物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ローレライの妖精の末路

2011-09-30 13:37:38 | インポート

ドイツ語のクラスに来られている方に I 医師が居られ、彼からクラスのメンバーが彼の書いたエッセイのコピーをもらった。「小児科医60年」という題のエッセイである。

その中で面白い話題が取り上げれていたのでご紹介をしよう。

それは表題に書いたライン河の急流の名所ローレライの妖精伝説についてである。この伝説はハイネのローレライの詩(その訳詩)と歌で日本でも知られている。

「美人の歌声に惹かれた舟が次々と岩に当たって沈み、その死んだ舟人の生気を吸って己の若さを保持したといわれる」「因みに、ローレライの妖精はどうなったか。気付いた舟人は耳に蝋をつめて歌をきかないようにし、妖精を見ずに航行した。つまり相手にしなかったのである。妖精は誰も誘惑にのらないので、狂ってライン川に身を投げた」

と I 医師は書かかれている。これが「ローレライの妖精の末路」である。

私はこれを読んで、それはあまりに夢がないように思われた。だとすればどういう末路がいいのかわからないが、結局のところ現代人はそのような伝説を信じなくなって、伝説が自然に消えていったというのは現実的にはありそうなことである。

それで思い出したのだが、ユーゴーの「レ・ミゼラブル(Les miserables)」で主人公ジャン・バルジャンを終生つけ狙っていたジャベル警視は最後に自分の過ちに気がついて、自分の体にロープをぐるぐる巻きにしてセーヌに身を投げて投身自殺をする。

この結末を知らなかったのだが、いつか羽仁五郎の著書で読んで知った。その後「レ・ミゼラブル」の映画でこの場面を見た。これは古い封建体制の終末を暗示しているようでもあるが、こういう結末しかないのであろうか。


社会の常識は?

2011-09-30 13:18:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、何ヶ月ぶりのドイツ語のクラスがあった。ここで、R氏からドイツでは会社や大学等での社員や学生一斉の健康診断がないと聞いた。

小学校やギムナジウムで入学式や卒業式がないかどうかは聞きそびれたが、少なくともドイツの大学では入学式とか卒業式はないと聞く。もちろん、大学の先生が学生の就職の世話をするということもないらしい。

もちろん、個別にはそういうことをする教師もいるのではあろうが、自分で何でも動くというのが基本であろう。いわゆる就職活動としてリクルートスーツに身を包んで、大企業の就職面接の列に並ぶということもないのであろう。

もっともR氏は日本の職場の健康診断の制度をいいと思っているように感じられた。映画等でみるとアメリカでは高校の卒業式があるようだから、ヨーロッパでも高校の卒業式はあるのかもしれない。

ドイツの大学ではVerzeichnisという、大学の先生の名やその授業内容の載っている、分厚い書籍を買い求め、それを頼りに自分で自分の目標にしたがって、講義や演習を受けて、大学を出て行く。そのときに学位をとるという節目はあるが、すべての学生が学位を取得する訳ではないので、国家試験の合格というような目標が達成すれば、大学から自分で巣立っていく。

だから、日本のように大学に入ったら、行き届いたガイダンスがあるわけでもなく、大学に入学は許されたが、しばらくは学生は途方にくれるのだとはいつもR氏に聞かされていることである。それでも1年、2年と経つ内に自ずから大学のありようがわかるという。

これは人間としての自立性が小さいときから要求されている社会と、いわばいい意味で保護されて育てられている社会との違いであろう。これはどちらがよくてどちらが悪いという話ではない。それぞれの特色があるのだと思う。


タキオン

2011-09-29 17:00:04 | 物理学

タキオンとは超光速の粒子のことであるが、いままでその存在は知られていない。しかし、岩波の理工学辞典にもタキオンという項目で載っている。

新しく報道されている超光速だとされるニュートリノがこのタキオンにあたるのかどうかはまだ分からないが、人間というものはこういうものも考えるという特性がある。

タキオンでは質量が負になるというから、負の質量の粒子というのが何を意味するのか知りたいがよくはわからない。

(2011.9.30付記)  ABCさんとNakanishiさんがコメント下さったようにタキオンは粒子の質量は負ではなく、純虚数とすべきであった。そのことはコメントに詳しいので、正確な知識としてはコメントを読んでください。

私の馬鹿さの証拠としてしばらくこの記事をおいておく。そのうちに消去するかもわからないが。素粒子のような粒子は量子化しないと意味をほとんどもたないので、Nakanishiさんのいうように量子化すると超光速でなくなるとすれば、特殊相対論との矛盾はなくなる。

話はまったく違うが、レーザーやメーザーの原理でよく負温度状態などという語が使われるが、絶対零度より低い温度の状態を知らないので、これはあくまでも比喩的な表現である。

負温度状態とは熱力学平衡状態にあれば、温度が大きくなるとその温度にいる粒子(分子とか原子等の)の数が順に少なくなるのが普通だが、その粒子数の状態を何らかの手段で反転させることができれば、そのときその箇所をみれば、温度が負温度になっているように見えるので、負温度状態というのであったと思う。

別に絶対零度より小さな負温度が存在する訳ではない。



四元数の発見の改稿

2011-09-29 12:31:53 | 数学

前に書いた「四元数の発見」を改稿している。

本質的な改稿ではないが、前書きを書き改め、本文もすこし書き換えている。これはつぎの『数学・物理通信』10号または11号の原稿である。

また、これだけではなく「続四元数の発見へ」を書いた方がいいのかなと思っている。これは堀源一郎著『ハミルトンと四元数』(海鳴社)の「四元数の発見」の章の解読が必要かと考え始めたからである。

なかなか、この書の「四元数の発見」の章は読み難い。それで解読が必要かと思っているのだが、うまく解読ができるかどうか。

堀さんの本の解読ではなくて、本家のハミルトンの「四元数の発見」のいきさつはある意味では解読をできたと思っているが、それだけではすまないところがハミルトンの思考には残っているようである。

一言で言ってしまうと、絶対値の条件がハミルトンの四元数発見の指導原理であった。

そのことを日本人の著作でも訳書でもまだ読んだことはない。それをすでに愛数協の『研究と実践』に2009年に発表しておいたが、これを見た人はほとんどいなかったはずである。

また、それを読む機会をもてた人がいたとしても内容については大抵の人の理解を超えていたことだろう。

もっともその内容が普通の人にとって難しいという意味ではない。それは一般の人にとって、四元数など必要性を感じないということを意味するだけである。

だから、今度はその改稿されたエッセイを『数学・物理通信』に載せようとしている。

だが、いずれにしてもこの『数学・物理通信』もマイナーな媒体であることは間違いがない。ただ、インタネットでアクセスがいまは可能である。

(2014.8.29付記) 『四元数の発見』というタイトルで私の一連の連載が書物として9月中に海鳴社から発行される。

定価は2,000円であるのでそんなに高くはない。ページ数は210ページをちょっと越えたくらいである。

空間回転と四元数についての発見法的な記述とか、Hamiltonの四元数の発見の経緯を述べた。

また、球面線形補間 (sherical linear interpolation) について詳しく述べてあるのも本書の特色の一つである。

取り扱った内容にもかかわらず初等的な内容であり、ほとんど高校数学で理解できるはずである。

もっとも行列のかけ算の演算とかベクトルのスカラー積とベクトル積との定義は知っている必要がある。

自画自賛で悪いが、こういう書籍は世界的にも類がないのではないかと密かに思っている。

機会があれば、英訳して世界の人々を対象にしてこの書を提供したい。

(2020.12.24付記)  2014.10.1発行の『四元数の発見』(海鳴社)はいくつかの書にすでに引用されている。
 今野紀雄『四元数』(森北出版)
 松岡 学『数の世界』ブルーバックス(講談社)
 結城 浩 『数学ガールの秘密ノート・複素数の広がり』(SB Creative)
等である。またインターネットでは「四元数を発見法的に学ぶ」という記事は私の『四元数の発見』の説明の啓蒙版といってよい。

それぞれの本はそれぞれの存在価値を持っているので、私の本だけがいいなどとということはいうつもりはない。

私の本の書きぶりとは違うが内容的には『数の世界』がもっともよく似ている。もっともこの本にはエピソードの類も入っているので読みやすいかもしれない。

そういうエピソードも私が森毅さんの本とかから知っていたが、四元数に説明を集中するためにわざと省いたことである。それを全く後悔はしていない。

アマゾンコムの評では『数の世界』の四元数の箇所は秀逸との評がある。私の本のアマゾンコムの評ではそういう評を得ていないが、その『数の世界』の評の幾分かは私の本に由来するのではないかと密かに思っている。

また英訳だが、これはその後に『数学・物理通信』に掲載している、「四元数 補遺」の記事もすでに数回書いているので、それらの記事を含むことはその他の関連記事もいくつか書いているので、それらを含めて考えたいので英訳にはごく一部を除いてとりかかれていない。そういうことで私の生前にそれが叶うかどうかはあやしい。

ただ、いままであまりなかった四元数の本を書いたという自覚はしているので、できれば生前に英訳を達成したいと思っている。ただその望みが叶うのかどうかは神のみぞ知るであろう。

9月の終わり

2011-09-28 12:01:36 | 日記・エッセイ・コラム

まだまだ暑い日があるが、それでも9月の終わりが近づいている。今日はすでに9月28日である。昨年は夏が暑くて、大分秋の気配についての文章を書いたと思うが、今年はそれほどではなくてここ松山ではずいぶん曇りと台風の影響を受けたと感じている。

これは日本全国そうなのであろうが、それでもことさらに夏の天候が曇りがちだったと感じている。しかし、これは東日本に在住の方の感じとは異なるであろうか。

今朝も仕事場に出てくるときには快晴で暑く感じたが、いま窓外を見るとかなり雲が出ている。10月の下旬には私事ごとだが、高校の同期生の同窓会を予定している。昨日どれくらい会費の振込みがあったかを調べるために預金通帳の記帳にいったが、まだ半分くらいの方しか会費の納入がなかった。

実は私もまだ納入をしていないので、あまり他の方のことはいえないのだが、気をもませることである。実は私は妻にこの費用を出してくれと頼んだのだが色よい返事をもらえなかった。

それで自分で何とかしなければならないのだが、市内のある銀行まであまり残っていない、預金から費用分を引き出しに行かなければならない。それで、そこまで行くのが面倒で一日二日延ばしになっている。

そういうことはあるが、大分涼しくなってきて最低気温が20度をきるようになってきた。この数ヶ月が暑くも寒くもない、いい季節が続くであろう。この季節を満喫したい。


電気・電子工学科ミニマムの改訂

2011-09-27 12:02:44 | 数学

「電気・電子工学科ミニマム」は、私が1999年から2001年にかけて、編集した数学を中心とした「反」公式集である。「反」という文字をつけたところに意義がある。

公式集は世にたくさんありそれぞれに役に立つが、それでも「反」公式集があれば、もっといいのではないか(注)。そういう気持ちから電気電子工学科で学ぶ学生のために編纂したものである。

学習事項の「ミニマム」というアイディアは私の同僚であったHさんのものであるが、その考えに啓発されたのであった。はじめは32ページの小冊子であったが、2年目には59ページになり、3年目には83ページになった。

それで、第3版の印刷前に閲読をお願いした数学の先生たちから、これでは「ミニマム」ではなく 「マキシマム」だとの皮肉な批評まで頂いた。

取り扱っているテーマは初版の8つから第3版の13まで増えた。それに付録も増えた。

それの改訂版に数日前から取り組み始めている。第3版はインターネットwww18.ocn.ne.jp/~yano.t/minimum.pdfでいまでも見れるはずである。というのは自分でもこのサイトを最近は見たことがないからである。

とここまで書いて自分で検索してみたら、確かに見ることができた。

高校で数学を教えている人の役にも立つかもしれない。

ただ、これを書いた2001年からもう10年も経つので私の中でももっといろいろな知識というか経験が増えたので、そろそろ改訂をした方がいいのではないかと思い始めたのである。それで数日前からぼちぼちと始めているのだが、相変わらず遅々として仕事は進まない。

題名も「数学ミニマム」と変えようかと思っている。

(注) 「反」公式集の意味は公式集がなくても公式を自分で公式を導く手助けになるような書という意味である。

完全な意味での「反」公式集はそもそも存在しないのだろうが、それでもその「反」公式集に近づきたいという願望が私にはある。

(2013.12.4 付記) 現在までこの「ミニマム」の改訂はできていない。将来的にわたっても時間的に改訂ができそうな状況にはない。ただ、これを大幅に書き換えて、もっと使いやすく、わかりやすい書をつくることを断念しているわけではない。


「数学本を読む」を読んで

2011-09-26 13:06:17 | 数学

昨日の日曜2011.9.25の朝日新聞の読書欄に「数学本を読む」があった。一般向けの数学書がブームだというので、数冊の数学書の紹介があった。

その中に吉田 武氏の「虚数の情緒」の紹介があったが、この本は同じ著者の「オイラーの贈物」ほど興味はもてなかったのを覚えている。まずページが多すぎる。著者が本当は読んで欲しいと思っている普通の中学生にはあまり読まれないだろう。

いやこれは辞書代わりに使えるのかなと思ったりしているが、どこに何が書いてあるのか見ることもわからないくらいたくさんのことが書いてある。この書はそれを書かれた意図はとてもいいと思うが、失敗作ではなかろうか。

もっとも、この書は中学生に読んでもらう必要はないので、一般の人が読んでももちろんいい。後ろの方では「自発的対称性の破れ」まで触れてあるのだが、これを読んで「自発的対称性の破れ」を理解できる人がどれくらいいるのだろうか。正しいことを書いてあるとは思うのだが、やはり難しいと感じる。

これは吉田 武さんに対する批判というよりは私自身の自己批判だが、私も数学についてエッセイを書くこともあるが、どうも自分自身の関心におぼれてしまう。だから、自分自身はある程度満足しているが、他人には読んでもらえないということになる。

だが、それでも書かずにはおれないのはやはり自分自身の知的好奇心を満たしたいという気が強いからであろう。誰からも認められなくてもいいから、最低自分の自己満足ぐらいは満たしたい。

結城浩さんの「数学ガール」は1冊しか読んだことがないが、なかなか興味深々であった。彼の書は高校生で数学に関心のある方にも役立つであろう。

ちなみに吉田さんの「オイラーの贈物」は名著である。こういう本を1冊でも書いた人はそれだけでももう後世に記憶されていい。


ニュートリノは超光速か

2011-09-26 12:26:33 | 物理学

最近の物理の情報での衝撃はニュートリノが超光速かもしれないという報道であった。これは物理的な解釈もなにもつけないというという形で報道された。

世界的にニュートリノが真空中の光の速さよりも速く動いているか、どうかについて全世界的に検証を求めた実験であり、その公表であったらしい。

SN1987だったかのときに光学的に超新星爆発が観測されたのとほぼ同時にこの超新星爆発によるニュトリーノが観測されたということから、この最近の結果に懐疑的な方もおられるという。

私個人も超光速のニュートリノの存在には今のところ懐疑的であるが、もし実験的にニュートリノが超光速という事実が実験的に確立したら、それを受け入れなければならないというのが物理の世界である。

現実の世界は自分の信条とか世界観とは独立である。


ブログ再開

2011-09-26 12:01:48 | 日記・エッセイ・コラム

先週の火曜日からブログを休止していた。そのときの気持ちでは2週間くらいの休止を考えていた。

私のブログの普通の読者数は50人から100人くらいのオーダーであったのが、200~300に跳ね上がってしまい、どうも落ち着かなかった。それで、冷却期間をおくということで始めの予定では2週間くらいの休止を考えていた。しかし、だんだん読者数が減ってきて100人前後に落ち着いてきた。

私は文章を書くのが好きであり、また読者の数が少ないのは自分の気性にもあっている。それで、早く復帰したいという気が強くなった。それで、たった1週間しか経っていないのだが、再開をする。


ブログの休止

2011-09-19 11:29:51 | 日記・エッセイ・コラム

ブログ読者の皆様

ここ数週間のある方との論争から、コメントを私の許可なくしては公開しないことにしました。

すくなくともすべてのコメントを禁止する方向で検討をしたのですが、どうもテクニカルにどうしていいかいまのところわからないので、上述の措置をとることにしました。

さらにこれに伴い、しばらくの間、私のブログを休止します。このブログを閉鎖するかどうかはしばらく様子を見て考えます。もしその措置をとる場合にはもう一度ここで閉鎖の宣言をします。

どうするかはいまのところ決めていません。いつかこのブログでまたお目にかかることができるかどうかもわかりません。

今までのご愛顧有難うございます。


電子書籍の出版

2011-09-17 15:41:30 | 本と雑誌

昨年はマスコミで電子書籍が鳴り物入りでとり上げられた。それを知っていたものだから、ある出版社が電子書籍を出していると知ってメールを出して私の旧著を電子書籍として出版できそうかと尋ねてみた。

ところが意外にすでに出版している電子書籍も数冊売れただけで、ほとんど開店休業状態だという。この会社が電子書籍にしたものは出版社としてはある程度売れると思っていたものであろうし、1冊の値段もそんなに高いものではなかった。だが、売れないのだという。もちろん、村上春樹といった有名作家の小説ではない。だから仕方がないのであろうが、昨年新聞等で電子書籍が盛んにもてはやされたが、一般書にはそのブームはまだ及んでいないと考えられる。

もちろん、先進的な考えの持ち主は端末を買い、電子書籍を購入して本を置く場所の節約を図っているのだろうが、第一私などは書籍を読む端末を購入する費用さえ支出できない。だとするといずれ何十年もすれば、電子書籍は普及をしてくるとは思うが、今の日本の現状ではまだなんでも電子書籍で読むというほどにはなっていないと考えられる。

そのことを知ったので、資料を送ってもいまはまだ時期尚早との判断をしてこの出版社の方の手を煩わすまでもないと考えたので、しばらく考えて見ますとのメールを出した。

私の旧著は式がととても多い。だから、そういう式の多さを苦にしないで購入して読んで見ようかと思う人は1000人に一人も居たらいいほうであろう。これはこの日本の全人口の1000人に一人ならすごいベストセラーになるが、そうではなくて、理工系の大学教育を受けた方々で、かつそのような分野の仕事をしている人のうちの1000人に一人ならば、これは物の数にはならない。

出版社ならずともそんな本は売れないだろうということが察しがつく。例えば、ある分野の人30,000人の人の中で1000人に一人ならば、これは30人くらにしかならない。これではまるで商売にはならない。

なかなかマスコミでの話と現実とはまだまだ違うようである。


今年の気候と予測

2011-09-16 14:49:16 | 日記・エッセイ・コラム

今年の気候はどうも夏も昨年と比べるとどうも曇りがちだった印象がある。それはどうしてなのかはわからないが、台風のせいでもあろう。台風が来てそれも高気圧の配置のせいで台風の進行速度が時速15キロとかでとても遅かった。また、今日も台風のせいか雨模様である。

台風12号で紀伊半島を中心にしていまだかつて経験したことがないような豪雨が降り、あるところでは数日で降雨量は1000ミリを越した。それで山が深層なだれを起こしたり、それによって川がせき止められ、堰止湖ができたりした。

そして、その後の雨で堰止湖が決壊しそうだとも聞く。日本国中どこに住んでも地震や津波、豪雨の被害で安全なところが少ない。それでかどうかは知らないが、建築家とか都市計画に関わる人はコンパクト・シティの構想をもつ。

これについてよく知っているわけではないが、ある都市の中心部に近いところに住んでそこで何でも用が足りるようにするということらしい。もちろん、人が亡くなったときの斎場はそのコンパクト・シティにはつくれないだろうが、それは別に少し郊外につくったのでよい。

幼稚園も学校も病院も老人介護施設もデパートも美術館も図書館もすべてある限られた区域の中で歩いて行けるくらいにするという。

人口がどんどん増えて行くというときにはどんどん郊外に住宅地を開発してそこに人が住み、都心に仕事に通うという風であったが、そういうこともいつまでは続かないということが分かってきた。だから、コンパクトな地域に都市を計画するという。コンパクト・シティはいわゆる効率的な都市である。

これはまだ行ったことがないのだが、千葉県の柏市になんとかいう都市ブロックができて、東大の一部もここに移転したらしい。電力などもそのブロックの中で有効に使うようなインテリジェント・シティらしい。いつだったかその様子がテレビに映された。

土地バブルのころは土地の価格はいくらでも上がるという土地神話を信じて、銀行は不動産業者にどんどん資金を提供したらしい。ところが人口の頭打ちが起こるということはある程度知られていたのに、どこの銀行もそのことに気がつかなかったのはおかしい。

もちろん、しばらくして「そんなことはおかしかったのだよね」という反省の話は聞いたが、それはバブルがはじけた後である。バブルだと自覚していた銀行マンはどれくらいいたのだろうか。普通にものをつくっていたメーカーまで土地バブルのころは土地の投機に走った会社もあったとか。

これは現在の原発事故にもあてはまる。原発事故はどこでも起こる可能性があると言っていた人たちは日本中では少なくとも10人はくだらないくらいはいるのだが、多くの人はその人たちの言うことはまるで聞こうとしなかった。

チェルノブイリの原発事故のころ、新聞で見たのはソ連の原発と日本の原発とは構造が違うし、技術が進んでいるので、日本では事故は起こらないと電力会社は異口同音に言ったものだ。


気体の体積

2011-09-15 12:49:01 | 物理学

別に物理学というほどの話題ではない。

夏の暑いときから、いままで、麦茶を沸かしてはそれを冷ましてペットボトルに入れて冷蔵庫に入れている。そのペットボトルの中味が多いときはそうでもないが、だんだん減ってくるとペットボトルが凹んでくる。

これはもちろんペットボトルの強度にもよるのだが、今使っているペットボトルはあまり強度のあるものではないのでぺこぺこに凹んでしまう。

これは空気が冷蔵庫の外と中で温度が違うので、中に入れておくとペットボトルの空気の温度が下がって空気の体積が小さくなってくるので、ペットボトルが外圧を受けてくるのであろうか。

いずれにしても、ペットボトルが凹むことだけは事実なのでそれを元に考えないといけないのだろう。

少なくとも体験的に温度によって、気体の体積が違ってくるということを知った。このことを知識として知っていてもやはり体験的に感覚として知るということは大切だと思う。


無料塾の立ち上げ

2011-09-14 13:00:21 | 社会・経済

世の中に塾はたくさんあってそこに自分の子どもを通わせる方も多い。もちろん、塾に通わせる経済的な余裕があることが必要である。

そういう必要性は感じているのだが、その余裕がない保護者の子どもたちの学習の援助をすることが必要なのではないか。

特に現在、教育としては高校までの教育が義務教育的になっている現状と「保護者の現在の経済格差を私たちに直ぐにどうこうすることができないにしても、それを子どもの世代にできるだけ拡大しないようにするための助力をしたい」という観点から松山でもタダゼミとか無料塾といわれるものを作る必要があるのではないかと考えた有志で、「タダ塾北持田」を立ち上げた。

活動はこれからだが、事務局長を勤めることになったTさんと松山市内の3中学校の校長先生を昨日訪ねた。はじめの予想よりも手ごたえがあったというのが、正直な感想である。

中学校の先生は生徒の日常生活と直面している。それで問題が大きい中学校ほどその危機意識が強く私たちの提案を肯定的に受けとめてくれたと思う。

ある中学校の校長先生は外交辞令とは思うが、「自分が定年退職したら、そういう塾の講師陣の一員に入りたい」とまで言ってくれた。

現在の各家庭の経済格差を是正するのは、第一に政治によるだろう。だが、政治でできることは限られている。そうするとその他の手段も必要となろうと、心ある人たちが考えるようになったのは当然であろう。

教師をしている人は子どもが幸せであれば、幸せに感じるが、そうでなければ幸せとは感じられない。ところが現職の教師はとても忙しく十分に子どものケアをできないことが多い。

それはある意味では狭い意味での教師の職分を逸脱しないとできない。それでも自分の時間を割いてそういう面倒を見ておられる先生もおられるらしいことは先生方の言動に感じられた。

さて、「タダ塾北持田」がその要望に応えられるのか。北持田町教育会館の会議室で10月8日(土)13時から無料塾は始まる。それと同時にこういった志に感じた講師を広く募る必要性も感じられる今日である。

この無料塾の参加には紹介者が必要ではないから、直接この日にこの時刻に来られたのでよい。もちろん、自分の通っている中学校の先生の紹介とか、住んで居られる地区の民生委員さんの紹介があれば、もっといいが、紹介が不可欠ということではない。

連絡先は090-8977-3576である。ただし、迷惑電話や冷やかしの電話はご遠慮をお願いしたい。タダ塾北持田の事務局長のTさんにつながる。問い合わせの場合にはこのブログphysicomathを見たことを述べて欲しい。参考のために私は先日の相談会でこの塾の代表に推されている。


徳島科学史雑誌への投稿

2011-09-13 12:51:53 | 学問

まだ、出来上がっているわけではないが、科学史雑誌への原稿をつくりはじめている。8月の講演の前に準備をしていたのであるが、こういうのは時間がかかるから、時間をとってゆっくりとやるのがいい。

今年は書くつもりの内容を絞ったためにちょっと批判の対象とする論文の半分も取り扱うことができなかった。論文自身は何回か読んだのだが、結局その参考文献を読む時間とその参考文献を入手できなかったのが、後半部を扱えなかった原因である。

今年の夏は実りの多い夏であったが、しかしそれだけ疲れたのは事実である。3つの仕事を平行してやっているということはいつかブログで書いたが、そのうちの1つはもう終わっており、もう一つは終わる寸前である。

さらにもう一つは9月末までには終わるであろう。これが徳島科学史雑誌への投稿原稿である。

さらに、現在はつぎのことにとりかかろうとしているが、これはまだほんの取り掛かりであり、いつ終わるのかは見当がつかない。このために英語の書を読み始めたが、知らない単語がつぎから次へと出てくる。もっともある一人の人が使う語彙は限られているので、そういう意味では出て来る語は私の知らない新しいものだが、それらの意味を会得してしまうと後はそう面倒な訳ではない。