物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

落雷とカオス

2009-07-31 12:31:00 | 物理学

落雷とカオスとがどういう関係にあるのかよく知らない。

先日ドイツ語のクラスで講師のR氏がK夫人の質問に答えて「落雷はどこに起こるかカオス理論によって予言できない」と言っていた。そのとき一瞬カオス理論ってなんだったかなと思い出せなかった。

力学の古典的な書として有名な、ゴルドスタインの『古典力学』第3版(吉岡書店)の中にも11章にカオスという章があり、そこをF氏、E氏と私の3人が手分けをして訳したことがあるくらいだから、カオスの何たるかを知っているはずだったのにすぐにピンと来なかった。

普通に落雷をカオス理論では扱ったりはしないと思う。だが「カオス理論で落雷がどこで起こるかはわからない」というと、もっともらしく思えてそれ以上の質問ができにくくなるというくらいの効用はあるかもしれない。

そういえば、雷の発生とか、落雷とか雷鳴について、先日のM大学の講義の後のアンケートで質問があった。これはこの物理の授業と特に深い関連はないが、電磁気学のおおよその概観を駆け足で話した授業の後であった。

雷の発生とかその他のことをきちんと書いてある一般物理の本は少ない。私の知っている例では有名な『ファインマンの物理講義録(Feynman lecture)』(訳書は岩波書店刊)があるのみである。

質問があったので、しかたがなくこの講義録を講義をする前の晩に読んで、その箇所を読み終わったけれども、それを要約できるほど頭の中で整理が出来なかったので、学生にはその話を要約した説明ができないとのお断りをつぎの授業でした。

こういう質問をすること自体を、私は禁止していないが、質問に答えるためにはかなりの勉強が必要な場合がある。学生は先生は何でも知っていると勘違いをしているのではなかろうか。

ファインマンの講義録を読んだ感じでは、雷の発生も落雷もそう簡単に要約して話ができそうになかった。

だから、カオス理論で落雷がどこに起こるかは説明できないというのは一般的な印象に過ぎないのではないかと思われるが、それともそれを詳細に扱った研究があるのだろうか。

ちなみに「カオス」とは古典的な方程式系では、因果的にものごとが起こるが、それが初期条件に敏感に依存して、結果がランダム(初期条件の近さからは予想できないほど解のありかたが散らばる)になるという現象だと理解していいと思う。

初期値が近ければ、結果として起こる現象も近いはずだと、それまで一般的に古典力学では思われていたが、そうでないことが起こることがあることが、「カオス現象」である。これはここ数十年前に認識された比較的新しい事柄である。

以下は私の妄想である。あまり真面目にとらないでほしい。

量子力学による電子の確率的振舞をカオス的(注1)に再現できないかと考えている、(私以外の)科学者はいると思う。しかし、そういう試みが成功したという話を聞いてはいない。

たとえば、電子のビームを一点のピンホールで絞った後で、そのピンホールを通過した後の電子を自由に(観測をしないで)運動させれば、それが少し離れたところにあるフィルム上で同心円状の回折像ができる(注2)。

そういうようなパターンをカオス的な力学方程式で再現できれば、それで量子力学の基礎が揺らぐということはないと思うが、しかし量子力学について再考するきっかけとなることは間違いない。

(注1) カオス的ということは、ある古典力学系(数個の連立微分方程式で振る舞いが決まる系)で、電子の振る舞いを記述できるのではないかという考えである。

(注2) これにはもちろんある程度の露出時間がかかる。露出がきわめて短時間なら,あちこちに小さなスポットがフィルム上に見えるだけである。

こういうことから、実験物理学者の中には電子は粒子だという人もおられる。

お化けはみどり

2009-07-30 11:50:41 | 日記・エッセイ・コラム

「「お化けはみどり」なんだよねって」二男が小さかったときに言われて妻はなんだかわかならなった。これはよく聞いてみると「おお、牧場はみどり、よく繁ったものだ。・・・」という歌謡曲を聞いて息子が「お化けはみどり」と思ったということであった。「そういえば、そう聞こえないこともないなあ」というのが私たち大人の反応である。

「思いこんだら、試練の道を・・・」というアニメの主題歌があったが、「重いコンダラー(コンダラーとは昔のクレーのテニスコートを均すローラーのつもり)・・・」という風に甥が思い込んでいたという話もある。

こういう話は多分たくさんあって笑い話となるのだが、多分外国語を学ぶときにもあるだろう。

妻が何十年も前に草取りに近所で早朝に出ていたら、近所の奥さんがあぶらむし(これを方言でケラレという)を見て、フランス語にこの虫に似た言い方がありますねと言ったとき、妻が「ケルールエーチル(Quelle heure est il ?)ですね。何時ですかという意味ですね」と直ちに反応したので、そこに居た奥様方に感心されたというのがある。もっとも妻が知っているフランス語はたったこの一語である。

これは私がラジオやテレビでフランス語を習っていたのを傍で聞いて仕入れた聞きかじりの知識であった。


梅雨明けはいつか

2009-07-29 11:41:06 | 日記・エッセイ・コラム

今日は7月29日で7月末だが、今年は梅雨明けがいつか読めない。じめじめしている。温度はそれほど高くはないのだろうが、湿度が高い。それで仕方なくエアコンを入れる。

例年ならもう梅雨は明けているだろう。先日の雨の後で晴れて空気が乾いていると感じた日が一日だけあった。それで梅雨明けが近いかと思ったが、またつぎの日からじめじめした感じで梅雨は明けなかった。

もっとも梅雨があければ、かっと暑くなってやりきれなくなる。だが、日が経つにつれて湿度が下がってきて暑いのだが、肌がべっとりするという感じはなくなる。E大学のH宿舎に住んでいたころは8月5日を過ぎると風が北から吹いてきて過ごしやすくなるのを感じた。ここは十キロくらいはなれたところに海岸がありそちらのほうから風が吹いてくるのだった。

これはしかし真冬でもそうだから、冬には北側の窓は開けられなかった。ここで子どもたちは生まれて10歳過ぎまで育った。子どもたちには友達には事欠かなかったし、妻も友達がたくさんいた。

そういえば、この宿舎の砂場に鉄棒をつくってくれたNさんが病気で亡くなってから、もう大分経つ。とても気のいい人で、自分の勤めていた実習工場で厚意で鉄棒をつくってくれた。ここで子どもたちは逆上がりを練習したものだ。腰が重いのでいつも傍で子どもの腰を持ちあげてやってようやく子どもたちも逆上がりができるようになった。


関数の実体化

2009-07-28 12:32:46 | 数学

「教師が関数としてy=x^{2}と書いたときに、これを単なる等式だと思ってしまうので、遠山啓はブラックボックスを考えた」と数学教室8月号に載っていた。

「関数がはたらきを表している」ということはなかなかわからない。それでそれを実体化するということが必要なのだという。

この実体化ということがちょっと武谷の三段階論の実体と共通性を感じている。武谷三段階論ではもちろん自然の認識の現象論的段階から本質論的段階への重要な橋渡しが実体論的段階だという。これは初等数学でのブラックボックスほど便宜的なものではないだろうが、それを実体化するというところは同じような役割をしていると感ずる。

関数という概念はライプニッツの昔からあるのだが、これをシェーマとして表すということは遠山たちのブラックボックスの提唱まで、これをシェーマとして表すということはあまりしてこられなかった。


等式にはどんなものがあるか

2009-07-28 11:07:50 | 数学

先日、ラグランジュの恒等式の証明の原稿を妻に読んでもらっているとこのブログで書いた。予想に反してというか予想通りというかこの読みに妻は難渋した。まず第一に読んでもらう気になるまで時間がかかる。それで一度読み出したが、わからないのだろう。途中で頓挫した。

それからまた日が過ぎてようやく再度読み出したが、見当違いなことを言い出した。それで説明をしたのだが、なかなか納得をしてもらえない。第一、等式には恒等式と方程式があってという話からしないといけない。

ところが、y=x^{2}というのもあるという。これも等式ではあるが、関数というものだ。xの値に対してyがある値に決まる。というようなことを説明したら、やっとちょっと自分の考えていたことは見当違いだとわかってきたらしい。

それで、また数日して残りの文を説明してもう読んでもらうことはやめにした。説明してあることをあらぬ方向に解釈をしている。これは一般人としては無理からぬことであろう。

昨日、試験をした。試験時間は80分なのだが、試験開始後20分が経てば、退出が出来ると説明をしたら、20分後にはどどっと学生が答案を残して2/3以上が退出した。さすがにこんなことはいままでの3年間の試験でもこういうことはなかったので、問題がやさしすぎたのだと解釈して後悔した。

ところが昨日の夕方になって採点のためではなく答案の様子を見るために答案を眺めて見たら、これがまったくひどい。重力加速度を求める問題を点を取れる問題として出しておいたのだが、これも単位をつけて数値計算をしている人など一人もいない。

また、単位をつけて答えよとかいておいたら、単位が速度と同じ単位になっている。加速度は速度の変化をその変化に要した時間で割るということすらはっきりしていない学生もいる。これは授業で質問に答えてホワイトボードで詳細に計算を示し、このときに「単位もつけて計算するのだよ」と言ったのだが、こんな説明などまったくされてなかったようだ。もし私が学外からの教育効果の評価委員かなにかだとしたら、教えている先生の顔を見たいと皮肉を言いたくなるだろう。

救済問題として出している、各自の経験を問う問題にだけ答えが集中している。それについての答えはそれぞれかなりの内容の記述がされているが、結局授業など何も聞かなかったかのごとくである。「いかに授業が学生に定着をしないか」の見本をまた見せられた。


松山空襲

2009-07-27 14:57:09 | 日記・エッセイ・コラム

昨日午後5時ごろコミセン(コミ二ティ・センター)に松山空襲の展示を見に行った。

64年前の昨日7月26日の23時ごろから今日7月27日の1時頃までアメリカのB29爆撃機が松山に焼夷弾を落とした。郊外から円形に焼夷弾を落としていき、だんだんと市内を爆撃した。これは被災した人々を逃げられないようにしたのだという。

当時中学1年か2年の人から話を聞いた。実は私は1945年(昭和20年)には6歳だったが、I 市から松山の爆撃されて空が赤く反映しているを見たのである。そしてその後、数日して私たちの町 I 市も空襲に遭ったのである。空襲の翌日は田舎の親戚に避難をした。

ところで「避難する」にあたるevacuateという語を知ったのは最近のことである。避難はevacuationという。vacuumとは真空のことでevacuateは空にするとか真空にするとかの意味もあるらしい。掃除機のことはvacuum cleanerという。


会議は最良の睡眠剤

2009-07-25 11:41:48 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞の「藤巻兄弟に聞け」というコラムにある大学の先生の言として「会議は最良の睡眠剤である」というのが引かれていた。これは本当かどうかはわからない。私自身はあまり会議では眠ったことはないからである。

しかし、こう言いたい気持ちはよくわかる。本当に必要なのかどうか分からない議論に明け暮れる会議では何とかしてくれといいたくなる。そう表立っていえない場合には抵抗を表す手段として居眠りがあろう。

会議で眠ったことはほとんどないが、講演を聞いていて眠ってしまったことは何回かある。これはしかし講演をしている人にとっては気になることであろう。しかし、興味を持てないときには眠ってしまうのはしょうがない。


方法論とは?

2009-07-24 13:06:13 | 数学

「方法論とは後から見たら至極当然な考えだ」とは武谷三男の言だが、これは誠に至言だと思っている。

8月号の「数学教室」に数学者の野崎昭弘さんが現在の小学校の算数の教科書に水道方式の原点の「タイル」が当然のように出ているが、これに対する官製の反対があってそれに対して遠山啓たちが果敢に闘ったのが、今から見ればそのことは現在の現場の教員には奇異に思えるかもしれないと書いている。

後から見れば何で反対されたのであろうというようなことでも、それについて提唱の当時には強い反対があったりする。それがある意味でどう落ち着くかが未定の段階では論争や反対があったりするが、すこし時間が経てばいいアイディアについてはその反対はまったくなくなるとはいえないとしても下火になる。そして、後から来た人たちが先入観なしに見れば、何でこれに反対をしたのだろうということになることが多い。

それは「いい見通し」とか「いい方法論」とかの勝利であることが多い。人間だから判断を間違えることもある。そのときにその過ちを素直に認められるかどうかが人として大事なことになろう。

少なくとも水道方式の「タイル」は合理的な考えが勝利したシェーマの一つであろうか。


e-Learning

2009-07-23 12:32:30 | 受験・学校

e-Learningのコンテンツをつくるといいながらご無沙汰していたが、先日E大学のWさんと打ち合わせをしてきた。数学のほうの全体像がわからなくなっていたが、Wさんのところにおおよその内容を書いたメモが残っていた。

それによるとそれほど残りが多い訳ではなさそうだ。というのは現在のM大学の授業用のプリントやその他のエッセイとかを少し改変して転用すれば、使えそうだからである。もちろん、演習問題はつくるというか選ばなければならないのだが、コンテンツ作成ということでは思ったよりも仕事は進んでいた。だから、もう少し気張ればいいかなという感じで気が軽くなった。

物理の方はコンテンツをすでに渡してあるが、これで十分というわけではないので、他の分野というかコンテンツの補充をしなくてはならない。

だが、いまは教育についてもなんとかそれぞれの大学の特徴を出さないと大学も生き残れないような時代である。

一方で大学教員の忙しさは並大抵ではなくなり、こういうことでは早晩日本の学術は大方滅びてしまうであろう。トップレベルの人たちはいつでもいて、そういう人はいなくはならないが、中堅から下のレベルで日本の教育を支えてきた階層が全滅するであろう。そうなったときあわてて見ても人材はすぐには供給できるわけではない。


皆既日食

2009-07-22 12:39:43 | 科学・技術

今日は皆既日食が40数年ぶりに日本で見られるというので最近の話題になっている。松山でも部分日食が見られるはずだったが、くもりでみられない。すこし空が暗くなるのかと思ったが、曇りのせいもあるのかどうも定かではない。

まだ現時点で日食が続いているはずだが、辺りが暗くなっているのかどうか。金環食だったか北海道の礼文島で観測されたというニュース映画を見たのは多分まだ小学生のころだったと思う。それはもう50年以上も前のことだから、皆既日食が見られたのはこのときのことではあるまい。

今晩は多分テレビのニュースで日食をたんまり見せてもらえるだろう。それも昔は白黒だったが、いまではカラーで見ることができる。つぎは20数年後だというからこのときにはなんでももう生きてはいないだろう。

日食が極めて特殊な現象であるということを体験させている小学校の先生の授業がテレビで出ていた。太陽の代わりのある大きさの空気の入ったボールを子どもたちに持たせた地球と月の模型のついた器具から太陽が隠れるように遠くへ話しておく。ちょうどか月に400倍大きい太陽が隠れるには地球と月の距離の400倍遠くに置かなければならない。なかなか印象的な授業であった。

太陽は月よりも400倍大きいが、400倍遠距離にあるので、同じ大きさに見えるという。だからうまく月に太陽が隠れるのである。

以前にG大学のK先生が立体角を説明するのに太陽と月の見かけの大きさが同じという事実を使って学生にしているという話を聞いた。K先生は教育学部の先生なので教師となる学生を教えるのに工夫をされているということである。

しかし、立体角なんてものを知っている一般人はどれくらいいるのだろう。普通の平面角でもラディアンで測るということを知っている人は少ないのだから。ああなんてことだ。こんなことが誰でも知っていることになってほしいのだが。


8月6日

2009-07-21 11:03:03 | 日記・エッセイ・コラム

8月6日って言ってもぴんと来ない人が現在では多いだろう。甲子園で高校野球が始まる日だったかなと思う人もいるかもしれない。これは世界ではじめての原爆が広島に落とされた日である。

もちろん年配の人にはそんなことはわかっているだろうが、もう若い人にはそういう私たちには当然のことでも当然ではないらしい。

原爆が落ちたのは私が6歳の頃であり、私は母の生まれ故郷の小さな島に次兄と疎開していた。広島に原爆が落ちたことは割合と早く伝わってきたが、原爆という言葉もその頃はなかった。その後アメリカのニュース映画で何回か見たように思う。それはもう小学校に入っていた小学一年のことであろう。

このころ私は体が弱く母がこの子はかわいそうに小学校を卒業できないだろうと思ったくらいだと後で言っていた。

86(はちろく)と略称される8月6日のことを書いたのはこの日に広島に行く予定だからである。色々な会議や催しに参加する予定である。


海の日

2009-07-20 14:34:40 | 日記・エッセイ・コラム

今日は海の日で祝日だが、雨で湿度が高い。雷がなって大気が不安定であって、どうも梅雨明けが近いのではないかと思わせる。自宅でプログレスのサップルメントを読んでいたが、仕事場に出てきた。サップルメントの読むのにも飽きたのと明日E大学の知り合いのところへ打ち合わせに行くので、その準備のためでもある。

これは前からやるやるといっていっていたリメディアル教育用のコンテンツである。物理と数学の分をつくるといいながら、数学のコンテンツも途中で作業が中止されているし、物理のほうも同様である。物理のほうはM大学での講義のプリントを代用することしているが、それの入力があらかた終わっているのにまとまったものに仕上げられていない。

それを少しでも仕上げておきたいと思って出てきたのである。


源流から未来へ

2009-07-18 12:42:42 | 本と雑誌

「源流から未来へ」というのは思想の科学社から出された「思想の科学」の50年を振り返った出版物の一つである。M大学の図書館から借り出してよんでいるのだが、鶴見さんが50年を振り返っていまさらに武谷三男の存在の偉大さを感じているという口ぶりが伺える。

鶴見さんのまわりの思想の科学の七人の創立同人はそれぞれにその存在意義が大きかったらしい。思想の科学の天皇制特集号が中央公論社によって断裁されたときに都留重人は「思想の科学」の弱腰を朝日新聞の論壇で叱ったというが、それは表のことで裏ではこの特集号が自主的に出版できるための手はずを整えていたという。

そういう表の面ばかりではなく、裏の面も知るとそれぞれの創立同人の奥行きの深さというかそういうものに感心をする。だから、表だけを見ていてはいけないのだと思う。

もっとも、部外者である私たちは表の面しか見ることができないのだが、それを誰かの対談等で少しでも覗き見ることができるのはうれしい。

鶴見さんは自分の先生は唯一都留重人さんだけだという。それはそうだろうが、思想の面での武谷の鶴見さんへの影響も見逃してはならない。

鶴見さんは思想の大部分をやはり独自につくりあげて来たように思われる。それは間違いがないのだが、どういう風に武谷が影響を与えたかということはかなり語られているが、それでももっと知りたい気がする。

残念なことはいくつかのミスプリがこの書にあることである。このような大著だからしかたがないのだが、もう一つ緻密な校正が欲しかった。また、座談の中に意味がとれないところがある。校正の段階で指摘する人がいてほしかった。


武谷三男の著作補遺

2009-07-17 13:36:22 | 物理学

武谷三男の著作補遺をつくらなくてはならない。ある方のブログから、数冊の武谷の寄稿のある本とか雑誌があることがわかった。それを国会図書館の目録で検索したが、載っていない。もっとも探し方が悪いのかもしれないが。

ブログの著者に問い合わせたところ、原爆小文庫という名の文庫が西東京市のひばりが丘図書館にあるとのことである。それで、E大学の図書館から借り出してもらうつもりである。

私は別に自分で自信過剰な方だとは思わないが、もうそういう本は残っていないのではないかと思っていたが、なかなかそうはいかないようである。また武谷のいろいろな分野への活動の広がりを見ていると単に彼が書いた著書に書いた文章をのみ見て批判することはやはり当を得ていないのではないかという気がしている。


「ラグランジュ恒等式再論4」の原稿

2009-07-16 11:40:33 | 数学

「ラグランジュ恒等式再論4」の原稿をつくりあげて、妻に読んでもらうように頼んだが、いつになるだろうか。妻は一般人であって、数学とか物理の素人である。そういう人が読んでもわからない書き方だとダメなのである。

十分に素人でも分かるように書いたつもりだが、それでも素人はどんなところで引っかかるか私には予想がつかない。それである種のモルモットの読者として頼んだというわけである。

元の考えは数学セミナーに桑野さんが書いている計算なので、新しさがあるわけではないので、後は普通の人が読んでわかるかどうかである。

また、インターネットの質問にどなたかが答えていた、桑野さんと逆方向の恒等式の導出も説明を加えて載せた。これもインターネットの説明で十分なのだが、素人にもわかるという説明を目指している。