物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

体系数学

2010-03-30 16:38:11 | 数学

「体系数学」という名の本が少なくとも2種類出ている。体系数学という名を知ったのは「大学の物理教育」という物理学会の雑誌の最近号の編集後記に編集者が書いていたからである。

数研出版の書籍で、検定外教科書として、中高一貫教育の私立学校とかの教科書として使われているということらしい。

インターネットの中では数研出版が自分の出版社の参考書や問題集を売り込むための囲い込みの手法だと悪口をいっている人もいるが、その囲い込みなどは世間では広く行われていることで、特に数研出版だけのことではあるまい。

その内容がよければよいのである。もっとも私などにしてみたら、中高一貫教育であれば、それは大学のレベルとはどういう関係にあるのかとかそういうことが気にかかる。

むしろ学校時代などは人生のうちではほんの一部だから、それをはずれた範囲でものごとを考えてほしい。やはり、少なくとも大学の基礎教育レベルまでを視野に入れた体系数学であってほしい。

もう一つの体系数学はブルバックス(講談社)の書として最近発行された。この内容もまだ本を購入してみていないので、わからないが、体系という名に本当にふさわしいのか見てみたいと思っている。

体系数学とは名をうっていないが、志賀浩二先生の本が中高一貫教育を目指してすでに岩波書店から出されており、これは私も購入してもっている。いくつかの類似のそういう書物が出てくるのはいいことかもしれない。


私のフランス語修業2

2010-03-29 17:22:10 | 外国語

私のフランス語修行1で述べたフランス語の講習会の中で二人のフランス人が印象に残っている。一人はいつだったかこのブログでも取り上げたオシュコーヌさんで、もう一人は多分ファーブルさんといった。

オシュコーヌさんは有名な方で三高のフランス語の先生を長くされていたので、「三高生にとても愛されたフランス語の先生であった」とフランス語を教わった長崎先生から聞いた。また、彼は日本と日本語と日本文化を愛された方である。京都タワーの建設のときにその反対運動をされたと週刊誌で読んだ。

ファーブルさんは物理学者であって、狭い意味の原子核の研究者であったと思う。当時はフランス大使館付きの科学アタッシェとして日本に来ておられた思う。

そのときにファーブルさんと議論したのは場という語についてであったが、どうもこれは私の言葉の知識がつたなかったために多分ファーブルさんの言う方が正しかったと思う。

空間 l'espace が実在するか、人間の考えたものかという議論であったが、私はこのl'espaceを物理でいう場だとその当時、思い込んでいたので、l'espaceは実在しているというのに対して、ファーブルさんはこれは人間の考えたものであるとの主張であった。

場なら、champという語の方がよかったと思うので、それならファーブルさんも実在を同意したのではないかと今では思っている。

L'espaceは数学的な意味で使われる語であるから、実在していると考えられるl'espaceもあるだろうが、一般には人間の考えだしたものとするのが妥当であろう。

そういえば、松山にはespace21(エスパス・ヴァンテアンvingt et unと呼ぶのだろうか)とかいう小さなコンサートなどをすることのできる会館がある。

友人がここでコンサートをして自作の曲を歌ったりしたことがあるので数度は行ったことがある。ただ、交通の便はあまりよくなく、車で行くと駐車場が狭くて困る。だからespace21へ行くときはそれを覚悟でいかなければならない。


私のフランス語修業1

2010-03-27 13:15:31 | 外国語

フランス語を勉強し始めたのは大学の3年生のときであった。私が3年になったとき、私の学んでいた大学の物理の先生が3人定年退職した。ところが後任の先生が直ぐには決まらないということが起こった。そのせいだと思うが、本来講義が一杯詰まるはずだのに土曜日と月曜日はとる授業がないという、いまから考えてもすばらしいことが起こった。

これには私が教職の単位をとることを断念したこともあった。もし、教職の単位をとるのであれば、こういうことはできなかったであろう。

それで、空いた時間を少しでも埋めるためにフランス語の入門の講義を受けることにした。仏文学科へ入った一年生とN教授のフランス語の入門の講義を受けた。N教授は夏休み前に一通りフランス語文法を終えておきたいという意図をもっておられたので、前期だけの講義を聞いただけであったが、一通りの説明を聞いたように思う。

もっともそれは講義を聞いただけで、まったく役に立たなかった。しかし、そのころ、文学部の仏文科は修士課程を創設しようとしていた頃であったので、その業績をつくるためにフランス領事館の協力を得て、土曜日の午後フランス人が大阪や京都、神戸からやってきて会話の講習を始めた。

初級文法もろくろく知らないのにその講習会に参加したのはN教授が大いにみんなに勧めたからであった。恐いもの知らずでその講習会に出たり、またその講習会の後の喫茶店での懇談とかに参加し始めた。

もっとも文法も文法だが、語彙をほとんど知らなかった。仏文4年生の人に「何とかはどういうのですか」と聞いてはカタコトでフランス語を話し始めた。しかし、広島の印象はとか講師の先生に尋ねて、Je suis arrive a Hiroshima tout a l'huere.とか言われてまったくわからなかったことを覚えている。カタカナでつたなく書いてみると、ジュスイザリベ アイロシマ トゥタルールとでも表せようか。意味は広島には今さっき着いたとところだから、広島の印象はわからないというようなことでもあろうか。

フランス語特有のリエゾンとかエリジオンがあって、まるで一つの文章が一語のように発音される。これはQu'est-ce que c'est ? ケスクセーなどもそうである。

しかし、その講習会にも4年生になると、忙しくなって出席できなくなった。(続く, a suivre)


なぜ(-1)・(-1)=1となるか

2010-03-26 16:42:58 | 数学

明日の雑談会で「なぜ(-1)・(-1)=1となるか」を説明しようとしている。そのための準備をしているが、少なくとも複素数の極表示を説明しなくてはならないので、どうしようかと考えている。それには複素平面が必要だろうが、中学校ではその説明はされていないと思う。

高校に入ると複素平面は出てくると思うが、それを高校を卒業した普通の人が何十年後にもまだ覚えているだろうかという問題がある。これはまったく科学とかに関係がない普通の人にとってという意味なので、もちろん科学に関係した職についている人にはまったく問題にならないが。

雑談会の参加者は科学者だった人が多いが、一般の人も少数だがいるので、その人たちのためにどう説明をしたらいいかと考えている。こういうことを考えるのは久しぶりなので、頭が痛くなってくる。

それも説明に使える時間は約40分くらいなので、どうやさしく話すことができるか工夫のしどころではある。雑談会の全体の時間は2時間=120分だが、いくらか討論が必要なので、120分をすべて説明に使うことはできない。

その上、欲張って小川洋子さんの「博士の愛した数式」に出てくる関係e^{i pi}+1=0を説明したいと思っている。虚数単位iと円周率パイと自然対数の底eの間の不思議な関係と言われているものだが、私はそれほど不思議なものではないという思いがしている。

いや、もちろん不思議な関係だが、複素数z=x+iy=r(cos a+isin a), a=偏角を認めて、(cos a+isin a)の幾何学的に意味を知れば、その関係の導出はそれほど難しくはないというだけだ。

いつだったかアメリカの初等数学のサイトの質問コーナーに「なぜ(-1)・(-1)=1となるか」という質問の答えとして紹介したら、一人だけは面白いと評価してくれたが、他の人にはまったく無視された経験がある。

それまでそういう説明はまったくそのコーナーには載っていなかったのに。私は世の中には素直でない人は多いのだなとそのときに思ったものだ。もし私がその説明を知らなかったとしたら、素直に面白いと評価をしただろうに。


翻訳作業の完全終了

2010-03-25 18:36:15 | 日記・エッセイ・コラム

約40日にわたった翻訳を今日終えた。記念すべき日である。大まかに言えばすでにとっくの昔に終わっているのだが、やはり検討が必要ということで一人で訳の検討をしていたのである。一日に6ページくらいが限度でそれ以上は処理ができなかった。

その間自分のやりたいことはまったくできなかったから、自分ではまったく面白くなかったが、これは仕事を引き受けてしまった以上仕方がなかった。もっともその間3泊4日の長崎と九州の旅があったりして、まったく気晴らしがなかったわけではない。

でも今日は家に帰ったら、ビールでも飲もうか。旅行中はビールかワインを毎晩飲んでいたから、禁酒をこのところしていたわけではないが、それでもストレスがあまりないと飲まない方だから、これは珍しいともいえる。

おかげで「数学・物理通信」の発行はとどこおっているし、e-Learingのコンテンツの整理が遅れてしまった。関係者には申し訳がない。


非定常状態からの復帰

2010-03-24 12:39:10 | 日記・エッセイ・コラム

3泊4日の九州旅行から帰って3日目となり、ようやく定常状態というか日常の生活に戻りつつある。

帰りの日が天候が荒れたために高速道路はすべて時速50kmに制限されていた。もっともその速度で走っている車などいなかったが。その制限は九州や四国では過剰警戒かとも思ったが、帰ってきてからテレビを見たら、過剰警戒とは言えなかったことを知った。

その上、波が荒くて帰りの国道フェリーが揺れたので、妻も私も気分が悪くなった。三崎に近づいたら、佐田岬の半島の陰に入って波は穏やかになったが、それまではかなり上下に揺れた。私は船には強い方だと思っていたのだが、どうもそうでもないことがわかった。

松山方面への見晴らしがいいために、妻のお気に入りの、伊予灘のサービスエリアで遅い昼食をとったが、そこに着いた頃には何とか体の状態は落ち着いてはいたが、やはり体調が元に戻るには数日かかった。

旅行中には「帰ったら、あれもこれもブログに書こう」と思っていたが、その事柄も大方は忘れてしまった。だから、他人から見たら、私などなんでも自分のブログの種にしているように思われるかもしれないが、やはりブログとして書いていることはやはり私の感じたことのほんの一部にしかすぎないとわかる。

今度の旅行で考えたことや感じたことがいつかこのブログに反映されるのかどうかもわからない。


フーコーの振子2

2010-03-23 17:01:52 | 物理学

先日、長崎に行ったとき、ホテルの近くにフーコー振子のあるお寺があったので,行ってみた。

済福寺というお寺で外から見たら大きな観音像が建っていた。ああ、あの中にフーコー振子があるのだなと見当をつけたが、その通りであった。

もっともフーコー振子を200円の入場料を払って見たいというような奇特な人はほとんどいないと見え、案内をしてくれた老齢の元住職夫人はそういう現状にとてもお冠であった。

それでも、いつもは動かしていないフーコーの振子を動かして見せてくれた。理科で習っただろうと言われたが、「そんなことは理科では習わない」というと「それだからとか」何とか言っていた。

私の知っているフーコー振り子は上野の科学技術博物館にあるが、愛媛大学の教育学部の玄関にも以前は動いていたが、いまは動いていない。振り子が減衰して止まるので、電磁気的に動かしているのだと説明をしてくれた。

このお寺は日本一の振り子だとパンフレットに書いていたが、いまではサントリーのどこかの施設で日本一の長さの振り子が動いていると言っていた。

ここのフーコー振り子は島津製作所に頼んでつくってもらったらしいが、いまではその保守にお金がかかるので普段は動かしていないという。

理科の先生はフーコーの振り子の意味を知っているだろうが、世の中の大多数の人はフーコーの名も知らないだろう。

(2011.4.6 付記) フーコー振子がどういう意義を科学史上でもつかは理科の先生なら知っているだろうが、以前の私のブログ「フーコーの振り子1」でも触れたように

「地球が自転していることを実験室的に証明した」

ことにある。このフーコー振子の物理的な説明を私も大学の力学の講義で聞いたが、その意義を知らなかった。

力学の先生はその歴史的な意義を話してくれたのかもしれないが、少なくとも私の頭に記憶が残らなかった。

その後4年生になって聞いた相対論の講義で「地球の自転をどうやって証明したのだ」とS教授に聞かれて26,7名いた物理学科の学生(4年生)が誰も答えられなかったのを鮮明に覚えている。これは1962年のことである。

その後、地球物理学者の竹内均さんが彼の生前に、NHKのテレビ高校物理か地学の講座でフーコー振子のミニチュアの実験装置での実験とその意義を話されているのを見た。


一義性と多義性

2010-03-22 12:57:54 | 物理学

「一義性と多義性」は今度の長崎への旅で痛感したことである。数学とか物理ではその解釈とかは別にすれば、なんでも一義的でなくてはならない。誰にとっても1+1=2でなくてはならない。

ある人には1+1=3だったりすると、これは比喩的な話にはまあいいとしても、数学とか物理では困るわけである。そういう意味ではこういうものは普遍的というか一義的でなくてはならない。

ところが芸術の世界ではその必要がないほうがいいらしい。むしろ多義的であるのが面白いというか興味深いのである。I 教授の定年を記念した協賛の展覧会を長崎まで見に行ったわけだが、その中にある中国の大学の美術の先生の絵があった。

中国では伝統的に墨絵の伝統があるので、それに則っているのだろうが、それから外れる試みをしている人であった。廃墟を描いているのだが、その中に女性の顔が入っていたりするようにも見えるのである。それも一つではない。絵の中にいくつものそういう隠し絵みたいなのが入っている。

I さんによれば、多分この先生は新しい試みを密かに楽しんでしているのではないかと言っていた。中国はまだ政治体制的には社会主義の国である。経済は市場経済を導入したが、それはあくまでも経済においてであって、政治は依然として変わっていない。だから、芸術にもその自由がある意味では束縛されているのかもしれないが、それでもその中でいろいろと密かな試みをしている人がいるらしいと感じられる。

だから、この墨絵は多分に多義的なのである。もしそれを非難されたときにはまじめに、これは廃墟を描いたのでそれ以外の他意はないと言い逃れをすることもできるし、また、感じる人には感じ取ってももらえるというわけである。

そういえば、量子力学でも有名な話として、光の粒子性と波動性とか電子の粒子性と波動性とかいった概念がある。古典的力学的に考えると粒子性と波動性は相容れない概念である。

それを量子力学ではある意味で統一的に理解をしている。それを理解できるようになったという意味ではやはり量子力学は20世紀前半の偉大な業績であったろう。


ブログの休み

2010-03-17 19:29:49 | 日記・エッセイ・コラム

明日から数日ブログを休みます。これは妻の高校時代の同級生が3月末に大学を退職するので、その彼の大学時代最後の展覧会を見に長崎まで行くからです。

彼は画家であって、狭い意味の洋画家ではないが、多分広い意味では洋画家に入るのであろう。フランスに長くいたので、なかなか日本では職が見つからなかったらしいが、いつの頃からか大学に職を得て、いろいろな人々と展覧会を開いてきた。

いつだったかは偶然に千葉での展覧会に私たちも上京していたので、見に行ったらとても喜んでくれた。それ以来展覧会を開くときにはきまってその案内をくれるようになった。

大抵は遠くで出かけることができないのだが、今回は退職記念の展覧会ということもあって数日の予定で出かけるのである。これは妻の父が愛媛県の美術館で個展を開いたときに遠くから初日に駆けつけてくれたことへのお返しの気持もある。

妻の父は数年前に亡くなったが、亡くなる数年前に幸運にも愛媛県の美術館から個展をしませんかとお誘いを受けたのであった。ところが、自分は十分によく描けた絵がないとか言って今にも断りそうだったのだが、妻がその絵の目録を作ったりして、なんとか個展にこぎつけた。絵を描いたのは義父本人ではあるが、娘である私の妻がいなかったら、この個展は実現していなかった。

私ども家族の見るところでは妻の努力がすごいもので、食事のときにいつもあの絵はどうしたとかいつも言っていた。それが何週間も続いた。実際に個展を開いて見ると個展に必要な点数は十分にあり、美術館に恥をかかせることもまったくなかった。

その上、個展が終わった後だったと思うが、個展に出品した絵の画集を発行した。その画集の発行のときもはじめは義父は乗り気でなかったが、松山一の印刷会社に昔から知っている人がたまたま勤めていてその印刷の色合いをいろいろ工夫してくれた。この知り合いの尽力に今でも感謝をしている。

こういうラッキーなことが重なって義父は生涯の夢だった愛媛県の美術館で個展を開くことができたばかりではなく、上に画集まで発行したのだった。もっとも画集に収録する作品についてはかなり義父の要望が強かったので、家族としてはもっと多く入れたほうがいいのにとは思ったが、点数はかなり限られてしまった。

義父の死後、かなりあった大きな絵の処分に困り、I 市のY病院に大部分の絵を寄贈すると申し出たら、その病院で買い上げてくれたので、義父の作品の大部分はY病院の廊下とか食堂等のホールに架かっている。有難いことである。この病院の院長は義父の教え子ではあるが、大いに世話になった。


ルネッサンス時代の発明

2010-03-17 18:48:12 | 日記・エッセイ・コラム

先日新聞を読んでいたら、ルネッサンス時代の三大発明として「羅針盤、火薬、印刷術」の発明があると書いてあった。羅針盤は多分大海原に船を出すという勇気を人々に与えてくれたのだから、これは大発明であろう。

火薬がどういう意味で大発明なのかは知らないが、必ずしもこれは戦争を変えたとだけ言ってはいけないのであろう。狩をするときに弓矢や槍とかで獲物を捕らえていたのを、銃で撃つことができるようになったことが大きいであろう。

また印刷術は、もちろんこれは活版印刷を意味するが、書物の普及を一般化したであろう。

私は30数年前にマインツという大学都市に住んでいたが、マインツはグーテンベルクの生まれた都市である。そして、マインツを有名にしているのはなんといっても彼の印刷術であった。

彼が始めて印刷したという聖書が町の博物館にあった。とても大きな本で色刷りだったかどうかは忘れたが(私の記憶では色刷りだったと思う)、開いた状態で畳半分くらいはあろうかと思われる、立派なものである。

その本のための一つの部屋があって、まるで金庫か何かのような金属製の丸い扉をくぐって中へ入っていき、その聖書を見たと思う。

カールスルーエで研究していたエジプト人の化学者一家がマインツに私たちを訪れたときに、一緒にその聖書を見たのである。。

数か月後に私たちの帰国の日が近づいていたと思うが、そこで彼から頬をくっつける、いわゆるビーズの挨拶をされたことをいまでも昨日のように思い出す。

やはり彼も知り合いになった私に、おそらくはもう会えないからという気持ちで、親愛の情を表したかったのであろう。それから30数年が経つが、それ以来彼には会ったことがない。

彼の小さかった子どもさんたちも、もういい大人になっていることだろう。男の子と女の子の一人づつだったと思う。私たちの子どもよりは1,2歳は小さかったように思う。


使役の言い方

2010-03-16 15:15:18 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜に「英語のつぼ」というNHKの番組を見ていたら、使役の表現が出てきた。それは

I 'll have Pierre do it.

というものであった。これは日本語の「ピエールにそれをやってもらう」という意味である。

しかし、これはどうも覚え難い。これをいつだったか大西ひろと先生は 「それをするピエールをもつでしょう」という風に考えるのだと言っていたように思う。そうすると急にこの表現は難しいとは思わなくなる。この考え方がむしろネーティブスピーカーの感覚だとも言っていた。どういう風に外国語をいいかえるのか。それによって表現は難しくなったり、やさしくなったりする。

つぎのいくつかの表現は使役表現とは関係ないが、最近覚えておきたいと思っているドイツ語の表現である。

Matsuyama ist bekannt  f"ur Haiku-Dichter Masaoka Shiki.

松山は俳人子規で知られている。

Ich  habe Schwierigkeiten mit dem Rahmenbau der Deutschen Grammatik.

私はドイツ語の文法で枠構造を難しいと感じている。

Meine Frau hat Angst vor Hunde.

妻は犬を恐がっている。

いずれも前置詞のf"ur, mit, vorが重要である。こういう表現がするすると口から出てくるようになりたいものだ。


湯浅誠氏の辞職

2010-03-15 16:09:07 | 日記・エッセイ・コラム

湯浅誠さんは一昨年の年末の年越し派遣村の村長だった人だが、昨年の11月かに菅直人氏に言われて内閣参与になった。ところが実際に参与として関係して派遣切りされた人たちの救済のために行政を動かそうとしたら、あちこちに壁があってにっちもさっちも行かないということで、内閣参与を辞めたと新聞で読んだ。

彼の落胆を実際に個人的に聞いたわけではないし、彼に密着取材したテレビの番組を見たわけでもないが、落胆ぶりが想像される。もちろん彼が何でもすぐに政権が変わったらうまく行くなどと思っていたとは思わないが、それでもその落胆振りは想像に難くない。

ではいまの政権が前の政権より悪いのかというとそれはそうでもないだろう。だが、それにしてもなんとか改善がなされるのではないかとの希望は誰でももったはずだ。

では、現在苦しんでいる人たちを「どうやって助けるのだ」の声が聞こえるようだ。確かにそうだ。現在苦しんでいる人をどうやって直ぐ救うか。これが政治の課題ではあろう。

だが、それが今までうまく行かなかったという事実があり、その事実はなんらか原因をもっている。その原因をとりのぞくことができないとどうしても前には進まない。またその原因は複数あったりして、複雑であるかもしれない。

こういう現在直面した困難に対する直接的な対策が必要であると同時に、その対策の実行を困難としている、その一つ奥の原因を取り除くことが必要であろう。そういうことの積み重ねでしか社会は改善されない。社会的には忍耐が必要であろう。だが、困っている個人に対する当面の応急措置はNPOとか篤志家に任せるしかないのだろうか。


ブログの質の低下

2010-03-13 12:27:16 | 日記・エッセイ・コラム

私のブログの質が低下をしているのではないかと思っている。これは翻訳アルバイト以来の後遺症である。まだ、仕事を完全に終わってはいないので、まだしばらく質の低下は続く。そしてひょっとすれば、その質の低下はもう元へは帰らないかもしれない。

もっとも私のブログの質が低下してもそれは多分居るか居ないかもわからない読者の人にとってはどうでもいいことだろう。時間が十分取れないためにおざなりのことしか書けなくなったと密かに感じている。

それくらい生活の余裕は必要なのだ。どうもルーチンをこなしているという感覚が強くなったようで、これは決していいことではない。だが、いまのところどうしようもない。できるだけ早く仕事に区切りをつけることが一番の薬だろうか。


ルー・ゲーリック

2010-03-12 11:41:05 | 日記・エッセイ・コラム

Lou Gehrigはニューヨーク・ヤンキースで活躍した大打者である。ベーブルースとともにニューヨーク・ヤンキースの黄金時代を築いた。ところが彼が病に冒されて亡くなった。それが筋萎縮症であった。だから、この病気をルーゲック病ともいう。

ところで、このルーの名前の綴りを見ると、ルーゲーリッグと読みたくなる。だが、どうも私の覚えている限りではクであって、グではない。それでちょっとインターネットで検索をして見たら、やはりグではなく、クであった。

それで思い出したのだが、ドイツ語ではb,d,gが語末にあると、これはカタカナで書いたときにブ、ド、グとは発音しないで、プ、ト、クと発音するという規則である。

直ぐに思いつく言葉として半分を意味するhalbはカタカナで表すとハルプであって、ハルブではない。dですぐに思いつくのはDeutschlandでこれはやはりカタカナで表すとドイチュランドではなく、ドイチュラントである。またgで思い出すのはguten Tag(今日は)はグーテンターグではなく、グーテンタークである。

こういう規則は知っていてもなかなか実際発音するときにはなかなか直らない。特にドイツを意味するDeutschlandはどうしてもドイチュランドと語末が濁ってしまいがちになる。これは私もその昔ドイツ語の先生に発音を直された記憶がある。

halbはハルブとは大抵発音をしたりはしないが、これはhalbという文字よりはその音を覚えているからである。halb vierというとこれはドイツ語独特の時間の表現で3時半を表す。いつだっかたもhalb zweiを2時半と間違ったら、ドイツ人の日本語のわかる人に「1時半ですよ」と訂正された。

この時刻の表し方は発音の方では間違わないのだが、言葉にvierとかzweiの方に引きづられて間違いを起こす例である。いつもhalb vierなら、4時に向って30分、すなわち3時30分と言われるのだが、なかなか間違いが直らない。

ところで、ルー・ゲーリックはドイツ系のアメリカ人だったのだろうか。


俳句のサイト

2010-03-11 12:53:45 | 日記・エッセイ・コラム

先日、子規の俳句を探していたら、知り合いというか先輩の運営している俳句のサイトを見つけた。それでよく知っている人だったので、そのe-mailアドレスにメールを入れてみた。ところが、メールを受け取り許可のアドレスではないという理由で受信を拒否されたので連絡ができなかった。残念である。

もっとも、メールのアドレスを公開している方にとって見たら、誰かもわからない人からむやみにメールが来れば、迷惑だろう。だから、この人の対策は正しいのである。これは推測だが、いまはWebの俳句雑誌を彼の奥様が主宰しているので、多分同人以外の投稿は基本的に禁止したいのだろうと思う。

彼の俳句の先生が亡くなったときに、その先生が主宰していた俳句雑誌は廃刊にしたらしい。それでその後彼が自分で俳句雑誌を主宰して出したが、先生の考え方にならってそれも300号で廃刊にしたようだ。

多分自分の主宰している、俳句雑誌が何か権威的なものになることを嫌っているのであろう。その感覚はいい。

このブログが今日で千回に達した。これは単に私的なことにすぎないが、それでも何がしかの感慨がないというわけでもない。だが、幸いなことにこのブログはどんどん続いていく。私の意欲とか健康状態が悪化しない限り。読者の方がいるとすれば、引き続いてご愛顧をお願いしたい。