物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

衣替えの季節

2024-10-04 10:52:33 | 本と雑誌
つい先日まで短パン、Tシャツ姿で闊歩していたが、さすがに寒くなってきた。エアコンなしでは暑くて室内にいることが難しかったのだが、それもなくなった。さすがに寒くなったあわてて長袖のシャツを出してもらった。

6月1日と10月1日が衣替え時期だと言われて来た。秋分の日を過ぎたら、ようやく暑さが涼しさに変わってきて、妻が『「暑さ寒さも彼岸まで」というが本当にそうだね』と言っていたが、その通りと頷けた。




人生を新たに始めることは

2024-10-03 11:46:29 | 本と雑誌
人生を新たに始めることはできないが、10月になって、ラジオの語学講座が新たに始まった。

私の場合にはドイツ語とフランス語の講座である。イタリア語にも関心があるが、まだこれにはとりかかることはしていない。まあ、一生そういう日はこないだろう。

もっとも私は大学院学生のころ1年間イタリア人にイタリア語を学んだことがある。もっとも50年以上も昔のことである。

そのときpiovet molto en casaという変なイタリア語を覚えさせられた。意味とすれば、「家の中に雨が降る」である。ぼろ屋でもなければ家の中に雨が降るはずはない。もっともcasaは家のことでCasablancaという都市があるが、これは白い家という意味である。

今日は検診日

2024-10-02 13:23:05 | 本と雑誌
今日は検診日であった。

9時過ぎにはこれは病院に行ったが、12時過ぎにようやく自宅に帰ってきた。これは私に腹部大動脈溜があるために血圧が上がることを内科の先生が極度に心配されるからである。

血圧が130以下である様にといつも注意されている。もっとも130代になることは血圧の薬のおかげでごくまれである。通常は110代である。

今日もあまり悪くはないということでむしろお褒めの言葉をもらった。だが、いつでも用心に越したことはない。特にこれからは寒くなっていく季節なので。


平和は戦いからは来ない

2024-10-01 18:10:39 | 本と雑誌
イスラエルとガザのハマスとの戦闘はレバノンのヒズボラに飛び火してしまった。ひょっとしたらイランとイスラエルの戦争に拡大するかもしれない。

これはイスラエルにはわるいが、こういう武力に武力を対抗させるのではいつまでたってもイスラエルに平和は来ないと思う。

イスラエルの人だってうすうすはそう感じているのだろう。だが、少しイスラエル人が死んだからといってその報復を爆撃とかでおこなったら、そのとばっちりにあう人がどうしてもでてくる。そしてそのとばっちりでなくなる人の方が多くなる。標的にした人の数よりも圧倒的に多くなる。

そして、その人たちの親族や隣人が恨みに思わないはずはない。和平しか最終的な方法はないのだ。いくら強力な軍備とか武器を備えていても。そのことがわからない理性のない人たちではないと思うのだが、実際の対応は最悪である。

そしてやはり同じ場所になかよくいろいろな民族が共存するということを志向しなくてはならない。

20世紀半ばの核戦争の脅威が叫ばれたころ、戦力の平衡ということは実現不可能だと世界の識者が論じた。それと同じことが小規模だが起こっている。そしてそれはいつ世界規模の大戦へと移行するかもしれない時代なのだ。

まずは力のあるものの自制を促したい。

つぎから、つぎへと

2024-10-01 12:31:37 | 本と雑誌
つぎから、つぎへと用があるものだ。

Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿を見ることから解放されて、数学・物理通信14巻5号の編集をしてきた。その発行は明日か明後日になるが、目途はついた。

ということで14巻6号の編集がようやく視野に入ってきた。これも10月中には発行をしなければならない。

原稿は朝日新聞の近藤康太郎記者のと小方さんのがあり、武藤徹先生の追悼号なる予定である。それと私が用意している武藤徹著作目録である。これはなかなかすべての文献にあたることができない。

私の持っている本と国会図書館の目録から基本はつくったが、一部は愛媛大学図書館に行ってページ数を確かめたものもある。県立図書館にも4冊ほど私の持っていない本が所蔵されているので、県立図書館が休館になる前に行って見せてもらわねばならない。

それ以外は収録データとしてたらないものがあるが、これは仕方がないと考えている。

それらがすめば、本来の私自身の仕事に帰ることができる。なかなか忙しい。

長い間ブログを書いていると

2024-09-29 19:35:55 | 本と雑誌
私の大体書くことは大抵ネタ切れである。

始めて書いたと思ってもすでにどこかで書いたことがあるという具合だ。もっとも自分で書いたことを忘れていてもブログとして記録に残っているので、もうこのネタは使ってしまっていたのだなと思い知らせてくれる。

数日前に書いた「折々のことば」に書いたネタもすでに「湯川秀樹と土門拳」というタイトルで書いていた。もちろん今回は朝日新聞の「折々のことば」の紹介もあるので、まったく同一内容ではないのだが。

これは1週間くらい前の経験だが、昔書いた数学エッセイの内容を追加したあとで全体を読み直したら、追加した内容とほぼ同じことをすでに書いていることに気がついて、追加した部分を慌てて削除した。

人間なんてそんなもんである。だから何ら驚くことはないのだろう。

9月の子規の俳句

2024-09-28 12:20:38 | 本と雑誌
9月も終わりそうなのであわてて9月らしい子規の俳句を書く。

 巡礼に追いこされけり秋の旅    子規
 a pilgrim
    has overtaken me
    autumn journey                                    Shiki 1892

E大学校友会発行のこのカレンダーには宇和島市三間町のコスモス畑が載っている。ピンクや白のコスモスがたくさん咲いているが、このブログは画像のないブログなので皆様に示しすることができない。

もう20年以上昔のことになるが、巡礼はフランス語でp`elerinageとかいうことを愛媛新聞の四季欄で知った。これは医学部だったかにお勤めだったある女性の先生が書かれたコラムに述べられていた。

女性名詞だと思うので、une p`elerinageであろうか。と書いて辞書を引いたら男性名詞とあった。un p`elerinageである。

仏和辞典を引いて綴りを確かめようとしたら、なかなか見つからない。覚えた綴りがいい加減だったということだ。それで仕方なく和仏辞典に頼った。特に私も日本人だからrとlとやはりごっちゃになる。

ちなみにドイツ語では巡礼はder Pilgrimと言ったと思う。などとまたまた知ったかぶりをして書いたら、辞書ではこれは古語であり、現代語としてはder Pilger, die Pilgerin だとあった。これらは巡礼をする人のことをいい、巡礼の旅はdie Pilgerfahrtというらしい。





ドイツ語の意味をドイツ人に聞かれたことがある

2024-09-25 12:10:38 | 本と雑誌
ドイツ語の意味をドイツ人に聞かれたことがある。

これは松山姉妹都市関係にあるドイツフライブルク市の市役所のいずれかの部長さんを務めておられる方とどこかの歓迎の席で同席したときである。

こちらも気取って
  Sie sprechen  authentisch Deutsch.
とか口走ったらしい。

authentisch(アウテンティシュ)とはどういう意味かと問い返された。ドイツ人だからauthentischの意味を知らなかったはずはない。だから「こいつドイツ語をきちんとわかっているのかしら」という質問であったのだろう。

お決まりのように sehr gut Deutschだとかあわてて説明した覚えがある。市役所の部長さんともなれば、きれいなわかりやすいドイツ語を話されたと思う。

その一年後だったかにフライブルクを訪れる機会があって市役所を訪れてこの部長さんに会って、何かのインフォ―メションを頂く機会があった。フライブルクは私がゲーテ・インスティ―トでドイツ語を2か月学ぶ機会のあった町である。

それももう半世紀近くも前のことである。

ようやく秋が来た

2024-09-23 09:17:52 | 本と雑誌
今朝、妻に昨晩から頼まれていたゴミを集収場に持って行った。そのとき外に出て涼しい風が吹いているのを知った。

本当に久しぶりである。ここ2か月以上エアコンなしの生活は考えられなかったからやれやれである。

一昨日、昨日に雨が降って涼しくなったのである。また暑さがぶり返すこともあるだろうが、それでももう以前のような暑さは続くまい。

私はいまはもう大学受験生ではないが、受験勉強本番の秋が来た。私の高校生時代は1950年代の後半であって1957年には高校3年生であった。

高校の先生からは夏にはあまり勉強するなとアドバイスがされていた。その代わり秋には死ぬほど勉強しろとかいわれていた。もっともその秋にあまり勉強したという実感はない。

冬になって年明けから自宅学習の時期が来て、問題をとくことを少し控えてその代わりに全体の理系の科目の読み返しをしたと思う。それで少し見通しがついてようやく高校数学とか物理とかの様子が見てきた気がする。

多くの人が受験を経験するのだが、人生でそれがどれくらい役に立っているのだろうか。地球物理学者だった竹内均先生は「どこの国の学生でも若いときに必死に勉強するのだが、日本ではそれが大学受験と重なっていると考えなさい」と言われていた。

欧米の学生は大学入試の苦労はあまりしないですむが、大学入学後に猛烈に勉強をさされるのだという。それで学生はある一定のレベルに達するのだという。

今日は一日

2024-09-22 18:54:37 | 本と雑誌
Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿の注が正しく引用されているかのチェックに今日は一日を使った。

やっと一通り最後まで見ることができた。もっとも武谷とつきあいのあった人の文献は私が持っているものもあるが、この範疇からはずしている。これはそのチェックはつぎの仕事としたいという気持からでている。

さて、これまでのチェックしたものをすぐにNさんに送るのがいいのかどうしたらいいかちょっと迷っている。

さらに仕事をする必要があることはわかっているのだが。


いたずらをされているのか

2024-09-20 11:56:27 | 本と雑誌
いたずらをされているのか。

私の先生からのメールの添付書類をディスプレイを経由して取り込むと元のタイトルとちがった変な漢字のわけのわからないタイトルに変化しており、変なことが起こった。

これはディスプレイを経由して取り込むときに変な操作がされるということではないのかと思っている。さらに文書でも入力中に入力しようとする部分がどこか数行上に飛んだり、前に入力した箇所の上に書かれて前の入力部分を消してしまったりする。

注意深く画面を見ながら、入力すればいいのではあるが、これでだいぶん時間をロスすることはなはだしい。これがメモリー不足によるのかもしれないと思ってきたが、メモリ―不足は少なくとも文書に関する限りはないとのことをこの前のEdion訪問で教えてもらった。



過去の自分から学ぶ

2024-09-19 11:23:21 | 本と雑誌
昔のブログを検索して読んで下さっている方がいる。

そのことをアクセス解析で知ることができるので、その検索履歴にしたがって昔の自分のブログを読みなおすのにかなりの時間をとっている。

自分で言うとちょっと自慢しているようで具合がわるいのだが、結構自分の昔の書いたことに感心してしまうというか、「ああこのときにはこういう風に思ったのだな」とか「こう感じたのだな」とか思い返して興味深い。

それはもうすでに忘れてしまった過去の自分に対面しているからでもあろうか。

7000回以上もこのブログを書いているので、自分でこんなことを書いたのだと自分の知らない自分を再発見するようでもある。

昨夜は深夜の2時まで起きていた

2024-09-18 10:13:45 | 本と雑誌
昨夜は深夜の2時まで起きていた。久しぶりにインターネット・サーフィンをしたのだ。それで今日は眠たい。

昨夜の今日なので、書くこともないだが、それでも何とかしたいのは20年近くブログを書いてきた習性であろうか。

私はちょっとナルシストの気があって、自分の書いた本のことをインターネットでどのように評価されているかに関心がある。ちょっと面白かったのはQiitaとかいう四元数を用いた空間回転を議論するサイトで貢献した技術書として、私の本が挙げられていたことである。

自分では私の書いた本を技術書とは全く思っていなかったので。四元数関係の本で私の本ほど安価な本はあまりないのではないかと思っている。税抜きだとたったの2,000円なので。

四元数の本であるが、高校生でもちょっと根気のある人なら読めるであろう。

またパソコンのトラブル

2024-09-17 17:23:39 | 本と雑誌
またパソコンのトラブルがあった。しばしばパソコンのトラブルを起こす。このブログを書いている本人が相当もうろくしているのだから、しかたがないのだが。

また、これはパソコンのトラブルとは別だが、せっかく入力しておいた「武藤徹先生の著作」というブログを削除してしまった。これは二つ入力していた昨日のブログがあってそのどちらかを削除したつもりが削除しなくてもいいはずの「武藤徹先生の著作」のほうを削除してしまった。

そして、ここに何を書いていたか自分では思い起こせないという始末である。
削除の措置をとるときには十分注意をしているつもりなのだが、そうでもなかったといういい例である。


どこにも勤めていないのに

2024-09-14 17:13:40 | 本と雑誌
どこにも勤めていないのに忙しい。

本来なら、午前中にこのブログを書くはずだったのに、今頃になって書いている。毎日が暇で時間をつぶすのにどうしたらよいかと思っている老人は多いのに。妻などは最近友人、知人とマージャンで一日を過ごすこともあるのに。

現在しなくてはいけないことは
(1)Nさんの『武谷三男の生涯』の原稿の注の部分が確かにその通りに引用 
   箇所がなっているか調べること。
(2)数学・物理通信の14巻5号の編集にとりかかること
(3)毎週土曜日のただ塾の数学の先生を務めること
(4)自分自身の仕事を片付けること
等である。
 (4)はいくつ仕事があるのかわらないくらい多い。
 (3)は教える内容というか、何を今教えるかということも考えなくてはい
   けないということも含んでいる。生徒にある問題集の演習をさせて答え
   が正しい、正しくないの判断をすれば、よいだけではない。それだ
   けだったら、時間になったら、その場所に行って生徒さんに付きあえ
   ば、よいのだが。
 (2)は投稿された原稿を読むことはしなくても、今回みたいに投稿してく
   れる人を探すとかその広がりを持たせるとかも編集業務の中に入ってい
   る。さらにもちろん編集業務も入っている。

泣き言を並べたが、そういう風に忙しくできるのは体が比較的元気であるからであり、ある意味でありがたいことである。できる限りのことはするつもりである。