西谷正『武谷三男の生涯』(鳥影社)が武谷三男の死後25年になる今年の出たことの意義は何か。武谷の物理の研究成果についても全く評価がされていないし、不満だという方もおられよう。かく申す私もそういう意味ではまったく手放しで「いい、いい」とかいうつもりはない。
確かに武谷三男の少年時代くらいからの残っている資料をフルに使って人物像に迫ったという点では類を見ない書である。その功績は大いに認めていいのではないかと思う。だが、武谷三男の思想にどこまで迫れたかとか、物理の論文というか研究での現在での評価とかをもっときちんとすべきではなかったかという点ではそれに迫れているとはあまり言えない。
だったら、この本は陳腐でつまらないのかというと、そういうことはなかろうということだ。まず死後25年が経って、もう世間の人は武谷がいろいろ強調した主張についてどうもいい加減になっているということだ。そういう意味では世界が社会が少しでもいい方になるべきだという強い気持ちを彼ほど持ち続けた人はいない。
死後25年の現在でも彼の思った良識ある方向に社会は向かっていない。そういうことをあからさまに世間に向かって言う気力とか志向や思考を持った方はもういないのだ。
それだけでも武谷三男の伝記が出る意義がある。
世界を見ても政治的にはどの国もこれは日本も含めてであるのだが、いわゆる民主主義国と言われていた国々でも独裁的な政治の様相を呈している。一応選挙という民主主義の形態を取ってではあるのだが。国が大きいことはまあいいとしても、大国主義としてふるまうようになることがよくないことだと武谷は思っていた。
ところがどの国も現在ではそういう様相を呈してきている。一番困ったことは国連が安全保障理事会の横暴で機能していないことである。こういうことをはっきり言う人はもういない。密かに困ったとは内心では思っていても。
そういう勇気のある人だった。『武谷三男の生涯』が出ても今の時代の風潮を変えることはできないかもしれないが、少しでも今の困った風潮を防ぐつっかい棒にでもならないか。こういう気持ちを持っている識者はまったくいないわけではない。