識はほとんど耳から入ったドイツ語であり、いわゆる書物から得たものではない。そこらあたりが私の特色かもしれない。

(注) K"allenのドイツ語は外国人のドイツ語であり、ドイツ語に対しての外国人の私たちにはとてもわかりやすいものである。

これをドイツ語のnative speakerである、Pauliの書いた量子力学のテキストなどと比べれば、そこでは書き言葉としてのドイツ語の特色である、冠飾句などがたくさん使われており、やはりこういうのがnative speakerのドイツ語なのだと知らされる。


金属アレルギー

2013-09-24 12:00:48 | 健康・病気

金属アレルギーに苦しんでいる人は意外に多いかもしれない。

私も学生の頃からの金属アレルギ―である。だが、金属アレルギーという意識がなかった。時計を腕につけているとかゆくなるので、腕時計をしなくなった。

もっとも金属エネルギーの究極の形としての入れ歯の金属が体に悪さをすると聞くとどうしたらいいのだろうと途方にくれてしまう。

メガネのフレームも金属からできているが、こちらはまだなんとか金属アレルギーにはなっていない。もしこれの金属アレルギーなったら、どうしたらよいのかとまだその金属アレルギーになっていない前から心配になってくる。

汗と金属との組み合わせがよくないのだという。だから、すぐに汗をふきとったり、シャワーを浴びたりと金属アレルギーが発症しないための予防策がないわけではない。

それに腕時計を腕にする必要もない。時計をもたないと時間にせかされることが少なくなるように感じられる。時間が知りたければ、近くの人に聞くという生活をしている。

もっとも最近は時間を聞いたら、自分の携帯を見て時間を教えてくれる人が多くなった。


外国語教育のミニ会議

2013-09-23 12:43:29 | 外国語

毎年、友人のR氏がこの時期に外国語教育のミニ会議を愛媛大学で開いている。この会議はもう今年で8回目である。

その会議が昨日と一昨日(9月20日、21日)にあった。私は別に英語とかフランス語とかの外国語を教える立場ではない。単なるアウトサイダーである。日本語でいえば、野次馬である。

だが、R氏の熱意に感心しているので、昨年から出かけている。もっとも今年は他の会合と重ならなかったから出席できただけだ。

話される英語はそれほど難しくはなくておおよそのことは理解できたと思うが、やはり細かなことはわからないことが多い。スピーカーの方々は専門家であるので、ゆっくりと話してくれるし、明瞭な発音である。発表は英語で英語がやはり共通語である。

教えられている言語は英語だけではなく、ドイツ語もあった。今年はフランス語の教育経験を話したスピーカーはいなかった。

いま大学では英語の次には中国語とドイツ語が同じくらいの人気であるが、例年は中国語の方が人気があり、受講者が少し多い。だが、このところの中国との関係が以前ほどしっくりと行っていないので、それだけドイツ語が人気を盛り返しているとか。

中国語はあまり熱心に勉強したことがないのだが、それでもフランス語ほどではないにしても音楽的に感じられる言語である。

だから学生に中国語が人気があるのはうなずける。ドイツ語は最近はゲームを取り入れたりとか会話を中心にしたりと、多種多様な方法で教えられるようになっており、そのことはいいことだが、やはり日本人にとっては入るのに難しい言語である。

ドイツ語の専攻の学生があまり会話とか話す言語としてのドイツ語を積極的に履修したがらないという事実があるらしい。別にこれは大学のドイツ語の先生方の指導がそういう風にされているわけではないのだろうが、どうしてなのか興味深い点である。

数学科に学ぶ学生は数学がますます好きになっていく、少数の学生(数学者になるタイプ)と数学科に学んだために数学が嫌いになっていく大多数の学生とに分かれるのだと私が学生の頃にうわさで聞いた。

これは本当かどうかは私にはわからないが、そのうわさはまったくの虚偽とも思えなかった。

それでも日本人は優れた数学者も多数輩出をしており、私の友人や知人にも数学者の方はおられるので、別にすべての人が数学を好きにならなくてもいいのであろう。

それに数学科出身ではない、数学者もおられるので、そのことは数学の魅力にとりつかれる方が数としては結構おられることを示している。


学習会にでかけたが

2013-09-21 13:02:39 | 日記・エッセイ・コラム

今日は第3土曜日であったので、10時半過ぎに算数の学習会に出かけてみた。

事務局長のYさんがいま非常勤で勤めている小学校の運動会を見に行ったので、長老のS先生と二人きりであり、二人で話をした。このごろ関心をもっているということで、複素数の存在の理由が納得できるかということとか四元数の導入の話とかいろいろした。

S先生は小学校の先生だったが、退職後に自宅での子どもたちに教えることから高校数学にもさらに一般の数学へと関心の広がっている人である。

それにしても急になじみのないことを聞かされて困ったことだろうと思ったが、よく話を聞いてくれた。

二つの回転を合成するという話から始まって、いろいろな話ができた。

二つの回転が一つに合成できることについての本にある証明を読んでそれを認めざるを得ないが、なかなか納得ができないのですという愚痴をきいてもらった。これは私の最近の経験である。


今年は?

2013-09-20 12:48:10 | インポート

野球記録が今年は多く破られた。バレンティンのホームランもそうだし、田中将大投手の開幕21連勝もそうだ。

大魔神と呼ばれた佐々木主浩投手のセーブ記録も中日の岩淵投手に記録を塗り替えられた。

そういえば、日本で一番ヒットをたくさん打った張本選手の記録もイチローによって更新された。

これはもう昨年のことで今年のことではなかったように思うが、大記録もやはり塗り替えられる運命にあるらしい。

イチロー選手は日本人としては未踏の日米4000本安打を達成した。これは単純に比較はできないものの大リーグでもイチロー以外には二人しか達成していない、偉業だという。

人間の寿命もだんだん長くなっているし、これは食物とか医療、スポーツケアの進歩とかによるところが大きいのだろう。スポーツをする人の選手生命も長くなっている。私が小学生のころには野球選手でも35,6歳だとそう限界だと思われていたが、このころでは40歳を超えた選手も一人二人ではない。

これはいいことなのであろう。いまさら、高齢化社会が悪いといっても生きている人を殺すわけにもいかないであろう。それと戦争をしないで、平和に戦後の約70年間を過ごしてきたことは大きい。

2011年に東日本大震災で多くの方が地震や津波の犠牲になったために一時的に世界最高の長寿国の席は香港に譲ったが、それでもまたすこしづつその地位を取り戻しつつあるようである。


生きているしるし

2013-09-19 14:08:58 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、朝食後に妻に数学・物理通信の3巻6号を17日に発行したら、武藤徹先生から「なかなか精力的ですね」との返事をもらって、うれしかった話をした。そのときに数学・物理通信の発行はあなたの「生きているしるしだもんね」と言われた。

それでドイツ語には「生きているしるし」という言い方に対する「Lebenszeichen(レーベンス・ツアィヘン)といういい言葉があるよ」といったら、自分の経験を話してくれた。

彼女のお母さんがもう10年ほど前に突然亡くなったのだが、その後で実家にあった植木鉢の木や花が枯れだした。これはもちろん植木鉢に毎日水をやる人がいなくなったためである。それで妻はあわててそれらの植木鉢にあった、木や花を実家の庭に移植したという。

まだ、そのときに父は生きていたのだが、母とは違ってもう植木鉢に水をやったりはしていなかったから、そのままにされれば、当然植木鉢の花も木も枯れるだろう。ああ、植木鉢の花や木が生き生きとしているのは、逆に人間が「生きているしるし」なのだと思ったという。

Lebenszeichenという語を知ったのは朝永さんが1947年か48年に彼のくりこみの論文をHeisenbergに送ったら、あなたの「生きているしるし」Lebenszeichenを見たと返事をくれたどこかでと語っていたからである。

そのときに手紙の原文がIch habe dein Lebenszeichen in dem Aufsatz gesehenとなっていたのか、deinではなくてIhr Lebenszeichenとなっていたのかは興味あるところだが、多分私の推量ではdeinとなっていたのだろう(注)。

フランス語でもドイツ語でも親称のtuとかduとかは身近な家族、仲間とか恋人につかう語であり、どれだけ身近にその人を感じているかを示す。

敬称のvousとかSieは敬称という語が誤解を生むのではないかと思われるが、心理的に距離の遠さを示す語である。

朝永さんは2年ほどライプチッヒのHeisenbergのところで研究をしていたから、研究仲間として認知されていたろうと思う。だから当然duzenされる間柄であったとは思うが、その辺が私の想像でしかない。

(注) Zeichenは多分中性名詞だとは思ったが、確信がもてなかったので、辞書を調べたらやはり中性名詞であった。ちなみに英語なら「生きているしるし」とはどう表現するのだろうか。the proof of lifeとでもなるのであろうか。


プロメテウスの罠

2013-09-18 13:00:56 | 科学・技術

「プロメテウスの罠」とは本当は謂れがあるのだろうが、ここでは朝日新聞に載っている連載コラムを指している。いま「追いかける男」という題のシリーズが連載中である。

その第6回目は「原発って、怪物だ」という題であった。ここでは木村俊一、後藤正志、小倉志郎の原発に深くかかわったことのある元技術者がいわゆる「追いかける男」であるが、その中の小倉の述懐は

「大学で原子力工学をやっている先生には実感がつかめないんじゃあないかなあ。理屈で割り切れないことが現場にはいっぱい転がってるんです。極端なことをいえば、全貌を分かっているエンジニアは世界中に一人もいないと思います」

私の友人の物理学者のEさんが言うには、彼の知人に原発の建設とか運転にかかわった人がいるが、原発がトラブッタら、それをどこかに誰かに尋ねても的確な返事のできる人がいない。原発はそういう施設なのだという。

Eさんの主張はそうだろうと思っていたが、現に元東芝の原子炉関係の技術者であった、後藤、小倉の両氏と、東電の原子炉の運転者であった。木村俊一氏の3人の述べていることはEさんの話を裏づけるようで興味深い。

地震によって津波が来る前に原子炉が破壊していたのではないかと推測している人は多分彼らだけではない。西村肇先生などもその恐れを抱いている人ではないかと思う。

だが、まだ詳しくは西村さんの解析を読んだことがない。


田中将大投手の偉業

2013-09-17 14:26:29 | インポート

昨日、バレンティン選手の56,57号ホームランのことを書いたら、今日の朝日新聞の天声人語で田中将大投手の開幕21連勝の偉業にも触れていた。

これも50数年ぶりの快挙だという。20連勝の記録をもっていたのは西鉄時代の稲尾投手であった。ファンから「神様、仏様、稲尾様」とあがめられたくらいの大投手の作った記録を破ったというのだから、やはり田中投手はすごい人である。それも並大抵のすごさではない。

もっとも本人は「記録のためにやっているんじゃない」という。それはそうであろうが、すごいことには変わりがない。20勝以上で勝つことのできる投手が少なくなってから久しい。

将棋の羽生さんは「大切なのはそぎ落としていく作業です」と言っているそうだ。

「余分なことは忘れた方がいい。大事なことも忘れてもいい。思い出せればいい。その方が独創的な発想が出てくる、と」(「天声人語」からの引用)。

なかなかこの心境には残念ながら至らない。